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「弟子の覚悟」ルカ8:57-62

2010-03-17 15:01:59 | 主日以外の説教
【聖書】ルカによる福音書8章57-62節

 イエス・キリストを信じて生きていく、洗礼を受けてキリスト者として生きていくというのは、それは言い換えるならば、キリストの弟子として生きていくということです。
 キリストの弟子というのは、何も牧師や聖職者のことだけを言っているわけではありません。イエス・キリストを信じて生きていくキリスト者は、それはキリストの弟子であり、神様がキリストのみ足跡に従うようにと召し出しておられる一人ひとりであることを、わたしたちは覚えたいと思います。神が召しだしておられ、キリストの弟子として呼び集めてくださっている。そこには、キリストの弟子として生き方というのも同時に問われているということではないでしょうか。

 今日わたしたちの聞いた福音書の箇所には、ルカによる福音書の9章57節以下ですけれども、主イエスに従っていこうとするもの、従うようにと呼びかけられている者が三人登場します。

 まず一人目の人は57節に出て参ります。
「9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」
 「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」と、そのように言うのです。何とも勇ましい言葉です。それを聞いて主イエスは「9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」そのように仰せになるわけです。

 二人目の人は59節に出て参ります。「9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。」そこで主イエスは「9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれる。

 三人目の人は「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。

 この三人はいずれもが、勇ましい決意をもって従おうとしている者、他のことが解決したら従おうという者、従い方こそ違いますけれど、誰もが主イエスに従っていこうとしているわけです。
 わたしたちの中にも、こうした色々な主イエスに従っていこうとする者の姿というのがあると思います。
 洗礼を志願してこられる方の中にも、これから一生懸命立派な信仰者となれるように頑張ります!励みます!という方もおられますし、ずっと礼拝にいらしている方に、こちらから洗礼をお受けになりませんかと訪ねますと、いろいろと事情を仰る方もおられます。
この三通りのあり方を通して主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。

 一番最初に出て参りました人は、「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」といいます。そこで主イエスは「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」と仰せになる。自分の決意や熱心さで従っていこうとする者に、神に従うというのは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」つまり、その生涯をまったく神様のご配慮に委ねて生きていくものなんだということを教えておられるのです。信仰というのは、自分の力や信仰心でやっていくことができるものではない。
 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と仰せになるわけですけれども、マタイ福音書の6章で主イエスはこのように仰せなりました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 今日の福音書の箇所で主イエスは、「キリストに従って行くというのは、生半可な決意ではいけない。枕するところがなくても辛抱できるくらい立派な決心がなければならないんだ」と、そういうことを言っておられるのではないのです。
 キリストに従っていくというのは、たとえ枕するところがなくても、空の鳥、野の花を美しく装い養って下さる神様、天の父なる神様に全く信頼して生きていく、そういうことなんだということを教えて下さっているのです。そのとき初めて、わたしたちはキリストに従う者として生きていくことが可能となるのではないでしようか。

 さて、二番目の人ですけれども、この二人目の人は59節に出て参ります。この人は最初に出てきた人とは違って、主イエスから「9:59 「わたしに従いなさい」と言われた」人物です。主イエスが従うようにと呼びかけ、招いておられるのです。
ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」」と、そのように言います。大切な父親が亡くなったのでしょうか。そこで主イエスは60節を見ますと、「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれるわけです。わたしたちは、こういう主イエスのお言葉を聞きますと、主イエスは、人の気持ちに同情してくださらないのか、何か冷たいのではないかと、そのように感じるかもしれません。しかし主イエスはそこで、そのような事を言おうとしておられるのではないでしょう。
 この人には、主イエスに従うよりも、何か理由をつけてでも今の自分の生活に留まっていたいという思いがあったのかもしれません。または、このこととあのことさえ片付けば、自分の抱えている大切な問題が片付けば、そうしたら主イエスに従って行けると思っていたのかもしれません。いずれにしても、自分の条件が整ったときに従っていくか行かないか自分が判断しようとする。そこで主イエスは「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」と仰せになる。心配しないで、キリストに従って行きなさいと招いておられるのです。

 最後に三人目の人ですけれども、61節で「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。この人も二番目の人と少し似ています。家族に別れを言いに行かせてくださいというのです。

 その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
 主イエスに従っていく信仰者は、家族を愛してはいけないとか、大事にしてはいけないということが言われているのではありません。主イエスに従っていくというのは、それほど大切なことも神様のいつくしみ深い御手に委ねて生きていくことができるんだということを福音書の御言葉は語っているのです。

 今日の箇所には、福音書の見出しに「弟子の覚悟」とありますので、余程の決意、決心がなければ従っていくことはできない、そういうことなんだと思うわけですけれども、しかしキリストの福音というのは、そういう自分の熱心さや情熱で従っていくようなものではないのではないでしょうか。やはり、キリストに、家族も、仕事も、枕するところつまり日ごとの生活も、何もかも全く委ねるということなくしては歩み得ないんだということではないでしょうか。言い換えれば、わたしたちは、その生涯を支え、豊かに与えてくださるキリストにすべてを任せて、従っていくことができるんだということなのです。
 
 主イエスに従っていこうとするわたしたちは、やはりキリストのご生涯に眼を注ぐ必要があるのではないでしょうか。主イエスがそのご生涯においてどのように歩まれたのか、それはすべてを天の父のいつくしみに委ねて祈りつつ歩んでいかれた、それはあのゲッセマネと十字架の出来事によって鮮明に描き出されています。ゲッセマネ、そして主の十字架、それは、「父よわたしの霊を御手に委ねます」との祈りに集約されるように、苦しみの極みにあっても、いのちの極限にあっても、ご自身をまったく天の父に委ねておられる。その主が、わたしたちに従ってくるようにと招いておられるのです。
 献身の生涯、そしてキリストに従っていくキリスト者の生涯というのは、他ならないキリストご自身が責任をもっていてくださる。必要を満たし、日ごとの糧を与えてくださる。このキリストの恵みに支えられることによってのみ、わたしたちはキリストに従うことができるのです。いや従って行かせていただける、そのことを深く感謝したいと思うのです。




詩編84編「あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう」

2010-03-04 16:30:23 | 主日以外の説教
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」(詩編八四編二節)

 詩編八四編全体は「あなたのいますところ」への憧れ、それを慕う思いに貫かれています。讃美歌の一九六番は、詩篇八四編を基にして一七一九年にアイザック・ウォッツが作った讃美歌です。一節に「うるわしきは神のみとの」とあり、その一節の結びの詩は「御神を慕いて燃え立つ」とあります。神の宮を慕う思いは「御神を慕いて燃え立つ」ことと緊密に結びついています。つまり神の宮を慕う信仰は、神ご自身を慕い求める信仰と一つのこととして受け止められています。

 これは、詩篇八四編でも同様のことが言われます。八四編二節「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。」との神の宮を慕う言葉によって始められた詩編は、一三節で「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。」と結ばれているのです。
 
 わたしたちは、信仰というものをとかく個人主義的に捉えやすい傾向があると思います。信仰というのは、自分が心の中で神様を信じていることが大切なのであって、自分と神様との関係のことであるというふうに考えやすいのです。勿論それも大切なことではありますが、キリスト教会の信仰というのは、わたしと神様と言う一対一の関係だけで完結するわけではありません。わたしという個人が、神様を礼拝する信仰の共同体である、神の民(教会)の一員となる。そして生涯、信仰共同体である教会に結ばれて礼拝の生活を送っていく、そこからわたしたちの信仰というのは養われ、そこで守られているということを覚える必要があると思います。
 
 もし信仰が、本当に自分と神様だけで成り立つとしたら、洗礼も教会も意味がなくなります。洗礼によって、信仰共同体、キリストのからだである教会に結ばれた一人とされることの意味がなくなってしまうわけです。洗礼は単なるお印でも、まじないのような効果をもたらす儀式でもありません。洗礼を受けるというのは、キリストのからだである教会に迎えられ、その一員とされ、礼拝共同体の中で、生涯神様を礼拝しながら生きていくということです。ですからキリスト教の信仰というのは、こうした神様を礼拝する信仰の共同体の中で生きる信仰であると言えます。
 
 詩編の信仰者は二節の「あなたのいますところ」を一一節では「わたしの神の家」と言い換えています。ただあなたのものとしての神の家、神の宮ということではなくて、それは、「わたしの神」のそれなんだということ。慕わしい神の家が、このわたしに関わることとして受け止められている、そのことは非常に大切なことです。
 
 主イエスはマルコによる福音書の一一章一七節で「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」そう仰せになりました。主イエスは、「わたしの家」とは、すべての国の人の家だと仰せになるのです。「すべての国の人」の家であるとは、そこには当然あなた自身の居場所が備えられているということです。そこにあなたの居るべき場所があるという事を主は言っておられるのです。
 
 この詩編八四編は、「宮詣の詩編」であるといわれます。そこでは神の宮に向かう人々の心が歌われています。
 詩編は神殿を見て深い喜びに満ちて語ります。三節では「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と言います。この当時の礼拝の状況というのを考えてみますと、巡礼者また礼拝者であるいわゆる信徒は、神殿の前庭までしか入ることができませんでした。けれども、この詩編の御言葉を聞くときに、わたしたちはこの詩篇の信仰者が、まるで神殿のもっとも奥深くに、神様ご自身とのリアルな出会いを体験しているかのように、その礼拝の経験を捉えているということに驚かされます。この詩篇の信仰者にとってどれほど神の宮、そして神殿での礼拝が自分自身にとっての、喜びに満ちた、また慰めに満ちた経験であったかを思わせるのではないでしょうか。
 
