「わたしのもとに来させなさい」マルコ10:13-16
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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主イエスが子供達を腕に抱いて祝福しておられる。今朝開かれております福音書の箇所は、まことに美しい情景を描き出しております、またそれゆえに沢山のキリスト教絵画の題材にもなってきました。
この朝、私たちに与えられた神の御言葉に共に聞きたいと思います。
マルコによる福音書10章13節 新約聖書の81頁です。
10:13 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」
人々は、自分の子供達を主イエスに祝福していただこうと、主イエスに触れて頂くために、み側に連れてまいりました。主イエスがおられた当時のユダヤでは、子供達を礼拝所に連れて行って、祝福をしてもらうという習慣があったようです。ですから、この日もまた、主イエスに触って頂けば、子供達が祝福されると単純に考えて、人々は子供達を、み側に連れてきたと言えますでしょう。
ところが福音書の御言葉は、「弟子達はこの人々を叱った」と伝えております。弟子達は、主イエスのみ側に来ようとする幼子達をさえぎろうとします。主イエスのお側に子供が来ては煩わしいと思ったのです。弟子達なりに、主イエスのもとに行くものの姿はこうあるべきだと考えていたのであります。
その時、主イエスは14節。
10:14 これを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と仰せになります。
主イエスはこれを憤られたと、非常に強い言葉が用いられています。
弟子達は、彼らなりの見方で主イエスのもとに子供達が来ては煩わしいと思ったのでした。ところが、当の弟子達は、彼らが主の前に相応しかったから主イエスに召し出され、主イエスの弟子とされたのでしょうか。ここに集うわたしたちもまた、私たちが主イエスのみ側にいるに相応しかったから主イエスの救いに預かり、私たちが相応しかったから主の召しに与ったのでしょうか。この日、主イエスのもとに集った弟子達もまた、欠けだらけの存在でした。
主イエスのもとに招かれ、迎えられているというのは、私たちの相応しさの問題ではありません。私たちが相応しくないにもかかわらず、主イエスが私たちのもとに来られ、またこの私たちを神の国へと招いておられるのであります。
主の前に出るものの相応しさを問おうとした弟子達、一方で、主を求めた子供達とその子供達を連れてきた人々。ここには何と大きな差があることでしょうか。
私たちを求めるキリスト。主イエスは、わたしたちの相応しさゆえに、わたしたちを救おうとしておられるのではありません。私たちの姿、にもかかわらず、救おうとなさるのです。
その意味で、私たちは、この主イエスの前に、赦されるにまかせ、救われるにまかせるほかないのです。ところが、これこそ、神の前に出るものの姿なのです。イエスは人々からすれば、世間一般からすれば、到底相応しくないと思われる者、そういう者を救わんと世に来られたのであります。
私たちは、幼子のようになりなさいと言われますと、なるほど、純真で
心が清められなければ神の国に入れない。さあ一生懸命精進して、神の国に相応しい者になろうと思い違いをしやすいのです。幼子のような純真さを持たなければならないと、また律法主義的な発想をしてしまうのです。しかし、今日の福音書の御言葉が語っているのは、そういうことではありません。
聖書の記された時代にあって、現代のわれわれが考えるように、子供を理想化して見るそのような見方はありませんでした。子供たちは、その資格においても、一人の個人として見られず、当然地位も権力もありません。この当時のユダヤ教の世界では、その人が律法を守っているかどうかが、人を判断する基準でありました。子供は律法を知らず、覚えておらず、守ることも出来ない。そうしますと、子供は神様のみ前で弱い存在、取るに足りない存在として扱われてきたわけです。神様の御前に誇ることが出来るものを何も持っていない存在、それが子供でありました。
つまり、「幼子のようになれ」と主イエスが仰せになるとき、現代の私たちが思うような罪汚れのない、純真で素直な子供の姿を思い描く時代ではありませんでした。先ほど申しましたように、主イエスが「幼子のようにならなければ」と仰せになるとき、それは、自らの力では一人前のことが出来ない、父に依存するしか生きるすべがない、そういう子供たちの姿を語っておられるのです。
子供たちは何も持たない空手のままで、主イエスのもとに参ります。そして主イエスは、その子供達を喜んで迎えてくださる。そればかりが、子供達は主イエスの御手から良きものを受ける。神の国を受けるのです。上から与えられるものを、与えられるままに素直に受け入れる、そのことが語られているのです。
