ろごするーむ

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説教「喜びに満ちあふれて生きる」

2010-01-28 10:55:56 | 主日礼拝説教
ペトロの手紙一.1章3節~9節、13~21節

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


 今日開かれているペトロの手紙1章3節以下には次のように記されていました。
「3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」
 神は、豊かな憐れみによってあなたを新たに生まれさせて下さった。あなたの存在は、神の豊かな憐れみによって支えられ、守られている。神の憐れみによって新たにされた存在なんだということが語られているわけです。
 神の憐れみによるとは一体どういうことでしょうか。それは19節にある通り、「傷や汚れのない、小羊のようなキリストの尊い血によって贖われる」それが、神の憐れみによって新たにされるという事、神の憐れみの中に置かれているということです。

 わたしたちの生き方、神を知らずに生きている、そういう人間の姿というのは、自分で出来ること、自分の誉められること、人から賞賛され、尊いといわれること、人よりも優れたことであったり、これまでやってきた自分の業績や、働きについて、そこに自分の存在の価値を見出したり、生きることの意味を見出そうとするのではないでしょうか。
 そうした所に自分の価値や意味を見出すことによって、自分を救おうとしてはいないでしょうか。わたしにはこれだけのことができる。わたしはこれをもっている。わたしはこれだけのことをしてきた。または、わたしはこれだけの人に必要とされている、または必要とされてきた、そうしたことは勿論尊いことであるわけですけれども、しかし、人間はそういう所に自分のいのちの意味とか、価値とか、自分の救いを見出して生きていくことができるのでしょうか。

 わたしたちの生きている現代の社会というのは、何ができる、何をもっている、どれほど豊かである、そういう価値観によって作り上げられてきた社会、世界であるというふうに言うことが出来ると思います。しかし現代ほど、生きることの意味とか、価値、その尊さを見失った時代があったでしょうか。生きることの意味や尊さ、その素晴らしさや喜びを見失っている人が大勢おられるのではないでしょうか。自らのいのちを絶っていく人たちの数は、どれほどこうした問題が深刻であるかを現しているかのようにも感じられないわけではありません。

 「神の憐れみによって」というのは、それは人間の評価や価値観、採点にはよらないということです。人の目には、そこに価値や意味が見出せないと思われたとしても、それでも「神の憐れみによって」と言われるときには、そこにわたしたちの存在は受け止められ、わたしたちの無意味さが克服されていく、乗り越えられていくのです。
 この「神の憐れみによって」というのは「神の赦しの中で」という事でもあります。神の許しの中で、神の憐れみの中で、あなたという人間が見つめられている、この神の憐れみの眼差しによって見つめられた時、あなたの存在は誰がなんと言おうと、そしてあなたが自分をどう思おうと、こんな自分なんてと思おうと、何が生きていていい事があるんだと思ったとしても、神の憐れみの中で、あなたは価値ある存在とされている。人間というのは、神の憐れみの中、許しの中に置かれている。あなたの存在というのは、神様が哀れみの眼差しを注いで下さっているそういうものなんだ、つまりそれは、神様があなたを必要としておられるということ、それが、「神の憐れみによる」ということです。

 この神の憐れみの中で、ペトロの手紙の1章3節後半からを見ますと、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」られているんだというのです。すべてのいのちは、人間であれ、動物であれ、それらすべては、生まれ、生き、死んでいくものです。植物もそうでしょう。生まれ、生き、新でいく、この法則の中に、わたしたちは生きているわけです。
 生まれ、生き、死んでいく、そこから逃れることのできるいのちはありません。ところが、今日、神の御言葉は、わたしたちに語りかけているのです。「わたしたちは新たに生まれさせられる」「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」「わたしたちは新たに生まれさせられる」というのです。死者の中からの復活、死者の中からのイエス・キリストの復活というのは、それは、生まれ、生き、死んでいくあり方に否を唱えるものです。
 生まれ、生き、死んでいくものであった人間、またわたしたち自身の姿があるわけですけれど、しかしキリストは死者の中から復活させられているのです。
死者の只中に、わたしたちはいのちを見出すことは出来ません。墓の中に、わたしたちはいのちを見出すことは出来ません。そこにいのちを感じることが出来ない。しかし、その死者の中からキリストが復活させられた、もはやこのキリストの復活によって、生まれ、生き、死んでいく、そういう存在であったわたしたちの存在は、死の虚しさによって、恐れによって飲み込まれていくものではなくなったのです。

 わたしたちの生きることの先には、そのたどり着く先には死と言う怪物が大きな口を開けてわたしたちを飲み込もうと待ち受けているのではないということです。いのちを飲み干そうとする死の力が、イエス・キリストの十字架の死と復活によって克服されている、そこにいのちへと続いていく確かな希望と救いの道が与えられているのです。聖書は、「生き生きとした希望が」与えられているというのです。それは文字通り、いのちの希望、生きることの希望がそこに見出されているということです。

 あなたは、神の憐れみの眼差しによって見つめられる者とされ、また生き生きとした希望が与えられているそういう存在なんだと、御言葉は語りかけているのです。

 この3節の御言葉には「わたしたちを新たに生まれさせ」と、ありました。
けれど、このペトロの手紙は洗礼志願者たちの準備のために用いられてきたといわれています。「わたしたちを新たに生まれさせ」というのは、洗礼のことを言っているというふうに、古代の教会から理解してきたわけです。ですので、この1章3節以下の御言葉は、「洗礼によって新たに生まれさせられた者とは一体何者なのか?」、どういう存在なのか、そのことを語っているというふうにいう事ができます。

 1章3節以下の御言葉を、特にそのことを意識して聞きたいと思うのです。
洗礼によって新たに生まれさせられたあなたは、3節後半「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られて」いるんだというのです。
 それが洗礼の恵みに与ったものの姿、それは他ならない、あなた自身の姿なんだと、聖書は語っているのです。

 礼拝でお祈りを捧げるときに、わたしは「わたしたちの築くときも気付かないときも、神様の恵みの中にあったことを感謝します」というふうに祈ることが度々あります。わたしたちは、恵みに気付くことがあり、気付かないでいることもあります。わたしたちは自分自身の姿ということについても、気付いている自分の姿と同時に気付かない自分自身の姿というのがあるのではないでしょうか。自分のことは自分が一番わかっているというふうには、そう感嘆には言えないはずです。わたしの気付かない神の恵みがあり、神の恵みの中に置かれている自分自身の姿があるはずです。わたしたちの気付いていない、しかし喜ぶべき自分の姿というのがあります。わたしたちは、それをどのようにして知ることができるのでしょうか。それは、神の御言葉を聞くときに初めて知ることが出来るのです。
 自分は何者なのか、あなたは何者なのか、神の御言葉を聞くときに、わたしたちはそれを知るのです。自分とは何者なのか、あなたを何者だと聖書は語っているのか、それを聞くときに、わたしたちははじめて自分の姿を知ることが出来るのです。

 聖書は「あなたは神の憐れみによって生かされている者なんだ」といいます。死者の中からのキリストの復活によって、生き生きとした希望が与えられている。天に蓄えられている口図、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされているんだと、更には、救いを受けるために、神の力によって、信仰によって守られているんだというのです。
 いのちは、神の救いを受け、その喜びの中で生き生きと希望をもって生きていく、そういうものなんだ、それがほかならないあなたのいのちであると語られているのです。

 わたしたちは、神の御言葉を聞くときに、自らの姿を見出すのです。そこではじめて、自分の姿に気付かされ、自分の生きる意味と、その尊さとを知ることができるのです。

 6節以降には、それゆえあなたがたは心から喜んでいるというのです。3-5節に記され、語られている神の御言葉を聞くとき、その御言葉はまさしくアーメンとして受け止められるとき、6節からに語られているようにあなたは与えられたいのちを喜んで生きることが出来る。心から喜ぶことが出来ると言うのです。
 ここには、喜ぶことが出来ると記されていますけれども、同時に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」ないと、そのように語られています。神様がくださる喜びというのは、ハッピーな、いわゆる誰もが幸せだと思うような状況においてのみ見出される者ではありません。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」ない。しかしそこに喜びが見出される。

 けれども、わたしたちはそういう神様の御言葉を聞いても、「そうは言っても」とか「きれいごとと現実は違う」と、そんなふうに思ったりすることが多いのではないかと思います。しかし、神の恵みというのは、救いというのは、わたしがどう思うかというよりも、神が与えておられるという事実がそこにあることを感謝して受け止めるべきではないでしょうか。

 今日、神様の御言葉を通して語られていること、それは洗礼によって神様の救いに与ったあなた自身の姿が語られ、明らかにされているのです。あなたは誰だ、どういうものだと神の御言葉は語るのか、それは
・・・神様が豊かな憐れみによって、新たに生まれさせてくださり、キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられている。天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされ、終わりの時の救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている。だから、あなたは喜びが与えられるんだというのです。試練に悩まねばならないかもしれません、しかし、それでも、そこには喜びが与えられているんだと、いうこと・・・そのことに違いありません。

 神様の憐れみの中に、わたしたちが赦され、受け止められ、いのちを与えられ生かされているということ、更には、生き生きとした希望が与えられている。生き生きと、希望をもって生きていったらいい。なぜなら、神様が、そのようにあなたに語りかけてくださっているからなのです。さぁ、救われた者として、神様か頂いた生涯の日々を希望のうちに歩んでいきたいと、そう願うのです。

説教「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」

2009-06-30 13:52:52 | 主日礼拝説教
聖書 ヨハネによる福音書15章1~8節

 今日の福音書で主イエスは、神とわたしたち人間との関係を、二つの譬えで語られます。一つは、15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」もう一つは5節「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉です。ここでまず1節では父なる神と主キリストとの関係が語られていて、5節ではぶどうの木である「わたし」、つまりまことのぶどうの木である主イエス・キリストとわたしたちとの関係が語られています。
 まず1節ですけれど、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と記されていました。父である神は、ぶどう園の農夫であり、主キリストはぶどうの木であると語られているわけです。続く2節ですけれど、「15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」ここでは、まことのぶどうの木に繋がったわたしたちキリスト者の姿を「枝」であると語られています。ところが、この枝でも「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と記されていますので、わたしたちは大丈夫だろうかと不安に思ったりするわけです。

 ここに「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とありましたけれど、しかしまず注目したいのは、実を結ばない枝は取り除かれるということは、逆を言えば、わたしたちは実を結ぶ枝であることが求められているということなのです。ぶどう園の農夫である父なる神は、あなたが実を結ぶものであることを期待してくださっているのです。
 
 続く3節~4節にこのようにありました。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ここに「あなたがたは既に清くなっている。」とありました。清くなっているというのは、それはもはや剪定される存在ではないということです。
 今日丁寧に取り上げることはできませんけれども、ユダヤの社会においては、族長たちがまことのぶどうの木と考えられた時代がありました。モーセがその木だと考えられたこともありました。しかしヨハネ福音書は、イエス・キリストがまことのぶどうの木であると語るのです。このまことのぶどうの木であるキリストに結ばれるとき、十字架によって罪が清められ、豊かな実をたわわに結ぶものとされていくんだということを語っているわけです。このまことのぶどうの木であるイエス・キリスト以外に、それは族長たちであれ、モーセであれ、主イエス・キリスト以外のいかなるものに繋がろうとも、本当に豊かな実を結ぶことは出来ないということを語っているのです。
 ぶどうの枝が実を実らせるのは、その枝に力があるからではありません。枝がしっかりとぶどうの木に結ばれている。そのときはじめて、ぶどうの木は豊かな実りを結ぶことが出来るのです。実の実らないぶどうの枝は取り除かれると記されているわけですけれど、実が実らない枝というのは、まことのぶどうの木につながることのない枝、まことのぶどうの木からいのちの養いを受けていない枝、そのことが語られています。
 主がぶどうの木である、キリストがまことのぶどうの木であるというのは、わたしたちのこれ以上無い安心でもあるのです。主イエス・キリストは、わたしたちの救いのための一切を成し遂げてくださり、豊かな実りを結ぶ者、永遠のいのちに与る者としてくださいました。このこれ以上ない養いをくださる主キリストに結ばれている限り、主がご自身にかけて豊かな実りを結ばせてくださるのです。

