ろごするーむ

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待降節説教「マリアの召命」

2007-12-05 11:32:20 | クリスマス説教
■讃94/95
■聖書 ルカによる福音書1章26~38節
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
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 待降節を迎えました。何となく慌しい季節、気がつくとクリスマスを迎え、年末を迎えていたというような12月ではありますけれど、忙しさ、慌しさの中にあっても、「待つ」ということを忘れずにいたいのです。イルミネーションやオーナメントで飾るだけのクリスマスではなくて、私たちの心を飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。私たちを着飾っているものを一つ一つ取り除いてみる。そうして、主の前に、自分自身の姿を省みてみたいのです。そのとき、そこに見えるのは誰にも見せたことのない、ベツレヘムの馬小屋のような汚く貧しい自分の姿かもしれません。しかしそのとき、本当にこの私のために、主のご降誕が必要なんだと思い知らされるのです。
 慌しさの中に生きているからこそ、また、クリスマスの行事やプログラムが盛りだくさんだからこそ、心静かに主の前で心を備える、そういう時を大切にしたいと思うのです。イスラエルの民が主の降誕を長い間待ち望んだように、私たちも祈りのうちに待降節の歩みを歩んでいきたいと思うのです。

 今朝開かれています福音書のみ言葉は、受胎告知の箇所です。
マリアは天使のみ告げを聞きます。「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」マリアは言います。「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男の人を知りませんのに。」
 ナザレの貧しい処女マリア。そのマリアが、ある日、思いもかけない声を聞いたのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」。 「どうしてそのようなことがありえましょう」とはマリアの心情そのままの言葉であります。マリアは納得がいかないのです。おじまどう訳です。

 この聖書の箇所は受胎告知と言われていますけれども、言い換えますならば、「マリアの召命」と言うこともできます。マリアが召された。ナザレの貧しい処女、マリアが、突如として主に召しだされたということであります。しかも、神の子を身ごもると言うのです。

 今朝私たちは、マリアがどのようにこの主の召しに応えたかということに心を向けたいのです。マリアは確かにおじまどいます。納得がいかないのです。そうです。起きているのは納得がいくような出来事ではないのです。まさに、納得などいくはずのないことがここに起きているのです。それが召し出しということです。召し出されるとりえなど全くない罪人の私たちが、神の召しを聞いた。ですから、ありえないことが起こっているのです。
 マリアにしてみれば、言うなれば絶望的な事態がおこったわけです。まだ未婚のマリアが神の子をみごもるというのです。ところが、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉の通り、この身になりますように」と言います。「お言葉通りこの身になりますように」どうしてマリアは、この召しを受け取ることができたのでしょうか。マリアの決心がついたからでしょうか。それとも、どうにでもなれと諦めたからでしょうか。どちらとも違います。

「お言葉の通りなりますように。」マリアはそのお言葉。神のみ言葉に信頼したのです。マリアは思いがけない召しの言葉に、恐れ、おじまどいます。マリアはあまりに重い召しを受けたわけです。ルカ5章を見ますと、ペトロの召命の記事が記されています。ペトロは主の召し出しの前に「私は罪人です」と叫びます。主の前に立つときに気づいたのは、ほかならないこの私が、罪人だったということであります。
 私たちも同じです。主が私たちを召されたというのは、あまりにおそれ多い、重い出来事であります。あまりに自分が無力で、私の内には到底この召しに応える力などないことを思い知らされるのです。しかし、あまりに相応しくないからこそ、もはや私たちは神にすがるほかないのです。

 恐れ、不安に満ちた私たちの心、思い乱れた心に、主のみ声が響きます。
「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」マリアは自分の力。自分の足元を見て納得がいったから主の召しを受け入れたのではないのです。納得など到底いかない出来事。まさにマリアが全身全霊で御子イエスを身ごもる。そういう事態の中で、それでも「主があなたと共におられる」「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む」「神には出来ないことは何一つない」そう言われる、神のみ言葉に信頼したのです。

 マリアは、主の召し出しの前にあって、もはや自分の貧しさ、みすぼらしさ、足りなさを思い煩うのではなく、神のみ言葉に信頼したのです。わたしたちもまた、この神のみ言葉に信頼して主の召しだしに応えていくのです。それが、マリアの召命の出来事です。

 しかし、そこにこそ恵みがあらわになるのです。ここで明らかになるのは、マリアの立派さ、つまり召された者がほめられることではなくて、神がそういう何の相応しさもない罪びとの我々を選び、憐れんで用いたもう神の恵みそのものであります。
 み使いは告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この「おめでとう」とは「喜びなさい、マリア」そういう言葉であります。おめでとう。喜びなさい。主があなたを召して下さった。恐れなくていい。あなたは神から恵みを頂いた。私たちの貧しさ、にもかかわらず、神があなたを召しておられる。ただほめたたえられるのは、この神のみなのです。
 私の生きているのは、私が召されたのは、ただ神の恵みによる。わたしは神をたたえるほかない。数に足らぬ私をも、主はお見捨てにならなかった。そのことであります。
 待降節の歩みにあって、わたしたちもまた、「お言葉通りこの身になりますように」、そのような心を整えたいと思うのです。

■祈り
 主なる神よ、自らの姿を見れば、小さく、貧しいものであり、悩みと迷いとのうちにある、弱い私たちを助け支えてください。どうか主の全き愛、神のみ言葉にすべてをゆだね、あなたの召しに応える者とならせて下さい。私たちの主。イエス・キリストによってお祈り致します。アーメン


東京神学大学・礼拝説教2007/12/05.Wed.


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