 五節にはこのようにあります。「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら。」神の家に結ばれた信仰者のあり方を、詩編は「いかに幸いなことでしょう」と言います。別の訳の聖書では「幸いです。あなたの家に住み、とこしえにあなたをほめたたえるものは」と訳されています。更には、この神の家を慕う信仰者の生き方というのは、五節後半に「まして、あなたを賛美することができるなら。」とあるように、神様を讃美して生きていくこと、そこに幸いを見出しているということが言えます。
 
 六節から八節にこのように記されています。「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」 
 この六節の「あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」という箇所は、原文のヒブル語をそのまま訳すと「あなたを力とし、その心が宮詣へと向かう者は」というふうになります。主なる神様を力とし、心に広い道を見る、それは神様の宮を慕い求めつつ、神様の前に立つことを喜びとした者の生き方です。現代に生きるわたしたちにとっても、主の日の礼拝というのは、こうした信仰のリアリティーが見出されるものではないでしょうか。
 主を力とし、神様の宮、主の御国を目指して旅を続けていく、それがわたしたち信仰者の旅路であり、その歩みであると思います。そしてその神の宮を慕う思いは、天のふるさと、帰るべき主の家を慕い求めつつ生きる信仰の歩みでもあります。例えば詩編二三編においてもそうですけれども、わたしたちはこの地上の生涯を神様の恵みに支えられて、礼拝を捧げつつ、生き、そして主の家に帰る。そうした信仰の姿が語られます。
 
 主の家を慕う思い、それは地上にある神殿、また教会を愛し慕う生き方であると同時に、その信仰は天上の神殿を愛し慕いつつ、神様ご自身の御前に立つという恵みの出来事に望みをおく生き方でもあります。
 
 詩編の信仰者は、年老いて神殿に詣でることができなくなったとしても、神の宮を愛し慕う想いと、神の民の一員であるという恵みの事実は不変の事柄であったでしょうし、その喜びの深さ、恵みの大きさに一層気付かされていったことでしょう。洗礼によって神の家族の一員とされたわたしたちも、主の教会を愛しつつ神の国を目指し共に歩みましょう。

説教「喜びに満ちあふれて生きる」

2010-01-28 10:55:56 | 主日礼拝説教
ペトロの手紙一.1章3節~9節、13~21節

1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


 今日開かれているペトロの手紙1章3節以下には次のように記されていました。
「3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」
 神は、豊かな憐れみによってあなたを新たに生まれさせて下さった。あなたの存在は、神の豊かな憐れみによって支えられ、守られている。神の憐れみによって新たにされた存在なんだということが語られているわけです。
 神の憐れみによるとは一体どういうことでしょうか。それは19節にある通り、「傷や汚れのない、小羊のようなキリストの尊い血によって贖われる」それが、神の憐れみによって新たにされるという事、神の憐れみの中に置かれているということです。

 わたしたちの生き方、神を知らずに生きている、そういう人間の姿というのは、自分で出来ること、自分の誉められること、人から賞賛され、尊いといわれること、人よりも優れたことであったり、これまでやってきた自分の業績や、働きについて、そこに自分の存在の価値を見出したり、生きることの意味を見出そうとするのではないでしょうか。
 そうした所に自分の価値や意味を見出すことによって、自分を救おうとしてはいないでしょうか。わたしにはこれだけのことができる。わたしはこれをもっている。わたしはこれだけのことをしてきた。または、わたしはこれだけの人に必要とされている、または必要とされてきた、そうしたことは勿論尊いことであるわけですけれども、しかし、人間はそういう所に自分のいのちの意味とか、価値とか、自分の救いを見出して生きていくことができるのでしょうか。

 わたしたちの生きている現代の社会というのは、何ができる、何をもっている、どれほど豊かである、そういう価値観によって作り上げられてきた社会、世界であるというふうに言うことが出来ると思います。しかし現代ほど、生きることの意味とか、価値、その尊さを見失った時代があったでしょうか。生きることの意味や尊さ、その素晴らしさや喜びを見失っている人が大勢おられるのではないでしょうか。自らのいのちを絶っていく人たちの数は、どれほどこうした問題が深刻であるかを現しているかのようにも感じられないわけではありません。

 「神の憐れみによって」というのは、それは人間の評価や価値観、採点にはよらないということです。人の目には、そこに価値や意味が見出せないと思われたとしても、それでも「神の憐れみによって」と言われるときには、そこにわたしたちの存在は受け止められ、わたしたちの無意味さが克服されていく、乗り越えられていくのです。
 この「神の憐れみによって」というのは「神の赦しの中で」という事でもあります。神の許しの中で、神の憐れみの中で、あなたという人間が見つめられている、この神の憐れみの眼差しによって見つめられた時、あなたの存在は誰がなんと言おうと、そしてあなたが自分をどう思おうと、こんな自分なんてと思おうと、何が生きていていい事があるんだと思ったとしても、神の憐れみの中で、あなたは価値ある存在とされている。人間というのは、神の憐れみの中、許しの中に置かれている。あなたの存在というのは、神様が哀れみの眼差しを注いで下さっているそういうものなんだ、つまりそれは、神様があなたを必要としておられるということ、それが、「神の憐れみによる」ということです。

 この神の憐れみの中で、ペトロの手紙の1章3節後半からを見ますと、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」られているんだというのです。すべてのいのちは、人間であれ、動物であれ、それらすべては、生まれ、生き、死んでいくものです。植物もそうでしょう。生まれ、生き、新でいく、この法則の中に、わたしたちは生きているわけです。
 生まれ、生き、死んでいく、そこから逃れることのできるいのちはありません。ところが、今日、神の御言葉は、わたしたちに語りかけているのです。「わたしたちは新たに生まれさせられる」「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」「わたしたちは新たに生まれさせられる」というのです。死者の中からの復活、死者の中からのイエス・キリストの復活というのは、それは、生まれ、生き、死んでいくあり方に否を唱えるものです。
 生まれ、生き、死んでいくものであった人間、またわたしたち自身の姿があるわけですけれど、しかしキリストは死者の中から復活させられているのです。
死者の只中に、わたしたちはいのちを見出すことは出来ません。墓の中に、わたしたちはいのちを見出すことは出来ません。そこにいのちを感じることが出来ない。しかし、その死者の中からキリストが復活させられた、もはやこのキリストの復活によって、生まれ、生き、死んでいく、そういう存在であったわたしたちの存在は、死の虚しさによって、恐れによって飲み込まれていくものではなくなったのです。

 わたしたちの生きることの先には、そのたどり着く先には死と言う怪物が大きな口を開けてわたしたちを飲み込もうと待ち受けているのではないということです。いのちを飲み干そうとする死の力が、イエス・キリストの十字架の死と復活によって克服されている、そこにいのちへと続いていく確かな希望と救いの道が与えられているのです。聖書は、「生き生きとした希望が」与えられているというのです。それは文字通り、いのちの希望、生きることの希望がそこに見出されているということです。

 あなたは、神の憐れみの眼差しによって見つめられる者とされ、また生き生きとした希望が与えられているそういう存在なんだと、御言葉は語りかけているのです。

 この3節の御言葉には「わたしたちを新たに生まれさせ」と、ありました。
けれど、このペトロの手紙は洗礼志願者たちの準備のために用いられてきたといわれています。「わたしたちを新たに生まれさせ」というのは、洗礼のことを言っているというふうに、古代の教会から理解してきたわけです。ですので、この1章3節以下の御言葉は、「洗礼によって新たに生まれさせられた者とは一体何者なのか?」、どういう存在なのか、そのことを語っているというふうにいう事ができます。

 1章3節以下の御言葉を、特にそのことを意識して聞きたいと思うのです。
洗礼によって新たに生まれさせられたあなたは、3節後半「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られて」いるんだというのです。
 それが洗礼の恵みに与ったものの姿、それは他ならない、あなた自身の姿なんだと、聖書は語っているのです。

 礼拝でお祈りを捧げるときに、わたしは「わたしたちの築くときも気付かないときも、神様の恵みの中にあったことを感謝します」というふうに祈ることが度々あります。わたしたちは、恵みに気付くことがあり、気付かないでいることもあります。わたしたちは自分自身の姿ということについても、気付いている自分の姿と同時に気付かない自分自身の姿というのがあるのではないでしょうか。自分のことは自分が一番わかっているというふうには、そう感嘆には言えないはずです。わたしの気付かない神の恵みがあり、神の恵みの中に置かれている自分自身の姿があるはずです。わたしたちの気付いていない、しかし喜ぶべき自分の姿というのがあります。わたしたちは、それをどのようにして知ることができるのでしょうか。それは、神の御言葉を聞くときに初めて知ることが出来るのです。
 自分は何者なのか、あなたは何者なのか、神の御言葉を聞くときに、わたしたちはそれを知るのです。自分とは何者なのか、あなたを何者だと聖書は語っているのか、それを聞くときに、わたしたちははじめて自分の姿を知ることが出来るのです。

 聖書は「あなたは神の憐れみによって生かされている者なんだ」といいます。死者の中からのキリストの復活によって、生き生きとした希望が与えられている。天に蓄えられている口図、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされているんだと、更には、救いを受けるために、神の力によって、信仰によって守られているんだというのです。
 いのちは、神の救いを受け、その喜びの中で生き生きと希望をもって生きていく、そういうものなんだ、それがほかならないあなたのいのちであると語られているのです。

