【聖書】ルカによる福音書8章57-62節
イエス・キリストを信じて生きていく、洗礼を受けてキリスト者として生きていくというのは、それは言い換えるならば、キリストの弟子として生きていくということです。
キリストの弟子というのは、何も牧師や聖職者のことだけを言っているわけではありません。イエス・キリストを信じて生きていくキリスト者は、それはキリストの弟子であり、神様がキリストのみ足跡に従うようにと召し出しておられる一人ひとりであることを、わたしたちは覚えたいと思います。神が召しだしておられ、キリストの弟子として呼び集めてくださっている。そこには、キリストの弟子として生き方というのも同時に問われているということではないでしょうか。
今日わたしたちの聞いた福音書の箇所には、ルカによる福音書の9章57節以下ですけれども、主イエスに従っていこうとするもの、従うようにと呼びかけられている者が三人登場します。
まず一人目の人は57節に出て参ります。
「9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」
「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」と、そのように言うのです。何とも勇ましい言葉です。それを聞いて主イエスは「9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」そのように仰せになるわけです。
二人目の人は59節に出て参ります。「9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。」そこで主イエスは「9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれる。
三人目の人は「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
この三人はいずれもが、勇ましい決意をもって従おうとしている者、他のことが解決したら従おうという者、従い方こそ違いますけれど、誰もが主イエスに従っていこうとしているわけです。
わたしたちの中にも、こうした色々な主イエスに従っていこうとする者の姿というのがあると思います。
洗礼を志願してこられる方の中にも、これから一生懸命立派な信仰者となれるように頑張ります!励みます!という方もおられますし、ずっと礼拝にいらしている方に、こちらから洗礼をお受けになりませんかと訪ねますと、いろいろと事情を仰る方もおられます。
この三通りのあり方を通して主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。
一番最初に出て参りました人は、「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」といいます。そこで主イエスは「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」と仰せになる。自分の決意や熱心さで従っていこうとする者に、神に従うというのは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」つまり、その生涯をまったく神様のご配慮に委ねて生きていくものなんだということを教えておられるのです。信仰というのは、自分の力や信仰心でやっていくことができるものではない。
主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と仰せになるわけですけれども、マタイ福音書の6章で主イエスはこのように仰せなりました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
今日の福音書の箇所で主イエスは、「キリストに従って行くというのは、生半可な決意ではいけない。枕するところがなくても辛抱できるくらい立派な決心がなければならないんだ」と、そういうことを言っておられるのではないのです。
キリストに従っていくというのは、たとえ枕するところがなくても、空の鳥、野の花を美しく装い養って下さる神様、天の父なる神様に全く信頼して生きていく、そういうことなんだということを教えて下さっているのです。そのとき初めて、わたしたちはキリストに従う者として生きていくことが可能となるのではないでしようか。
さて、二番目の人ですけれども、この二人目の人は59節に出て参ります。この人は最初に出てきた人とは違って、主イエスから「9:59 「わたしに従いなさい」と言われた」人物です。主イエスが従うようにと呼びかけ、招いておられるのです。
ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」」と、そのように言います。大切な父親が亡くなったのでしょうか。そこで主イエスは60節を見ますと、「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれるわけです。わたしたちは、こういう主イエスのお言葉を聞きますと、主イエスは、人の気持ちに同情してくださらないのか、何か冷たいのではないかと、そのように感じるかもしれません。しかし主イエスはそこで、そのような事を言おうとしておられるのではないでしょう。
