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説教「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」

2009-06-30 13:52:52 | 主日礼拝説教
聖書 ヨハネによる福音書15章1~8節

 今日の福音書で主イエスは、神とわたしたち人間との関係を、二つの譬えで語られます。一つは、15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」もう一つは5節「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉です。ここでまず1節では父なる神と主キリストとの関係が語られていて、5節ではぶどうの木である「わたし」、つまりまことのぶどうの木である主イエス・キリストとわたしたちとの関係が語られています。
 まず1節ですけれど、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と記されていました。父である神は、ぶどう園の農夫であり、主キリストはぶどうの木であると語られているわけです。続く2節ですけれど、「15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」ここでは、まことのぶどうの木に繋がったわたしたちキリスト者の姿を「枝」であると語られています。ところが、この枝でも「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と記されていますので、わたしたちは大丈夫だろうかと不安に思ったりするわけです。

 ここに「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とありましたけれど、しかしまず注目したいのは、実を結ばない枝は取り除かれるということは、逆を言えば、わたしたちは実を結ぶ枝であることが求められているということなのです。ぶどう園の農夫である父なる神は、あなたが実を結ぶものであることを期待してくださっているのです。
 
 続く3節~4節にこのようにありました。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ここに「あなたがたは既に清くなっている。」とありました。清くなっているというのは、それはもはや剪定される存在ではないということです。
 今日丁寧に取り上げることはできませんけれども、ユダヤの社会においては、族長たちがまことのぶどうの木と考えられた時代がありました。モーセがその木だと考えられたこともありました。しかしヨハネ福音書は、イエス・キリストがまことのぶどうの木であると語るのです。このまことのぶどうの木であるキリストに結ばれるとき、十字架によって罪が清められ、豊かな実をたわわに結ぶものとされていくんだということを語っているわけです。このまことのぶどうの木であるイエス・キリスト以外に、それは族長たちであれ、モーセであれ、主イエス・キリスト以外のいかなるものに繋がろうとも、本当に豊かな実を結ぶことは出来ないということを語っているのです。
 ぶどうの枝が実を実らせるのは、その枝に力があるからではありません。枝がしっかりとぶどうの木に結ばれている。そのときはじめて、ぶどうの木は豊かな実りを結ぶことが出来るのです。実の実らないぶどうの枝は取り除かれると記されているわけですけれど、実が実らない枝というのは、まことのぶどうの木につながることのない枝、まことのぶどうの木からいのちの養いを受けていない枝、そのことが語られています。
 主がぶどうの木である、キリストがまことのぶどうの木であるというのは、わたしたちのこれ以上無い安心でもあるのです。主イエス・キリストは、わたしたちの救いのための一切を成し遂げてくださり、豊かな実りを結ぶ者、永遠のいのちに与る者としてくださいました。このこれ以上ない養いをくださる主キリストに結ばれている限り、主がご自身にかけて豊かな実りを結ばせてくださるのです。

 15章の5節後半にこのように記されていました。「15:5b 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」4節にも同じように「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。ここに、「人がわたしにつながっており」そして「わたしにつながっていなさい」とありました。
 わたしたちは、信仰というのは、このまことのぶどうの木であるイエス・キリストに繋がることだと理解していまして、まさしくその通りであるわけです。わたしたちは洗礼によって、イエス・キリストと結ばれるのですけれども、では逆に、主がわたしたちにつながっていてくださる、わたしたちをしっかりと支えてくださっている、主がしっかりと結び付けてくださっているということを、どれほど意識しているでしょうか。5節の後半の御言葉に、注目したいのです。そこではこのように語られています。「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とありました。4節の後半には「わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。
 ここでは、「わたし」つまり、イエス・キリストが、あなたに繋がっていて下さるということが二度繰り返して語られているわけです。

 わたしが主イエス・キリストに繋がるというのは、よく考えてみますと、ある弱さを抱えたものであることを気づかされます。わたしたちの信仰、わたしたちが主のもとに留まり続けるとことは決してた易い事ではありません。弟子たちの生涯というのを聖書を通してわたしたちは知ることができますけれど、あの弟子たちの信仰だって、それはなお弱さを抱えたものであるということがあるわけです。しかし、わたしたちの信仰生活というのは、わたしが繋がっているということの背後にといいますか、そのベースに、主があなたにしっかりと繋がっていてくださるという、神様は決してあなたの手をお放しにならないという、そういう神様の恵みの事実があります。つまり、わたしたちが主なる神に繋がることが出来るのは、まず主なる神が、あなたに繋がってくださる、あなたの手をとってくださった。そういう恵みによるものであるのです。そのことは主イエス・キリストがお生まれになり、十字架へと歩み、よみがえらせられる、その出来事において更に明らかにされていきます。ご自分を十字架につける、そのような罪人のために、まず神が、御子を世に遣わしてくださり、その十字架の死と復活、昇天によって、神様の側から、父なる神様のもとへと至る道、救いの道を与えてくださったのです。わたしたちの救いというのは、まず神様の側から差し出されているのです。

