ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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説教「涙の拭われるとき」Ⅱテサ1:1-12

2007-12-15 16:45:50 | 主日以外の説教
■聖書:Ⅱテサロニケ1:1-12■讃:171/290
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。1:4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。1:5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。1:6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、1:7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。1:9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。1:10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
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今年初めてのクリスマスカードが届きました。誰も、大切な方から手紙を頂くと嬉しいものです。
今日開かれていますテサロニケの信徒への手紙は、イエス・キリストに結ばれたテサロニケの教会へと宛てられた手紙です。しかし、この手紙はまた、いまここにある私たちの教会にあてられた手紙でもあるわけです。わたしたちは聖書に記された手紙を、2000年近く前の古文書のようにして読んでいるのではありません。今日、ここに生きているわたし達に宛てられた手紙、主のみ言葉として、今ここに開いているのです。

さて、テサロニケの教会はどのような教会だったのでしょうか?3節にこのようにあります。「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」
ところが、そういう神の恵みの中にある教会が、4節。
「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」というのです。神の恵みの中に生かされているはずの教会が、ありとあらゆる迫害と苦難の中にいるというのです。手紙を受け取った教会は、キリスト者は、苦しんでいるというのです。

■私たちの苦しみ
信仰が成長し、愛が豊かにされていた。そういう恵みの中に入れられたはずの教会が、キリスト者たちが、迫害され、苦しんでいるのです。いまわたし達の生活のすぐ側には、このテサロニケの教会が迫害されたような、信仰のために命をも脅かされる、そういった苦しみはないかもしれません。しかし、人それぞれに、とても簡単には言い切れない悲しみや痛みがあります。涙を流し、助けを求めて叫んでいる人々がいる。ほかならない神の民がそういう痛みの中にいるというのです。

今年6月、一年の闘病生活の末に親しい人を天に送りました。その前夜式、聖歌隊の歌った故人愛唱歌は讃美歌106番。「荒野の果てに」でした。前夜式では異例のことですが、どうしてもとの希望でこのクリスマスの讃美歌が歌われました。
「荒野の果てに、夕日は落ちて、たえなるしらべ、あめより響く。」この方は、奥様と高校生の子供2人を残して御許に召されました。遺された者にしてみれば、まさに荒野の果てに夕日が落ちた。自分たちの大切な暖かい団欒が崩れ落ちた、そういう痛みであります。荒野の果てに夕日が落ちるような経験をするわけです。ところが、讃美の歌はそれで終わらないのです。そこで、天から響く声を聞いた。「グローリア!!」「神に栄光あれ!!」わたしたちは、あまりに辛い出来事のゆえに、もう自分の光はどこにもないのではないか、まさに荒野の果てに夕日が落ちてしまったかのような気持ちに沈むとき、そこに暗闇を突き破って響く天からの声がある。「神に栄光あれ!!」そして、神の憐れみをうけた地の民に、ほかならないあなたに平安があるように。
愛するものを失うことだけではありません。とても人には理解してもらえないと思うような、痛みや苦しみの只中で、私たちは自分たちのすがっていたものが見事に崩れていくことを知ります。しかしそこではじめて見えるものがあるのです。それは主イエスのみ姿です。苦しみの中で、わたしたちはこのお方にすがるしかない。この方に信頼するしか立ち上がることができない、そういうお方に出会うのです。
 わたしたちの人生の光が落ちたと思える所で、天から響くなぐさめの声があるのです。

テサロニケの手紙は、様々な苦しみの中にある者に、慰めの御言葉を語っています。安息を与え、報いを与えるために主イエスが来られるというのです。再び来られる主イエスがお与えになる安息、慰めとは何でしょうか。

■神は裁いて下さる。
ところが、その先を読んでいきますと、厳しい裁きの言葉が続けて記されています。
1:8 主イエスは来られ、神を認めない者や、福音に聞き従わない者を罰し、彼らは、主の前から退けられ、切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受ける。
主イエスが来られるとは、私たちの「救いの時」であると同時に「裁きの時」でもあります。神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの聖書の箇所では、この「裁き」が語られています。しかし、本当の慰め、本当の休息は、この裁きなくしてはありえないのです。神は、わたしたちに全き慰めを与えるために、裁きを行われるのです。テサロニケの教会は、そしてここに集うキリスト者たちは、ほかならない私たちは、御子イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救われた者であります。神が、神を認めない者や、福音に聞き従わない者をまったく滅ぼされるというのは、わたしたちを苦しめている一切のものから、私たちを完全に解き放って下さるということであります。
けれども、このような裁きのみ言葉を聞きますと私たちは怖くなるのではないでしょうか。やはりわたしたちの内には罪があります、神の前に相応しくない者であったわけです。ですから、自分の姿を見ますと怖くなるのです。しかし手紙は、11節。「 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとして」くださるように。神があなたを相応しいものとして下さるように祈っていると言うのです。
手紙は、わたしたちを脅そうとしているのではなくて、痛み傷ついた教会を、わたしたちを癒そうと、励まそうとしているのです。元気付けようとしているのです。

主イエスを待つとは、恐れ不安に脅えて待つのではありません。この裁き主、主イエスは、自ら私たちの裁きを身に負って、わたしたちを贖って下さった救い主でもあるのです。罪と絶望の中にあった私たちを愛して、ベツレヘムの馬小屋に生まれ、わたしたちの罪、裁かれるべきわたしたちの裁きを身に負って十字架に死なれ、ただ滅びに向かうしかなかった者に、ほかならない私たちに、永遠の命の希望を与えて下さった。この主イエスが、再び来られ救いを完成して下さるのです。ですから、神の愛と救いの喜びに包まれた待望の時として、わたしたちは主イエスがふたたび来られるのを、まことの裁きをなし、救いを完成して下さることを待ち望んでいるのです。ここにわたしたちの慰めがあるからです。と同時に、わたしたちは神の裁きの前に生き方を問われているのです。

聖書は主イエスが来られるといいます。わたしたちは御言葉を信じて待つのです。そういう恵みへと主が私たちを招いて下さっているのです。
ベツレヘムに私たちの主がお生まれになったように、また主イエスは再び私たちのもとに来て下さる。そして全き平安と休息を下さるのです。苦しむテサロニケの教会の涙、地上を生きる私たちの涙を、主がぬぐって下さるのです。

そのとき、12節。
1:12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
という御言葉が、わたしたちの上に現実のものとなるのです。
神は独り子を賜うほどに、私たちを愛し、死から命へ、絶望から希望へ、十字架から復活へと導きのぼって下さる。わたしたちは、この愛の御手にすべてをゆだねて、再び来たりたもう主イエスを心待ちに歩んでいくのです。

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