 15章の5節後半にこのように記されていました。「15:5b 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」4節にも同じように「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。ここに、「人がわたしにつながっており」そして「わたしにつながっていなさい」とありました。
 わたしたちは、信仰というのは、このまことのぶどうの木であるイエス・キリストに繋がることだと理解していまして、まさしくその通りであるわけです。わたしたちは洗礼によって、イエス・キリストと結ばれるのですけれども、では逆に、主がわたしたちにつながっていてくださる、わたしたちをしっかりと支えてくださっている、主がしっかりと結び付けてくださっているということを、どれほど意識しているでしょうか。5節の後半の御言葉に、注目したいのです。そこではこのように語られています。「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とありました。4節の後半には「わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。
 ここでは、「わたし」つまり、イエス・キリストが、あなたに繋がっていて下さるということが二度繰り返して語られているわけです。

 わたしが主イエス・キリストに繋がるというのは、よく考えてみますと、ある弱さを抱えたものであることを気づかされます。わたしたちの信仰、わたしたちが主のもとに留まり続けるとことは決してた易い事ではありません。弟子たちの生涯というのを聖書を通してわたしたちは知ることができますけれど、あの弟子たちの信仰だって、それはなお弱さを抱えたものであるということがあるわけです。しかし、わたしたちの信仰生活というのは、わたしが繋がっているということの背後にといいますか、そのベースに、主があなたにしっかりと繋がっていてくださるという、神様は決してあなたの手をお放しにならないという、そういう神様の恵みの事実があります。つまり、わたしたちが主なる神に繋がることが出来るのは、まず主なる神が、あなたに繋がってくださる、あなたの手をとってくださった。そういう恵みによるものであるのです。そのことは主イエス・キリストがお生まれになり、十字架へと歩み、よみがえらせられる、その出来事において更に明らかにされていきます。ご自分を十字架につける、そのような罪人のために、まず神が、御子を世に遣わしてくださり、その十字架の死と復活、昇天によって、神様の側から、父なる神様のもとへと至る道、救いの道を与えてくださったのです。わたしたちの救いというのは、まず神様の側から差し出されているのです。

 さて、今日の福音書は、ぶどうの木とその枝という譬えをもって、キリストとわたしたちキリスト者との関係が語られています。主イエスは、キリストとわたしたちとについてお語りになる時、別々の二つのものを用いてその関係を語られたのではありませんでした。ぶどうの木とその枝というのは、例えば小鳥と木とか、昆虫と木いうように、あれとこれというそれぞれ別々のものではありません。木と枝というのは、別々のものではなくて一つのものであるわけです。それが救い主である主キリストとわたしたち信仰者との関係です。
 つまり、別々のものが、接着剤や磁石などでくっついているとか、一緒に居るという事とは違うのです。主が「あなたがたはその枝である」といわれたとき、その枝というのは、ぶどうの木とは別の何かということではなくて、ぶどうの木の一部だということです。このぶどうの木とその枝というのは、実際にぶどうの木を見てみますとわかりますけれど、どこまでが幹でどこからが枝というふうには言い難いものです。少し前まで、教会の前のハナミズキの木が綺麗な花を咲かせていましたけれど、あのハナミズキの木は、どこが幹で、どこが枝だとわかりやすいと思います。ところが、ぶどうの木はどうかといいますと、どこが木でどこが枝だと区別することは、なかなか難しいと思います。枝がどこで始まってどこで終わっているのか判らないわけです。キリストがぶどうの木であり、あなたがたはその枝であると言われるとき、それは、キリストとの非常に親密な一体性が意識されているということができます。
 ヨハネによる福音書においては、一つであるということが非常に重要な意味をもっています。主イエスは十字架におかかりになる直前、今日の聖書の箇所の少し後ですけれど、17章21節でこのように言われます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」これは十字架におかかりになる前の主イエスの祈りの言葉です。主イエスは十字架におかかりになる前に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」このように祈られたわけです。
 
 今日の福音書の箇所でも、キリストと一つとされるということ、あなたはキリストと一つとされているということ、そのことが語られています。この一つとされるというのは、例えばあるものをわたしたちが所有するように、持っているような仕方で一つとされるのではありません。ぶどうの木とその枝の仕方を見ればわかるように、もはや完全に一つとされるということ、誰かがやってきて持っていくことができない仕方でキリストと一つとされるのです。先ほども申しましたように、ぶどうの木に鳥がとまっているとか、虫がとまっているというようなことではなくて、ぶどうの木と枝というのは、そこにいのちの流れる関係、一つのぶどうの木とされるという、それほどまでに深い、また枝は幹であるぶどうの木に生きることのすべてにおいて信頼しきった、そういう関係がぶどうの木と枝との関係です。
 
 誰ももはやキリストのものとされたあなたを、どこかへと連れ去ることは出来ないのです。それは闇の力がどんなに強く吹き付けるとしても、ぶどうの枝は、よいぶどうの木である主キリストがご自身にかけてしっかりと守って下さるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の8章でこのように語っています。35節以下です。「8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 キリストと一つとされるというのは、長い信仰生活の中で徐々にキリストのものとされていくということではありません。徐々にキリストと繋がっていくということではありません。十字架のキリストの前に額ずいて洗礼の恵みに与ったわたしたちは、その一回的な神の恵みの事実によって、まるごとキリストのものとされ、キリストに結ばれたものとされたのです。だからこそ、主イエスは今日福音書を通してあなたに語りかけておられるのです。「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」
「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
ぶどうの枝になりなさいといわれているのではありません。ぶどうの枝としてくださるのは神の恵みなのです。主は、あなたはぶどうの木だ、わたしの大切な枝だといって下さっているのです。だから、そのキリストの愛のうちに留まりなさいと、御言葉は招いているのです。


「15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」わたしたちは、このことを主イエスのご生涯から知ることができます。主イエスのご生涯は、まさに父なる神様へのまったき信頼と、御言葉へのまったき信頼に貫かれた歩みでした。 
 わたしたちは「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」といわれますと、欲しいもののリストを作って懇願するように祈ろうとするのですけれども、主イエスがこの御言葉の前半にまず語っておられることをそっちのけにしてしまっているのではないでしょうか。つまり「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」者の祈りは、主イエスがそうであられたように、自分の願望に神様を振り回すのではなく、このわたしのために御言葉をもって最も幸いな生き方を示してくださった、神様のわたしに対する御心の実現することを祈り求めていく、そのようなものではないでしょうか。
 
 主イエスはヨハネから洗礼を受けられたあと、聖霊に導かれて荒野へと行かれました。そこで40日間の祈りと断食とをなさったわけです。そこに試みるものが来て主イエスに言い寄るわけです。石をパンに変えてみろ、ここから飛び降りてみろ天使が来て救ってくれるかもしれない。しかし主イエスは、御言葉によってこれらの誘惑を退けて行かれました。主イエスは、自分の喉の渇きがいやされること、空腹が満たされることを願われませんでした。それに表されているように、天の父に信頼し、御言葉に信頼された主イエスの願いは、自分の願いの実現することではなくて、御言葉の実現すること、神様の御心の実現することにありました。それが神に結ばれ、神の御言葉が内にあるものの生き方なのではないでしょうか。
そのとき、神は何でも叶えてくださるのです。またそのような、わたしたちに対する神様のご配慮に信頼して歩む歩みこそ、本当に豊かな、幸いな生き方であるのではないでしょうか。
 この何でも叶えてくださるというのは、神への忠実さに対するご褒美なのではありません。神様を第一にし、御言葉に豊かに養われて生かされる者は、主イエスがそうであられたように望むものを何でも求めることが出来るし、神はそれを豊かに与えてくださるのです。
 

 さて、今日の礼拝では15章の8節までが朗読されました。8節にはこのように記されていました。「15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
ここで語られていることは、ぶどうの枝であるキリスト者が、まことのぶどうの木である主キリストに結ばれて、主キリストの豊かな養いを頂いて実を結ぶとき、ぶどうの木につながりつづけるとき、それはここでは弟子という仕方で語られていますけれど、そのとき、わたしの父、つまり神が栄光をうけてくださるというのです。
 わたしたちは何かができたら神様に栄光をささげることができるとか、わたしは何も出来ないから神様の栄光のために何もしていないなどと思う必要は無いのです。真のぶどうの木である主キリストに繋がり続ける、神を礼拝し続けるそういう生活がまさに、神の栄光なんだと語られているのです。神は、お造りになったわたしたち人間が、創造主であり、天の父である神様のもとに結ばれて生きることを、望み、また喜んでくださっているのです。


説教(花の日こども合同礼拝)「思い悩むな」マタイ6章25-34節

2009-06-14 12:05:34 | 主日礼拝説教
 みなさん、イエス様は、どんなお方だったのでしょうか。イエス様に直接あって、イエス様のお話を聞くことが出来たら、どんなに嬉しいだろうと思いませんか。きっと、イエス様のお話を聞いたら、イエス様はどんな方だったのか、よく分かると思います。
 わたしたちは、誰かはじめての人に会った時、その人の外見を見ただけではその人がどういう人なのかよく分らないと思います。でも、その人とお話をしていると、この人はこういう人なんだと分ってきます。

 今日は、聖書が読まれて、わたしたちはその御言葉を聞きました。今日の礼拝で読まれた聖書は、イエス様のもとに沢山の人たちが集まってきたとき、その沢山の人々を前にしてイエス様がお話しになった御言葉でした。
 ですから、今日わたしたちが聞いているイエス様の御言葉に、よく耳を傾けていくと、イエス様はどんな方だったのか、神様はどんなお方なのか、わたしたちは知ることができると思います。

 わたしたちは、直接イエス様に出会わなくても、イエス様の御言葉を聞くときに、イエス様のお姿が見えてきます。イエス様がいらした時代の沢山の人たちがイエス様に出会って「あぁイエス様ってこんな素晴らしい方なんだ!」と信じることが出来たように、わたしたちに今日語りかけてくださるイエス様のお言葉を聞くときに、イエス様はどんな方だったのか、イエス様の思い、イエス様の御心を知ることができるんですね。
 わたしたちも神様の御言葉に耳を傾けるときに「あぁイエス様ってこんなに素晴らしい方なんだ!」と知ることが出来る。イエス様との出会いが与えられるんですね。

 今日もみなさんと一緒に、イエス様の御言葉に耳を傾けて聞きたいと思います。


 主イエス様は、ある日、御許に集まってきた大勢の人々を前にしてお語りになりました。何を語られたのでしょうか。こんなふうにお話しになりました。
「空の鳥をよく見なさい。種を蒔いたり、刈り入れをしたり、その収穫を倉に納めたりしない。だけれど、みんなの天の父なる神様は、鳥たちを養ってくださる。みんなは、鳥よりもずっと価値あるもの、神様に大切にされている一人一人なんですよ。」
 世界中には何種類くらいの鳥がいると思いますか? 一万種類くらいの鳥がいるそうです。日本にはその中の542種類がいるそうです。すごい数ですね。
ちょっと広げて、世界中に何種類くらいの動物がいるか調べてみました。そうしたら、神様のお造りになった世界には、なんと175万種類もの動物がいるそうです。これもびっくりする数ですね。
最後に、今日は花の日ですから、世界中に何種類くらいのお花があるのかなぁって調べてみました。そうすると、お店で売るために改良されたお花を含まないで数えても、25万種類ものお花があるそうです。
 神様がお造りになった世界には、こんなにも沢山のいのちが生かされているんだなぁと思って、驚きました。


