ろごするーむ

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説教「喜びに満ちあふれて生きる」

2010-01-28 10:55:56 | 主日礼拝説教
ペトロの手紙一.1章3節~9節、13~21節

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


 今日開かれているペトロの手紙1章3節以下には次のように記されていました。
「3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」
 神は、豊かな憐れみによってあなたを新たに生まれさせて下さった。あなたの存在は、神の豊かな憐れみによって支えられ、守られている。神の憐れみによって新たにされた存在なんだということが語られているわけです。
 神の憐れみによるとは一体どういうことでしょうか。それは19節にある通り、「傷や汚れのない、小羊のようなキリストの尊い血によって贖われる」それが、神の憐れみによって新たにされるという事、神の憐れみの中に置かれているということです。

 わたしたちの生き方、神を知らずに生きている、そういう人間の姿というのは、自分で出来ること、自分の誉められること、人から賞賛され、尊いといわれること、人よりも優れたことであったり、これまでやってきた自分の業績や、働きについて、そこに自分の存在の価値を見出したり、生きることの意味を見出そうとするのではないでしょうか。
 そうした所に自分の価値や意味を見出すことによって、自分を救おうとしてはいないでしょうか。わたしにはこれだけのことができる。わたしはこれをもっている。わたしはこれだけのことをしてきた。または、わたしはこれだけの人に必要とされている、または必要とされてきた、そうしたことは勿論尊いことであるわけですけれども、しかし、人間はそういう所に自分のいのちの意味とか、価値とか、自分の救いを見出して生きていくことができるのでしょうか。

 わたしたちの生きている現代の社会というのは、何ができる、何をもっている、どれほど豊かである、そういう価値観によって作り上げられてきた社会、世界であるというふうに言うことが出来ると思います。しかし現代ほど、生きることの意味とか、価値、その尊さを見失った時代があったでしょうか。生きることの意味や尊さ、その素晴らしさや喜びを見失っている人が大勢おられるのではないでしょうか。自らのいのちを絶っていく人たちの数は、どれほどこうした問題が深刻であるかを現しているかのようにも感じられないわけではありません。

 「神の憐れみによって」というのは、それは人間の評価や価値観、採点にはよらないということです。人の目には、そこに価値や意味が見出せないと思われたとしても、それでも「神の憐れみによって」と言われるときには、そこにわたしたちの存在は受け止められ、わたしたちの無意味さが克服されていく、乗り越えられていくのです。
 この「神の憐れみによって」というのは「神の赦しの中で」という事でもあります。神の許しの中で、神の憐れみの中で、あなたという人間が見つめられている、この神の憐れみの眼差しによって見つめられた時、あなたの存在は誰がなんと言おうと、そしてあなたが自分をどう思おうと、こんな自分なんてと思おうと、何が生きていていい事があるんだと思ったとしても、神の憐れみの中で、あなたは価値ある存在とされている。人間というのは、神の憐れみの中、許しの中に置かれている。あなたの存在というのは、神様が哀れみの眼差しを注いで下さっているそういうものなんだ、つまりそれは、神様があなたを必要としておられるということ、それが、「神の憐れみによる」ということです。

 この神の憐れみの中で、ペトロの手紙の1章3節後半からを見ますと、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」られているんだというのです。すべてのいのちは、人間であれ、動物であれ、それらすべては、生まれ、生き、死んでいくものです。植物もそうでしょう。生まれ、生き、新でいく、この法則の中に、わたしたちは生きているわけです。
 生まれ、生き、死んでいく、そこから逃れることのできるいのちはありません。ところが、今日、神の御言葉は、わたしたちに語りかけているのです。「わたしたちは新たに生まれさせられる」「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」「わたしたちは新たに生まれさせられる」というのです。死者の中からの復活、死者の中からのイエス・キリストの復活というのは、それは、生まれ、生き、死んでいくあり方に否を唱えるものです。
 生まれ、生き、死んでいくものであった人間、またわたしたち自身の姿があるわけですけれど、しかしキリストは死者の中から復活させられているのです。
死者の只中に、わたしたちはいのちを見出すことは出来ません。墓の中に、わたしたちはいのちを見出すことは出来ません。そこにいのちを感じることが出来ない。しかし、その死者の中からキリストが復活させられた、もはやこのキリストの復活によって、生まれ、生き、死んでいく、そういう存在であったわたしたちの存在は、死の虚しさによって、恐れによって飲み込まれていくものではなくなったのです。

 わたしたちの生きることの先には、そのたどり着く先には死と言う怪物が大きな口を開けてわたしたちを飲み込もうと待ち受けているのではないということです。いのちを飲み干そうとする死の力が、イエス・キリストの十字架の死と復活によって克服されている、そこにいのちへと続いていく確かな希望と救いの道が与えられているのです。聖書は、「生き生きとした希望が」与えられているというのです。それは文字通り、いのちの希望、生きることの希望がそこに見出されているということです。

