ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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「時がある」伝3:1-15

2006-10-17 11:56:30 | 主日以外の説教
3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
3:9 人が労苦してみたところで何になろう。
3:10 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
3:11 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
3:12 わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と
3:13 人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。
3:14 わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
3:15 今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。

■祈りましょう
父、子、聖霊なる一つなる神。あなたの計り知れないいつくしみの御手に守られて、歩むこの日を感謝致します。いま聖霊の光によって御言葉を照らし、私たちのこころに主が親しくあなたの御言葉を示して下さいますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによってお捧げ致します。アーメン


伝道の書は、何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時があると言います。わたしたちが生きるということは、避けることのできない現実の出来事に向かうことであり、あまりにも雑然とした人生、日々の出来事の中で、何とか折り合いをつけて生きいていく事であるかのようにも思います。
 
わたしたちは人生とは何か考えるとき、それは何か意味のある模様が織り上げられた、絨毯や壁掛けのように、一本一本の糸の位置や理由はよくわからなくても、全体をみれば何か意味のあるも模様があることを見て取ろうとしたり致します。
しかしコヘレトは私たちの人生に、そんなものは見えるだろうかというのです。もちろん神の意図はある。しかし、それが何であるか、私たちは知らない。

11節。「神はすべてを事宜にかなうようにつくり、また永遠を思う心を人に与えられる」しかし「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」ある人は「神はまた人間の心に無知を植えつけられた」とも「人間の心に謎を置かれた」とも訳しています。

コヘレトは何もわからない、確信の持てない所に確信を持ったふりをしたりしないのです。あなたの人生にどういう究極的な目的があるかどうは言えない。神のみが知る。
コヘレトは労働の積極的評価ということを致しません。かといって苦しみ多い労働を、罪の結果、神の罰とも見ておりません。人間には労苦がある。しかしそれでもなお、人間には、人生には「魅力」がある。11節。「神はすべてを時宜にかなうようにつくり・・・。」そこに起こる出来事が、神の予定の中にしっかりと支えられている。出来事の一つ一つ、その背後に神のよる原因がある。順境と逆境の繰り返しのような日々の中にあって、どうせそんな世の中だからと、もう私には希望も将来もないと、絶望に浸るのでも、人生を否定するのでもないのです。コヘレトの生き方、それは悲観主義でも、現実否定でもない。
だからこそ、なすべきことは1つなのだ。いや1つある。すなはち、生きるということ。人生を、日々備えられるうちに十全に生きよというのです。そこに働く神の御手、神のご配慮に目を上げて生きると告げているのです。

神が、人の一生を支えておられる。神は笑うとき、泣くとき、楽しみのとき、嘆きのとき、御言葉は、私たちの創造し得ない、理解なしえないところに、確かな神の意思を見るのです。人間の理解できない謎の中で、神の前に頭を垂れるのです。
「主を畏れることは知識のはじまりである。」コヘレトの伝統の中に、このようなものがあります。神がそうなされたのだ、人間が神の前に畏れるように。

コヘレトは示しています。人間が自分の将来の決定者ではないということを。コヘレトは神だけが、決定するお方であることをはっきりと示しているのです。
人の歩みをささえておられるのは神ご自身である。コヘレトにとって人間は、人生の創造者というよりは、むしろその受取人なのです。たとえ人間が、身の回りにおこる目まぐるしく変動する様々な出来事の中で、一つ一つの出来事を理解できないとしても、永遠の神は、私たちの人生に主体的に関わって下さる。

3章15節。このようにあります。「追いやられたものを、神は尋ね求められる。」
私たちが探し求め、尋ね求めても理解しえない事柄の一つ一つ、しかし神は、確かにそれらを尋ね求め把握することの出来るお方である。
コヘレトにとって確かなことは、すべてが不確かだということ、しかし、変えることの出来ない私たちの現実は、人間を悲観的人生観に縛り付けるのではなくて、神の永遠を暗示し、人を謙虚にし、神を畏れる態度へと導くのです。どんな出来事も神の御手の中で場所を持っているのです。だから、神を畏れて生きよ。御言葉は私たちを招いているのです。


■祈りましょう。
主なる神。あなたは天と地、その中にあるすべてのものを造り治めておられます。あなたの深いご配慮の中に生かされてありつつも、わたしたちはあまりに現実の出来事の中で孤独を感じたり、あなたのご支配を忘れて嘆くことさえあります。しかし神よ。あなたの御手は確かに私たちの歩みを力強く導いておられることを覚えさせて下さい。
私たちの主、イエス・キリストによってお捧げ致します。アーメン