 こどもさんびかに「ことりたちは」という讃美歌があります。みんなよく知っていると思います。「ことりたちは小さくても、お守りなさる神様」という讃美歌です。小鳥たちは、自分で畑に種を蒔いて、それを育てて、そして実が実るとそれを収穫して、と、そういうことをしません。でも、神様は、ちゃんと鳥たちを養って下さる。必要なものを与えてくださる。その神様は、みんなのためには、なおさら良くして下さるんですよと、語りかけてくださっているのです。


 それから、もう一つ、こんなことをお話になりました。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。野の花は働きもしないし、糸を紡いで布を作ったりもしない。―― それだけではなくて、今日は生えているけれど、明日は焼かれてしまう草だって、神様は綺麗に装ってくださっている。まして、あなたがたには、みんなにはなおさらのことではないですか」
 さっき、世界中には25万種類くらいのお花があると言いましたけれど、お花は自分の植えられたところが嫌だからあっちの畑に行きたいなぁと思っても行けませんね。今日は暑いから日陰に咲きたいなぁと思ってもそうはできません。でも、そんな野の花も、神様はちゃんと育ててくださっている。綺麗に咲かせてくださっている。
 空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、主イエス様はそう仰って、空の鳥や、野の花の姿をとおして、創造主である恵み深い神様のお姿を示されました。
 

 今日は、綺麗なお花を教会に持ってきて、神様にお捧げしました。お庭に咲いたお花や、お花屋さんに行って沢山あるお花の中から、どれにしようかぁと考えて、選んできたお花。色々なお花があります。自分の好きな色のお花をもってきてくれたお友達もいると思いますし、大切に育てたお花を持ってきてくれたお友達もいると思います。だけれど、葉っぱやお花を自分で作った、今日のお花は自分で作って持って来たというお友達は、きっといないと思います。わたしたちは、いのちのある綺麗なお花の葉っぱ一枚だって、何もないところから作ることができないんじゃないでしょうか。
 
 聖書の一番最初に、創世記というのがあります。そこには、神様がこの世界をお造りになったことが書かれています。神様は何もないところから、光をお造りになって、海や陸地をお造りになって、草や木や花、さっき讃美歌を歌いましたけれど、魚や鳥、動物たち、すべてのいのちをお造りになって、最後にわたしたち人間をお造りになったと書かれています。神様ってすごいですね。神様は、何もないところから、いのちを造り出すことがおできになる。いのちは神様がお与えになるんですね。そして、神様はお造りになったいのちを見て、世界を見て、なんて素晴らしい世界!そう言って喜んで下さるんですね。神様は、神様がお造りになったみんなのことをご覧になって「なんて素晴らしいナントカちゃん」「なんて素晴らしい○○くん」と、そう言ってくださるんですね。

 さっき、イエス様は野の花、空の鳥を御覧なさいと言われました。どうしてイエス様は野の花や空の鳥を見てごらんと言われたのでしょうか。それは、自分の力で生きていると思い違いをしている人間に、本当はそうじゃないでしょ、神様が、天の父なる神様が、この鳥や野の花をお造りになったように、みんなのこともお造りになった、みんなのことも創造されたんですよ。空の鳥や野の花が、神様のお恵みにすべてをまかせて生きているように、みんなもそうすることが出来るんだよと、そう教えて下さるんですね。

 
 今日の聖書の御言葉の中で、イエス様は二度「あなたがたの天の父は」と言っておられます。今日イエス様は二度、天の神様は、「あなたがたの天の父」「お父さんなんだよ」と言われます。
「神様は、みんなの天のお父さんだ」と言われるんですね。
それは、言い方を変えれば、みんなは天の父なる神様の子供なんだよということではないでしようか。

 イエス様がわたしたちに、神様は「あなたがたの天の父」と言われるときには、いつでも、みんなは天の父なる神様の子供たちなんだよと、語りかけてくださっているのです。
 イエス様が、「あなたがたの天の父」と語られている背後には、「あなたたちは神様の子とされているのだ」という神様の恵みが示されているのです。
 ここにいるみんなは、天の父の子とされているのだから、思い悩まなくていい。心配しなくていい。創造主であり、天の父である神が、みんなのことを配慮し、養い、必要を与えてくださる。そういう恵みが語られているのです。

 
 それと同時に、空の鳥や野の花が神の恵みを証しして生きるように、天の父の子とされたわたしたちも、神様の恵みを歌い、また神様ってこんなに素晴らしい方なんだよと、神様のことを証しする、みんなに伝えるものとして用いられるのです。


 わたしたちは自分自身の姿を見つめる時には、思い煩い、いろいろな悩みに支配されていくのではないでしょうか。
けれど、だからこそ創造主であり天の父なる神様に目を上げて、「神の国と神の義」つまり神様ご自身に希望をおいて生きるようにとイエス様は語りかけてくださっています。
「あなたがたの天の父」、わたしたちの神様は、神様の子どもであるみんなのことを、ひと時も忘れることなく、いつくしみ深い眼差しを注ぎ、養い育ててくださると、イエス様は教えてくださいました。


 今日の聖書の一番最後のところで、イエス様はこのように言われました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
「明日の心配はしなくていい。」と言われました。どうして心配しなくて良いと言われたのでしょうか。
 心配したってなるようにしかならないんだからということでしょうか。明日は明日で、どうにかなるから心配しなくてもいいということでしょうか。
そうではないんですね。イエス様はどうして「明日のことまで思い悩むな。」といわれたんでしょうか。

 それは、明日のことは分からないから心配しなくていいとか、どうにかなるから心配しなくて言いというのではないんですね。
 
 イエス様が明日のことを心配しなくていいといわれたのは、天の父なる神様がみんなの明日を支えていてくださる。神様がみんなの天のお父様なんだから、心配しなくていいんだよ。思い悩むなと仰るんですね。
 それは、あきらめではありません。神様にお委ねして、安心して生きて生きなさいと言われているんですね。


 神様がみんなの明日をしっかりと守っていてくださる。だから、自分で自分の将来を心配しなくていいんです。わたしたちの毎日は、またわたしたちのいのちは、すべてのいのちの創造者である天の父なる神様にしっかりと守られ、また支えられているんですね。この世界も、またそこに生きているいのちも、何より、みんな一人ひとりは、神様がお造りになった神様のものなんだよと聖書は語っています。
わたしたちは、わたしたちを創造して、いのちを与えて生かして下さっている神様から、毎日、沢山のお恵みを頂いて、安心して生きていくことができます。

 みんなは神様の子供です。神様が毎日をしっかりとお守りくださいます。空の鳥、野の花を養い、育ててくださる神様に、わたしたちは信頼して、歩んでいくことができます。神様はわたしたちの思い悩むことではなくて、苦しむことではなくて、幸せを望んでくださる神様です。

 はじめに、イエス様の御言葉を聞くと、イエス様がどんなお方なのか、神様がどんなお方なのか分って来ますと言いました。

 イエス様が、わたしたちに語りかけてくださる御言葉は、いつもわたしたちを元気付けてくれます。どうして神様の御言葉はわたしたちを元気付けてくれるのでしょうか。それは、神様に創造されたみんなが、神様に結ばれて、元気に、神様の恵みの中で生きるように望んでくださっているからです。わたしたちに語りかけてくださっている神様の御言葉を聞きながら、毎日を喜んで歩んでいきたいと思います。

◇お祈りしましょう
天の父なる神様。
あなたは、空の鳥、野の花を美しく養い、育ててくださいます。今日イエス様は御言葉を通して、わたしたちにはなおさら神様はお恵みを与えてくださり、しっかりと支えてくださることを知りました。わたしたちが色々なことに心配したり、心を奪われたりしないで、いつも注がれている神様の眼差しを感謝して、歩むことができますように。
わたしたちの救い主、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

説教「聖霊の力により、望みに溢れるように」

2009-06-04 12:06:14 | 主日礼拝説教
【聖書】ローマの信徒への手紙5章1~5節、15章13節

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」
神のみ言葉は、希望の源である神が、聖霊の力によって、つまり神ご自身の働きによって、神ご自身にかけて、わたしたちを希望に溢れさせて下さる、望みに溢れさせてくださるというのです。
ペンテコステの日、弟子たちは一つに集まって祈っていました。そのとき使徒言行録二章の御言葉の通り、聖霊が教会に注がれて、弟子たちは喜びに溢れて、力強い歩みをはじめます。
聖霊降臨は、希望の源である神ご自身が、弟子たちのうちに来て、留まって下さると言うことです。希望の源である神、希望そのものである神が、わたしたちの内側に留まって下さる。そのことによってわたしたちの存在が、希望に変えられていく。それが聖霊の力によって望みに溢れる、聖霊の力によって与えられた希望なのです。

人間は希望がなければ生きることは困難であると誰もが知っているのではないでしょうか。大きな夢や希望をもって生きて行こうと言われます。その反面、どんな大きな希望を抱いても、叶うか叶わないか判らない。希望はまるで馬が勢いよく走るために絶えず目の前にぶら下げられているニンジンであるかのように、走っても走っても手に入れることができない。そんなものであるかのように語られることもあります。しかし、希望とはそういうものでいいんだという人もいます。フランスのカミュという人は「望とは、あきらめにも等しいものである」と言います。別の人は「希望は頼りにならないものであるが、我々を人生の終わりまで運ぶことくらいはしてくれる。」と言いま
す。それが希望だというのです。

では聖書はどういう希望を語ってきたのでしょうか。パウロは自らの記した手紙の中で、繰り返し希望について語ります。それはその希望が、パウロのキリストを信じる信仰において、重要な位置を占めているからです。パウロにとって、希望とは福音そのものでした。十字架にわたしたちを贖ってくださった神、信じる者の希望である神が、聖霊によってわたしたちのうちに宿って下さる。それによって、彼方にあったものが、内なるものとされた。彼方にあった希望が、わたしの内側に宿るものとされた。その意味で、希望は信じるものにとって福音そのものであるわけです。

聖霊の力によって望みに溢れるというのは、ちょっと神様のお助けをいただくということではありません。希望の源であり、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に留まって下さる。わたしたちの存在を丸ごと希望に変えてくださる。あなたの存在が希望だといわれるのです。聖書は、大きな夢を持てば、人生をしっかりと生きていくことができるのだから、大きな夢を持とうと言っているのではありません。
わたしたちが希望に溢れて生きることが出来るのは、大きな夢を持っているからでも、大きな幻を抱いたからでもありません。
わたしたちは、様々な希望を抱いて生きています。成功への希望であったり、健康を手に入れるという希望や、あることを達成するという希望もあります。しかし、そういう希望は達成してしまえばもはや希望ではなくなってしまうのです。では希望とは一体何でしょうか。パウロはどこに、何に希望を見出していたのでしょうか。それは神ご自身に他なりませんでした。

パウロにとって希望とは、将来に起きてくる幸せな出来事でも、夢でもありませんでした。パウロの希望は神ご自身でした。なぜなら、この神こそ、パウロを、そして信じる者を、絶えず配慮し、最善をなし、どんな時にも、どんな境遇においても、しっかりと支え守って下さる方であるからです。どんな希望よりも、どんな夢よりも、神にある希望こそ、それは神ご自身こそと言っても良いと思いますけれど、わたしたちを力づけ、励まし、生きる力を与えるのです。だから、パウロは、神は「希望の源である」と、そう語るのです。