 あなたは、神の憐れみの眼差しによって見つめられる者とされ、また生き生きとした希望が与えられているそういう存在なんだと、御言葉は語りかけているのです。

 この3節の御言葉には「わたしたちを新たに生まれさせ」と、ありました。
けれど、このペトロの手紙は洗礼志願者たちの準備のために用いられてきたといわれています。「わたしたちを新たに生まれさせ」というのは、洗礼のことを言っているというふうに、古代の教会から理解してきたわけです。ですので、この1章3節以下の御言葉は、「洗礼によって新たに生まれさせられた者とは一体何者なのか?」、どういう存在なのか、そのことを語っているというふうにいう事ができます。

 1章3節以下の御言葉を、特にそのことを意識して聞きたいと思うのです。
洗礼によって新たに生まれさせられたあなたは、3節後半「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られて」いるんだというのです。
 それが洗礼の恵みに与ったものの姿、それは他ならない、あなた自身の姿なんだと、聖書は語っているのです。

 礼拝でお祈りを捧げるときに、わたしは「わたしたちの築くときも気付かないときも、神様の恵みの中にあったことを感謝します」というふうに祈ることが度々あります。わたしたちは、恵みに気付くことがあり、気付かないでいることもあります。わたしたちは自分自身の姿ということについても、気付いている自分の姿と同時に気付かない自分自身の姿というのがあるのではないでしょうか。自分のことは自分が一番わかっているというふうには、そう感嘆には言えないはずです。わたしの気付かない神の恵みがあり、神の恵みの中に置かれている自分自身の姿があるはずです。わたしたちの気付いていない、しかし喜ぶべき自分の姿というのがあります。わたしたちは、それをどのようにして知ることができるのでしょうか。それは、神の御言葉を聞くときに初めて知ることが出来るのです。
 自分は何者なのか、あなたは何者なのか、神の御言葉を聞くときに、わたしたちはそれを知るのです。自分とは何者なのか、あなたを何者だと聖書は語っているのか、それを聞くときに、わたしたちははじめて自分の姿を知ることが出来るのです。

 聖書は「あなたは神の憐れみによって生かされている者なんだ」といいます。死者の中からのキリストの復活によって、生き生きとした希望が与えられている。天に蓄えられている口図、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされているんだと、更には、救いを受けるために、神の力によって、信仰によって守られているんだというのです。
 いのちは、神の救いを受け、その喜びの中で生き生きと希望をもって生きていく、そういうものなんだ、それがほかならないあなたのいのちであると語られているのです。

 わたしたちは、神の御言葉を聞くときに、自らの姿を見出すのです。そこではじめて、自分の姿に気付かされ、自分の生きる意味と、その尊さとを知ることができるのです。

 6節以降には、それゆえあなたがたは心から喜んでいるというのです。3-5節に記され、語られている神の御言葉を聞くとき、その御言葉はまさしくアーメンとして受け止められるとき、6節からに語られているようにあなたは与えられたいのちを喜んで生きることが出来る。心から喜ぶことが出来ると言うのです。
 ここには、喜ぶことが出来ると記されていますけれども、同時に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」ないと、そのように語られています。神様がくださる喜びというのは、ハッピーな、いわゆる誰もが幸せだと思うような状況においてのみ見出される者ではありません。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」ない。しかしそこに喜びが見出される。

 けれども、わたしたちはそういう神様の御言葉を聞いても、「そうは言っても」とか「きれいごとと現実は違う」と、そんなふうに思ったりすることが多いのではないかと思います。しかし、神の恵みというのは、救いというのは、わたしがどう思うかというよりも、神が与えておられるという事実がそこにあることを感謝して受け止めるべきではないでしょうか。

 今日、神様の御言葉を通して語られていること、それは洗礼によって神様の救いに与ったあなた自身の姿が語られ、明らかにされているのです。あなたは誰だ、どういうものだと神の御言葉は語るのか、それは
・・・神様が豊かな憐れみによって、新たに生まれさせてくださり、キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられている。天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされ、終わりの時の救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている。だから、あなたは喜びが与えられるんだというのです。試練に悩まねばならないかもしれません、しかし、それでも、そこには喜びが与えられているんだと、いうこと・・・そのことに違いありません。

 神様の憐れみの中に、わたしたちが赦され、受け止められ、いのちを与えられ生かされているということ、更には、生き生きとした希望が与えられている。生き生きと、希望をもって生きていったらいい。なぜなら、神様が、そのようにあなたに語りかけてくださっているからなのです。さぁ、救われた者として、神様か頂いた生涯の日々を希望のうちに歩んでいきたいと、そう願うのです。