神々のいる山を訪ねる

巡礼登山家を目指して修行中、 一人淋しく霊山を訪ね歩いています。

弥彦山と弥彦神社

2010-06-09 11:43:09 | 各地の山


「越後は弥彦山から」 越後平野にそびえる神の山。越後の国で最初に朝日に輝く山と言われ、海抜638mの頂上には御祭神の御神廟があり、神剣峰とも言われている。この主峰に対し北方にある峰を十宝山と称し御祭神が神宝を納められたと伝えられている。



御祭神は天香具命(アメノカゴヤマノミコト)弥彦山は高倉下命がお祀りされるずっと以前、古代から神の鎮座する霊山として、自然信仰の対象で崇拝されていたはずだから、高倉下命の登場は弥彦山ではなく弥彦神社の始まりとなる。

神武天皇東遷の最大の功労者がなぜ日本海の荒波を舟で渡って越の国に行かされたのか謎・・・・。



弥彦神社の境内は広く約四万坪、樹齢4~500年の古木に囲まれ、御本殿の背後に見える弥彦山の境内林、社有林は約六万坪の広大な苑地となっている。

拝殿の左手から弥彦山登山口に続く道は杉木立に囲まれた静かな散歩道で、万葉集に登場する植物とともに、歌碑が建てられ「万葉の道」として整備されている。新潟県森林浴の森百選に選ばれているだけあって、非常に居心地の良い神気漂う杜




登山道路は霊山の雰囲気満々で神気に浸り・・・。ロープウエー山頂駅と合流する9合目を過ぎたころ、突然左手にアンテナが、ゲッ・・・。ここにもか?? 







気を取り直して急な石段を歩き、奥宮の鳥居が見えた時、大きな建物が見えたと思ったら、それはそれは巨大な東北電力のアンテナ設置塔だった。鳥居も社務所も奥宮御廟森もかき消される威圧感で立つアンテナ、これはないでぇ!と思ったら左手の弥彦裏参道には巨大なNTTアンテナが・・・・。

 
山頂の奥宮 御神廟、右にも奥にも巨大なアンテナが見える。御神体山の風貌が台無しなのだが。

でもね、社務所で頂いた縁起には、

山上には日本山岳会の建てた記念碑、展望台もあり、NHK,民間放送局のテレビ塔、警察、県の防災無線塔、気象レーダー観測所、NTT,JR通信施設などがあって、神のいます山上から電波にのせて新しい文化の光を日夜県内外に放っている。


・・・。と書かれているので、別によそ者から文句言われる事ないのよね。国の為、人民の為なら神はわが身の安泰なん異に解さないと信じたい。



山頂から眺めた神社が見える杜は素晴らしかった。



神の住まう山は、杜があること、水の流れがあること、気があること。
すべて満たした、期待を裏切らない素晴らしい霊山で弥彦の町全体が境内のように見える。
神代から、越後の稲田を見守る「おやひこさま」は山頂ではなく、杜の中に佇んでいる。

1956年1月1日、福餅撒きに集まった参拝者が将棋倒しとなり、124人が死亡した。弥彦神社事件と呼ばれる痛ましい事故が起きている。


剣山とユダヤ人

2010-02-01 14:39:16 | 各地の山


徳島の山深くそびえる、剣山は標高1955m、石鎚山に次ぐ西日本第二の高峰で山頂の宝蔵石が太陽に輝くと遠く徳島市からも拝まれるという。山名の由来には、鋭い岩による説、神社の宝刀による説、安徳天皇の剣を山頂近くに埋めた故事による説などがあるが、近世以前の資料に記述のない秘密の霊山で、明治の神仏分離以降衰退した修験でも独自の展開をみせている興味深い山です。