さて、教会では洗礼が行われますけれど、あの洗礼というのは、単に水を注ぐだけ入会の儀式なのではありません。神が、受洗者に聖霊を注いでくださるのです。聖霊があなたと共にいてくださる。それが洗礼式の恵みです。そこには、希望の源である聖霊があなたと共に居て下さるという確かな事実があるのです。聖霊があなたの内にあって、あなたを守り、導いてくださるのです。
聖霊を受けていると言うのは、信仰の浮き沈みで判断するようなものではありません。気分が良い充実した信仰生活が送られているから、聖霊はわたしと共におられるとか、最近は祈れないし悪いことばかりだから、聖霊はわたしと共におられないんじゃないかと、そういうことでは決してないのです。
洗礼を与ったわたしたちは、いつか聖霊が注がれ、いつか希望を持って生きていけるというのではないのです。既に、あの洗礼の水が注がれたとき、聖霊を受け、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に宿って下さる。わたしたちの存在が希望へと変えられている。それが洗礼ということです。ですから、キリスト者というのは、希望する民とされているのです。神の恵みによって、希望を内に宿して生きていく、希望そのものとされているのです。

パウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と語ります。口語訳聖書では、「希望は失望に終わることがない」と訳されていました。どうして希望は失望に終わらないのでしょうか。断じて失望されることのない神が、とこしえからとこしえにあなたと共に居て下さるからです。あなたのいのちは、あなたの現在、過去、未来は神の手の中にある。だから、希望は失望に終わることがない。希望はわたしたちを欺くことはないのです。
 わたしたちの生活を支えるものは何でしょうか。幸せな時だけではない、苦しみの時に、絶えがたい痛みの中にあるときに、あなたを支えるものは何でしょうか。積極的な考え方を持つ事でしょうか。良いことを考えることでしょうか。それとも諦めることでしょうか。そうではないのです。パウロを支えたもの、それは神ご自身でした。
 この神は、わたしたちを愛し、罪人の滅びることではなく、救われることを望み、わたしたちの苦しみではない、幸いを望んでくださる神です。神が、あなたの救われることを、あなたの幸いを、あなたの生きることを望んでくださっている。聖霊を注いで、あなたの存在をまさに希望そのものに造り替えてくださっているのです。キリスト者の生は、そこに守られているのです。
喜びのときだけではありません、病の中にあっても希望が与えられ、苦しみの中にあっても希望が与えられているのです。それはどうしてでしょうか。 
わたしたちの唯一の希望である神ご自身が、聖霊によって、あなたと共に、あなたの内側に、あなたの全存在を守る仕方で、あなたと共に居て下さるからです。だから、あなたは勇気を持って、希望をもって生きていくことができるのです。神の愛が、あなたをしっかりと支えていてくださるからです。


昇天日説教「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」

2009-05-21 11:52:41 | 主日礼拝説教
テトスの手紙2章11~15節
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。


 今日は主のご復活から丁度40日目にあたり、教会では主の昇天日として憶えています。使徒言行録の1章には、十字架に死んで、墓に葬られ、復活された主キリストは、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れてくださり、神の国について話されたと記されています。そして40日の後に、オリブ山で弟子たちが見ている中を天にあげられたわけです。
 
 使徒言行録の1章6節からにこのようにあります。
「1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」
 主の復活ですとか、降誕というのは、わたしたちは大変盛大にお祝いをいたしますけれど、主の昇天はあまり聞きなれない方が多いのではないかと思います。主キリストがお生まれになった、十字架に死なれた、復活させられたといいますと、何か、わたしのために主が生まれ、十字架にかかられ、復活されたんだということがわかりますけれど、主の昇天、主キリストが天に挙げられたといいますと、わたしの救いと何か関係があるんだろうかと思うわけです。イエス様がわたしの救いのためのすべてをなし終えられたので、点に帰られただけではなかったのかと思ったりするわけです。ところが、わたしたちが礼拝の度に告白している使徒信条には主の昇天がしっかりと入っていまして、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」とあるわけです。天に昇り全能の父なる神の右に座してくださった。キリスト者というのは、洗礼によって主の死と復活に結ばれたわけです。それは死んで復活するということに終着点があるのではありません。主キリストが、天に昇り父なる神の右に座されたように、わたしたちも罪が赦され、永遠のいのちを与えられ、天の父なる神の御前に立つ、そういうものとされるんだという大切な信仰の事柄、それが主の昇天です。主イエスは、先ほども申し上げましたけれど、罪人の救いのためのすべての業が完了したので、ただ天に帰られたというのではないのです。はじめに讃美した讃美歌の159番の4節に、「地にて朽つべき人をも天に、昇らせたまいし救いの主よ」と歌いました。地にあって朽ちていく、そのようなものでしかなかったわたしたちを、復活のキリストは天に昇られ、わたしたちもまた、主が天に挙げられたように、終わりの日、天に挙げられ、父なる神の御前に立つ、そういう恵みが示されているわけです。

 主キリストが天に挙げられ、弟子たちが立ち尽くしていると、二人の天使が現れてでしたちに語ります。「1:11 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」天に挙げられた主イエスは、あなたがたが見ていたのと同じ有様で、またおいでになると言うのです。何のために主イエスはまたおいでになるのでしょうか。それはあなたを天に迎えるため、父なる神様の前に立つものとしてくださるために他なりません。キリスト者の信仰、キリスト教の信仰というのは、この地上を生きるということにおいてもそうですけれど、神の国、この地上のいのちの向こう側にも、更に大きな希望が語られている。そういう信仰です。

 今日朗読されたテトスの手紙では、2章11節からですけれど、このようにありました。「2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」
ここにすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたとありました。主イエス・キリストがこの地上に生まれ、十字架におかかりになり、死んで復活させられ、天に挙げられた、この主イエス・キリストを指差して、パウロは神の恵みが現れたと言うのです。
 「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」それは、わたしたちが「お恵みがありますように」とか、「恵まれた」というような意味で使っている「恵み」とは異なって、まさにこれこそ恵みの本質だという、他の何を持ってきても代わりがきかない、そういう恵みとしてのイエス・キリストが語られているわけです。主イエス・キリストがパウロの語る恵みの実体であられるわけです。
 この、まさに神の恵みそのものであるイエス・キリストの出現によって、受肉によって、2章12節「わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、」とあるように、わたしたちは地上の生涯を救われたものとして生きていくことができるわけです。更には続く13節「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」とあるように、将来に、わたしたちの行く手に、栄光の内に現れてくださる、わたしたちの救い主であるイエス・キリストと出会う、そういう希望を頂いているのです。

 さて、わたしたちは救いとか、信仰生活というのは死んだ後のこととか、天国に行くことと結びつけて、意外とこの現在のわたしの事柄として捉えることが少ないような気が致します。しかし今日の聖書の箇所でパウロは「2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と言っているように、救われた者の生き方というのがあるんだと勧めているのです。信仰というのは、神を信頼し、神を愛するということです。この神への愛というのは、自分を過去に留まらせることは決してありません。キリストに似たものとされたい、そういう願いが与えられるでしょうし、救われたものとしての生き方を生きるようにと、そう願うようになるのだと思います。
 福音宣教とか、伝道とかいうのは、聖書の言葉を人々に知らせればそれで良いのかと言いますと決してそんなことはありません。キリスト者とされた一人ひとりの生き様を通して、十字架のキリストが浮き上がらせられていく。指し示されていく、そのようなものではないでしょうか。

 そしてこの神に愛され、神を愛するキリスト者の歩みは、地上の歩みだけで終わるのではありません。「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト」が、再びわたしたちを、みそばに迎えるためにわたしたちのもとに来て下さるのです。わたしたちの生涯には、先立って、主の十字架と復活、昇天という救いの出来事があり、わたしたちの行く手には主キリストの再臨という、神の前に立つその恵みの約束があるのです。わたしたちの地上の歩みは、前と後ろから、神の恵みにしっかりと支えられ、守られているのです。ですから、わたしたちは安心して歩んでいくことができるのです。

■祈りましょう
父なる神よ。
あなたはわたしたち罪人の救いのために、御子イエス・キリストを世にお与えになり、十字架と復活、また昇天によって、わたしたちの救いの御業を成し遂げて下さいました。主の昇天日にあたり、わたしたちはあなたが、ここにあるわたしたちをもあの日の主と同じように、天に挙げ、あなたの御前に立たせてくださることを深く感謝いたします。どうかあなたに愛されたわたしたちが、あなたを愛し、愛されたものとしての生涯を、歩むことができますように。わたしたちの救い主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン


「ラザロ」ヨハネ11章

2008-10-06 12:59:29 | 主日礼拝説教
■主イエスが愛されたラザロ
ある病人がいたと今日の福音書の御言葉は書き出しています。ある病人がいた。マリアとマルタは、その病人であるラザロを助けて頂きたいと、主イエスを呼びに、使いを送るわけです。
そして、3節でマリアとマルタは、主イエスのもとへ使いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言います。マリアとマルタは兄弟ラザロが病んでいるということを主イエスに告げるわけです。

ラザロがどういう人物なのか、このヨハネ福音書の11章は、はっきりと記していません。しかし3節で、福音書の御言葉は、ラザロとは「あなたの愛しておられる者」つまり主イエスの愛しておられる存在なんだということを告げています。それは続く5節においては、よりハッキリと、「11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と、主イエスがラザロを愛しておられた。ラザロだけでなく、マリア、マルタを愛しておられたとハッキリと示されているのです。マリアとマルタは、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言います。
しかし、私たちが思っている以上に、主イエスはラザロのことを愛しておられた。私たちが思っている以上に、主の愛はわたしたちに向けられていた。それは、いま病の床で、主イエスに助けを求めることも出来ない、また、やがて墓の中に葬られて、もう自分の力では主よと呼ぶことさえできない、そういうラザロ、主キリストの前にもはや何事もなすことができない、そういう者にさえ、主の愛は向けられていたのです。そういう愛が、このラザロの物語にしめされている神の愛なのです。
ラザロとはどういう人物であったのか、聖書は詳しく記していません。しかし聖書がはっきりと示していることがあります。ラザロとは誰か? それは主に愛されたものであるということです。ラザロとは、主イエスに愛された者である。聖書があえてそれ以上に述べていないのにはわけがあります。それは、あなたも主に愛されたものであるということを伝えたいからなのです。今日開かれているヨハネによる福音書の11章には、昔生きたある一人の人物ラザロの出来事ということにとどまりませんで、今、確かに主に愛されているあなたと主イエスとの出来事としてのラザロの復活の出来事がしるされているということを覚えておきたいのです。