(2006.10.17.東京神学大学大学院祈祷会説教)

キリスト教講座④【『教会の信仰』とは】

2006-10-01 20:21:43 | キリスト教講座
■教会の信仰 
 最後に、先に挙げていました「~私の信仰?教会の信仰?~」についてですけれども、こういうことを見ていきますと、信仰というのは個人的なものというよりも、信仰共同体である教会の重要性というものが見えてきます。古くから礼拝式文の中で「わたしたちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ・・・」という祈りが捧げられることが定められ用いられてきました。また現在もカトリック教会のミサ式文にはそれが受け継がれております。
わたしたちの信仰は皆それぞれに小さなものであったり、また自分が弱り果てたとき、信仰を失ってしまったと見えるような事すらあります。自分の信仰はもうないから、これで終わりだ。などとなりかねません。しかし聖書は「教会の信仰」ということを言います。私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみて下さい。と、祈るのが私たちの祈りです。自分たちの信仰は教会の信仰の中に支えられ、守られているとも言えますでしょう。自分には信仰がなくなったと思えるときも教会の信仰の中に守られている。だから礼拝を捧げ続けるし、祈り続けるのです。
教会に結ばれたわたしたちの信仰ということを考えて頂ければよろしいかと思います。


■まとめ
教会に結ばれたわたしたちだから、何もしなくていい、大船に乗ったつもりで自由にしたいことをして、元気にやりましょう。と言うことではありません。教会に結ばれた信仰であるからこそ、一人一人は教会の枝であり、肢体であり、それぞれに委ねられた働きがあります。組み合わされ、建て上げられていくという教会の理解もあります。教会に結ばれた信仰であるからこそ、教会のために、牧師、聖職のために、そして同じキリストの体に結ばれている兄弟姉妹のためにお祈り頂きたいのです。

(日本基督教団聖ヶ丘教会・壮年会例会でのキリスト教講話 2006.10.1.sun)

キリスト教講座③【信仰生活と教会】

2006-10-01 20:20:09 | キリスト教講座
■信仰生活の致命線 ~教会~
キリスト者の生活において、どうして教会(教会生活)が重要なのでしょうか? 自分で自由にイエス様を信じていれば、それでもイエス様を信じているに違いないのだから、それでいいのではないでしょうか? いいえ。聖霊の働き、それはキリストのからだであり、聖霊の神殿である教会において実現されるのです。ですから、信じているけれど教会に行かないというようなことは正しい信仰としては何とも位置づけられない少しおかしなことになってしまいます。

ここまで信じ方の話をしてきました。キリスト教は自分でイメージを作り上げて信じるタイプの宗教ではないという話しです。日本の宗教はそうではありません。例えば村の祠の神様は、なんだかよくわからないけれどありがたい。檀家のお寺のご本尊は名前もご利益も知らないけれどありがたい。そのような信じ方ですから、信じてさえいればお寺に毎週行ってお線香をあげなくても、村の祠のお祭りは年に一回、それ以外は誰もお参りしなくても問題ないわけです。
少し余談ですが、このような日本独特の宗教観から、「無教会」と呼ばれる教会を持たないキリスト教が生まれてきたと言っても良いでしょう。この無教会というのは名前の通り教会を持たないキリスト教だと言っています。イエス様のお話しを聞いて、聖書を勉強して、それぞれ信じているのだからそれでいいというものです。
しかし、それではいけないわけで、キリスト教というのは、教会を通して存在するわけで、自分の信じ方で教会を建てたのではないのです。

重ねて申し上げますが、自分の作り上げたものではなくて、神が定めたものであるということが重要なのです。個人の才能や大衆の本能とか感激が教会を建設したのではありませんでした。誰にも、弟子達にすら教会を建てる力はなかったのです。誰もがそれを着手するに相応しくなかったのです。
上からのもの。つまり、教会はイエス・キリストの教会であり、他の誰にも、つまり教皇にも、牧師にも、民族にも、役員会にも、民族にも属していない。キリストのからだ以外の何ものでもない。神がイエス・キリストにおいて定めたものであるということが決定的に重要なのです。
ですから牧師であっても、信徒であっても、教会を自分のものとすることは出来ませんし、自分の意図のままに作り上げることも、組織することも出来ないのです。そもそも教会について「こういうもの」と人間の側から(下から)定義することは出来ません。

(日本基督教団聖ヶ丘教会・壮年会例会でのキリスト教講話 2006.10.1.sun)

キリスト教講座②【聖霊と教会】

2006-10-01 20:18:42 | キリスト教講座
■聖霊と教会~わたしの信仰?教会の信仰?~                     
信仰告白というものは、文章を見ると判るように、父なる神について、御子キリストについて、聖霊についてと、大きく3つの項目に分かれます。その聖霊の項目の最後に教会ということが告白されています。しかし、どうして聖霊の項目に教会が含まれているのでしょうか?