日本百名山にも選ばれ、山頂までのアクセスが良いのでハイキング登山者が増え、平家の馬場と呼ばれる 笹に覆われた広々として美しかった一帯には



いつからか延々と木道が作られ、景観を台無しにしている。



剣山山頂下、大剣神社の背後にそびえる御神水が湧く石灰岩峰




この辺りは宮尾登美子の小説「天涯の花」で有名になった「キレンゲショウマ」の群生地




これだけならただの霊山なのですが・・・。剣山には隠された千古の謎がありまして・・・。
高根三教氏の学説によれば、アレキサンダー大王は、ヘブライ民族国家の国是である「神宝」を持ち出して、「崇神天皇」と変身なされております。さらにヨハネ黙示録に記されているとおり、剣山にはユダヤ民族が2千年にわたって求めて探しえない「契約の棺」が埋葬されております。つまり、日本民族の正系はユダヤにつながっており、この秘密を閉じ込めたことによって、日本民族は今日まで存続できた所以であります。



「かくて天にある聖所を開け。聖所の内に契約の棺を見たり、幾多の雷光と雷霆と地震と大いなる雹とありき」     黙示録11章19項



嘘か真か 伊勢神宮に納められている3種の神器「鏡」の裏面に書かれている言葉はヘブライ語に訳すと「モーゼ」が出エジプトの際に発した言葉。



アイヌ民族は最初に日本に来た正統派のユダヤ人(イスラエル)で崇神天皇より500年も前から日本に移住している。などなど、荒唐無稽なお話なのですが、だれも見たわけでないので真実だったりします。



弘法大師はこの秘密を探りあて、剣山を隠匿する為に高野山を開いたといわれ、四国八十八か所札所のいかなる場所からも意識的に剣山を望むことが出来ないようになっている。

確かに剣山は謎めいている。この本を剣神社で買ったのは随分前で、一読後放置していた。最近になって、巫女さんをしている友人から「ユダヤの神道って結構まともなの」って話を聞いて読みなおした。 明治以降、他の後進国みたいに、日本でキリスト教が広まらなかったのは、優れた文化と天皇を拝めた国家神道を保ったせいなのだが(廃仏は犠牲になった) 奴らは100年千年単位で物事を考えるから、神道に根を張り内部から乗っ取る画策だと思っていた。

最近メディアは 日本人は朝鮮や中国からの帰化人で、天皇は百済や新羅から来たという話を積極的に持ちだすようになった。歴史を知っている人ならどうってことないのに・・。

万世一系の天皇の存在は中国、朝鮮のみならず、さまようユダヤ人にとっても心の寄り何処ろとなるのだろう。 

みんな「日本が、天皇が好きなのです!」ってブログを見たことがあるけど・・・。
別に祖先がユダヤ人でも韓国人でもモンゴル人でもイスタンブールでもいい。チベットなら大歓迎  

明治の中頃まで見越神社の存在する箇所より上は絶対に登山禁止であったのが、明治中頃より山頂に登ることを許すともなく許されるようになっている。石鎚山でも同じ思いをしたのだけど、どこの山も山頂一帯にはあえて 足を踏み入れないほうがいいと思うようになった。



伊豆山神社末社・白山神社

2009-11-30 11:28:49 | 各地の山


伊豆山神社:熱海駅の東北1.5キロ。市道に面した「宿の平」から169段の石段の上に建つ。伊豆山は「走り湯」で知られるが、その開湯を神霊出現にかかわる霊験と伝えるのが、かつて「走湯大権現」「伊豆大権現」と崇められた伊豆山神社です。 ご祭神は「伊豆山神」として、ホムスビノミコト、イザナギノミコト、イザナミノミコトの3柱  「延喜式」神名帳に」書かれている「火牟須比命神社」(ホムスビノミトコ)と考えられている。  日本書記によると火の神で、イザナギ、イザナミの御子だが、この神を生んだ時の火傷が原因でイザナミが亡くなったので、のちにイザナギに切り刻まれて殺害されてしまう・・・。ってなんか現在の事件を彷彿とさせる所業。