■主イエスの愛とは
今日、わたしたちはラザロの死とよみがえりの出来事を、聖書の御言葉から聞いています。そこで御言葉は、先ほどから申し上げていますように、ラザロとは主イエスが愛しておられた、そういう存在だということを伝えていました。主イエスがラザロを愛された愛、ヨハネによる福音書が語る主イエスの愛、更には神の愛とは一体どのような愛なのでしようか。
ヨハネは、神の愛ということを非常に特別な意味を込めて語っています。ヨハネによる福音書3章16節には、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである」と語られています。
ヨハネが語る神の愛とは何か、それは、罪人の死を望まれない、罪人の滅びる事を望まれず、ご自分の独り子を、つまり主イエスを十字架の上に死へと引き渡される。罪人の私たちが、自ら侵した罪と過ちの結果、その厳しい裁きを負って滅びるしかない、そういう中にあったときに、私たち一人ひとりの滅びることを神はお望みにならず、私たちの滅びることではなく、わたしたちの救われることをお望みになって、私たちの負うべき十字架を身代わりにご自身の御子イエス・キリストに負わせられたのです。ご自分の愛する御子を十字架に差し出してまでも、あなたを救いたいと願われ、あなたのいのちが滅びては、失われてはならないと、善人ではない、罪人のわたしたちを愛して下さった。そういう愛です。
 このヨハネ福音書の語る愛と言うのは、罪人に向けられた愛です。受ける相応しさが何も無い、そういう者に向けられた、神様からの一方的な恵みによる愛です。
 ヨハネの語る神の愛というのは、キリストの十字架に示された愛です。この十字架に示された愛というのは、罪の赦し、更には復活とも緊密に結び付けられた神の愛です。神の愛というのは、わたしたちをいのちへと結びつける愛、十字架の上に示された主イエスの愛は、わたしたちを永遠のいのちへと呼び出す、そういう愛であるということができるわけです。

どうしてラザロの復活の出来事を語るときに、福音書記者のヨハネは「主の愛しておられた者」とあえて語ったのか、それは、主の愛こそがわたしたちをいのちへと結びつける。主の愛こそがわたしたちを復活へと結びつけるものであるということを伝えたいからに違いありません。
神の愛というのは、わたしたち罪人のために、独り子を与え、御子イエス・キリストを十字架につけ、そこから復活へとわたしたちを結び付けていくのです。ラザロの出来事を通して御言葉がわたしたちに語りかけている神の愛と言うのは、死んだ者を生かそうとする神の愛です。死んだ者をいのちへと呼び出す愛、それが主イエス・キリストにおいて示された神の愛なのです。

■主イエスがラザロを愛された愛が、十字架と復活に結び付けられる

さて7節からの御言葉をご覧ください。
「11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」」すこし飛ばしまして、11節から。「11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」」
 
 ここで、主イエスは、ラザロを起こすためにユダヤに行こうと仰せになります。このラザロを起こしにユダヤに行くというのは、ある意味を含んでいます。8節で弟子たちが、「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言っていますように、主イエスがユダヤに行かれるということは、そこで石打ちにされるかもしれない。殺されるかもしれない。ラザロを生かすために、自らのいのちを犠牲にしなければならない。そういった意味を含んでいるわけです。主イエスはラザロを愛された。そしてユダヤへと来られるのです。それはラザロを起こすため、死んだ者をいのちに呼び出すために、ユダヤへと来られるのです。しかし、死んだ者をいのちへと呼び出すためには、そこに主イエスの犠牲が、十字架があるということでもあったわけです。

主イエスは、愛するものをよみがえらせるために、自らいのちを危険にさらすことも良しとされたのです。7節の「もう一度ユダヤに行こう」というのは、この先に起こる主イエスの受難、十字架ということを、はっきりと指し示しています。主イエスは、ご自分のいのちを差し出して、死んだ者をいのちへと呼び出してくださる。それが、愛する者のために命がけでなしてくださった、主イエスの業なのです。


■来る方
17節をご覧ください。「11:17 さてイエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」ここに「さてイエスが行って御覧になると」とありますけれど、これは「さてイエスが来てご覧になると」と言うほうが本来の意味に近いようです。主イエスが来られるということがここで語られているわけです。
「さて、イエスが来てご覧になると」というそういう書き出しであるわけです。主イエスは、わたしたちが苦しむとき、わたしたちのもとに来て下さる方であるということを御言葉は語っているのです。主イエスはどこまでも来られる方であって、わたしたちのもとを過ぎ去って、どこかに行ってしまう方ではないのです。主イエスは、苦しみ、涙を流す者の側を、通り過ぎる方ではないのです。そういう者のもとに来てくださるお方なのです。来て、わたしたちのもとに留まってくださるお方なのです。
 
一方19節を見ますと、多くのユダヤ人たちも来たということが記されています。11章19節です。「11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」とあります。
多くのユダヤ人たちが、死んでしまったラザロのことでマリアやマルタを慰めようと、訪ねて来てくれていたわけです。しかし、どんなに沢山の人が来てくれても、本当の慰め、死の悲しみの涙を拭うことは、そう簡単なことではないのです。人間は、愛するものを失ったときに、傍らにある人々がいてくれることでどんなに励まされ、勇気付けられるかわかりません。しかし、多くのユダヤ人たちがマリアやマルタのもとを訪れましたけれど、そこにマリアとマルタの本当の慰め、死の力からの解放というのは見出すことができなかったのです。

マリアやマルタの慰めというのは、どこにあるのでしょうか。だれが来て、愛する家族との別れに、苦しみ、止まることのない涙を、拭ってくれるというのでしょうか。どこに死の力をも超えさせる慰めがあるのでしょうか。それは、主キリストが来られるという事に他なりませんでした。主キリストが来られる。主キリストが来て、死んだラザロ、墓に葬られたラザロをいのちに呼び出してくださる。主キリストがこられる、悲しんでいるもの、涙を流すものの傍らに主キリストが来られる。ここに慰めがあるのです。
主キリストが来て、死んだラザロを、主が愛される者をいきかえらせてくださる。新しいいのちに呼び出してくださるのです。

ユダヤ人の多くの人々が、来ていました。しかし誰一人、本当の慰めを与えることはできませんでした。主キリストが来られる。ここに私たちは一つの確かで誰も決して私たちの手から奪うことの出来ない希望を与えられているのです。キリストが来られる。死んだ者のもとに、もう自分の力では主よと助けを呼び求めることも、なにも手立てが無い、そういう者のもとに主が来られるのです。わたしたちのもとに来られるキリストは、マリアとマルタを愛し、ラザロを愛してくださる主なのです。私たちはこの主の愛によって、氏からいのちに招かれ、死んだ者がいのちへと呼び出されていくのです。わたしたちのいのちは、神の愛によって、しかも独り子のいのちをも差し出すという神の愛によってしっかりと、神の国に結び付けられていくのです。

■命を与える主イエス
さて、先ほどの続きですけれど、25節以下にこのようにありました。
「11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」
ラザロの出来事の中でもおそらく最も有名な御言葉です。主イエスは、わたしが復活であり、いのちであると言われるのです。イエス・キリストが復活であり、命であるということが、イエス・キリストが主であるということの実体なのです。つまり、イエス・キリストとはどなたか? イエス・キリストとはいのちを与える方であるということなのです。イエス・キリストとは死んだ者を復活させる方であるということなのです。主イエスのおられるところに、復活といのちがある。なぜなら、主イエスがまさに復活でありいのちそのものであるからなのです。

■結
主イエスは、来られるのです。何のために来られるのでしょうか。それは、死んだ者を生かすため、わたしたちを永遠のいのちに生かすために来てくださるのです。誰のもとに来られるのでしょうか。主が愛しておられる者のもとに、主があいしておられる、あの人、この人、ほかならないあなたのもとに、復活でありいのちである、主イエスが来てくださるのです。
今日の聖書の箇所を読んで、もうお気づきでしょうか。ここにはラザロの言葉は出てこないのです。ラザロは何も語らないのです。それどころか、ラザロは墓の中に眠り、もう4日もたっている。それがラザロなのです。4日もたっているというのは、ユダヤでは、もう復活の希望がまったくないということ、生き返る望みがまったくないということ、完全に死んだということを現すわけです。ラザロは何も語らない。ラザロは完全に死んだ。もはや何事もなすことができない。ただ主イエスの愛に委ねるほかない者の姿を聖書は語っているのです。それでも、主イエスは、そういうラザロをお見捨てにはならなかったのです。ラザロを愛する主イエスは、墓に葬られてもう4日も経っている、そういうラザロのもとに来てくださり、ラザロを墓からいのちへと呼び出してくださるのです。
復活というのは、神の愛の業なのです。復活というのは、こちら側からの行為ではなくて、向こう側から、つまり神様の側からなされる神様の愛の業なのです。しかし、そこには、確かにしっかりと、復活の主キリストの手が差し出され、確かに私たちを死からいのちへと呼び出してくださる主が立っておられるのです。

■祈りましょう
すべてのいのちの源である神よ。
あなたは、ラザロを愛し、その愛によってはかに眠るラザロを、いのちへと呼び出してくださいました。どうか神よ、わたしたちの傍らに来て、わたしたちを死から命へと呼び出だしくださるあなたに信頼することを得させてください。
わたしたちの救い主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン


説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34

2007-11-18 18:53:22 | 主日礼拝説教
説教「あなたのために祈った」旧・ホセア6:1-3/新・ルカ22:31-34/讃312

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

■わたしの試みの日
今朝、少し早く起きまして、西公園の殉教碑というのを見て参りました。1624年の広瀬河畔の殉教については、少し存じていたのですが、今回改めて知ることができました。
殉教者たちは、キリストを否めば助かるわけですが、寒い冬の日に、川の中に連れて行かれ、水責めによって殉教していったと記されていました。今日の福音書の御言葉で言いますと、厳しい試みにふるわれてもなお、神への信頼に生きたわけです。

今朝私たちに与えられた福音書の御言葉を見てまいりますと、サタンが神にペトロを試みることを願い出て、許しを得た。 そしてペトロは試みられ、ついにペトロは、三度キリストを知らないと告げたわけです。
今日に生きる私たちは、殉教や、最後の晩餐の夜のペトロのような試練に直面することはないかもしれませんが、やはり私たちにも、皆それぞれに人には言えないような試みや、苦しみ、痛みがあって、麦がふるいの上でふるわれるように、自らの力ではもうどうすることも出来ないような無力さの中でふるわれる。そのような事が時として起こるわけです。
そういたしますと、ここにありますペトロの出来事は、ほかならない私自身の、身につまされる出来事となって参ります。

この朝、私たちに与えられた主の御言葉に共に聞きたいと思います。
ルカによる福音書22章の31節。新約聖書154頁です。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。」

御言葉は、サタンがペトロを試みることを神に願い、それが聞き入れられたというのです。そこで私たちは疑問を抱くわけです。
聖書の神は、愛の神である。わたしたちを愛して、いつも共に居てくださる神であるはずなのに、どうして試みからお守り下さらなかったのか?! 助けて下さらなかったのかと思ったりするわけです。ここにいる私たち自身の試みの日に、苦しみ、悩みの日に、神はどうして私を、このような試みに、あわせられるのだろうかと問うのです。なぜこのような苦しみを背負って生きていかなければならないのかと問うわけです。けれども、今日の聖書の箇所にもその答えは書いてありません。よくわからないのです。

■ヨブの試み
旧約聖書を読んで参りますと、詩編の一つ前に「ヨブ記」という書物があります。そこにヨブという人物が出て参ります。ペトロとよく似た体験をするわけです。ヨブは正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきた。沢山のものに恵まれ、国一番の富豪であったと記されています。ところが、サタンはこのヨブを試みることを神に願い出るのです。神はサタンにヨブを試みることを、お許しになりました。

ヨブ記を見ますと1章8節に、神はヨブを「私のしもべヨブ」と呼んでおられるのです。神が「わたしのしもべヨブ」と呼んで下さる存在でありました。同じように、ここにいる私たちも、洗礼によって確かに、天の父の「子」とされた存在であります。