 わたしたちは、神の御言葉を聞くときに、自らの姿を見出すのです。そこではじめて、自分の姿に気付かされ、自分の生きる意味と、その尊さとを知ることができるのです。

 6節以降には、それゆえあなたがたは心から喜んでいるというのです。3-5節に記され、語られている神の御言葉を聞くとき、その御言葉はまさしくアーメンとして受け止められるとき、6節からに語られているようにあなたは与えられたいのちを喜んで生きることが出来る。心から喜ぶことが出来ると言うのです。
 ここには、喜ぶことが出来ると記されていますけれども、同時に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」ないと、そのように語られています。神様がくださる喜びというのは、ハッピーな、いわゆる誰もが幸せだと思うような状況においてのみ見出される者ではありません。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」ない。しかしそこに喜びが見出される。

 けれども、わたしたちはそういう神様の御言葉を聞いても、「そうは言っても」とか「きれいごとと現実は違う」と、そんなふうに思ったりすることが多いのではないかと思います。しかし、神の恵みというのは、救いというのは、わたしがどう思うかというよりも、神が与えておられるという事実がそこにあることを感謝して受け止めるべきではないでしょうか。

 今日、神様の御言葉を通して語られていること、それは洗礼によって神様の救いに与ったあなた自身の姿が語られ、明らかにされているのです。あなたは誰だ、どういうものだと神の御言葉は語るのか、それは
・・・神様が豊かな憐れみによって、新たに生まれさせてくださり、キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられている。天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされ、終わりの時の救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている。だから、あなたは喜びが与えられるんだというのです。試練に悩まねばならないかもしれません、しかし、それでも、そこには喜びが与えられているんだと、いうこと・・・そのことに違いありません。

 神様の憐れみの中に、わたしたちが赦され、受け止められ、いのちを与えられ生かされているということ、更には、生き生きとした希望が与えられている。生き生きと、希望をもって生きていったらいい。なぜなら、神様が、そのようにあなたに語りかけてくださっているからなのです。さぁ、救われた者として、神様か頂いた生涯の日々を希望のうちに歩んでいきたいと、そう願うのです。

クリスマスイブ礼拝説教

2009-12-24 13:44:48 | クリスマス説教
説教「栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人に」 
ルカによる福音書2章8~14節


 クリスマスイブの今日、わたしたちは御子イエス・キリストのご降誕を覚えて、ここに集まりました。
 クリスマスは、街中が美しく飾られて、暖かさやぬくもりといったものを感じさせるような季節です。けれども、過ぎ去ったこの一年を思い返すときに、明るいニュースもありましたけれど、新型インフルエンザの不安や、何より経済の問題はより深刻さを増し、また耳をふさぎたくなるような残虐な事件も少なからずありました。こうしたニュース、わたしたちの耳に入ってくるニュースは、とかくわたしたちを不安にさせる、また恐れを感じさせる、そういうものであることが多いのではないでしょうか。ニュースを見ていて、心がスッと晴れやかになるという人はあまりいないわけです。そればかりではなくて、わたしたちの毎日の日常の生活を見渡しても、喜びと共に痛みがあったり、不安があったり、また時に涙を流すことがありました。どこにいいことがあるんだ、そんなふうに思いそうになることがあるわけです。
 その一方で、一年が終わろうとするこの時期、クリスマスのきらびやかな飾りつけやオーナメント、デパートやチラシの広告を見ていますと、ぬくもりとか夢、暖かさや美しい愛を語りかけています。クリスマスは一夜限りの夢の世界を見せてくれているかのようにも感じます。クリスマスドリームとか、クリスマスラブという言葉が使われています。今の不安な影を落とした「現実」から少し離れて、暖かな気持ちになろう、楽しい気持ちになろう、それがクリスマスであるかのように思わせられるわけです。
 しかし今日わたしたちは、一晩限りのクリスマスドリームを喜び、楽しもうとしているわけではありません。

 今日わたしたちは、福音書の御言葉を通して、2000年前の世界で最初のクリスマスの出来事を聞きました。羊飼いたちは野宿をしながら羊の群の番をしていた。すると、天使が現れて告げるのです。「わたしは民全体に与えられる喜びを告げる」天使の告げる大きな喜び、この喜びがクリスマスの喜びです。
 この天使の告げるクリスマスの喜びとは一体どのような喜びなのでしょうか。それは民全体に与えられる喜びだといいます。民全体に与えられる、それは、楽しく暮らしている人だけの喜びではありません。満ち足りた生活をしているものだけの喜びでもないのです。楽しく満足いく生活をしている者のためだけの喜びではない、苦しんでいる者に与えられる、涙を流している者に与えられる喜び、不安に脅えている者、生きることに絶望した者にも、喜びなどどこにも見出せない、そういう深い痛みの中にある者にも与えられる喜び、そこに喜びがもたらされてこそ初めて、それが「民全体に与えられる喜び」だと、そのように言うことができるようになるのです。
 もし、そうでなければ、天使の告げる喜びは、聖書の語る喜びは民全体に与えられる喜びではなくなってしまうのです。この世の与えるある一部の人々の、あるいわゆる幸いな境遇にある人だけの喜びということになってしまうわけです。

 クリスマスの喜びは民全体に与えられる喜びだというのです。それは、この世が与える喜びのような「限界」を知りません。限界を超越した喜び、それが民全体、それはすべての者、ほかならない、ここにいるあなたに与えられる喜びなんだと天使は告げているのです。また、この喜びというのは、現在のどんな境遇にいる人々にとってもという広がりと共に、このわたしの生涯のいかなる日にもという拡がりを持っています。つまり、幸せに満ち足りた日にも、そうではない涙を流す日にも、先が見えない日にも、救いを見つけられないそんな日にも、生涯のすべての日、すべての時に、あなたを支える喜びだというのです。
 あなたに与えられる喜び、民全体を根底から支える喜び、その喜びとは一体どういう喜びでしょうか。

 それは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」という喜びです。これが天使の告げる喜びです。救い主の誕生、それがクリスマスの喜びなんだというのです。  
 どうして救い主の誕生がわたしたちの喜びなのでしょうか。なぜ、救い主がお生まれになったことが、わたしたちの喜びなのでしょうか。

 わたしたち人間は、救いを見出すことができなければ生きていくことは出来ません。救いがなければ、わたしたちは生きる力を喪失します。だから、わたしたちはどこかに救いを見出そうと、頑張るのです。しかしこの世の中のどこかに救いを見出そうと見回しても、見渡せば見渡すほどに、見つめれば見つめるほどに、わたしたちの周りには救いとはほど遠い、乾いた世界が広がっていることに気付かされるのではないでしょうか。それで、人間は自分自身の内側にその救いを見つけようとします。自分の内側に、何か価値のあること、取り柄にできることそれを見出し、それを救いとして生きていこうとします。
 しかし、わたしたちは本当に自分自身の内側に、わたしたちの救いを見出すことができるのでしょうか。自らを、自らの救い主として生きていくことができるでしょうか。自分という救い主は、あなたを救うことができるでしょうか。聖書は、それは出来ないんだというのです。救い主は来られる。救い主はお生まれになる。このわたしのもとに、不安を抱えたり、思い悩んだりしながら、時には涙を流したりして生きている、そんなわたしたちのために救い主がお生まれになる。それが、天使の告げるクリスマスの大きな喜びなのです。

 このクリスマスの喜びは、いわゆる楽しく幸いな歩みをしている人々が持っている喜びというよりも、喜びとはまったく程遠い痛みの中に、悲しみの中にあるものにとってこそ、更に大きな、真実な喜びである事に気付かされるのではないでしょうか。
 今年わたしは、わたしが神学生のときから、ずっとわたしのために祈り続けてきてくださった一人の高齢のご夫人を天に送りました。待降節を迎える前の週、終末主日の朝方のことでした。ご家族や身内の方がどなたもおられない姉妹の最後は、ひとりきりの病院のベッドでの生活でした。その方のご葬儀でこの姉妹の属しておられた教会の牧師がこのような説教をなさいました。
「この姉妹の生涯は、病との闘いの生涯でした。苦しいこと、涙を流すこと、人々からすれば不幸だとしか思えないような苦しみが、ずっとありました。
普通人間は、他の人が、苦しみの中でも勇気を持って生きようとしている、励んでいる、そういう姿を見て、さぁ自分も頑張ろうと思うのですけれど、この姉妹はそうではなかった。自分よりも苦しんでいる人を周りに見つけることが出来なかったというのです。 
 自分よりもつらい経験をしているであろう人をたやすく見つけることは出来なかった。だから、あの人も苦労して頑張っているんだから、わたしも頑張ろうというふうには思えなかったというのです。
 しかし、この姉妹は一人のお方に出会った。それは救い主イエス・キリストであったというのです。この救い主イエス・キリストが自分のために苦しんで下さっている。イエス・キリストが自分の苦しみを担ってくださっている、そのことを知ったときに、この姉妹は生きることができたんだというのです。この姉妹の生涯は決して豊かな幸せな生涯ではなかったかもしれないけれど、この姉妹にとって、イエス・キリストは本当に救い主だった。イエス・キリストは救い主であるということを誰よりも多く体験し、だれよりもその恵みを深く味わって生きてきた。」わずかな参列者を前にしての説教でした。
 苦しみのどん底で、救い主は本当にわたしの救い主なんだと実感した、体験した。イエス・キリストは救い主なんだ、そう、苦しみの中で気付かされ、そしてその救いをまさしく体験して生きてきたんだというのです。
 わたしは、本当にそうだと思いました。普通苦しみのどん底にあるときに、人間は救いとか、喜びとか、そういうものを見出せないものです。
 しかし、聖書の語る、天使の告げるクリスマスの喜びというのは、苦しみのどん底でこそ、なお一層に輝きを増して輝いている、そういう喜びです。御子キリストが、救い主が、十字架をも担ってくださった救い主であることを知るときに、わたしたちは深い慰めを頂くことができます。わたしたちの十字架の経験、それは出来ることなら避けたい、できることならないほうがいい、そういう経験です。そこに意味とか、価値とか、そういうものを見出すことはあまりに難しいのです。しかし、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった救い主イエス・キリストが、十字架を担ってくださった救い主であるという事実を知るときに、わたしたちの十字架の経験は虚しさから解放されます。わたしたちは、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストに出会うとき、本当の喜び、慰めに満ちた喜びを知ることができます。