○ 聖霊と教会の関係?? 
イエス・キリストが昇天された後、ペンテコステに聖霊が注がれました。使徒言行録2章では、「一同が一つになって祈っていると・・・一同は聖霊に満たされ・・・。」(2:1-4)とあります。
聖霊は、キリストを信じる者が一つに集って祈っていたときに注がれました。個人に注がれたのですけれども、それは共同体的な聖霊の注ぎであって、信者が単独でいるときに、あちこちで勝手に起こったのではありませんでした。キリストを信じる者が一つに集って祈っていたとき、つまり、ペンテコステになされた聖霊の注ぎは「教会」を抜きにしては考えられないと言えます。教会と聖霊との関係は非常に重要な位置づけになります。


(日本基督教団聖ヶ丘教会・壮年会例会でのキリスト教講話 2006.10.1.sun)



キリスト教講座①【教会の信仰】

2006-10-01 20:16:56 | キリスト教講座
■はじめに
 キリスト教会にはいくつかの信条、信仰告白というものがあります。これは誰かが書いて、いつの間にか浸透して、広く使われるようになったものではありません。教会が公の会議などにおいて定めたものです。その最古のものの一つにニケア・コンスタンチノープル信条というものがあります。このようなものです。
  
■ニケア・コスタンチノープル信条(381年第一回コンスタンティノーポリス公会議)

我は信ず、唯一の神、全能の父、天と地、見ゆるもの、見えざるものすべての創り主を。
我は信ず、唯一の主、神の御一人子イエス・キリストを。主は、よろず世の先に、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。 つくられずして生まれ、父と一体なり。すべては主によりて創られたり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために天よりくだり、聖霊によりて、おとめマリアより御からだを受け、人となり給えり。ポンテオ・ピラトのもとにて、 我らのために十字架につけられ  苦しみを受け、葬られ給えり。聖書にありしごとく、三日目によみがえり、天に昇りて、父の右に座し給う。主は栄光のうちに再び来たり、生ける人と死せる人とを裁き給う。主の国は終わることなし。

我は信ず、主なる聖霊 生命の与え主を、聖霊は父と子よりいで、父と子と共に拝みあがめられ、また預言者によりて語り給えり。われは、一・聖・公・使徒継承の教会を信じ、 罪の赦しのためなる 唯一の洗礼を認め、 死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。アーメン。


ここで最後の聖霊の項目の中で、「教会を信じ・・・」とあるように、教会いうことに対する信仰告白が出てきます。教会はそれだけ重要なものとして理解されてきました。

 キリスト教会の信仰、キリスト者の信仰というものは多様なものですけれども、キリスト者は何を信じているかといいますと、「私はこう思う」「わたしはこの時こう感動した。」このような私の感動、私の経験に起因した信仰ではありません。
 
 教会の信仰というのは、教会の持つ信仰告白を正しく信じるということが出来るか出来ないかということで、私の思う所のキリストを信じるということは、民間信仰と変わらない、私のキリスト教、私の礼拝というものを作ってしまうわけです。キリスト教は私のキリスト教ではなくて、教会の信仰というものを継承してきたのです。洗礼式の時に、皆さんは誓約をなさいました。その誓約はこのようなものでした。「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか。」そこで皆さんは「はい。告白します。」と仰った訳です。私はこういう信仰の出会いがあった。この言葉に、この出来事に感動してキリストを信じることにした。というきっかけは尊いものですけれど、それによって出来上がった自分のイメージのキリストを信じているのではありません。信じていれば何でもいいというのではなくて、教会の信仰告白に言い表された信仰を告白し、そのキリストを信じるというのが教会の信仰です。この信仰告白で語られているのは、人に対して神が関与したもうことについてであって、その逆ではないのです。徹底的に人間主体ではないのです。

言い換えますと、私たちが、何を信じているのかという事が「信仰告白」に書いてあるのです。つまり、「わたしの信仰はこういう信仰です」という事が、この信仰告白の内容なのです。



(日本基督教団聖ヶ丘教会・壮年会例会でのキリスト教講話 2006.10.1.sun)