ところが、そういうヨブ、ペトロ、ほかならない私たち一人一人が試みにあう。神様を信じて生きているのに、どうしてこうも試みがあるだろうか、神はどこに行ってしまわれたのだろうかと思うのです。
私たちは、試みの中で、また長い間その試みが続くほどに、もがき苦しみます。けれども、ヨブはやはり「神のしもべ」に変わりない。ペトロはキリストの弟子であることに変わりなく、私たちもまた、それでも神の子であることに変わりありません。
試みの中にあってもただ一つ確かなこと。それは、神がサタンの手に、ペトロやヨブ、またここにいる私たちを、決して渡されたのではないということです。神は、試みをお許しになられたのではありますが、その愛する者を、決してその手から離されたのでも、見捨てられたのでもないということです。試みの只中にあっても、わたしたちの存在は神の手の中にある。神の許しの中にある。
ですから、たとえ試みの中にあったとしても、むなしく痛めつけられるのではない。ヨブはその試みを通して、神に守られ、なお神への信頼を篤くしました。ヨブにとっては、すべてから打ち捨てられたかのような日々でありましたけれども、それによって、ヨブが神の僕であることが再確認されたのであります。
ペトロも同じです。キリストを裏切り、外に出て激しく泣きます。しかし、自らの罪の姿に気づき、キリストの愛の眼差しに触れて悔い改め、またペトロも神の僕、まことの宣教者として立ち上がって行くのです。

今朝は、この福音書に記されていますペトロについて、特に取り上げてみたいと思うのです。

■救われるべきは自分だった
ミラノの司教をされていましたマルティーニという方の本に、「宣教者を育てるキリスト」というものがあります。その中で今日の福音書の箇所に出てきますペトロの姿についてこのように言われています。
マルティーニは、ここに出てくるペトロの問題というのは、「兄弟たちを力づけてやりなさい」という自分の役割にばかり注目して、「あなたのために祈った」というキリストの言葉を聞こうとしなかったことだと書いています。

主イエスはペトロに、あなたがたは試みられるが、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と、仰るわけです。ところが、その主イエスに対してペトロは「主よ。御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言います。何とも勇ましい言葉です。言い換えますならば、「イエス様、わたくしはあなたがどこに行くにも、あなたと共にいます。たとえ牢にも一緒に参ります。あなたの身に危害が及ぶようなことがあれば、私が全力でお守りいたします。心配しないで下さい。恐れないで下さい。」このような内容のことであります。ペトロは熱心だったのです。真心からこういう態度をとったのでしょう。ところが、ペトロの間違いというのは、ペトロのほうが主イエスをお助けしようとしていたという所にあります。ペトロが主イエスを助けようと、救おうと思い、自分の方こそキリストに助けられ、救われなければならないことを忘れていたのです。
つまり、ペトロは主イエスをお助けしたかったのですが、救われなければならなかったのは、他ならないペトロ自身であることに気づいていなかったのでした。
自分に頼ることには沢山の魅力があります。自分の実力も達成感も感じます。自分で自分の人生を支えているという満足感もあります。
この日までのペトロは、自分で主に従えると思っていた。自分の力量をみて、主イエスに従っていけると思っていた。ですから、私はたとえ死んでもあなたに従っていきますというようなことを言うわけです。自分の力量をみて、自分の努力で、熱心さで信仰が建て上げられると思い込んでいた。
ところがそこが大きな間違いだったわけです。
このペトロの勇ましい告白、ペトロの自己依存は、ものの見事に崩れ落ちるのです。ペトロはこの告白の僅か数時間後には、キリストを知らないと三度主イエスを否むのです。
キリストを信じ、従うというのは、自分の忠誠の問題ではありません。ペトロの人生、キリスト者、更には主に召しだされた者の歩みというのは、自分の力ではなく、主イエスのとりなしによってこそ立ち続けることが出来るものなのです。
その意味で、ペトロは自分の務め、自分の役割や力ばかりを見て、主イエスの「あなたのために祈った」という御言葉を聞こうとしていなかったと言えますでしょう。

■どん底の恵み
34節の御言葉にお眼をお留め下さい。
「イエスは言われた。『ペトロ。言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」
ペトロは、たとえ死んでもあなたに従っていきますと言った直後、三度主を知らないと否むわけです。ペトロも、まさか自分がここまで落ちるとは思っていなかった。言ってみるならば、人生のどん底を体験したわけです。これ以上に落ちるところはない所まで突き落とされたわけです。ヨブの場合とは違う人生のどん底を体験したのです。
しかし、そのどん底で、まさしく主イエスが言われたように、麦がふるいの上でふるわれるにまかせ、もはや自分の力では立つことも起きることもできない、命の抜けきったようなどん底の中で、ペトロは気づいたのです。
もはや、この自分は、神の前で、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるほか、何も出来ないことを知るわけです。それが宣教者ペトロ、神に召し出されたペトロの新しい土台となったのです。

イエスのために死ぬことさえいとわないと言ったペトロでしたが、実は主イエスの方こそ、ペトロのために死んで下さった。信頼し、身を任せるべきは、ほかならないこの私自身なのです。

クリスチャンとは、何の試みも痛みもないそういう安穏な人生をいく人々のことではありません。たとえ、そういう試みや問題の中にあっても、今日のペトロのように、主イエスの祈りに支えられ、たとえ倒れても、失敗しても、再び立ち上がっていく。私たちはそういう歩みを歩むことが出来る。
今日の福音書の御言葉をみますと、信仰者がふるわれる、そしてことによると主イエスを裏切るほどに失敗することがあることがよくわかります。しかし、失敗したとしても、話しはそれで終わらないのです。キリストのとりなしの祈りによってそこから立ち上がり、「立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、主がそういうペトロに、私たちに新しい務めを委ねてくださるのです。言うなれば、主イエスは、失敗者の前に、将来を描き出して下さったのです。
キリスト者に求められているのは、決して失敗しないことではなくて、たとえ失敗したとしても、試みの中にあったとしても、再びそこから立ち上がっていく、そのことであります。そしてそのための一切を、主イエスがなして下さったのです。

■十字架のキリストによって
「あなたのために祈った」そう仰せになる主イエスは、ゲッセマネへと向かい、そして十字架へと向かって行かれました。主イエスのとりなし、その究極は、まさにあの十字架にあります。自らの罪のために、神のもとを離れ、ただ滅びに向かうしかなかった私たちの為に、天の父は御子イエス・キリストを世に遣わし、キリストは自ら十字架を負って、わたしたちの罪の身代わりとなられました。
私たちは、私たちの悲惨の姿を自分の中に見て、自分は何と惨めな存在なのだと悲嘆に暮れます。自らの惨めさを自分の中に見て絶望しそうになるのです。
しかし、あの十字架の上に、そこに苦しむ主イエスの御顔を仰ぐとき、そこにこそ私たちの苦難、絶望の姿がまざまざと示されているのであります。もはや私たちの身代わりに主イエスがそれらすべてを負って死なれた、そして復活された!!
私たちを絶望から解き放ったのは、神の愛、しかも独り子をたもう程に愛したもう天の父の熱情以外の何ものでもないのです。
主イエスの十字架!! 主イエスのこの苦しみの只中にこそ、この私たちが復活の朝へと向かう希望が示されていることを知るのです。
ドイツのある牧師が自らの愛するものを壮絶な仕方で亡くしました。そのしばらく後にラジオでこのような説教をしました。「すべての試みに潜む危険は、わたしたちが諦めてしまうことです。苦難と悲しみの中にあっても、神が将来への道を開いて下さる。過去の自分しか見ることのできない私たちを、将来へと向かわせて下さるのです。」
まさに、私たちの救いのための一切を、主イエスは成して下さいました。ですから、私たちは、無力さの只中でも、人生のどん底でも、ただこの主イエスに信頼し、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるのです。たった一人だと思っていた私たち、誰も私のことなどわかってくれないと思っていた私たちのそばに、主キリストが立っておられるのです。

■それでも召された私たち
主イエスは、自分を裏切る、失敗をする、そういうペトロの弱さをご存知の上で、なおペトロを召し、主の弟子とされたのです。ここにいる私たち一人一人も同じです。神はそれでもなお、そういうあなたを、私たち一人一人を、お召しになったのです。まさに、神の一方的な恵みによって選ばれたということであります。
わたしたちは、弱く、貧しく、情けない、嵐がくるとたちどころに揺れて進まない舟のような存在です。けれども、そういう自分も神の子とされた。もはや、キリスト者の生は、神の御手の中にしっかりと握られているのです。神は決してその手をお放しにならないのです。

■教会に生きる私たち
この朝、私たちは教会に集い、主の日の礼拝を共に捧げております。教会は、この主イエスの祈りによって再び立ち上がった者たちの集いです。わたしたちは一人で空しく生きているのではありません。主イエスは教会へと私たちを迎えて下さったのです。もし私たちが神への讃美を歌えない悲しみの時にも、教会は神への讃美を歌い、祈れないその日にも、教会は神の民のために、あなたのために、祈りを捧げ続けているのです。わたしたちは、そういう共同体の中に生かされる恵みを頂いているのです。何と心強いことでしょうか。

あなたのために祈った。わたしたちの歩みは、このキリストの祈りに支えられ、再び立ち上がる希望を頂いた歩みなのです。
主は皆さんと共におられます。主が下さる平安のうちに、この所から立ち上がって行きましょう。

説教「ザアカイ」ルカ19:1-10

2007-09-10 08:27:56 | 主日礼拝説教
■説教「ザアカイ」 ルカによる福音書19章1節-10節

聖書 ルカによる福音書19章1節-10節
「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』
イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」【日本聖書協会・新共同訳聖書】

                                                      

「ザアカイ」わたしたちに強烈な印象をもって迫ってくる一人の人物です。今日開かれている福音書、ルカ19章の1節以下には、このザアカイの記事が四つの福音書の中でただ一箇所だけ記されています。

わたしたちの人生には様々な出会いがあり、皆それぞれにその出会いの中で今日まで生きてきたと言えるでしょう。その出会いというのは、通りすがりや、顔見知りということとは違います。

ザアカイはその日、イエスがザアカイの町に訪れるという噂を聞きつけるのです。ザアカイは興味本位でしょうか、それとも今の自分のあり方を変えて頂きたかったのでしょうか、いずれにしましてもこのイエスに会いたいと、出て行くわけです。
しかしあまりの人の多さに、背の低いザアカイは主イエスのお姿を見ることができません。思いついたザアカイはイチヂク桑の木に駆け登ります。道の向こうから、群集がこちらに向かってきます。その真ん中に、あの主イエスのお姿が見えたのです。
ザアカイの胸は高鳴ります。イエスを見るというザアカイの願いは叶えられたわけです。ところが、主イエスは、ザアカイの登っている木の真下に来ると、ザアカイを見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)
ザアカイは驚きます。「あなたの家に泊まりたい」と、主イエスの御声を聞いたのです。ザアカイは急いで降りてきて、主イエスを家に迎えます。
しかし、その出来事を見ていた人々はつぶやきます。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)

ここに、主イエスを見た人々の、二つのあり方が見えてきます。
ザアカイは、主イエスを見て自分は罪人だと気づいた。それで「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)と、言うわけです。ところが、それとは正反対に、多くの群集は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)つまり、罪人の家に入っていく男、あのイエスも所詮罪人だと言うわけです。
イエスを見て、ほかならないこの自分自身が罪人だったのだと気づいたザアカイ、同じようにイエスを見て、あいつも罪人だと思った群集。ここには何と大きな差があるでしょうか。

主イエスに出会うというのは、自分の内側からまるごと変えられていく、そのような出会いです。ザアカイの生涯はまるごと変えられたのです。しかし、横目でイエスを見ていた多くの人々は何も変わらないのです。