 すべての民にあたえられる喜び、それは、苦しみや不安を抱えた暗闇の中にある者にも与えられた喜びということです。涙を流したり、痛みを抱えて、それでも必死に生きている、そういう者に大きな慰めを与える喜び、それがクリスマスの喜びです。

 天使がこの救い主誕生の知らせを告げると、クリスマスの冷え切った夜空に天使たちの讃美の歌声が響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」救い主がお生まれになった。それで、神に栄光があるようにと讃美をしているのです。

 「神に栄光あれ」と、天使はそう告げます。旧約聖書をみていきますと、意外に感じられるかもしれませんけれど、あの長い旧約聖書の中には、一度も「神に栄光あれ」という言い方は出てきません。主に栄光を帰せよとか、そういうのはありますけれど、神に栄光あれという言い方はしないわけです。
 クリスマス、イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋にお生まれになる、救い主が、あなたの救い主がお生まれになる、そのことによって初めて、わたしたちは「神に栄光あれ!」そのように真心から神様を讃美する者とされていくのです。教会の礼拝には、頌栄というのがありますけれど、あれは、神に栄光あれという天使たちの讃美を、わたしたちも声を合わせて歌っているわけです。神に栄光あれ、そのように神様を讃美しながら生きていくことができるのです。
 その時、この天使の讃美の後半の意味がさやかに示されていくのです。「地には平和、御心に適う人にあれ」この平和というのは、安らぎとか、穏やか、そういう深い慰めに満ちた言葉です。地の上には、そこに住む人々に平安があるように、安きがあるようにというのです。この平和というのは、救い主がお生まれになることによって与えられる平和です。ただ戦いがない平和な社会ということに尽きる話しではありません。
 「いと高きところに神に栄光があるように」、わたしたちが、天使たちとともに神様を讃美するとき、神様に礼拝を捧げるときに与えられる「平和」です。
一生懸命頑張って、自分の生き甲斐、自分の生きている意味、自分の存在価値や救いを見出そうとする人間がいるわけですけれど、そういう人間が、救い主に出会うことによって与えられる救い、平安があるんだというふうに天使は告げているのです。

 天使の告げる救い主、イエス・キリストに出会うときに、わたしたちはこの救い主イエス・キリストご自身の中にわたしの救いを与えられるのです。もう必死でわたしの救いを見つけようとしなくてよいのです。
 あなたの存在というのは、あなたのことをみつめ、愛し、いつくしんでくださる救い主であるイエス・キリストのゆえに、尊いものとされ、価値が、尊さが、見出されていることを知ることが出来るのです。だから、わたしたちは救い主を礼拝することによって、平安をいただくことができるのです。

 今日、全世界の教会が、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった主イエス・キリストのご降誕を祝って礼拝を捧げます。クリスマスの喜びとは何か、わたしたちを生かす本当の喜びとは何か、それを、教会は礼拝を通して世に証ししているのです。つまり、救い主を礼拝しながら生きていく、そこにわたしたちの喜びがあるんだ、と、全世界の教会は神様を礼拝することによって、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったキリストを礼拝することによって、世に証をしているのです。

 クリスマスの喜び、それは救い主イエス・キリストの前に自らの膝をかがめることによって与えられる喜びです。ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった幼子キリスト、この救い主を、わたしの救い主として生きていくとき、クリスマスは本当の喜びに満ちた日として、慰めに満ちた日として、わたしたちの心深くにいつまでも変わることのない喜びとなるのです。

◇祈りましょう
聖なる天の父よ
愛する独り子をわたしたちの救いのためにお与えになり、信じるすべての者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。あないの深い愛を感謝いたします。
どうか、御子のご降誕が、わたしたちだけでなく、わたしたちの周囲にあるすべての人々にも、本当の喜びまた慰めとなることができますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン





説教「クリスマスの馬小屋」教会学校クリスマス礼拝

2009-12-20 00:58:30 | 子供の説教
2009/12/20待降節第四主日・教会学校クリスマス礼拝・説教
「クリスマスの馬小屋」ルカによる福音書2章1-8節

 もうすぐクリスマスを迎えます。教会の前の道には、夜になると沢山のイルミネーションが飾られていて、とても綺麗です。街を歩いていると、大きなクリスマスツリーや、クリスマスの飾りが沢山あって、どれも綺麗だなぁと思います。きっと、みんなもお家にクリスマスの飾りをしたり、ツリーを飾ったりしていると思います。イエス様のお誕生を喜んで、綺麗に飾り付けてお祝いをしたいと思います。
 
 ところで、みなさんは教会に来ると、この礼拝堂に上がる階段の下に、馬小屋を飾ってあるのを見ましたでしょうか。綺麗な金や銀の飾りも、華やかなリボンもありませんけれど、モミの枝が敷かれただけの地味な馬小屋です。
 わたしたちは、このクリスマスの馬小屋を見つめるときに、その時初めて、クリスマスの本当の意味が分かってくると思います。クリスマスの馬小屋、そこには、マリアとヨセフがいます。羊飼いやヒツジがいます。牛やロバもいます。わたしたちが知っているような、クリスマスの華やかで綺麗な飾りつけとは全く違う、決して綺麗ではない馬小屋です。
 冷たい風が吹いてくるかもしれません。赤ちゃんを産むことのできるような場所ではありません。生まれてきた赤ちゃんを洗ってあげる暖かいお湯はあったでしょうか。赤ちゃんの寝る暖かなベッドがあったでしょうか。馬小屋にはそんなものはありません。
 クリスマスの馬小屋には、決して綺麗な飾りも、それを見た人達が何か幸せを感じることができるような美しさもありません。馬小屋は綺麗な飾り物ではありません。よくよくそれを見つめたら、そこに美しい夢の世界を思い描いたりすることはできません。

 どうしてかと言うと、お腹の大きなマリア様を、誰一人わたしのお家に泊まってと言わなかった。赤ちゃんイエス様がお生まれになるのに、誰一人暖かなお家へどうぞとは言いませんでした。長い旅を続けてきたマリアとヨセフ、そしてイエス様を暖かく迎えてくれる人はどこにもいませんでした。これを人間の罪といいます。
 自分は暖かいお家で、美味しいものを食べて、ゆっくりとフワフワのベッドで寝れたら、それでいい。「どこの誰か判らないあの若いお腹の大きな二人連れのことなんて知らないよ」そんなふうに思ってしまう人間の冷たい心、それがベツレヘムの馬小屋には見えてきます。クリスマスの馬小屋を見つめるときに、わたしたちが気付くことというのは、決して人間の暖かな心とか、美しい光景ではありません。自分のことばかり考える人間の罪、イエス様をお迎えすることをしない人間の罪の姿が、見えてきます。
 そして、あんな寒い、赤ちゃんを産むのはとても危険な馬小屋にいるマリアとヨセフを、そしてイエス様を、何とも思わない人間の罪、そのような冷たい人間の罪が見えてきます。

 でも、そこにイエス様はお生まれになりました。そういう人間の罪、冷たさ、人のことを何とも思わない自分中心的な心、まして神様の御子イエス様をお迎えする気持ちなんてどこにもない、そういう人間の罪の只中に、イエス様はお生まれになったのです。そこにこそ、救い主のお誕生が必要だったからです。

 決して綺麗ではない馬小屋ですけれど、でも、そこにイエス様が生まれてくださることによって、馬小屋はパッと明るくなります。喜びが溢れてきます。
それは、馬小屋が立派だからでも、綺麗だからでもありません。そこにイエス様がいてくださるから、馬小屋は明るく照らされるのです。

 わたしたちの心は、それはこの馬小屋のようなものです。それは決して立派な、暖かい、綺麗な馬小屋ではありません。気がつくといつのまにか隣にいるあの人この人のことよりも自分のことばかり考えている。気がつくと、神様にお従いすることよりも、自分の願いのままに神様を振り回そうとしたりする、そんな心の馬小屋です。でも、そこにイエス様は生まれたいと望んでくださったのです。そして、わたしたちの心の馬小屋にイエス様は生まれてくださるのです。わたしたちはみんな、イエス様のお誕生が必要です。わたしたちの暗く、冷たい、そして汚い馬小屋が明るくなるためには、イエス様が生まれてくださらなければいけません。

