22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
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今、教会は「受難節」といって、(「レント」とも言うけれど)、イエス様の十字架を見上げて歩む、そういう時を過ごしています。クリスマスの前には、ここにクランツが置いてあって、4本のキャンドルに毎週1本ずつ火をつけて、イエス様のお誕生を待ちました。それと同じように、クランツはないけれど、イエス様の復活されたイースターの40日前から、私たちのこころをイエス様の十字架に向けて過ごす、そういう大切な時を過ごしています。
ところで、みんな変だと思いませんか。どうして私たちは毎週日曜日の朝、元気に起きて、美味しい朝ごはんを食べて、気持ちいい気分で教会に来て、そこでなんで十字架に苦しんでおられるイエス様のお姿を見なきゃならないんだろう。普通ならね、もっと綺麗な絵だとか、優しいお顔の像だとか、他にみんなが見て「綺麗だなぁ~」「素敵だなぁ~」って思うものが沢山有るはずなのに、どうして、日曜日の朝、私たちは教会にきて、十字架の上で両手両足に太い釘を打たれ、茨の冠をかぶせられ、血を流しておられるイエス様に眼を向けるのでしょうか。
今日の聖書の箇所のイエス様もそうでした。十字架にかかる前の晩、最後の晩餐の後で、イエス様はオリブ山に来て祈り始められた。こう書いてありました。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」
なんていうことでしょうか。イエス様のお顔はどうですか??ニコニコ笑っておられるでしょうか。優しく微笑んでおられますか。それともご機嫌一杯ですか??いいえ、全部違います。イエス様は苦しみもだえ、地の汗を滴らせるほどに呻いて祈っておられる。
どうして聖書は、そんなことを書くのでしょうか。もっと綺麗な美しいイエス様を書いたらいいのに。いいえ。聖書は、このイエス様のお姿こそ見なさい!!と、そう言っているのです。
教会には、十字架が高く掲げられています。遠くからも見えるように、十字架が建てられています。十字架っていうのは、可愛いペンダントや、ピアスの飾りなんかではありません。人を殺す死刑の道具です。大きな太い木の十字架に、イエス様がかけられた。キリストが死なれた十字架。どうしてそれを見なさいと言うんでしょうか?
それは、そこにこそ本当の救いがあるから、そこにこそ本当の希望があるからなのです。
ナルニア国物語というのがあります。悪いことをした子供達のために王様ライオンが身代わりに死ぬという話しです。よく教会学校でみんなと歌う「小さい羊が」という讃美歌。神様のもとを離れて自分勝手に好きな方へと遊びに行ってしまう。けれど、そのいなくなった羊を探し出すために、イエス様が来て下さった。そして、わたしたちが神様に犯した罪のすべてを身代わりにイエス様は死なれたのです。
気づくでしょうか。イエス様のゲッセマネの苦しみ、十字架の苦しみ、それは、わたしたち一人一人の苦しみを身代わりに苦しんでおられるイエス様のお姿です。あのイエスさまの痛んでおられるお顔、流された涙、血の汗、それは、みんな私たちの罪の結果でした。私たちが、私たちの犯した罪のために滅びないで、永遠の命を生きるように、イエス様が身代わりに死なれた。ですから、私たちは、イエス様の苦しんでおられるお姿を見るとき、十字架に死なれたイエス様のお姿を見るときに、ここにこそ、私たちの救いの希望があることを見つけるのです。
毎週毎週私たちは教会に来て、イエス様の十字架を見ます。私たちが見ているのは、楽しい映画や、面白いゲームなどではありません。あの十字架のイエス様を見に、教会に来ているのです。みんないま心を静かにして、イエス様のことを想ってみて下さい。イエス様はどうしてこんなに苦しんでおられるのでしょうか。どうして、イエス様の手は、足は、十字架に太い釘で打ち付けられているのでしょうか。
それは、すべて、わたしたちの罪のためです。いなくなった羊を探し出すため。わたしたちみんなを、救うためでした。
イエス様の十字架。それは決して綺麗ではないし、楽しいものではありません。普通それは絶望です。しかし、イエス様の十字架は、絶望でも、失望でもありません。
それはいのちの始まりです。喜びの始まりです。なぜなら、十字架のあとには、イースター。イエス様のご復活があるからです。私たちは、イエス様の救いを頂きました。だから、この十字架を見るとき、それはただの絶望ではなくて、私たちの希望がここにこそあることを見るのです。ここにわたしたちのいのちの始まりがあるのです。そして、感謝するのです。この絶望的なイエス様のお姿によってこそ、私たちに希望が与えられたのです。