 さて、今日の福音書は、ぶどうの木とその枝という譬えをもって、キリストとわたしたちキリスト者との関係が語られています。主イエスは、キリストとわたしたちとについてお語りになる時、別々の二つのものを用いてその関係を語られたのではありませんでした。ぶどうの木とその枝というのは、例えば小鳥と木とか、昆虫と木いうように、あれとこれというそれぞれ別々のものではありません。木と枝というのは、別々のものではなくて一つのものであるわけです。それが救い主である主キリストとわたしたち信仰者との関係です。
 つまり、別々のものが、接着剤や磁石などでくっついているとか、一緒に居るという事とは違うのです。主が「あなたがたはその枝である」といわれたとき、その枝というのは、ぶどうの木とは別の何かということではなくて、ぶどうの木の一部だということです。このぶどうの木とその枝というのは、実際にぶどうの木を見てみますとわかりますけれど、どこまでが幹でどこからが枝というふうには言い難いものです。少し前まで、教会の前のハナミズキの木が綺麗な花を咲かせていましたけれど、あのハナミズキの木は、どこが幹で、どこが枝だとわかりやすいと思います。ところが、ぶどうの木はどうかといいますと、どこが木でどこが枝だと区別することは、なかなか難しいと思います。枝がどこで始まってどこで終わっているのか判らないわけです。キリストがぶどうの木であり、あなたがたはその枝であると言われるとき、それは、キリストとの非常に親密な一体性が意識されているということができます。
 ヨハネによる福音書においては、一つであるということが非常に重要な意味をもっています。主イエスは十字架におかかりになる直前、今日の聖書の箇所の少し後ですけれど、17章21節でこのように言われます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」これは十字架におかかりになる前の主イエスの祈りの言葉です。主イエスは十字架におかかりになる前に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」このように祈られたわけです。
 
 今日の福音書の箇所でも、キリストと一つとされるということ、あなたはキリストと一つとされているということ、そのことが語られています。この一つとされるというのは、例えばあるものをわたしたちが所有するように、持っているような仕方で一つとされるのではありません。ぶどうの木とその枝の仕方を見ればわかるように、もはや完全に一つとされるということ、誰かがやってきて持っていくことができない仕方でキリストと一つとされるのです。先ほども申しましたように、ぶどうの木に鳥がとまっているとか、虫がとまっているというようなことではなくて、ぶどうの木と枝というのは、そこにいのちの流れる関係、一つのぶどうの木とされるという、それほどまでに深い、また枝は幹であるぶどうの木に生きることのすべてにおいて信頼しきった、そういう関係がぶどうの木と枝との関係です。
 
 誰ももはやキリストのものとされたあなたを、どこかへと連れ去ることは出来ないのです。それは闇の力がどんなに強く吹き付けるとしても、ぶどうの枝は、よいぶどうの木である主キリストがご自身にかけてしっかりと守って下さるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の8章でこのように語っています。35節以下です。「8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 キリストと一つとされるというのは、長い信仰生活の中で徐々にキリストのものとされていくということではありません。徐々にキリストと繋がっていくということではありません。十字架のキリストの前に額ずいて洗礼の恵みに与ったわたしたちは、その一回的な神の恵みの事実によって、まるごとキリストのものとされ、キリストに結ばれたものとされたのです。だからこそ、主イエスは今日福音書を通してあなたに語りかけておられるのです。「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」
「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
ぶどうの枝になりなさいといわれているのではありません。ぶどうの枝としてくださるのは神の恵みなのです。主は、あなたはぶどうの木だ、わたしの大切な枝だといって下さっているのです。だから、そのキリストの愛のうちに留まりなさいと、御言葉は招いているのです。


「15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」わたしたちは、このことを主イエスのご生涯から知ることができます。主イエスのご生涯は、まさに父なる神様へのまったき信頼と、御言葉へのまったき信頼に貫かれた歩みでした。 
 わたしたちは「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」といわれますと、欲しいもののリストを作って懇願するように祈ろうとするのですけれども、主イエスがこの御言葉の前半にまず語っておられることをそっちのけにしてしまっているのではないでしょうか。つまり「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」者の祈りは、主イエスがそうであられたように、自分の願望に神様を振り回すのではなく、このわたしのために御言葉をもって最も幸いな生き方を示してくださった、神様のわたしに対する御心の実現することを祈り求めていく、そのようなものではないでしょうか。
 
 主イエスはヨハネから洗礼を受けられたあと、聖霊に導かれて荒野へと行かれました。そこで40日間の祈りと断食とをなさったわけです。そこに試みるものが来て主イエスに言い寄るわけです。石をパンに変えてみろ、ここから飛び降りてみろ天使が来て救ってくれるかもしれない。しかし主イエスは、御言葉によってこれらの誘惑を退けて行かれました。主イエスは、自分の喉の渇きがいやされること、空腹が満たされることを願われませんでした。それに表されているように、天の父に信頼し、御言葉に信頼された主イエスの願いは、自分の願いの実現することではなくて、御言葉の実現すること、神様の御心の実現することにありました。それが神に結ばれ、神の御言葉が内にあるものの生き方なのではないでしょうか。
そのとき、神は何でも叶えてくださるのです。またそのような、わたしたちに対する神様のご配慮に信頼して歩む歩みこそ、本当に豊かな、幸いな生き方であるのではないでしょうか。
 この何でも叶えてくださるというのは、神への忠実さに対するご褒美なのではありません。神様を第一にし、御言葉に豊かに養われて生かされる者は、主イエスがそうであられたように望むものを何でも求めることが出来るし、神はそれを豊かに与えてくださるのです。
 

 さて、今日の礼拝では15章の8節までが朗読されました。8節にはこのように記されていました。「15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
ここで語られていることは、ぶどうの枝であるキリスト者が、まことのぶどうの木である主キリストに結ばれて、主キリストの豊かな養いを頂いて実を結ぶとき、ぶどうの木につながりつづけるとき、それはここでは弟子という仕方で語られていますけれど、そのとき、わたしの父、つまり神が栄光をうけてくださるというのです。
 わたしたちは何かができたら神様に栄光をささげることができるとか、わたしは何も出来ないから神様の栄光のために何もしていないなどと思う必要は無いのです。真のぶどうの木である主キリストに繋がり続ける、神を礼拝し続けるそういう生活がまさに、神の栄光なんだと語られているのです。神は、お造りになったわたしたち人間が、創造主であり、天の父である神様のもとに結ばれて生きることを、望み、また喜んでくださっているのです。


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