 人間は自分で自分の心を照らすことは出来ません。人間は自分で自分を救うことはできません。イエス様をわたしたちみんなが、心の中にお迎えして、クリスマスをこころからお祝いしたいと思います。

幼子のように

2009-07-03 19:55:32 | Weblog
 教会にはいろいろな方がいらしてお話をされたり、お祈りをされたりして帰っていかれます。今日も20台中ごろの青年がやってきて一時間くらいお話をいたしました。
 もう洗礼をうけて教会員になっておられる方だけではなくて、まだ教会の礼拝に出たことがないとか、洗礼を受けてないという方も沢山いらっしゃいます。
内容は、深刻なお話から、教会や聖書についての質問、嬉しかったこと、良かったことの報告まで色々です。

 先日教会である方にこんな質問をされました。「先生、よく雨が降りますねぇ。ところで、梅雨っていうのはどうしてあるのか分りますか?」
 梅雨ってどうしてあるんだといわれましても答えに窮してしまいます。だいたい牧師のところにくる質問というのは、聖書は何が書いてあるんですか?とか、困ったときよく効きそうな聖書の言葉はないですか?とか、そんなことが多いです。ですので梅雨はどうしてあるって言われても困ります。真面目に考えて「何ででしょうねぇ~」と申し上げたら、「to you」と言われました。梅雨はto you 、あなたのためにあるんですっていうのが答えだそうです。

 ガクッと致しました。でも梅雨があなたのためにあるっていうのも、まんざらまちがいでもないなぁと思いました。雨の季節があって収穫の季節があるのですし、いろいろな時期があって、それは神様がわたしたちにお恵みとして与えてくださっているんですね。それは梅雨に限ったことではなくて、人生の明るい季節も暗い季節も、いろいろありますけれど、やっぱり色々な時が後になって、なるほど、お恵みだったなぁと感じるようになるのではないかと思いました。

 今日は短い聖書の箇所を読みました。ここにイエス様は幼子のようになれと言われるんですね。幼子のようになれというのは、まさしくその通り、幼子のように、お父さんお母さんに嬉しい!楽しい!嫌だ!やりたくない!困った!こんなの嫌だ!お腹すいた!、そう言うように、神様の前に、素直に自分の心を差し出したらいいんだということでしょう。

 わたしたちは大人になると色々なことに知識を蓄えて、色々なことが分るようになって、心配したり、不安になったり、余計な心配をして生きることを自分で暗くしていったりしていることがあります。でも、親に任せて安心している幼子のようになれとイエス様が言っておられる。
 この過ごしにくい世の中にあって、心配しないでいいんだよ。大丈夫だからやってごらん、そう神様が語りかけておられるような気が致します。

 教会には主の祈りというのがあります。「天にまします我らの父よ」と祈ります。神様は天の父でいらっしゃると言うのです。言い換えればわたしたちは神様の子供なんだということです。
 神様がわたしたちの将来を、わたしたちの毎日を養い、しっかりと守っていてくださるのだから、さぁ勇気をだして、安心して生きていけばいい。そんなふうに聖書を通して、イエス様はいまここに生きるわたしたちに語りかけておられるのです。

説教「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」

2009-06-30 13:52:52 | 主日礼拝説教
聖書 ヨハネによる福音書15章1~8節

 今日の福音書で主イエスは、神とわたしたち人間との関係を、二つの譬えで語られます。一つは、15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」もう一つは5節「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉です。ここでまず1節では父なる神と主キリストとの関係が語られていて、5節ではぶどうの木である「わたし」、つまりまことのぶどうの木である主イエス・キリストとわたしたちとの関係が語られています。
 まず1節ですけれど、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と記されていました。父である神は、ぶどう園の農夫であり、主キリストはぶどうの木であると語られているわけです。続く2節ですけれど、「15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」ここでは、まことのぶどうの木に繋がったわたしたちキリスト者の姿を「枝」であると語られています。ところが、この枝でも「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と記されていますので、わたしたちは大丈夫だろうかと不安に思ったりするわけです。

 ここに「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とありましたけれど、しかしまず注目したいのは、実を結ばない枝は取り除かれるということは、逆を言えば、わたしたちは実を結ぶ枝であることが求められているということなのです。ぶどう園の農夫である父なる神は、あなたが実を結ぶものであることを期待してくださっているのです。
 
 続く3節~4節にこのようにありました。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ここに「あなたがたは既に清くなっている。」とありました。清くなっているというのは、それはもはや剪定される存在ではないということです。
 今日丁寧に取り上げることはできませんけれども、ユダヤの社会においては、族長たちがまことのぶどうの木と考えられた時代がありました。モーセがその木だと考えられたこともありました。しかしヨハネ福音書は、イエス・キリストがまことのぶどうの木であると語るのです。このまことのぶどうの木であるキリストに結ばれるとき、十字架によって罪が清められ、豊かな実をたわわに結ぶものとされていくんだということを語っているわけです。このまことのぶどうの木であるイエス・キリスト以外に、それは族長たちであれ、モーセであれ、主イエス・キリスト以外のいかなるものに繋がろうとも、本当に豊かな実を結ぶことは出来ないということを語っているのです。
 ぶどうの枝が実を実らせるのは、その枝に力があるからではありません。枝がしっかりとぶどうの木に結ばれている。そのときはじめて、ぶどうの木は豊かな実りを結ぶことが出来るのです。実の実らないぶどうの枝は取り除かれると記されているわけですけれど、実が実らない枝というのは、まことのぶどうの木につながることのない枝、まことのぶどうの木からいのちの養いを受けていない枝、そのことが語られています。
 主がぶどうの木である、キリストがまことのぶどうの木であるというのは、わたしたちのこれ以上無い安心でもあるのです。主イエス・キリストは、わたしたちの救いのための一切を成し遂げてくださり、豊かな実りを結ぶ者、永遠のいのちに与る者としてくださいました。このこれ以上ない養いをくださる主キリストに結ばれている限り、主がご自身にかけて豊かな実りを結ばせてくださるのです。

 15章の5節後半にこのように記されていました。「15:5b 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」4節にも同じように「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。ここに、「人がわたしにつながっており」そして「わたしにつながっていなさい」とありました。
 わたしたちは、信仰というのは、このまことのぶどうの木であるイエス・キリストに繋がることだと理解していまして、まさしくその通りであるわけです。わたしたちは洗礼によって、イエス・キリストと結ばれるのですけれども、では逆に、主がわたしたちにつながっていてくださる、わたしたちをしっかりと支えてくださっている、主がしっかりと結び付けてくださっているということを、どれほど意識しているでしょうか。5節の後半の御言葉に、注目したいのです。そこではこのように語られています。「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とありました。4節の後半には「わたしもあなたがたにつながっている。」と記されています。
 ここでは、「わたし」つまり、イエス・キリストが、あなたに繋がっていて下さるということが二度繰り返して語られているわけです。

 わたしが主イエス・キリストに繋がるというのは、よく考えてみますと、ある弱さを抱えたものであることを気づかされます。わたしたちの信仰、わたしたちが主のもとに留まり続けるとことは決してた易い事ではありません。弟子たちの生涯というのを聖書を通してわたしたちは知ることができますけれど、あの弟子たちの信仰だって、それはなお弱さを抱えたものであるということがあるわけです。しかし、わたしたちの信仰生活というのは、わたしが繋がっているということの背後にといいますか、そのベースに、主があなたにしっかりと繋がっていてくださるという、神様は決してあなたの手をお放しにならないという、そういう神様の恵みの事実があります。つまり、わたしたちが主なる神に繋がることが出来るのは、まず主なる神が、あなたに繋がってくださる、あなたの手をとってくださった。そういう恵みによるものであるのです。そのことは主イエス・キリストがお生まれになり、十字架へと歩み、よみがえらせられる、その出来事において更に明らかにされていきます。ご自分を十字架につける、そのような罪人のために、まず神が、御子を世に遣わしてくださり、その十字架の死と復活、昇天によって、神様の側から、父なる神様のもとへと至る道、救いの道を与えてくださったのです。わたしたちの救いというのは、まず神様の側から差し出されているのです。

 さて、今日の福音書は、ぶどうの木とその枝という譬えをもって、キリストとわたしたちキリスト者との関係が語られています。主イエスは、キリストとわたしたちとについてお語りになる時、別々の二つのものを用いてその関係を語られたのではありませんでした。ぶどうの木とその枝というのは、例えば小鳥と木とか、昆虫と木いうように、あれとこれというそれぞれ別々のものではありません。木と枝というのは、別々のものではなくて一つのものであるわけです。それが救い主である主キリストとわたしたち信仰者との関係です。
 つまり、別々のものが、接着剤や磁石などでくっついているとか、一緒に居るという事とは違うのです。主が「あなたがたはその枝である」といわれたとき、その枝というのは、ぶどうの木とは別の何かということではなくて、ぶどうの木の一部だということです。このぶどうの木とその枝というのは、実際にぶどうの木を見てみますとわかりますけれど、どこまでが幹でどこからが枝というふうには言い難いものです。少し前まで、教会の前のハナミズキの木が綺麗な花を咲かせていましたけれど、あのハナミズキの木は、どこが幹で、どこが枝だとわかりやすいと思います。ところが、ぶどうの木はどうかといいますと、どこが木でどこが枝だと区別することは、なかなか難しいと思います。枝がどこで始まってどこで終わっているのか判らないわけです。キリストがぶどうの木であり、あなたがたはその枝であると言われるとき、それは、キリストとの非常に親密な一体性が意識されているということができます。
 ヨハネによる福音書においては、一つであるということが非常に重要な意味をもっています。主イエスは十字架におかかりになる直前、今日の聖書の箇所の少し後ですけれど、17章21節でこのように言われます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」これは十字架におかかりになる前の主イエスの祈りの言葉です。主イエスは十字架におかかりになる前に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」このように祈られたわけです。
 
