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罪人を招くキリスト(マタイ9:9-13)

2006-08-20 18:00:35 | 主日礼拝説教
私達にはそれぞれ、かけがえのない出会いがあります。この地上に生を与えられ最初に出会った家族、そして友や教師、人生の伴侶との出会い。多くの出会いが私達の歩みを貫いております。
今朝、福音記者マタイは、自らの「主イエス」との出会いを振り返り、その日の出来事を記します。徴税人マタイ。主イエスと出会うその日まで、町の収税所に座り、人々から税を取り立てて暮らしておりました。当時のユダヤはローマ帝国の属国になっておりまして、ユダヤの人々にとって、ローマに税を納めるということは、自分達の神以外の神々にお金を貢ぐ事と理解しておりましたので、この徴税人という仕事は、私たちが理解するような現代の税金関係の仕事とは全く違って、聖書にもある通り「罪人や徴税人たち」とひとくくりに呼ばれるほどに阻害され、嫌われ、罪人扱いされていたマタイの姿があるわけです。ところがそのマタイは、ある日、ある方との出会いで一変したと記しているのです。

9v イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイはいつものように、いつもの場所で、その日をいつもと変わりなく、一人の徴税人として生きておりました。それは私達の日常と同じようであったでしょう。皆、それぞれの生活を繰り返して生きていきます。そんな日常の中で、マタイのもとを、主イエスが訪れられたのです。マタイは道端で、向うから歩いてこられる主イエスに出会ったのです。

ミラノの大司教であった、マルティーニという方の本に「宣教者を育てるイエス」というものがあります。この本には、主イエスと、ペテロの出会いが描かれております。ペテロと弟子たちは、夜、漁に行ったのですが、ついに一匹の魚も獲れずに港に戻って参ります。そこで主イエスはもう一度沖に行って網をおろしてみなさいと仰せになりました。ペテロはまさかこんな昼間に、それも一晩中漁をして何も取れなかったのに、何が今更獲れるだろうかと思ったに違いありません。それでも主イエスが「行け」とおっしゃるので、行ってみようと決めたのです。すると、主イエスのお言葉の通り、大漁の収獲を得て帰って参りました。
ところが、ペトロはイエスのともに戻ってくるや「わたしは罪人です」と叫びます。彼は、沢山の魚を前にして、感謝を申し上げたのでも、また「イエス様なんということでしょぅ」と驚いたのでもない、その大漁を前にして「わたしは罪人です」と叫んだのです。どうしてペトロは大漁の収獲を頂いて、「私は罪人です」と言ったのでしょうか?
マルティーニは非常に興味深い説明をしておりました。つまり、ペトロはイエスと出会ったと言うのです。イエスと出会うまで、イエスとは誰か真に知るまで、自分は罪人だと感じていなかった。気付いていなかったというのです。ペトロはそれなりに真面目に生活し、ほどほどに善人だし、人に指を指されるようなこともしていない、そう感じていたのでしょう。そのペトロが主イエスの前に「私は罪人でした」と言うのです。ほどほどに善人だと思っていた自分が、主イエスに出会ったとき、実はそうではなかった。自分は罪人なのだと気づく。主イエスに出会ってはじめて、あぁ自分は罪人だったんだと気付いたと言うのです。

さて、マタイは主イエスに出会います。彼はいままで、周囲の人々を見てきたことでしょう。社会を見てきたことでしょう。そして何よりも、自分自身の姿をイヤというほど見てきた、いや、見せ付けられてきたことでしょう。それでも何も変わらなかった。いつものようにいつもの場所に座って自分の今日の仕事をしていた。
しかし、マタイがイエスに出会った時、イエスへと目を向けたとき、彼は自分を見つめていただけでは判らなかった自分の真の姿に気付きます。そして、自分に必要なものが何か、思い切り知らされたのです。

「自分を見つめる。」それだけで本当の自分の姿を見出せるでしょうか。残念ながらどんなに自分に向き合ってみても、どんなに自分を探求しても、それだけでは自分の本当の姿を知る事はできません。自分を見つめるという中で、キリストと出会い、キリストを見つめる事、その時に始めて自分の真の姿が見えてくる。キリストを見るとき、本当の自分の罪の姿に気付くのです。そしてこのキリストとの真実な出会いによってこそ、「わたしは罪人です」と気づく。