この朝開かれています聖書の箇所に続いて、富める青年の話が記されています。この青年は、神の前に出る者の相応しさを問おうとしたわけです。「善い先生。どんな良いことすればよいでしょうか」つまり、自分の相応しさを求め、良い方ご自身を求めてはいなかったのです。ここにも、幼子と青年の大きな違いがあります。
15節にはこのようにあります。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
自分でしようとするのではない、そうではなくて、神のなされるままに任せる、そういう子供の姿を主イエスは教えておられるのです。われわれ人間が神の国に入るに相応しい条件を作ることも、それに合格することも出来ません。
神の国は、神の側からわれわれに与えられる一方的な恵みの賜物そのものであります。
■新しいアダム
聖書の一番初めに、創世記という書物があります。ここには、神に創造された最初の人物「アダム」という人が出て参ります。アダムは神に創造され、神の造られた主の恵みに満ちた園に生かされていました。ところが、神に食べるなと禁じられていた木から、その木の実を取って食べたことで眼が開かれ、自分が裸であることに気づくのです。アダムはその罪の結果、自分が裸であること、あらゆるものに不足していることに気がついたのです。そして神から逃げます。アダムは神の前に相応しくない姿であると思ったわけです。
主イエスは、最後のアダム であると聖書は告げます。主イエスは、子としての生き方をわれわれに示されました。主イエスは、どこまでも天の父に信頼して生きたお方です。主イエスのご生涯は、全き天の御父への信頼によるご生涯であったと言えますでしょう。
マルコ1章10節以下に主イエスの洗礼の記事があります。主イエスが、公生涯の初めにバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、天からの声がこのように告げます。「あなたは私の愛する子。わたしのこころにかなうものである。」これこそ、主イエスのご生涯をあらわす言葉であります。今日開かれておりますマルコによる福音書は、「神の子」「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と一章一節を書き出しています。
イエスの本当の姿が示された言葉、神の宣言であります。
主イエスは、神の愛される子であった。主イエスは、世に遣わされ、この主イエスを通してまた、すべての人が自分も神に愛されている存在であり、神の子とされているのだと知る。天の父は、御子イエス・キリストのゆえに、今朝ここに集う私たちをも、子として招いて下さっているのです。
この世の声は、「愛する子」と呼びたもうお方の声から、私たちを遠ざけようとします。しかし、わたしたちの存在は、このような私たちにもかかわらず愛し、無条件に愛し求めたもう神の熱愛によって求められ、探されている存在なのであります。
15節にお目をお留め下さい。15節。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここにあります「はっきり言っておく」とは、「アーメン。私は言う」そういう荘厳な言葉。宣言であります。子供のようにならなければ、つまり、自分で自分を守ろうとするのではなく、保護者である方に全く信頼して任せる、そういうものでなければ神の国を受けることはできないというのです。しかし、それこそまさに福音そのものなのであります。自らの相応しさに合格したものしか救われない、神の国に招かれないとしたならば、誰がその相応しさに適すると認められるでありましょうか。
私たちは、自らの相応しさを求めようとすればするほど、自らの貧しさに気づきます。
しかし、キリストは、そういうわれわれの救いのための一切をなして下さったのです。われわれは、この方に一切を信頼するほかないのです。
主イエスは、わたしたちがまだ相応しくない時、まだ罪人であったときに十字架を負い、死んで下さり、わたしたちの贖いとなって下さったのです。
私たちが純真でも、心清くもない、そういう罪の中にあった時、神は独り子を世に遣わし、私たちに対する愛を示されたのです。
子供とは先程申し上げましたように、神様のみ前に誇ることが何もない以上、ただ神様の恵みにすがるしかできない存在です。この恵みにすがるしかできない生き方のことを『子供のように神の国を受け入れる』とイエス様はおっしゃっているのです。
神の国は、神の御前に何も誇ることが出来ない存在、他人から取るに足りない存在と思われている人たちのものなのです。自分の力で何かをなすことが出来ないことを知り、神様にすがって生きていくものが神の国にはいることが出来る。そう言った人たちこそ、一方的な神様の賜物である救いを与えられると御言葉は語るのです。
ここに集う私たちもまた、主イエスのみ前に連れてこられた、主イエスのもとに集いきた者の一人であります。御子イエス・キリストを世に賜い、その死と復活とによって私たちを神の子としたもう天の父は、御許に集う幼子にすぎない私たちを、腕に抱き、ねんごろに祝福を下さる。神の国の豊かな恵みを下さるのです。
主イエスは今日もまた、神の国へと人々を招いておられるのです。