 今日の福音書の箇所でも、キリストと一つとされるということ、あなたはキリストと一つとされているということ、そのことが語られています。この一つとされるというのは、例えばあるものをわたしたちが所有するように、持っているような仕方で一つとされるのではありません。ぶどうの木とその枝の仕方を見ればわかるように、もはや完全に一つとされるということ、誰かがやってきて持っていくことができない仕方でキリストと一つとされるのです。先ほども申しましたように、ぶどうの木に鳥がとまっているとか、虫がとまっているというようなことではなくて、ぶどうの木と枝というのは、そこにいのちの流れる関係、一つのぶどうの木とされるという、それほどまでに深い、また枝は幹であるぶどうの木に生きることのすべてにおいて信頼しきった、そういう関係がぶどうの木と枝との関係です。
 
 誰ももはやキリストのものとされたあなたを、どこかへと連れ去ることは出来ないのです。それは闇の力がどんなに強く吹き付けるとしても、ぶどうの枝は、よいぶどうの木である主キリストがご自身にかけてしっかりと守って下さるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙の8章でこのように語っています。35節以下です。「8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 キリストと一つとされるというのは、長い信仰生活の中で徐々にキリストのものとされていくということではありません。徐々にキリストと繋がっていくということではありません。十字架のキリストの前に額ずいて洗礼の恵みに与ったわたしたちは、その一回的な神の恵みの事実によって、まるごとキリストのものとされ、キリストに結ばれたものとされたのです。だからこそ、主イエスは今日福音書を通してあなたに語りかけておられるのです。「15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」
「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
ぶどうの枝になりなさいといわれているのではありません。ぶどうの枝としてくださるのは神の恵みなのです。主は、あなたはぶどうの木だ、わたしの大切な枝だといって下さっているのです。だから、そのキリストの愛のうちに留まりなさいと、御言葉は招いているのです。


「15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」わたしたちは、このことを主イエスのご生涯から知ることができます。主イエスのご生涯は、まさに父なる神様へのまったき信頼と、御言葉へのまったき信頼に貫かれた歩みでした。 
 わたしたちは「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」といわれますと、欲しいもののリストを作って懇願するように祈ろうとするのですけれども、主イエスがこの御言葉の前半にまず語っておられることをそっちのけにしてしまっているのではないでしょうか。つまり「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」者の祈りは、主イエスがそうであられたように、自分の願望に神様を振り回すのではなく、このわたしのために御言葉をもって最も幸いな生き方を示してくださった、神様のわたしに対する御心の実現することを祈り求めていく、そのようなものではないでしょうか。
 
 主イエスはヨハネから洗礼を受けられたあと、聖霊に導かれて荒野へと行かれました。そこで40日間の祈りと断食とをなさったわけです。そこに試みるものが来て主イエスに言い寄るわけです。石をパンに変えてみろ、ここから飛び降りてみろ天使が来て救ってくれるかもしれない。しかし主イエスは、御言葉によってこれらの誘惑を退けて行かれました。主イエスは、自分の喉の渇きがいやされること、空腹が満たされることを願われませんでした。それに表されているように、天の父に信頼し、御言葉に信頼された主イエスの願いは、自分の願いの実現することではなくて、御言葉の実現すること、神様の御心の実現することにありました。それが神に結ばれ、神の御言葉が内にあるものの生き方なのではないでしょうか。
そのとき、神は何でも叶えてくださるのです。またそのような、わたしたちに対する神様のご配慮に信頼して歩む歩みこそ、本当に豊かな、幸いな生き方であるのではないでしょうか。
 この何でも叶えてくださるというのは、神への忠実さに対するご褒美なのではありません。神様を第一にし、御言葉に豊かに養われて生かされる者は、主イエスがそうであられたように望むものを何でも求めることが出来るし、神はそれを豊かに与えてくださるのです。
 

 さて、今日の礼拝では15章の8節までが朗読されました。8節にはこのように記されていました。「15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
ここで語られていることは、ぶどうの枝であるキリスト者が、まことのぶどうの木である主キリストに結ばれて、主キリストの豊かな養いを頂いて実を結ぶとき、ぶどうの木につながりつづけるとき、それはここでは弟子という仕方で語られていますけれど、そのとき、わたしの父、つまり神が栄光をうけてくださるというのです。
 わたしたちは何かができたら神様に栄光をささげることができるとか、わたしは何も出来ないから神様の栄光のために何もしていないなどと思う必要は無いのです。真のぶどうの木である主キリストに繋がり続ける、神を礼拝し続けるそういう生活がまさに、神の栄光なんだと語られているのです。神は、お造りになったわたしたち人間が、創造主であり、天の父である神様のもとに結ばれて生きることを、望み、また喜んでくださっているのです。


説教(花の日こども合同礼拝)「思い悩むな」マタイ6章25-34節

2009-06-14 12:05:34 | 主日礼拝説教
 みなさん、イエス様は、どんなお方だったのでしょうか。イエス様に直接あって、イエス様のお話を聞くことが出来たら、どんなに嬉しいだろうと思いませんか。きっと、イエス様のお話を聞いたら、イエス様はどんな方だったのか、よく分かると思います。
 わたしたちは、誰かはじめての人に会った時、その人の外見を見ただけではその人がどういう人なのかよく分らないと思います。でも、その人とお話をしていると、この人はこういう人なんだと分ってきます。

 今日は、聖書が読まれて、わたしたちはその御言葉を聞きました。今日の礼拝で読まれた聖書は、イエス様のもとに沢山の人たちが集まってきたとき、その沢山の人々を前にしてイエス様がお話しになった御言葉でした。
 ですから、今日わたしたちが聞いているイエス様の御言葉に、よく耳を傾けていくと、イエス様はどんな方だったのか、神様はどんなお方なのか、わたしたちは知ることができると思います。

 わたしたちは、直接イエス様に出会わなくても、イエス様の御言葉を聞くときに、イエス様のお姿が見えてきます。イエス様がいらした時代の沢山の人たちがイエス様に出会って「あぁイエス様ってこんな素晴らしい方なんだ!」と信じることが出来たように、わたしたちに今日語りかけてくださるイエス様のお言葉を聞くときに、イエス様はどんな方だったのか、イエス様の思い、イエス様の御心を知ることができるんですね。
 わたしたちも神様の御言葉に耳を傾けるときに「あぁイエス様ってこんなに素晴らしい方なんだ!」と知ることが出来る。イエス様との出会いが与えられるんですね。

 今日もみなさんと一緒に、イエス様の御言葉に耳を傾けて聞きたいと思います。


 主イエス様は、ある日、御許に集まってきた大勢の人々を前にしてお語りになりました。何を語られたのでしょうか。こんなふうにお話しになりました。
「空の鳥をよく見なさい。種を蒔いたり、刈り入れをしたり、その収穫を倉に納めたりしない。だけれど、みんなの天の父なる神様は、鳥たちを養ってくださる。みんなは、鳥よりもずっと価値あるもの、神様に大切にされている一人一人なんですよ。」
 世界中には何種類くらいの鳥がいると思いますか? 一万種類くらいの鳥がいるそうです。日本にはその中の542種類がいるそうです。すごい数ですね。
ちょっと広げて、世界中に何種類くらいの動物がいるか調べてみました。そうしたら、神様のお造りになった世界には、なんと175万種類もの動物がいるそうです。これもびっくりする数ですね。
最後に、今日は花の日ですから、世界中に何種類くらいのお花があるのかなぁって調べてみました。そうすると、お店で売るために改良されたお花を含まないで数えても、25万種類ものお花があるそうです。
 神様がお造りになった世界には、こんなにも沢山のいのちが生かされているんだなぁと思って、驚きました。


 こどもさんびかに「ことりたちは」という讃美歌があります。みんなよく知っていると思います。「ことりたちは小さくても、お守りなさる神様」という讃美歌です。小鳥たちは、自分で畑に種を蒔いて、それを育てて、そして実が実るとそれを収穫して、と、そういうことをしません。でも、神様は、ちゃんと鳥たちを養って下さる。必要なものを与えてくださる。その神様は、みんなのためには、なおさら良くして下さるんですよと、語りかけてくださっているのです。


 それから、もう一つ、こんなことをお話になりました。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。野の花は働きもしないし、糸を紡いで布を作ったりもしない。―― それだけではなくて、今日は生えているけれど、明日は焼かれてしまう草だって、神様は綺麗に装ってくださっている。まして、あなたがたには、みんなにはなおさらのことではないですか」
 さっき、世界中には25万種類くらいのお花があると言いましたけれど、お花は自分の植えられたところが嫌だからあっちの畑に行きたいなぁと思っても行けませんね。今日は暑いから日陰に咲きたいなぁと思ってもそうはできません。でも、そんな野の花も、神様はちゃんと育ててくださっている。綺麗に咲かせてくださっている。
 空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、主イエス様はそう仰って、空の鳥や、野の花の姿をとおして、創造主である恵み深い神様のお姿を示されました。
 