この人には、主イエスに従うよりも、何か理由をつけてでも今の自分の生活に留まっていたいという思いがあったのかもしれません。または、このこととあのことさえ片付けば、自分の抱えている大切な問題が片付けば、そうしたら主イエスに従って行けると思っていたのかもしれません。いずれにしても、自分の条件が整ったときに従っていくか行かないか自分が判断しようとする。そこで主イエスは「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」と仰せになる。心配しないで、キリストに従って行きなさいと招いておられるのです。
最後に三人目の人ですけれども、61節で「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。この人も二番目の人と少し似ています。家族に別れを言いに行かせてくださいというのです。
その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
主イエスに従っていく信仰者は、家族を愛してはいけないとか、大事にしてはいけないということが言われているのではありません。主イエスに従っていくというのは、それほど大切なことも神様のいつくしみ深い御手に委ねて生きていくことができるんだということを福音書の御言葉は語っているのです。
今日の箇所には、福音書の見出しに「弟子の覚悟」とありますので、余程の決意、決心がなければ従っていくことはできない、そういうことなんだと思うわけですけれども、しかしキリストの福音というのは、そういう自分の熱心さや情熱で従っていくようなものではないのではないでしょうか。やはり、キリストに、家族も、仕事も、枕するところつまり日ごとの生活も、何もかも全く委ねるということなくしては歩み得ないんだということではないでしょうか。言い換えれば、わたしたちは、その生涯を支え、豊かに与えてくださるキリストにすべてを任せて、従っていくことができるんだということなのです。
主イエスに従っていこうとするわたしたちは、やはりキリストのご生涯に眼を注ぐ必要があるのではないでしょうか。主イエスがそのご生涯においてどのように歩まれたのか、それはすべてを天の父のいつくしみに委ねて祈りつつ歩んでいかれた、それはあのゲッセマネと十字架の出来事によって鮮明に描き出されています。ゲッセマネ、そして主の十字架、それは、「父よわたしの霊を御手に委ねます」との祈りに集約されるように、苦しみの極みにあっても、いのちの極限にあっても、ご自身をまったく天の父に委ねておられる。その主が、わたしたちに従ってくるようにと招いておられるのです。
献身の生涯、そしてキリストに従っていくキリスト者の生涯というのは、他ならないキリストご自身が責任をもっていてくださる。必要を満たし、日ごとの糧を与えてくださる。このキリストの恵みに支えられることによってのみ、わたしたちはキリストに従うことができるのです。いや従って行かせていただける、そのことを深く感謝したいと思うのです。
イエス・キリストを信じて生きていく、洗礼を受けてキリスト者として生きていくというのは、それは言い換えるならば、キリストの弟子として生きていくということです。
キリストの弟子というのは、何も牧師や聖職者のことだけを言っているわけではありません。イエス・キリストを信じて生きていくキリスト者は、それはキリストの弟子であり、神様がキリストのみ足跡に従うようにと召し出しておられる一人ひとりであることを、わたしたちは覚えたいと思います。神が召しだしておられ、キリストの弟子として呼び集めてくださっている。そこには、キリストの弟子として生き方というのも同時に問われているということではないでしょうか。
今日わたしたちの聞いた福音書の箇所には、ルカによる福音書の9章57節以下ですけれども、主イエスに従っていこうとするもの、従うようにと呼びかけられている者が三人登場します。
まず一人目の人は57節に出て参ります。
「9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」
「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」と、そのように言うのです。何とも勇ましい言葉です。それを聞いて主イエスは「9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」そのように仰せになるわけです。
二人目の人は59節に出て参ります。「9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。」そこで主イエスは「9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれる。
三人目の人は「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
この三人はいずれもが、勇ましい決意をもって従おうとしている者、他のことが解決したら従おうという者、従い方こそ違いますけれど、誰もが主イエスに従っていこうとしているわけです。
わたしたちの中にも、こうした色々な主イエスに従っていこうとする者の姿というのがあると思います。
洗礼を志願してこられる方の中にも、これから一生懸命立派な信仰者となれるように頑張ります!励みます!という方もおられますし、ずっと礼拝にいらしている方に、こちらから洗礼をお受けになりませんかと訪ねますと、いろいろと事情を仰る方もおられます。
この三通りのあり方を通して主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。