「回心」とか「悔い改め」とか言いますと、それは自分の内側を見つめて、反省することだと思われることが多いようです。しかし実はそうではない。
まず自分から「外」へと意識を向ける。聖書は「悔い改めよ。神の国は近づいた」と語ります。これは主イエスの最初のメッセージです。「神の国が近づいている。だから、そっちの方向へと心を向けなおしなさい」というのです。まず主イエスの方へと目を向ける。すると、自分が神から離れてしまっている存在であるということに気付く。自分のありのままの姿を真実に見ることとなる。そのとき回心、悔い改めによって新しい生き方を歩み始めるのです。ところが、自分はイエスと出会った。真面目に仕事もし、人に指を指されるようなこともせず、教会にも行き、お祈りもし、それなりに真面目に生きている。だから今のままの自分で何とか上手くやっていけると思う。実はそこに問題があるというのです。「自分はイエスに出会ったと」まるで首だけ後ろを振り返って、体はまったく今まで通り。自分の行きたい道、自分の歩きたい道を向いて揺るがない。しかし、ペテロもマタイも違っていました。彼らは立ち上がってイエスに従っていったのです。それが、キリストに出会った者の信仰告白的生き方と申しましょうか、新しい生き方なのです。それが今日語られているキリストとの出会いなのです。
人は、自分は丈夫でありたいと思っている。大丈夫だと思っている。しかし、主イエスの前、主イエスの十字架の前に自分の本当の姿を知らされたとき、ホドホドにイイと思っていた自分が、実は罪人だったのだと気付くのです。マタイは主イエスと出会って、自らの罪に気付く。このままの自分ではだめなんだと思い切り知らされ、今日の福音書の「彼は立ち上がってイエスに従った」との御言葉の通り、マタイは今まで自分が安住していた所を立ち上がって、新たに歩み始めたのです。
しかし、10節。 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
主イエスは、主イエスに出会い、今までいた所から立ち上がったマタイと、食卓を共にされました。そこで、ファリサイ派の律法学者たちは、イエスのふるまいに驚くわけです。彼らにとって、徴税人を弟子にするとか、徴税人や罪人と一緒に食事をするとかいうことは、自分もその仲間になることでして、律法の上では赦されないことでありました。彼らの社会通念をひっくり返すような出来事が行なわれているわけです。イスラエルで人を招いて食卓を共にするということは、その人との親しい交わりを結ぶという意味がございましたし、食事を共にするということは、その人と共に喜ぶこと、その人が苦しんでいたとすれば、その人と共に苦しみを分かち合うこと、何か足りないならば、自分の身を削っても、その不足を補い合うこと、そのような意味を持っておりました。主イエスはそういう食卓を共にして下さっていたのです。
ところが、主イエスが、マタイや徴税人、罪びとたちと食事をする様子を見ていたファリサイ派の人たちは、そのイエスの姿をみて、「徴税人や罪人達と食事をする、なんと罪深いヤツだ!」と思ったのです。主イエスに出会った時、自分が罪人だと思ったマタイ、それとは対照的に、イエスを見て、あいつは罪人だと思った人々、そこにはあまりに大きな差があります。

主イエスは、自分たちは平気だ、大丈夫だ、自分たちはほどほどに、いや立派に信仰を守っている、律法に忠実に仕えていると思っていたファリサイ派の人たちに言われました。12節。
 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

彼らは、自分たちは大丈夫だ、律法を守っていると思っている。けれど、人間はそんなに丈夫なものでも、立派なものでもない。しかし、それでもイエスは、あなたを探しているんだと、あなたを求めているんだと、マタイに声をかけられた。同様にこの朝、ここに集う私達一人ひとりにも、お声をかけておられるのです。
主イエスは言われました。「律法ではない、憐れみである。」 主イエスが求めているのは、あなたがどれだけ律法を立派に守ったかとか、どんなに忠実に犠牲を捧げたかということではなくて、それよりももっと大事なあなたの存在、あなた、わたしという、かけがえのない存在を求めておられる。
「わたしに従ってきなさい」とのイエスの呼びかけは、何か絶対に裏切らないで従って来いとか、私の言う事を厳守するんだとか、そういうようなものではありません。
マタイの現実、私達の現実の姿、にもかかわらず召して下さる、招いて下さる。
あなたが必要なんだ、あなたが失われてはならないんだ、そういうキリストの命をかけた命への招きなのです。

今日この後に讃美します讃美歌「十字架の血にきよめぬれば」この曲はアメリカの教会で非常に好んで用いられ、歌われてきた賛美の一つです。
自らの現実は主の前に立ち得ない、いのちの道から外れて、死の影の谷を迷う存在、そこに主イエスは十字架に自らの命をかけ、血を流された。「十字架の血にきよめぬれば、来よとの御声を我はきけり。」わたしたちがどんなに律法を守ろうと思っても、犠牲を捧げようとしても、とうていなしえない。しかし神は、イエス・キリストという独り子を十字架につけて、永遠のいのちへと、私たちを導き入れて下さったのです。
そのいのちと赦しが、いま差し出されているのです。
キリストと出会う時、わたしたちは罪を示され、私たちの本当の姿に気づかされる。だから私たちは神の方へと向きを変えて歩き出すのです。それがキリストに出会って新たにされた者のいのちへの歩みなのです。

マタイはこのイエスとの出会いをどうしても書き記さずにはおれませんでした。自分は「汚れた仕事」と人に指を指されるような人生を歩んできた、誰も相手にしてくれない寂しさの中、頼るものなど何も無いと思っていた、まして、自分と共に歩んで下さる方などいるはずないと思っていた。ところが、主イエスと出会った!!
知ってほしい! 聞いてほしい! 私にも主イエスはお声をかけて下さったんです。主イエスは私にも喜びを下さったんです。このマタイの溢れる思いが、この記事を記させて今もなお語り続けているのです。
もうマタイは今までの自分の姿に生きてはおりません。主イエスに頂いたいのちの中に、新しい希望の中に生き始めているのです。そして今日も主イエスは、町の片隅の収税所に寂しく座る私たちのもとに来て言われるのです。「私に従いなさい」と。それは、キリストのいのちをかけた、いのちへの招きなのです。
【2006.8.20.sun.日本基督教団聖徒教会・主日礼拝説教】


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