本殿に向かう急な石段の参道

北条政子と源頼朝が逢瀬を重ねた場所とされ、頼朝から戦勝祈願など篤い尊崇をうけ、箱根神社とともに「二所詣」として歴代の将軍、執権に受け継がれ、のちに三島大社を加えた三社への参詣は恒例となる。



境内はホトトギスの名所としてしられる伊豆の雄山、古々比杜(子恋の杜)の一部で四方坪、海抜170m、相模灘を一望の中に収め、遠くは御神火なびく大島、近くは初島が手に取るように眺められる景勝の地で枕草子にも登場する歌枕の地として名高い



古代祭祀の追っかけをしている自分的には鎌倉、平安の文字には心が躍らない。気になるのは末社の白山神社、神社の右手、資料館の脇にある鳥居をくぐり



「癒しのパワースポット」と書かれている 子恋の森公園へと続くハイキングコースを辿ること15~20分




石蔵谷の磐座に社殿が鎮座。樹木に囲まれ小鳥のさえずる静かな森一体は磐座が林立して古代祭祀のあとだと思われる。


白山神社

由緒によれば、天平元年夏、疫病が発生した時「悪行のなす所、救いに術なし、白山の神意を頼むべし」とのご神託があった。猛暑の頃であったが一夜のうちに石蔵谷(鎮座地)に雪が降り積もり幾日たっても消えず、病あるものこれをとって舐めてところ、病苦たちどころに平癒、よって社を創立。古来より病気平癒や厄難解除の信仰が厚い。

実家のお墓が山続きの日金山にあり、神道なので法要の度に伊豆山神社の宮司さんにお越し頂くようになった。そのご縁で参拝させて頂くようになり このブログを始めた当時、全国各地の神社の画像の中から白山神社を選択したのは 自分の意思でない何かを感じる。山の中にひっそり佇む霊験あらたかな畏敬の念を持って敬うべき存在です。

神社の真上に住宅があるので気になって、登ってみたら個人の別荘とのこと。声をかけて頂いて親切に招き入れて下さった。立派な調度品の豪邸で地下に温泉も湧いているとの事・・・。厚かましくお茶を御馳走になり話をして「白山神社さまの真上ではないですか!」と言ったが特に気にならないと・・・。 でもこの別称を建て定年後は御夫婦で過ごす事を楽しみにしていたのに、すぐに奥様が亡くなられたと話されたので、自分的にはとっても怖かった。やはり磐座より上部まで行かないほうが良かった。ごめんなさい。昨日今日体調がすぐれない。



最古の霊山 文殊山 

2009-10-24 21:23:38 | 各地の山


越前五山(白山、日野山、越知山、吉野ヶ岳、文殊山)の中心的霊山として知られている山で、養老元年(717年)泰澄大師が開いたと伝えられている。標高365m、大文殊を中心に小文殊(298m)と奥の院(350m)から成り、大文殊の本堂には文殊菩薩が安置されている。 小文殊の室堂には泰澄作か運慶作と言われる木造座像の阿弥陀如来、 さらに奥の院には泰澄作と言われる聖観音菩薩が祀られている。

大文殊にある本堂周辺からは約4300年前の縄文時代中期の土器片が発見されてことから、古来より神の宿る山として祭祀を行っていたのだろう。 また本堂の周囲に「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」、中央を護る「黄龍」が人工的に配された配石遺構があり、類例の無い霊山様式を残している。霊山の山頂から縄文土器が見つかったのは非常に珍しい事で、土器片が祭祀用とすれば、日本最古の霊山ということになる。
 
お墓参りの折 角原町からの登山道路を歩いてみた。道路は整備されていて歩きやすいが、熊に注意の看板がある。麓にあるお寺の話では庭の柿の木に熊がいた事もあるらしい・・・・。



駐車場から沢沿いの杉木立を歩くこと40分程で 二上、大村登山口からの道路と合流、尾根道の両脇にはカタクリの群生地が広がっている。途中の展望台からは眼下に福井方面、越前方面の展望が望まれる。 



尾根伝いに20分程歩くと石仏が立ち並ぶ山頂の本堂に到着、 泰澄大師開山、越前五山の中心と書かれた標識のある山頂は開けていて眺望が良く遠く白山も望まれる。


泰澄生誕の地・泰澄寺



白山を開山したとされる泰澄は元の名を「越の大徳」といい682年(?)越前麻生津に生まれた。現在生誕の地は「泰澄寺」として残されている。 父は渡来系の秦氏の出で、朝鮮半島と大和を結ぶ海運業に従事していた。 幼少のころから泥で仏像を造っていたと言われ 越知山で修業を重ねていたが 36才の時、白山に神意を見いだし、山中に深く入る。白山で行基と出会い神仏習合思想を定着させた。 この頃の山岳宗教には教義がなく五感で受け止める自然崇拝だったが素朴な自然への敬いに理的な仏教の教えが加わり知識が加わった。 神仏習合は泰澄のいた越前、白山がその源であったと考えられ 以後仏教の思想、教義を加えて白山信仰は宗教になり 平安時代には天台宗と結びつきより体系化されていった。



高台にある泰澄寺の正面から見える文殊山は気高い。

我が家のお墓はこの文殊山の麓にある、泰澄さんの生家とは目と鼻の先、北陸地方は朝鮮半島からの帰化人が多いと言われるが、飛鳥時代の書物などひも解くと蘇我氏も物部も海部も藤原も・・・。稲作や鉄、水銀など先鋭的な文化はすべて朝鮮半島から伝わってきた。 また仏教のみならず八幡、稲荷など日本の代表的な神社宗教すら渡来人が関わっていた事実を江戸時代の国学者や明治の皇国思想が知らないふりをするのは笑える。 

 「越に来て富士とやいはん角原の文殊が岳の雪のあけぼの」  西行法師



二上山と気多神社(けたじんじゃ) 射水神社

2009-08-16 15:13:06 | 各地の山


万葉の里・高岡市の北部、富山湾を望んでそびえる二上山(ふたがみやま)は古来より神の山として崇められており、越中国一の宮・気多神社・射水神社ともにご神体山として位置づけている。 

東麓に鎮座する気多神社 

主祭神:大己貴命(大国主命)(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)

婚姻のため越の国まできた大己貴命(大国主命)は「賢く美しい妻を求めて遠い越の国まできたしまった」と歌って、この国の女神・奴奈加波比売命と結ばれた。「古事記には、両神の間に交わされた贈答歌が収められている。

当社の創建は養老年間(717~724年)とされており、往時は神宮寺などの大伽藍が並んでいたが、木曽義仲、上杉謙信の兵火により焼失。1558~70年に再建された本殿は、室町建築の特色をよく伝えるもので、重要文化財に指定されている。

この伏木一宮一帯は、国府や国分寺が置かれた越中の中枢部として栄え、 越中守として当地に赴任した 大伴家持は奈良の二上山(にじょうさん)と同じ名前の山が近くにあることに感激、二上山(ふたがみやま)に特別の思いを寄せ。「万葉集に収められた479首のうち220首を在任中にこの地で詠んでいる。



木々に囲まれた参道の石段を上ると、境内の一角に越中国総社後伝承地の「かたかごの岡」 本殿のそばに家持を祀る大供神社が鎮まる。 お盆のさ中、平日で訪れる人も少ない境内で、ご朱印の社務所の場所を尋ねたら、ほうきをもってお掃除に勤しんでいる方は禰宜さんだった。一瞬の時間だったが、ご誓文を書き記した紙を頂き、日々の生き方についてのメッセージを感応させて頂いた。(ビビッ、ビッときて、きっと近いうちにまた此処を訪れることになると感じた。