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今、教会は「受難節」といって、(「レント」とも言うけれど)、イエス様の十字架を見上げて歩む、そういう時を過ごしています。クリスマスの前には、ここにクランツが置いてあって、4本のキャンドルに毎週1本ずつ火をつけて、イエス様のお誕生を待ちました。それと同じように、クランツはないけれど、イエス様の復活されたイースターの40日前から、私たちのこころをイエス様の十字架に向けて過ごす、そういう大切な時を過ごしています。
ところで、みんな変だと思いませんか。どうして私たちは毎週日曜日の朝、元気に起きて、美味しい朝ごはんを食べて、気持ちいい気分で教会に来て、そこでなんで十字架に苦しんでおられるイエス様のお姿を見なきゃならないんだろう。普通ならね、もっと綺麗な絵だとか、優しいお顔の像だとか、他にみんなが見て「綺麗だなぁ~」「素敵だなぁ~」って思うものが沢山有るはずなのに、どうして、日曜日の朝、私たちは教会にきて、十字架の上で両手両足に太い釘を打たれ、茨の冠をかぶせられ、血を流しておられるイエス様に眼を向けるのでしょうか。
今日の聖書の箇所のイエス様もそうでした。十字架にかかる前の晩、最後の晩餐の後で、イエス様はオリブ山に来て祈り始められた。こう書いてありました。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」
なんていうことでしょうか。イエス様のお顔はどうですか??ニコニコ笑っておられるでしょうか。優しく微笑んでおられますか。それともご機嫌一杯ですか??いいえ、全部違います。イエス様は苦しみもだえ、地の汗を滴らせるほどに呻いて祈っておられる。
どうして聖書は、そんなことを書くのでしょうか。もっと綺麗な美しいイエス様を書いたらいいのに。いいえ。聖書は、このイエス様のお姿こそ見なさい!!と、そう言っているのです。
教会には、十字架が高く掲げられています。遠くからも見えるように、十字架が建てられています。十字架っていうのは、可愛いペンダントや、ピアスの飾りなんかではありません。人を殺す死刑の道具です。大きな太い木の十字架に、イエス様がかけられた。キリストが死なれた十字架。どうしてそれを見なさいと言うんでしょうか?
それは、そこにこそ本当の救いがあるから、そこにこそ本当の希望があるからなのです。
ナルニア国物語というのがあります。悪いことをした子供達のために王様ライオンが身代わりに死ぬという話しです。よく教会学校でみんなと歌う「小さい羊が」という讃美歌。神様のもとを離れて自分勝手に好きな方へと遊びに行ってしまう。けれど、そのいなくなった羊を探し出すために、イエス様が来て下さった。そして、わたしたちが神様に犯した罪のすべてを身代わりにイエス様は死なれたのです。
気づくでしょうか。イエス様のゲッセマネの苦しみ、十字架の苦しみ、それは、わたしたち一人一人の苦しみを身代わりに苦しんでおられるイエス様のお姿です。あのイエスさまの痛んでおられるお顔、流された涙、血の汗、それは、みんな私たちの罪の結果でした。私たちが、私たちの犯した罪のために滅びないで、永遠の命を生きるように、イエス様が身代わりに死なれた。ですから、私たちは、イエス様の苦しんでおられるお姿を見るとき、十字架に死なれたイエス様のお姿を見るときに、ここにこそ、私たちの救いの希望があることを見つけるのです。
毎週毎週私たちは教会に来て、イエス様の十字架を見ます。私たちが見ているのは、楽しい映画や、面白いゲームなどではありません。あの十字架のイエス様を見に、教会に来ているのです。みんないま心を静かにして、イエス様のことを想ってみて下さい。イエス様はどうしてこんなに苦しんでおられるのでしょうか。どうして、イエス様の手は、足は、十字架に太い釘で打ち付けられているのでしょうか。
それは、すべて、わたしたちの罪のためです。いなくなった羊を探し出すため。わたしたちみんなを、救うためでした。
イエス様の十字架。それは決して綺麗ではないし、楽しいものではありません。普通それは絶望です。しかし、イエス様の十字架は、絶望でも、失望でもありません。
それはいのちの始まりです。喜びの始まりです。なぜなら、十字架のあとには、イースター。イエス様のご復活があるからです。私たちは、イエス様の救いを頂きました。だから、この十字架を見るとき、それはただの絶望ではなくて、私たちの希望がここにこそあることを見るのです。ここにわたしたちのいのちの始まりがあるのです。そして、感謝するのです。この絶望的なイエス様のお姿によってこそ、私たちに希望が与えられたのです。