一番最初に出て参りました人は、「「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」」といいます。そこで主イエスは「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」」と仰せになる。自分の決意や熱心さで従っていこうとする者に、神に従うというのは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」つまり、その生涯をまったく神様のご配慮に委ねて生きていくものなんだということを教えておられるのです。信仰というのは、自分の力や信仰心でやっていくことができるものではない。
主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と仰せになるわけですけれども、マタイ福音書の6章で主イエスはこのように仰せなりました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
今日の福音書の箇所で主イエスは、「キリストに従って行くというのは、生半可な決意ではいけない。枕するところがなくても辛抱できるくらい立派な決心がなければならないんだ」と、そういうことを言っておられるのではないのです。
キリストに従っていくというのは、たとえ枕するところがなくても、空の鳥、野の花を美しく装い養って下さる神様、天の父なる神様に全く信頼して生きていく、そういうことなんだということを教えて下さっているのです。そのとき初めて、わたしたちはキリストに従う者として生きていくことが可能となるのではないでしようか。
さて、二番目の人ですけれども、この二人目の人は59節に出て参ります。この人は最初に出てきた人とは違って、主イエスから「9:59 「わたしに従いなさい」と言われた」人物です。主イエスが従うようにと呼びかけ、招いておられるのです。
ところが、この人は「「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」」と、そのように言います。大切な父親が亡くなったのでしょうか。そこで主イエスは60節を見ますと、「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」といわれるわけです。わたしたちは、こういう主イエスのお言葉を聞きますと、主イエスは、人の気持ちに同情してくださらないのか、何か冷たいのではないかと、そのように感じるかもしれません。しかし主イエスはそこで、そのような事を言おうとしておられるのではないでしょう。
この人には、主イエスに従うよりも、何か理由をつけてでも今の自分の生活に留まっていたいという思いがあったのかもしれません。または、このこととあのことさえ片付けば、自分の抱えている大切な問題が片付けば、そうしたら主イエスに従って行けると思っていたのかもしれません。いずれにしても、自分の条件が整ったときに従っていくか行かないか自分が判断しようとする。そこで主イエスは「9:60 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」」と仰せになる。心配しないで、キリストに従って行きなさいと招いておられるのです。
最後に三人目の人ですけれども、61節で「9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」」とそのように言います。この人も二番目の人と少し似ています。家族に別れを言いに行かせてくださいというのです。
その人に主イエスは、62節を見ますと、「9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。」とあります。
主イエスに従っていく信仰者は、家族を愛してはいけないとか、大事にしてはいけないということが言われているのではありません。主イエスに従っていくというのは、それほど大切なことも神様のいつくしみ深い御手に委ねて生きていくことができるんだということを福音書の御言葉は語っているのです。
今日の箇所には、福音書の見出しに「弟子の覚悟」とありますので、余程の決意、決心がなければ従っていくことはできない、そういうことなんだと思うわけですけれども、しかしキリストの福音というのは、そういう自分の熱心さや情熱で従っていくようなものではないのではないでしょうか。やはり、キリストに、家族も、仕事も、枕するところつまり日ごとの生活も、何もかも全く委ねるということなくしては歩み得ないんだということではないでしょうか。言い換えれば、わたしたちは、その生涯を支え、豊かに与えてくださるキリストにすべてを任せて、従っていくことができるんだということなのです。
主イエスに従っていこうとするわたしたちは、やはりキリストのご生涯に眼を注ぐ必要があるのではないでしょうか。主イエスがそのご生涯においてどのように歩まれたのか、それはすべてを天の父のいつくしみに委ねて祈りつつ歩んでいかれた、それはあのゲッセマネと十字架の出来事によって鮮明に描き出されています。ゲッセマネ、そして主の十字架、それは、「父よわたしの霊を御手に委ねます」との祈りに集約されるように、苦しみの極みにあっても、いのちの極限にあっても、ご自身をまったく天の父に委ねておられる。その主が、わたしたちに従ってくるようにと招いておられるのです。
献身の生涯、そしてキリストに従っていくキリスト者の生涯というのは、他ならないキリストご自身が責任をもっていてくださる。必要を満たし、日ごとの糧を与えてくださる。このキリストの恵みに支えられることによってのみ、わたしたちはキリストに従うことができるのです。いや従って行かせていただける、そのことを深く感謝したいと思うのです。