 今日は、綺麗なお花を教会に持ってきて、神様にお捧げしました。お庭に咲いたお花や、お花屋さんに行って沢山あるお花の中から、どれにしようかぁと考えて、選んできたお花。色々なお花があります。自分の好きな色のお花をもってきてくれたお友達もいると思いますし、大切に育てたお花を持ってきてくれたお友達もいると思います。だけれど、葉っぱやお花を自分で作った、今日のお花は自分で作って持って来たというお友達は、きっといないと思います。わたしたちは、いのちのある綺麗なお花の葉っぱ一枚だって、何もないところから作ることができないんじゃないでしょうか。
 
 聖書の一番最初に、創世記というのがあります。そこには、神様がこの世界をお造りになったことが書かれています。神様は何もないところから、光をお造りになって、海や陸地をお造りになって、草や木や花、さっき讃美歌を歌いましたけれど、魚や鳥、動物たち、すべてのいのちをお造りになって、最後にわたしたち人間をお造りになったと書かれています。神様ってすごいですね。神様は、何もないところから、いのちを造り出すことがおできになる。いのちは神様がお与えになるんですね。そして、神様はお造りになったいのちを見て、世界を見て、なんて素晴らしい世界!そう言って喜んで下さるんですね。神様は、神様がお造りになったみんなのことをご覧になって「なんて素晴らしいナントカちゃん」「なんて素晴らしい○○くん」と、そう言ってくださるんですね。

 さっき、イエス様は野の花、空の鳥を御覧なさいと言われました。どうしてイエス様は野の花や空の鳥を見てごらんと言われたのでしょうか。それは、自分の力で生きていると思い違いをしている人間に、本当はそうじゃないでしょ、神様が、天の父なる神様が、この鳥や野の花をお造りになったように、みんなのこともお造りになった、みんなのことも創造されたんですよ。空の鳥や野の花が、神様のお恵みにすべてをまかせて生きているように、みんなもそうすることが出来るんだよと、そう教えて下さるんですね。

 
 今日の聖書の御言葉の中で、イエス様は二度「あなたがたの天の父は」と言っておられます。今日イエス様は二度、天の神様は、「あなたがたの天の父」「お父さんなんだよ」と言われます。
「神様は、みんなの天のお父さんだ」と言われるんですね。
それは、言い方を変えれば、みんなは天の父なる神様の子供なんだよということではないでしようか。

 イエス様がわたしたちに、神様は「あなたがたの天の父」と言われるときには、いつでも、みんなは天の父なる神様の子供たちなんだよと、語りかけてくださっているのです。
 イエス様が、「あなたがたの天の父」と語られている背後には、「あなたたちは神様の子とされているのだ」という神様の恵みが示されているのです。
 ここにいるみんなは、天の父の子とされているのだから、思い悩まなくていい。心配しなくていい。創造主であり、天の父である神が、みんなのことを配慮し、養い、必要を与えてくださる。そういう恵みが語られているのです。

 
 それと同時に、空の鳥や野の花が神の恵みを証しして生きるように、天の父の子とされたわたしたちも、神様の恵みを歌い、また神様ってこんなに素晴らしい方なんだよと、神様のことを証しする、みんなに伝えるものとして用いられるのです。


 わたしたちは自分自身の姿を見つめる時には、思い煩い、いろいろな悩みに支配されていくのではないでしょうか。
けれど、だからこそ創造主であり天の父なる神様に目を上げて、「神の国と神の義」つまり神様ご自身に希望をおいて生きるようにとイエス様は語りかけてくださっています。
「あなたがたの天の父」、わたしたちの神様は、神様の子どもであるみんなのことを、ひと時も忘れることなく、いつくしみ深い眼差しを注ぎ、養い育ててくださると、イエス様は教えてくださいました。


 今日の聖書の一番最後のところで、イエス様はこのように言われました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
「明日の心配はしなくていい。」と言われました。どうして心配しなくて良いと言われたのでしょうか。
 心配したってなるようにしかならないんだからということでしょうか。明日は明日で、どうにかなるから心配しなくてもいいということでしょうか。
そうではないんですね。イエス様はどうして「明日のことまで思い悩むな。」といわれたんでしょうか。

 それは、明日のことは分からないから心配しなくていいとか、どうにかなるから心配しなくて言いというのではないんですね。
 
 イエス様が明日のことを心配しなくていいといわれたのは、天の父なる神様がみんなの明日を支えていてくださる。神様がみんなの天のお父様なんだから、心配しなくていいんだよ。思い悩むなと仰るんですね。
 それは、あきらめではありません。神様にお委ねして、安心して生きて生きなさいと言われているんですね。


 神様がみんなの明日をしっかりと守っていてくださる。だから、自分で自分の将来を心配しなくていいんです。わたしたちの毎日は、またわたしたちのいのちは、すべてのいのちの創造者である天の父なる神様にしっかりと守られ、また支えられているんですね。この世界も、またそこに生きているいのちも、何より、みんな一人ひとりは、神様がお造りになった神様のものなんだよと聖書は語っています。
わたしたちは、わたしたちを創造して、いのちを与えて生かして下さっている神様から、毎日、沢山のお恵みを頂いて、安心して生きていくことができます。

 みんなは神様の子供です。神様が毎日をしっかりとお守りくださいます。空の鳥、野の花を養い、育ててくださる神様に、わたしたちは信頼して、歩んでいくことができます。神様はわたしたちの思い悩むことではなくて、苦しむことではなくて、幸せを望んでくださる神様です。

 はじめに、イエス様の御言葉を聞くと、イエス様がどんなお方なのか、神様がどんなお方なのか分って来ますと言いました。

 イエス様が、わたしたちに語りかけてくださる御言葉は、いつもわたしたちを元気付けてくれます。どうして神様の御言葉はわたしたちを元気付けてくれるのでしょうか。それは、神様に創造されたみんなが、神様に結ばれて、元気に、神様の恵みの中で生きるように望んでくださっているからです。わたしたちに語りかけてくださっている神様の御言葉を聞きながら、毎日を喜んで歩んでいきたいと思います。

◇お祈りしましょう
天の父なる神様。
あなたは、空の鳥、野の花を美しく養い、育ててくださいます。今日イエス様は御言葉を通して、わたしたちにはなおさら神様はお恵みを与えてくださり、しっかりと支えてくださることを知りました。わたしたちが色々なことに心配したり、心を奪われたりしないで、いつも注がれている神様の眼差しを感謝して、歩むことができますように。
わたしたちの救い主、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

説教「聖霊の力により、望みに溢れるように」

2009-06-04 12:06:14 | 主日礼拝説教
【聖書】ローマの信徒への手紙5章1~5節、15章13節

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」
神のみ言葉は、希望の源である神が、聖霊の力によって、つまり神ご自身の働きによって、神ご自身にかけて、わたしたちを希望に溢れさせて下さる、望みに溢れさせてくださるというのです。
ペンテコステの日、弟子たちは一つに集まって祈っていました。そのとき使徒言行録二章の御言葉の通り、聖霊が教会に注がれて、弟子たちは喜びに溢れて、力強い歩みをはじめます。
聖霊降臨は、希望の源である神ご自身が、弟子たちのうちに来て、留まって下さると言うことです。希望の源である神、希望そのものである神が、わたしたちの内側に留まって下さる。そのことによってわたしたちの存在が、希望に変えられていく。それが聖霊の力によって望みに溢れる、聖霊の力によって与えられた希望なのです。

人間は希望がなければ生きることは困難であると誰もが知っているのではないでしょうか。大きな夢や希望をもって生きて行こうと言われます。その反面、どんな大きな希望を抱いても、叶うか叶わないか判らない。希望はまるで馬が勢いよく走るために絶えず目の前にぶら下げられているニンジンであるかのように、走っても走っても手に入れることができない。そんなものであるかのように語られることもあります。しかし、希望とはそういうものでいいんだという人もいます。フランスのカミュという人は「望とは、あきらめにも等しいものである」と言います。別の人は「希望は頼りにならないものであるが、我々を人生の終わりまで運ぶことくらいはしてくれる。」と言いま
す。それが希望だというのです。

では聖書はどういう希望を語ってきたのでしょうか。パウロは自らの記した手紙の中で、繰り返し希望について語ります。それはその希望が、パウロのキリストを信じる信仰において、重要な位置を占めているからです。パウロにとって、希望とは福音そのものでした。十字架にわたしたちを贖ってくださった神、信じる者の希望である神が、聖霊によってわたしたちのうちに宿って下さる。それによって、彼方にあったものが、内なるものとされた。彼方にあった希望が、わたしの内側に宿るものとされた。その意味で、希望は信じるものにとって福音そのものであるわけです。

聖霊の力によって望みに溢れるというのは、ちょっと神様のお助けをいただくということではありません。希望の源であり、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に留まって下さる。わたしたちの存在を丸ごと希望に変えてくださる。あなたの存在が希望だといわれるのです。聖書は、大きな夢を持てば、人生をしっかりと生きていくことができるのだから、大きな夢を持とうと言っているのではありません。
わたしたちが希望に溢れて生きることが出来るのは、大きな夢を持っているからでも、大きな幻を抱いたからでもありません。
わたしたちは、様々な希望を抱いて生きています。成功への希望であったり、健康を手に入れるという希望や、あることを達成するという希望もあります。しかし、そういう希望は達成してしまえばもはや希望ではなくなってしまうのです。では希望とは一体何でしょうか。パウロはどこに、何に希望を見出していたのでしょうか。それは神ご自身に他なりませんでした。