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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主イエスが子供達を腕に抱いて祝福しておられる。今朝開かれております福音書の箇所は、まことに美しい情景を描き出しております、またそれゆえに沢山のキリスト教絵画の題材にもなってきました。
この朝、私たちに与えられた神の御言葉に共に聞きたいと思います。
マルコによる福音書10章13節 新約聖書の81頁です。
10:13 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」
人々は、自分の子供達を主イエスに祝福していただこうと、主イエスに触れて頂くために、み側に連れてまいりました。主イエスがおられた当時のユダヤでは、子供達を礼拝所に連れて行って、祝福をしてもらうという習慣があったようです。ですから、この日もまた、主イエスに触って頂けば、子供達が祝福されると単純に考えて、人々は子供達を、み側に連れてきたと言えますでしょう。
ところが福音書の御言葉は、「弟子達はこの人々を叱った」と伝えております。弟子達は、主イエスのみ側に来ようとする幼子達をさえぎろうとします。主イエスのお側に子供が来ては煩わしいと思ったのです。弟子達なりに、主イエスのもとに行くものの姿はこうあるべきだと考えていたのであります。
その時、主イエスは14節。
10:14 これを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と仰せになります。
主イエスはこれを憤られたと、非常に強い言葉が用いられています。
弟子達は、彼らなりの見方で主イエスのもとに子供達が来ては煩わしいと思ったのでした。ところが、当の弟子達は、彼らが主の前に相応しかったから主イエスに召し出され、主イエスの弟子とされたのでしょうか。ここに集うわたしたちもまた、私たちが主イエスのみ側にいるに相応しかったから主イエスの救いに預かり、私たちが相応しかったから主の召しに与ったのでしょうか。この日、主イエスのもとに集った弟子達もまた、欠けだらけの存在でした。
主イエスのもとに招かれ、迎えられているというのは、私たちの相応しさの問題ではありません。私たちが相応しくないにもかかわらず、主イエスが私たちのもとに来られ、またこの私たちを神の国へと招いておられるのであります。
主の前に出るものの相応しさを問おうとした弟子達、一方で、主を求めた子供達とその子供達を連れてきた人々。ここには何と大きな差があることでしょうか。
私たちを求めるキリスト。主イエスは、わたしたちの相応しさゆえに、わたしたちを救おうとしておられるのではありません。私たちの姿、にもかかわらず、救おうとなさるのです。
その意味で、私たちは、この主イエスの前に、赦されるにまかせ、救われるにまかせるほかないのです。ところが、これこそ、神の前に出るものの姿なのです。イエスは人々からすれば、世間一般からすれば、到底相応しくないと思われる者、そういう者を救わんと世に来られたのであります。
私たちは、幼子のようになりなさいと言われますと、なるほど、純真で
心が清められなければ神の国に入れない。さあ一生懸命精進して、神の国に相応しい者になろうと思い違いをしやすいのです。幼子のような純真さを持たなければならないと、また律法主義的な発想をしてしまうのです。しかし、今日の福音書の御言葉が語っているのは、そういうことではありません。
聖書の記された時代にあって、現代のわれわれが考えるように、子供を理想化して見るそのような見方はありませんでした。子供たちは、その資格においても、一人の個人として見られず、当然地位も権力もありません。この当時のユダヤ教の世界では、その人が律法を守っているかどうかが、人を判断する基準でありました。子供は律法を知らず、覚えておらず、守ることも出来ない。そうしますと、子供は神様のみ前で弱い存在、取るに足りない存在として扱われてきたわけです。神様の御前に誇ることが出来るものを何も持っていない存在、それが子供でありました。
つまり、「幼子のようになれ」と主イエスが仰せになるとき、現代の私たちが思うような罪汚れのない、純真で素直な子供の姿を思い描く時代ではありませんでした。先ほど申しましたように、主イエスが「幼子のようにならなければ」と仰せになるとき、それは、自らの力では一人前のことが出来ない、父に依存するしか生きるすべがない、そういう子供たちの姿を語っておられるのです。
子供たちは何も持たない空手のままで、主イエスのもとに参ります。そして主イエスは、その子供達を喜んで迎えてくださる。そればかりが、子供達は主イエスの御手から良きものを受ける。神の国を受けるのです。上から与えられるものを、与えられるままに素直に受け入れる、そのことが語られているのです。
