ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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主日礼拝説教「時にかなって美しい」マタイ6:25-34

2007-02-18 14:37:43 | 主日礼拝説教
旧約聖書/コヘレト3:1-15. 新約聖書/マタイ6:25-34 讃美歌7.242.177.291.544.

今朝開かれています福音書の御言葉は、山上の垂訓とか、山上の説教と言われる主イエスの御言葉です。聖書を読んでいますときに、あの日、主イエスが人々に語られたのは、どのような所だったのだろうかと調べてみました。
美しい写真集を見つけました。山上の説教が語られた、その所の写真が並んでおりました。緑の草が広がる山には、大きなオリーブの樹。太陽の光に輝き、風に揺れる、青いルピナスや、濃い紫のアネモネ、桃色のタチアオイが沢山自生し、一面を美しく飾っています。空にはペリカンの群れも飛んでおりました。
きっと、あの日、主イエス様を一目見ようと、御言葉を聴こうと、集ってきた人たちも、そのような中で主の御声を聞いたのだろうなぁと、思いは膨らみます。そこにもし、この私がいることができたら。イエス様のお話しが聞けたらなんと幸せだろうと思ったのです。ところが気づきました。今日の御言葉は、あの日だけではない。今日ここにいるほかならない私に、主イエス様が語って下さっている。
今朝、私たちは、あの日と同じように、語られる主のみ声に聞きたいと思うのです。
■マタイによる福音書6章25節。
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

空の鳥をよくみなさい。・・・ある人は、このようなことを言っています。「神は福音を、聖書の中だけでなく、木にも、花にも、雲にも、星にも記しておられる。」   空の鳥、野の花は、神様のご配慮、神様のはからいに、ただまかせて生きている。その姿がまさにキリストの福音を示していると言うのです。自分で自分の人生の意味を得ようとするのではない、神の恵みによって生かされている。そういう神の養い、ご配慮を、空の鳥や野の花の姿を通して見なさいと主イエスは仰っているのです。

しかしいつからか、多くの人が、人間は自分で生まれてきたと思ったり、自分で生きていると思うようになった。「いのちが与えられた」ということがよくわからなくなってしまった。子供達も簡単に自らの命を絶ってしまう。多くの人が、できるならもう生きることをやめたいと、そういう思いをかかえながら生きているのです。しかし御言葉は、野の花も、空の鳥も、創造主なる神にそのいのちが与えられているのだと語ります。
主イエスは、あなたはどうして思い煩うのかと語りかけておられます。人は、衣服や日毎の食物だけでない、「あなた自身の存在」それをこそ、神から「賜物」としていただいているんだと言うのです。あなたのいのち、まさにそれが、神の賜物なんだと、あなたの命は尊いんだ、そう主イエスの御言葉はわたしたちの生を肯定してくださる。「生きよ!!」そう言って下さるのです。空の鳥がそのままの姿で、まさに主の証人であるように、何よりもあなたの存在それ自体が、神の御業なのだというのです。

しかし、わたしたちのいのちが神の賜物と判ればなおのこと、どうして私には煩いがあるのか、どうして私はこんなに苦しまなければならないのか、そう問いたくなります。
今日の旧約聖書、コヘレトの言葉には、このようにありました。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められたときがある。
生まれるとき、死ぬとき、植えるとき、植えたものを抜くとき、殺すとき、癒すとき、破壊するとき、建てるとき、泣くとき、笑うとき、嘆くとき、踊るとき、石を放つとき、石を集めるとき、抱擁のとき、抱擁を遠ざけるとき、求めるとき、失うとき、保つとき、放つとき、裂くとき、縫うとき、黙するとき、語るとき、愛するとき、憎むとき、戦いのとき、平和のとき。」
必ずしも私たちの目に良いことばかりではありません。私たちの日々の歩みにおこる順境、逆境をよく現しております。しかし御言葉は、何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められたときがあると言います。

この水曜日、教会は灰の水曜日を迎えます。この灰の水曜日から始まる復活祭までの歩みを受難節と申します。灰になって悔い改め、そして主の受難と死とを覚えつつ歩む、そういう期間です。この受難節の歩みにあって、是非主のご生涯を辿って福音書を読まれたらよろしいかと思います。この主イエスの十字架にいたる歩みを、辿っていくとき、その主イエスのご生涯は、到底思い悩まなくて良い、順風万番で陽気な生涯ではなかったことに、改めてお気づきになると思います。思い煩うなと語られる主の生涯は、悩みも恐れも、困難も何もない、そういう歩みではありませんでした。私たちはやはりこの地上の現実の生活の中に生かされているのです。