パウロにとって希望とは、将来に起きてくる幸せな出来事でも、夢でもありませんでした。パウロの希望は神ご自身でした。なぜなら、この神こそ、パウロを、そして信じる者を、絶えず配慮し、最善をなし、どんな時にも、どんな境遇においても、しっかりと支え守って下さる方であるからです。どんな希望よりも、どんな夢よりも、神にある希望こそ、それは神ご自身こそと言っても良いと思いますけれど、わたしたちを力づけ、励まし、生きる力を与えるのです。だから、パウロは、神は「希望の源である」と、そう語るのです。

さて、教会では洗礼が行われますけれど、あの洗礼というのは、単に水を注ぐだけ入会の儀式なのではありません。神が、受洗者に聖霊を注いでくださるのです。聖霊があなたと共にいてくださる。それが洗礼式の恵みです。そこには、希望の源である聖霊があなたと共に居て下さるという確かな事実があるのです。聖霊があなたの内にあって、あなたを守り、導いてくださるのです。
聖霊を受けていると言うのは、信仰の浮き沈みで判断するようなものではありません。気分が良い充実した信仰生活が送られているから、聖霊はわたしと共におられるとか、最近は祈れないし悪いことばかりだから、聖霊はわたしと共におられないんじゃないかと、そういうことでは決してないのです。
洗礼を与ったわたしたちは、いつか聖霊が注がれ、いつか希望を持って生きていけるというのではないのです。既に、あの洗礼の水が注がれたとき、聖霊を受け、わたしたちの希望そのものである神が、わたしたちの内に宿って下さる。わたしたちの存在が希望へと変えられている。それが洗礼ということです。ですから、キリスト者というのは、希望する民とされているのです。神の恵みによって、希望を内に宿して生きていく、希望そのものとされているのです。

パウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と語ります。口語訳聖書では、「希望は失望に終わることがない」と訳されていました。どうして希望は失望に終わらないのでしょうか。断じて失望されることのない神が、とこしえからとこしえにあなたと共に居て下さるからです。あなたのいのちは、あなたの現在、過去、未来は神の手の中にある。だから、希望は失望に終わることがない。希望はわたしたちを欺くことはないのです。
 わたしたちの生活を支えるものは何でしょうか。幸せな時だけではない、苦しみの時に、絶えがたい痛みの中にあるときに、あなたを支えるものは何でしょうか。積極的な考え方を持つ事でしょうか。良いことを考えることでしょうか。それとも諦めることでしょうか。そうではないのです。パウロを支えたもの、それは神ご自身でした。
 この神は、わたしたちを愛し、罪人の滅びることではなく、救われることを望み、わたしたちの苦しみではない、幸いを望んでくださる神です。神が、あなたの救われることを、あなたの幸いを、あなたの生きることを望んでくださっている。聖霊を注いで、あなたの存在をまさに希望そのものに造り替えてくださっているのです。キリスト者の生は、そこに守られているのです。
喜びのときだけではありません、病の中にあっても希望が与えられ、苦しみの中にあっても希望が与えられているのです。それはどうしてでしょうか。 
わたしたちの唯一の希望である神ご自身が、聖霊によって、あなたと共に、あなたの内側に、あなたの全存在を守る仕方で、あなたと共に居て下さるからです。だから、あなたは勇気を持って、希望をもって生きていくことができるのです。神の愛が、あなたをしっかりと支えていてくださるからです。


昇天日説教「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」

2009-05-21 11:52:41 | 主日礼拝説教
テトスの手紙2章11~15節
2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。


 今日は主のご復活から丁度40日目にあたり、教会では主の昇天日として憶えています。使徒言行録の1章には、十字架に死んで、墓に葬られ、復活された主キリストは、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れてくださり、神の国について話されたと記されています。そして40日の後に、オリブ山で弟子たちが見ている中を天にあげられたわけです。
 
 使徒言行録の1章6節からにこのようにあります。
「1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」
 主の復活ですとか、降誕というのは、わたしたちは大変盛大にお祝いをいたしますけれど、主の昇天はあまり聞きなれない方が多いのではないかと思います。主キリストがお生まれになった、十字架に死なれた、復活させられたといいますと、何か、わたしのために主が生まれ、十字架にかかられ、復活されたんだということがわかりますけれど、主の昇天、主キリストが天に挙げられたといいますと、わたしの救いと何か関係があるんだろうかと思うわけです。イエス様がわたしの救いのためのすべてをなし終えられたので、点に帰られただけではなかったのかと思ったりするわけです。ところが、わたしたちが礼拝の度に告白している使徒信条には主の昇天がしっかりと入っていまして、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」とあるわけです。天に昇り全能の父なる神の右に座してくださった。キリスト者というのは、洗礼によって主の死と復活に結ばれたわけです。それは死んで復活するということに終着点があるのではありません。主キリストが、天に昇り父なる神の右に座されたように、わたしたちも罪が赦され、永遠のいのちを与えられ、天の父なる神の御前に立つ、そういうものとされるんだという大切な信仰の事柄、それが主の昇天です。主イエスは、先ほども申し上げましたけれど、罪人の救いのためのすべての業が完了したので、ただ天に帰られたというのではないのです。はじめに讃美した讃美歌の159番の4節に、「地にて朽つべき人をも天に、昇らせたまいし救いの主よ」と歌いました。地にあって朽ちていく、そのようなものでしかなかったわたしたちを、復活のキリストは天に昇られ、わたしたちもまた、主が天に挙げられたように、終わりの日、天に挙げられ、父なる神の御前に立つ、そういう恵みが示されているわけです。

 主キリストが天に挙げられ、弟子たちが立ち尽くしていると、二人の天使が現れてでしたちに語ります。「1:11 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」天に挙げられた主イエスは、あなたがたが見ていたのと同じ有様で、またおいでになると言うのです。何のために主イエスはまたおいでになるのでしょうか。それはあなたを天に迎えるため、父なる神様の前に立つものとしてくださるために他なりません。キリスト者の信仰、キリスト教の信仰というのは、この地上を生きるということにおいてもそうですけれど、神の国、この地上のいのちの向こう側にも、更に大きな希望が語られている。そういう信仰です。

 今日朗読されたテトスの手紙では、2章11節からですけれど、このようにありました。「2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」
ここにすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたとありました。主イエス・キリストがこの地上に生まれ、十字架におかかりになり、死んで復活させられ、天に挙げられた、この主イエス・キリストを指差して、パウロは神の恵みが現れたと言うのです。
 「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」それは、わたしたちが「お恵みがありますように」とか、「恵まれた」というような意味で使っている「恵み」とは異なって、まさにこれこそ恵みの本質だという、他の何を持ってきても代わりがきかない、そういう恵みとしてのイエス・キリストが語られているわけです。主イエス・キリストがパウロの語る恵みの実体であられるわけです。
 この、まさに神の恵みそのものであるイエス・キリストの出現によって、受肉によって、2章12節「わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、」とあるように、わたしたちは地上の生涯を救われたものとして生きていくことができるわけです。更には続く13節「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」とあるように、将来に、わたしたちの行く手に、栄光の内に現れてくださる、わたしたちの救い主であるイエス・キリストと出会う、そういう希望を頂いているのです。

 さて、わたしたちは救いとか、信仰生活というのは死んだ後のこととか、天国に行くことと結びつけて、意外とこの現在のわたしの事柄として捉えることが少ないような気が致します。しかし今日の聖書の箇所でパウロは「2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と言っているように、救われた者の生き方というのがあるんだと勧めているのです。信仰というのは、神を信頼し、神を愛するということです。この神への愛というのは、自分を過去に留まらせることは決してありません。キリストに似たものとされたい、そういう願いが与えられるでしょうし、救われたものとしての生き方を生きるようにと、そう願うようになるのだと思います。
 福音宣教とか、伝道とかいうのは、聖書の言葉を人々に知らせればそれで良いのかと言いますと決してそんなことはありません。キリスト者とされた一人ひとりの生き様を通して、十字架のキリストが浮き上がらせられていく。指し示されていく、そのようなものではないでしょうか。

 そしてこの神に愛され、神を愛するキリスト者の歩みは、地上の歩みだけで終わるのではありません。「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリスト」が、再びわたしたちを、みそばに迎えるためにわたしたちのもとに来て下さるのです。わたしたちの生涯には、先立って、主の十字架と復活、昇天という救いの出来事があり、わたしたちの行く手には主キリストの再臨という、神の前に立つその恵みの約束があるのです。わたしたちの地上の歩みは、前と後ろから、神の恵みにしっかりと支えられ、守られているのです。ですから、わたしたちは安心して歩んでいくことができるのです。

■祈りましょう
父なる神よ。
あなたはわたしたち罪人の救いのために、御子イエス・キリストを世にお与えになり、十字架と復活、また昇天によって、わたしたちの救いの御業を成し遂げて下さいました。主の昇天日にあたり、わたしたちはあなたが、ここにあるわたしたちをもあの日の主と同じように、天に挙げ、あなたの御前に立たせてくださることを深く感謝いたします。どうかあなたに愛されたわたしたちが、あなたを愛し、愛されたものとしての生涯を、歩むことができますように。わたしたちの救い主、イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン