越前五山(白山、日野山、越知山、吉野ヶ岳、文殊山)の中心的霊山として知られている山で、養老元年(717年)泰澄大師が開いたと伝えられている。標高365m、大文殊を中心に小文殊(298m)と奥の院(350m)から成り、大文殊の本堂には文殊菩薩が安置されている。 小文殊の室堂には泰澄作か運慶作と言われる木造座像の阿弥陀如来、 さらに奥の院には泰澄作と言われる聖観音菩薩が祀られている。
大文殊にある本堂周辺からは約4300年前の縄文時代中期の土器片が発見されてことから、古来より神の宿る山として祭祀を行っていたのだろう。 また本堂の周囲に「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」、中央を護る「黄龍」が人工的に配された配石遺構があり、類例の無い霊山様式を残している。霊山の山頂から縄文土器が見つかったのは非常に珍しい事で、土器片が祭祀用とすれば、日本最古の霊山ということになる。
お墓参りの折 角原町からの登山道路を歩いてみた。道路は整備されていて歩きやすいが、熊に注意の看板がある。麓にあるお寺の話では庭の柿の木に熊がいた事もあるらしい・・・・。
駐車場から沢沿いの杉木立を歩くこと40分程で 二上、大村登山口からの道路と合流、尾根道の両脇にはカタクリの群生地が広がっている。途中の展望台からは眼下に福井方面、越前方面の展望が望まれる。
尾根伝いに20分程歩くと石仏が立ち並ぶ山頂の本堂に到着、 泰澄大師開山、越前五山の中心と書かれた標識のある山頂は開けていて眺望が良く遠く白山も望まれる。
泰澄生誕の地・泰澄寺
白山を開山したとされる泰澄は元の名を「越の大徳」といい682年(?)越前麻生津に生まれた。現在生誕の地は「泰澄寺」として残されている。 父は渡来系の秦氏の出で、朝鮮半島と大和を結ぶ海運業に従事していた。 幼少のころから泥で仏像を造っていたと言われ 越知山で修業を重ねていたが 36才の時、白山に神意を見いだし、山中に深く入る。白山で行基と出会い神仏習合思想を定着させた。 この頃の山岳宗教には教義がなく五感で受け止める自然崇拝だったが素朴な自然への敬いに理的な仏教の教えが加わり知識が加わった。 神仏習合は泰澄のいた越前、白山がその源であったと考えられ 以後仏教の思想、教義を加えて白山信仰は宗教になり 平安時代には天台宗と結びつきより体系化されていった。
高台にある泰澄寺の正面から見える文殊山は気高い。
我が家のお墓はこの文殊山の麓にある、泰澄さんの生家とは目と鼻の先、北陸地方は朝鮮半島からの帰化人が多いと言われるが、飛鳥時代の書物などひも解くと蘇我氏も物部も海部も藤原も・・・。稲作や鉄、水銀など先鋭的な文化はすべて朝鮮半島から伝わってきた。 また仏教のみならず八幡、稲荷など日本の代表的な神社宗教すら渡来人が関わっていた事実を江戸時代の国学者や明治の皇国思想が知らないふりをするのは笑える。
「越に来て富士とやいはん角原の文殊が岳の雪のあけぼの」 西行法師