この朝開かれています聖書の箇所に続いて、富める青年の話が記されています。この青年は、神の前に出る者の相応しさを問おうとしたわけです。「善い先生。どんな良いことすればよいでしょうか」つまり、自分の相応しさを求め、良い方ご自身を求めてはいなかったのです。ここにも、幼子と青年の大きな違いがあります。
15節にはこのようにあります。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
自分でしようとするのではない、そうではなくて、神のなされるままに任せる、そういう子供の姿を主イエスは教えておられるのです。われわれ人間が神の国に入るに相応しい条件を作ることも、それに合格することも出来ません。
神の国は、神の側からわれわれに与えられる一方的な恵みの賜物そのものであります。
■新しいアダム
聖書の一番初めに、創世記という書物があります。ここには、神に創造された最初の人物「アダム」という人が出て参ります。アダムは神に創造され、神の造られた主の恵みに満ちた園に生かされていました。ところが、神に食べるなと禁じられていた木から、その木の実を取って食べたことで眼が開かれ、自分が裸であることに気づくのです。アダムはその罪の結果、自分が裸であること、あらゆるものに不足していることに気がついたのです。そして神から逃げます。アダムは神の前に相応しくない姿であると思ったわけです。
主イエスは、最後のアダム であると聖書は告げます。主イエスは、子としての生き方をわれわれに示されました。主イエスは、どこまでも天の父に信頼して生きたお方です。主イエスのご生涯は、全き天の御父への信頼によるご生涯であったと言えますでしょう。
マルコ1章10節以下に主イエスの洗礼の記事があります。主イエスが、公生涯の初めにバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったとき、天からの声がこのように告げます。「あなたは私の愛する子。わたしのこころにかなうものである。」これこそ、主イエスのご生涯をあらわす言葉であります。今日開かれておりますマルコによる福音書は、「神の子」「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と一章一節を書き出しています。
イエスの本当の姿が示された言葉、神の宣言であります。
主イエスは、神の愛される子であった。主イエスは、世に遣わされ、この主イエスを通してまた、すべての人が自分も神に愛されている存在であり、神の子とされているのだと知る。天の父は、御子イエス・キリストのゆえに、今朝ここに集う私たちをも、子として招いて下さっているのです。
この世の声は、「愛する子」と呼びたもうお方の声から、私たちを遠ざけようとします。しかし、わたしたちの存在は、このような私たちにもかかわらず愛し、無条件に愛し求めたもう神の熱愛によって求められ、探されている存在なのであります。
15節にお目をお留め下さい。15節。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ここにあります「はっきり言っておく」とは、「アーメン。私は言う」そういう荘厳な言葉。宣言であります。子供のようにならなければ、つまり、自分で自分を守ろうとするのではなく、保護者である方に全く信頼して任せる、そういうものでなければ神の国を受けることはできないというのです。しかし、それこそまさに福音そのものなのであります。自らの相応しさに合格したものしか救われない、神の国に招かれないとしたならば、誰がその相応しさに適すると認められるでありましょうか。
私たちは、自らの相応しさを求めようとすればするほど、自らの貧しさに気づきます。
しかし、キリストは、そういうわれわれの救いのための一切をなして下さったのです。われわれは、この方に一切を信頼するほかないのです。
主イエスは、わたしたちがまだ相応しくない時、まだ罪人であったときに十字架を負い、死んで下さり、わたしたちの贖いとなって下さったのです。
私たちが純真でも、心清くもない、そういう罪の中にあった時、神は独り子を世に遣わし、私たちに対する愛を示されたのです。
子供とは先程申し上げましたように、神様のみ前に誇ることが何もない以上、ただ神様の恵みにすがるしかできない存在です。この恵みにすがるしかできない生き方のことを『子供のように神の国を受け入れる』とイエス様はおっしゃっているのです。
神の国は、神の御前に何も誇ることが出来ない存在、他人から取るに足りない存在と思われている人たちのものなのです。自分の力で何かをなすことが出来ないことを知り、神様にすがって生きていくものが神の国にはいることが出来る。そう言った人たちこそ、一方的な神様の賜物である救いを与えられると御言葉は語るのです。
ここに集う私たちもまた、主イエスのみ前に連れてこられた、主イエスのもとに集いきた者の一人であります。御子イエス・キリストを世に賜い、その死と復活とによって私たちを神の子としたもう天の父は、御許に集う幼子にすぎない私たちを、腕に抱き、ねんごろに祝福を下さる。神の国の豊かな恵みを下さるのです。
主イエスは今日もまた、神の国へと人々を招いておられるのです。