主イエスはザアカイに仰せになります。「今日、救いがこの家を訪れた。」(9節)
当時ザアカイのしていた仕事「徴税人」というのは、いまの日本の税務署であるとか税金の仕事とは全く違う意味をもっていました。ローマの属国とされたイスラエルの国で、人々から税金を取り立ててその税金をローマ帝国に納める。ユダヤの人々からは、自分たちの民族を裏切る者として、律法に背く罪人として嫌われていました。ローマに税金をおさめるというのは、自分たちの神以外の神に仕えるという偶像礼拝とも等しい罪だと考えていたからなのです。そういう背景がありますので、ザアカイは人々から徹底的に疎外され、嫌われていたわけです。
そういうザアカイの所に、主イエスが来られた。「今日救いがこの家を訪れた」と聖書は語るわけです。

このエリコの町を通られた主イエスは、どこへ向かって旅をしておられたのでしょうか。それはまさに十字架であります。主イエスの旅は十字架へと向かっているのです。
ザアカイ、それはあの人この人のことではなくて、ほかならない私のことです。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とは、木の上に登って、ちょっとイエスの姿を見てみようと思っていた私たち一人一人に語りかけられた言葉にほかなりません。
主イエスは「今日救いがこの家を訪れた。」との御言葉につづいて、このように言われました。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節)
主イエスは、失われたもの、そうですザアカイを捜すために、捜して救い出すために、ザアカイの所に来られたのです。

ザアカイが悔い改めたから、主イエスが来られ、救いを下さったというのではありません。主イエスが来られたからこそ、ザアカイは自分の本当の姿、罪に気づくことが出来、悔い改めることができたのです。私たちの行為が救いをもたらせるのではありません。ザアカイが人々に施しを与えると言ったから救われたのではないのです。主イエスが私たちのところに来てくださった!そこに救いがあるのです。

私たちの重荷、罪、それらを身代わりに自ら背負い、十字架に死なれる主イエスが、ザアカイを招いておられる。私たちを招いておられるのです。ザアカイは一人ぼっちでした。ザアカイは、社会の片隅で疎外されて生きてきた一人だったのです。しかし、そういうザアカイの所に主イエスがこられた。ザアカイはもう一人ではないのです。主イエスと共に歩む者とされたのです。
ザアカイの生き様は、まるごと変えられました。主イエスとの出会いが、ザアカイにいのちを与えたのです。

出会いというのは、わたしたちの生き様を変えます。ザアカイの町をたずねられた主イエスは、今日も私たちのもとをたずねて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)

主日礼拝説教「主の祈り」マタイ6:9-13

2007-08-05 16:30:24 | 主日礼拝説教
■主日礼拝説教「主の祈り」マタイ6:9-13 列上8:54-61 讃562/67/536/310/514 交6

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。6:12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 祈りとは何でしょうか。今朝開かれている福音書の御言葉は、主イエスが「主の祈り」を教えて下さった、そういう箇所です。教会はこの祈りをとても大切にしてきました。ある人は、この主の祈りこそ福音の要約である。ここにこそ、キリスト教の福音の根本があると言いました。

私たちの度々聞いてきた御言葉、長い間祈り続けてきた主の祈り。しかし御言葉は汲んで尽きるような貧しいものではありません。いま改めて、主が教えて下さった祈りに、主の声に、耳を傾けたいと思うのです。

キリスト者の歩みは祈りと切り離すことができません。この朝開かれている「主の祈り」は、主イエスが、弟子達に教えて下さった祈りです。この祈りを深く心に思いますと、キリスト教の祈りというものが、どういうものであるかということが見えてきます。私たちは祈りが大切だとよく判っております。しかし振り返って自らをみると、以外と要求ばかりで神様に願いを聞いてもらおうと、そのことばかりに一生懸命になっていたりするのです。一生懸命祈って、神様の心を動かして自分の願いを叶えてもらおうとしたりします。
ある日、キリストはこのような譬え話をされました。

ある女性が自分のために正しい裁判をしてほしいと、ひっきりなしにやってきて裁判官に申し立てるわけです。すると裁判官はうるさくてかなわないから裁判をしてやることにした。という譬え話です。

こういうのを聞くと私たちは、この女性が一生懸命願ったから、悪い裁判官も願いを聞き届けた。私たちも一生懸命祈り続ければ、神様はいつかお祈りを聞いてくださるということを言っているのだろうと思います。
しかしキリストがこの後に言われた事が大切なのです。「まして天の父は・・・放っておかれるだろうか。」神様は悪い裁判官ではありません。私たちが煩わしいから祈りを聞いて下さるのではありません。願う前から私たちの必要をご存知で、私たちのことを一時も忘れず心にかけて下さる神様です。主イエスは、今日の御言葉の少し前で、異邦人のようにくどくどと祈るなと言われました。祈らなくてよいと言われたのではありません。神に信頼して祈りなさいと言われたのです。なぜなら、神は、悪い裁判官ではなく、また地上の父とも違う、いつくしみ深い天の父であるからだというのです。

今日、キリストは、「天の父よ」と祈るように教えて下さいました。
聖書は、人間は神に創造されたものだといいます。しかしその人間が罪を犯して父なる神のもとを離れていく。私たちはとうてい天の父よなどと祈ることが出来ない罪人なのです。しかしキリストは世に来て、十字架の上に死なれ、もはや神を父と呼べない罪人に、ひとたび父のもとへと帰る道を下さったのです。このキリストによって私たちは「アバ、父よ」と呼ぶ恵みに招かれているのです。私たちが神を天の父と決めたのではありません。神が、私たちを天の父の子として下さったのです。

私たちは、聖書を読んでいますと、キリストの祈っておられる姿に出会います。 多くの人は、願い事を神様にお願いすることが祈りであると思ったりします。しかし、キリストの祈りの姿をたどっていきますと、私たちの考えているお祈りとは違う、別の祈りの姿が見えるのです。それは、神様の方へとグルッと自分の全存在を向けていく、そういうキリストの姿です。
願い事をすることも確かに祈りの一つの側面ではあります。けれど、それがすべてではありません。祈りは、自分の願い事が叶うことに心を向けることではなくて、自分の全存在を丸ごと神様の前に置いてみる、自分の捕われていたすべてのことから、神様の方へと向きなおしてみる。そういうことです。

私たちが神様の方に向いて生きているかどうかということが重要なのです。そうでないと、人間は自分で生きているのだと思い違いをしてしまうのです。そればかりか、この忙しさの極みのような社会にあって、どれだけ沢山の人が生きる目的を失っているかわかりません。何に向かって歩めばいいか分からなくなっているのです。そういう時に、神様の前に自らをグルッと丸ごと向ける。そして、この神様に向かって生きていく、そういう姿を、キリストの祈りの姿に見るのです。

そうする時に、ただ私たちの要求、ほしいもの、叶えてほしいことを並べるだけの願い事ではなくて、もっと大きな恵みがあることに気づくのです。私たちの事をなにより心にかけて下さる、父なる神様の存在に気づく、この自分は、神様の恵みに生かされている子供なんだと気づくのです。この天の父に信頼する祈りこそ、主の祈りです。「天にまします我らの父よ」そう祈ることで、私たちの想像するよりもはるかに、どこまでもいつくしみ深く、わたしたちを限りなく愛して下さる天の父に、全幅の信頼をする。
そのとき初めて、わたしたちのいのちに力が溢れてきます。

もし願い事がキリスト教の祈りであったなら、こんなに祈っているのに、自分の祈りは叶わないから神様などいるものかとなるわけです。しかし、願い事に心を注ぐのではなくて、わたしたちの事を一時も忘れず配慮し、養い、育ててくださる父なる神様に心を向けるとき、この神様に信頼するとき、わたしたちは願い事が叶う以上に大きな平安、父なる神様の子供とさせて頂いた計り知れない恵みに気づくのです。この父の愛に生かされていることに気づくのです。
そのとき、わたしたちは目の前の黒雲がわかれて、青空が広がっていくような、晴れ晴れとした気持ちで歩むことができます。
イエス・キリストの地上での歩みは、決して楽しく陽気な日々ではありませんでした。私たちも、キリストが歩まれた同じ地上を、天に向かって歩んでいるのです。その天へと向かう地上の旅路で、皆それぞれに、人には分からない痛みや悲しみ、そういうものを抱えて歩んでいます。キリストの弟子になったらすぐに何の苦労もなくなったというのではありません。
キリストの生涯と十字架の向こう側にしか復活はなかったように、わたしたちに与えられた生涯を生きるようにと神が招いておられるのです。主イエスは、キリストに従って生きようとする弟子達に、主の祈りを教えられました。この主の祈りを祈りつつ歩む、そういう生涯こそ、キリスト者の生涯なのです。

福音書にもう一度目をとめましょう。主の祈りは、御国が来ますように。御心が行なわれますようにと祈りを導きます。わたしたちはこのように祈っていますと、早く御国が来て何の痛みも苦難もない平安の中に移されたらどんない素晴らしいだろうと思います。この世で色々と思い煩って生きるよりも、神様の所に行ったほうがいい。早く天国に行きたい。死んだら楽になると思ったりします。ところが、聖書は、神の国はもうあなたがたの只中に来ているのだといいます。驚きます。神の国はもう私たちの只中に来ている。どういうことだろうか?と思います。それならどうして、こうも不安があり、痛みがあり、悩みも、心配事も、山のようにあるのだろうか。
ところが、神の国が来たというのは、わたしたちのそういう問題が全く取り去られることではないようです。
神の国に生きるということは、主イエスの地上での歩みがそうであったように、悩みや痛みの中でも、神が共にいて、そういう自分を支えていて下さることを信じて生きる事なのです。天国に行くこと。それは素晴らしいお恵みです。しかしそれだけでなくて、この世の苦しみから抜け出すことによって平安が与えられるのではなくて、この世の只中で、神の大きな恵みに支えられて歩む。そういうことを聖書は語っているのです。そしてその地上の歩みの先に、主イエスのご再臨によってもたらされる、天地の新たなる日、神の国の完成を待ち望んでいるのです。
天にまします我らの父よ。そう祈るとき、私たちは父に向かって祈り、天を目指して旅を続けているものであることに気づきます。行くべき、帰るべき天があることを信じているのです。

「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、終わりの日のことはもちろんのこと、今ここに生きるこの私が、神の国の恵みに生きる事ができるように、主の御心を信じて生きる事ができるようにという祈りなのです。

私たちは、この父に向き合うことによってはじめて、地上に与えられたいのちを神に委ね、精一杯生かしていく事ができるのです。

天の父よと祈る私たちはもはや一人ではありません。キリストによってアバ父よと呼ばせてくださる聖霊が共におられ、誰よりも私たちを心にかけて下さる天の父と、向き合っているのです。
そればかりではありません。「われらの父よ」と祈ったように、この地上の旅路は、「わたし」だけでなく「われら」の旅です。主の教会の交わり、兄弟姉妹の祈りの中に支えられて歩むことが出来るのです。

主イエスは、天の父に向かって祈ることを弟子達に教えて下さいました。そしてそれだけでなく、父よと呼ぶことが出来るように、聖霊を注いでくださったのです。自分でしようとする歩みから、父に委ねて歩む歩みへと、わたしたちの方向を向けるとき、私たちは自分に与えられた生を、精一杯生かすことができるのです。
自分のいのちは、神から来ていることを知るとき、それをどう生かすべきかわかってくるのです。神に向かって、どう生きたら良いのかを知るのです。

主の祈りは、どこの教会においても最も大切にされている祈りです。こうして今日、福音書の御言葉から、主の祈りを聞いています。しかし、その深さ、恵みの大きさは、とても汲みつくすことができません。それでも私たちは父よと呼ぶ、そうさせてくださる聖霊に促されて、キリストによって、天の父に向かって祈るのです。この祈りを通して、私たちはキリストと出会い、天の父と出会うのです。

祈りとは、父に向かって生きるように招かれたキリストの愛に応えて、天の父にこの自分を丸ごと向けていくことだと申し上げました。しかし最後に、私たちは決して忘れてはいけません。私たちが天を向く、天の父に向かって歩みだすずっと前に、天の父がこの私のほうに向かって手を伸ばして下さった。独り子を世に遣わして、何の値打ちもない罪人の、この私のほうに、丸ごと向いて下さった。御子イエス・キリストのいのちをかけてまで、わたしたちの方を向いてくださった神がおられるということです。
何と大きな父なる神の愛でしょうか。

私たちは、この計り知れない愛の神、天の父に全く信頼して祈ります。
「天にまします我らの父よ」
そう祈りつつ、天の御国、父なる神へと向かって歩む歩み、そういう祈りの歩みを続けていきたいのです。

祈りましょう。

天におられる、わたしたちの父よ
御名があがめられますように。
御国がきますように。
あなたは、御子キリストを世に遣わし、罪人にすぎないこの私たちを救い、計り知れない恵みによって、あなたを父と呼ぶことをゆるして下さいました。
聖霊の助けによって、神の子とされた喜びのうちに、あなたの御国へと向かうこの地上での旅路を導いて下さい。
私たちの救い主、御子イエス・キリストによってお祈り致します。
アーメン


「嵐の中の主の御声」主日礼拝説教

2007-06-24 19:23:45 | 主日礼拝説教
主日礼拝説教2007.6.24. 「嵐の中の主の御声」
詩編29篇. マタイ8章23-27. 讃美歌557/66/312/519/494/545a. 交読文9.