今日開かれています旧約聖書は、長く「伝道の書」と呼ばれて参りました。特にこの3章11節の御言葉は、以前の聖書では「時にかなって美しい」と訳されておりました。多くの方に愛唱された聖句でもありました。ところが新共同訳ではこの御言葉が「神はすべてを時宜にかなうようにつくり、」と訳されて参りました。この御言葉はどこへ行ったのだろうと思うようでありますけれど、言い換えていることにお気づきになると思います。時にかなって美しい。それは、神がすべてを時宜にかなうようにつくられた。すべてが神の手にある。だからこそ、すべてが、時にかなっている。時に叶って美しいんだというのです。
順境と逆境の繰り返しのような日々の中にあって、もう私には希望も将来もないと、絶望に浸ったり、人生を否定したりするのではありません。コヘレトの生き方、それは悲観主義でも、現実否定でもありません。人生を、日々備えられるうちに十全に生きよというのです。神を怖れて生きよと告げるのです。
たとえ私たちの生涯に、思い煩いがあったとしても、それでも神が人の一生を支えておられる。 笑うとき、泣くとき、楽しみのとき、嘆きのとき、わたしたちは到底理解できないとしても、あなたの生涯のすべての時に、確かな神の意思を見るのです。ですから、人間には理解できない、どうしてと思えるような出来事の中で、人は、神の前に頭を垂れるのです。

受難節の歩みにおいて、わたしたちが覚える主イエスのご生涯は、決して十字架の絶望に終着するのではありません。受難節の歩みは、十字架の向こう側にある、復活の朝に向かっているのです。この復活の望みに生かされる歩みが、まさにキリスト者の歩みであります。

語られた主の御言葉に、もう一度聞きたいと思います。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

神の国と神の義、それは私たちには、ほど遠いものであります。しかし今朝、主の御言葉は私たちに「神の国と神の義を求めよ」と語りかけられています。そしてそれが与えられると言うのです。私たちの人生で私たちを思い煩わせていた日常一つ一つの事柄が一気に霞んでしまうほどの強烈な御言葉です。

何を着ようか、何を飲もうか、そういう思い煩いは、わたしたちが自分自身の内側にばかり目をやってしまうときに見える姿です。
神を見ることが出来ない私たちは自分のことにばかり眼をやる。そうすると、自分は不足だらけだと思う。またその生涯を何とか自分で意味あらしめようと、自分で自分を飾るのです。しかし、あなたを創造し、あなたを愛して独り子をも給う神は、今日の必要だけではない、あなたの存在が神の国から失われてはならない。罪を犯して到底神の義から離れていった存在。それでもあなたが失われてはならない。
御子イエス・キリストを十字架にかけ、私たちすべての罪と死、思い煩い、悲しみ、痛みを荷って死なれた。あなたを義とし、神の国を給う神は、どうして、あなたの必要、あなたの日常の必要をあなたから遠ざけられるでしょうか。
野の花も、空の鳥も神のご配慮にまったく委ねて生きています。野の花、空の鳥を養ってくださる天の父は、他ならない、ここにおられる皆さんお一人一人を、配慮し、養い、何より独り子キリストの命をもってしても罪の中から救い出し、神の国の望みに生かして下さる神なのです。

この同じ6章のはじめの部分に、主が教えて下さった祈り、主の祈りが記されています。そのすぐ前にこうあります。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」「だからこう祈りなさい。」
あなたがたに必要なものを、願う前からご存知である。だからこう祈りなさいとは一見矛盾しているかのようです。
しかし、ここにわたしたちの祈りの中心があります。与えてくださる方がおられる。求めるとき、その求めはむなしく地に落ちない、わたしたちの必要を誰よりもご存知で、誰よりも私たちを配慮したもう天の父がおられる。あなたを創造し、生きよと言って下さる神です。だから、わたしたちは求めることができるし、祈ることができるのです。

けれども神が、求める先から必要をご存知で、良いものを惜しまず与えてくださる神であるならば、わざわざ祈ったり、求めたりしなくてもよいではないかと思います。しかし主は「こう祈りなさい」「求めなさい」と仰せになります。

私たちはともすると、神に向かっているようで、実は求めるものや、必要とするその事柄にばかり眼が行っていることがあります。しかしそうではなくて、求めるものを与えてくださる天の父に、必要を与えてくださる天の父に眼を向けること、それが祈りであります。信仰は、自分に必要なものを数えあげて神様にお願いすることでは有りません。私たちに必要なすべてをその御手にもちたもう神にすべてを委ねることなのです。
求める、祈るということは、自分の要求を満たすために努力することではなくて、神に祈ることです。ですから、私たちの祈りが、何か良いものを獲得するのではありません。私たちのために、良いものを、日ごとの必要を、何より、神の国を給う神が、私たちに祈ることを求めておられる。言い換えるなら、あなたとの交わりを、対話を求めておられる。

神は、私たちが求めなくても、良いものを下さる神です。それは、野の花、空の鳥がただ神のご配慮にまったくまかせて生きているように、その通りです。その父なる神が、みなさんは「それ以上のものではないか」と言われる。神との生きた交わりの中に、あなたが生かされている。「祈らないでも与えられる」となるところを、天の父は「こう祈りなさい」「求めなさい」と、招いておられるのです。
私たちの必要をご存知で、必ず満たしてくださる天の父に目を上げるとき、わたしたちは祈ることが出来るのです。
日々の生活には、思い煩いや、悩みがあります。しかし、それでも私たちの必要をご存知で、誰よりも心にかけて下さる父に委ねた歩み。そのとき、わたしたちの歩みは思い煩いにつぶされることのない歩みが与えられるのです。
今日主イエスは、ガリラヤの山で人々に語られたあの日と同じように、ここに集うあなたに親しく語りかけられているのです。