8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。8:25 弟子たちは近寄って起こし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
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今日の福音書の箇所は、古くから教会の絵画や、ステンドグラスなどの題材として取り上げられてきました。それは、教会にとっても、それらの作者自身にとっても、この嵐の海での出来事が、ただの人事ではなかった。この私の人生そのものであると痛いほどに感じていたからに他なりませんでしょう。船に乗っているのは自分だったと気づいた。
この御言葉が、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきたのです。

このマタイ福音書が記されたのは起源80年頃と言われています。聖霊降臨の恵みに力づけられた教会は大胆に力強く福音を宣べ伝えていきました。しかし、ユダヤ教徒たちからは、十字架のキリストを信じる可笑しな集団だと思われ、会堂や社会から追い出されてしまいます。
少し時代が過ぎると、ローマの皇帝、ネロの時代に迫害が始まります。キリスト者は猛獣の餌にされたり、松明の替わりに焼かれたりしたのです。ペトロやパウロ、多くの殉教者が出ました。教会で共に礼拝を捧げていた親しい兄弟姉妹が、次々と殉教していく。
まさに、マタイの福音書を聞いた教会は、嵐の只中にいるのです。この御言葉を聞いた一人一人にとって、あの船に乗っているのはあの人この人の話ではなかったのです。この私なんだと気づいた。 荒れ狂う海で、怖くなって叫んだのは、ほかの誰でもない。この私なんだと気づいた。そうすると、もはやこの御言葉は人事ではなくなるのです。身につまされる御言葉となるわけです。
迫害だけが私たちの嵐なのではありません。ここに集う私たちそれぞれに、人にはわからない嵐の時があり、声ならない声でしか主を呼べない嵐の夜があるわけです。キリストを信じて教会に行って、祈っているのにどうしてこんな苦しみに会うんだろうか。主は眠っておられる。私のことなど忘れてしまわれたのではないだろうかと思う時があるわけです。

今日の御言葉を見ますと、主の弟子達は、キリストを信じて、いままでいた陸を離れて、主の船に乗ったのです。自分の泥舟で行くのではありません。キリストと共に、キリストの備えられた船に乗ったのです。私たちが洗礼を受けて、教会という船に乗ったのと同じようにです。それなのに、気がつくと空は分厚い雲に覆われ、激しい嵐になっている。
どうして、キリストを信じて歩んでいるのに、こんな困難が押し寄せてくるのだろうかと思うわけです。

旧約聖書の出エジプト記というのを見ますと、エジプトの奴隷になっていた主の民が、モーセに導かれて、捕われていたエジプトを脱出し、乳と蜜の流れる約束の地へと向かう旅路が記されています。
イスラエルの民は、捕われていたエジプトの地から、神を信じて、約束の地に向かって歩き出したのです。それは、陸を離れて船に乗った弟子達と同じです。神の国を目指して歩む私たちの信仰生活と同じなのです。エジプト。つまり、この世の束縛から、捕われの身から解かれて、旅立ったのです。ところが、一歩エジプトを出ますと、そこに広がっていのは約束のカナンの地ではないのです。楽園とは程遠い、広大な荒野がどこまでも広がっていたわけです。

しばらく行きますと、紅海に突き当たり、行く先が閉ざされたかと思えるのです。すると後ろからエジプトのパロの軍隊が主の民をエジプトに連れ戻そうと迫ってきます。イスラエルの民は絶体絶命の危機を迎えます。しかし、主なる神は、紅海を二つに割って、その中に乾いた道を備え、イスラエルの民を向こう岸へと渡らせてくださったのです。主の民が渡り終えると、紅海はたちまち閉じて、エジプトの軍隊は海に沈められてしまいます。イスラエルの民は、大きな奇跡を見て、神様は何と素晴らしいことをして下さったと、讃美を歌うわけです。ところが、ふとあたりを見渡しますと、奇跡によって渡った先、つまり紅海の向こう側は、やっぱり荒野だった。人々は、モーセに、なんでこんな所に連れてくるんだ。私たちを荒野で飢え死にさせる気か。エジプトのほうがよほどマシだった。肉が食べたい。スイカが食べたい。ニラが食べたい。モーセに愚痴を言うわけです。

今日の福音書の箇所も同じです。キリストに従って岸を離れ、船に乗ったのです。弟子達は主の召し出しに答えたわけです。船になんて乗らないで、陸に残っていればこんな嵐になど遭わなくてすんだのです。しかし、キリスト者は、あえて主イエスに従って船出をしたのです。

聖書は、私たちに神の国へと向かって歩むように招きます。向こう岸へ渡るように招いているのです。主イエスに従って歩みだすようにと招いているのです。しかし、どうしてエジプトから出なければならなかったのでしょうか。岸を離れて船に乗るのでしょうか。

聖書は私たち人間は、罪のために滅びの中にいるのだと言います。エジプトに捕われていた人々のように、この世に捕われたものであるというのです。放蕩息子のように、父の家を離れ、自らの好きな道へと歩む。迷子の一匹の羊のように、この世という一見居心地の良い場所、しかし、気がつくと真っ暗闇の中にいるわけです。父なる神は、何としてもこのまま愛する一人が、ほかならないあなた、わたし、というその愛される一人が失われてはならない。命がけでその滅びの中から救い出そうと、ご自身の独り子を世に遣わされたのです。その御言葉を聞いた私たちは、救い主なるイエス・キリストに従って船出をしたのです。父の家に向かって歩き出したのです。主の教会という船は、神の国を目指して旅を続けるわけです。この船に乗って正解だったのです。エジプトを出て良かった訳です。しかし、ここで私たちは一つのことを問われています。お前はエジプトに仕えているのか、それとも神に仕えているのかということ。つまり、嵐のないこの世という陸を信頼しているのか、それとも船を備え、導きたもう神を信頼しているのかということです。
荒野で見えない神の手にすがるよりも、現実に見える食べ物、人間の住める土地、経済力、そういうのにすがったほうがよほど安心だと思い違いをしている。主の御手にすがるよりも、いま楽ができるほうが余程いいと思ってしまう。嵐なんてまっぴら御免。こちらの岸で、楽しく美味しいものを食べて普通に暮らせれば、もうそれで十分だと思ってしまう。
船に乗らなかった陸にいる人々は、そういう苦しみにあわなくてよい、しかしキリスト者はあえてそうではなく船出をしたのです。
主イエスが共におられるのに嵐がきたのです。神様を信じたからもう大丈夫だと思っていたのに、船が沈みそうになるのです。
弟子達は必死で叫びます。「主よ助けて下さい。溺れそうです。」救って下さい。「私たちは滅びそうです。」という言葉です。口語訳聖書では「死にそうです」と訳されていました。「死にそうです」とは、もうすべての手段を失ったものの叫びなのです。
私たちはそれぞれに、「人間の力ではどうすることもできない力」というのをこの船の上で経験したのです。人間の無力さを嫌と言うほど知らしめられたのです。
主イエスは、すみやかに助け出して下さいました。

しかし主はその後で、「信仰の薄い者たち」と仰る。私たちは責められていると思うわけです。「主よ助けて下さい」とそう叫んではいけなかったのだろうかと思うわけです。
けれども、主イエスは、弟子達が「主よ」と叫んだことをたしなめておられるのではありません。「私がいるんだから、自分たちでなんとかしなさい。」そうは仰らないのです。信仰のやせ我慢をする必要はないのです。「悩みの日にわたしを呼べ」と、そう聖書は言うのです。主を呼んで良かったのです。ただ、主イエスは、「信仰の薄い者だ」と言われたのです。信仰が無いと言われたのではありません。小さい信仰だといわれたのです。もっと私に信頼して良いのだ、そういう招きであります。

私たちはもっと大きな信仰をもたなければいけない。そういうふうに思ってしまうのです。しかし、主イエスは「もっと大きな信仰を持つことができたら、あなたを救い出してあげるか考えてみよう」立派な信者になったら救ってやろうなどとは仰らないのです。

あなたの存在が何より尊い。良い羊飼いである主イエスは、いなくなった一匹の羊が、非常に信心深かったから救い出しに行ってやろうと思われたのでも、放蕩息子が放蕩しつつも、実は大変信仰篤かったから、父が走りよって迎えて下さったのでもありません。あなたが失われてはならないんだ。父なる神の前に、あなたの存在は何よりも尊いのです。私たちを滅びの中から救い出し、神の国へと招かれた主イエスは、旅路の嵐からも必ずや救い出して下さる神様であります。

神は、その独り子を給うほどに世を愛された。パウロは、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(ロマ8:32)と言います。

この神に信頼して良いのです。キリストがいのちをかけて弟子達を、また、ここにいる私たちを守られるのです。「主よ」そう呼んでいいのです。信頼をこめて、そう呼べば良いのです。

私たちは奇跡を信じるのではありません。ご利益を信じているのではないのです。私たちのために命をも差し出して、嵐の海から救い出して下さる神の愛に信頼する。神を信じるのです。主イエスは今も生きて、驚くべき御業をなし、主の民を導かれます。いまも嵐を鎮め、癒しを与え、奇跡をなしたもう神を教会は本気で信じているわけです。しかし、奇跡がわたしたちの神になっては断じてならないのです。
私たちの歩みは奇跡に委ねる歩みではありません。私たちの歩みは、いのちをも差し出すほどに私たちを愛して下さった、キリストの愛に委ねる歩みなのです。見えざる神の御手。それこそが、見える如何なるものにもまして、いかに力強い御手であるか、御言葉は語っているのです。

奇跡の後で言います。「この方はいったい誰だろう。」・・・この問いは、福音書を読んでいる私たちに向けられた問いにほかなりません。福音書の中には何度も、「あなたは私を誰だと言うのか」そういう問いかけが語られています。
聖書のあの船に乗っていた人たちは、何て言っただろうかではないのです。「この方は一体誰だろう。」こういう問いが私たちの中に生まれる。いやそう問われている。そして、それに私たちはどう答えるかがこの物語の続きなのです。