二上山山頂直下までへは二上万葉ラインが通じている。 山頂からは剣立山連峰、薬師岳、白山などの雄大な眺望、能登半島、小矢部川、庄川の流れなど山と海を見晴らす景観は見事で、若き大伴家持の銅像も山頂近くに建っています。

他にも奈良とに共通点がありまして・・。
奈良の二上山は東に位置する神奈備・三輪山から登る太陽の沈む山として有名ですが、こちらの二上山は東に位置する霊山・立山から登る太陽の沈む山で、夕陽の眺めが見事らしいです。






二上射水神社(いみずじんじゃ)

二上山をご神体山とする南麓に鎮座する神社で、養老年間(717~724年)行基の創祀と言われている。二上山上に広大な領域を有したが、2度の兵火で焼失、江戸時代、前田家によって再建された。

主祭神:ニニギノミコト

葦原中国に降臨した歴代天皇の祖先神で五穀豊穣の守り神としても崇敬される。古代の史書に、当社の祭神は「二上神(ふたがみのかみ)」と記され、ご神体山の二上山そのものを神として祀ったものと考えられる。 この二上神が、すなわちニニギノミコトとされる。

延喜式神名帳の式内社越中国34社のうち、唯一の名神大社。創建は不詳だが、奈良時代の宝亀11年(780年)の続日本記に「越中国射水郡二上神従五位下」の神階を授けられており、当時すでに北陸地方屈指の大社であった。



古来、神仏習合により別当寺の養老寺が護持、二上山大権現と称し,盛大を極めたが兵火により焼失、前田利長公が社殿再興の上藩の祈祷所として保護した。明治の神仏分離令を受けて射水神社となり高岡古城公園に分社となったが戦後独立し、現在は元宮として、古代信仰を今に伝え、貴重な文化遺産を守り続けている。





こちらは 明治八年、高岡城本丸跡に遷座された射水神社ですが、雰囲気は断然二上射水神社のほうに軍配があがります。



白山神社参拝の旅

2009-05-11 12:20:29 | 各地の山


連休は高速1000円利用で奈良~福井~白山神社を周遊した。白山を開山した泰澄大師の出生地である越前国麻生津にある我が家のお墓参りのあと、一番の目的地である白山中居神社を目指す。



まずは越前国一の宮 気比神社にご挨拶、ご祭神はイザサワケノミコト、境内の「土公」に降臨した神とされるが来歴は不明。背後のご神体山と山の神神社が気になるが今日はご無礼を・・・。朱塗りの大鳥居は日本三大大鳥居の一つ。



摂社、角鹿神社は任那の王子の故ある神社で 敦賀の地名はもと「角鹿」ツヌガの所以となっている。敦賀は古くから交通の要所で、大陸文化受容の玄関口としての役割を担っていた。

福井は足羽山山頂に居ます継体天皇、近江で生まれ3歳の時より越前で育つ、御年58歳にて第26代天皇に即位。この時越前の国を離れるにあたり、この地を慕い「永く此の国の守神に成らん」と自らの御生魂を此宮に鎮め御子に託した。


足羽山より三国を望み、現代でも福井の平和と発展を見守っています。

白山比神社
全国に3000余社ある白山神社の総本山、ご神体山の白山に源を発する手取川河畔の鶴来町に陳座する。一の宮駅前にあった御本殿は火災で炎上、当地は以前の三ノ宮であった場所。


境内にある奥宮遥拝所

長滝白山神社 
長滝から石徹白白山中居神社を経て登拝する白山のご参拝基地・美濃馬場として栄えたかつての白山中宮長滝寺。広い境内は神仏混合の古い形態を余すところなく 残し悠久の歴史が漂う。



白山中居神社



景行天皇御代の創建、雄略天皇代に護国鎮護のため剣を奉納したとの伝えがある。その後 泰澄が社殿を修め拡張、修復した。境内は杉の巨木が林立して荘厳な雰囲気が漂っている。


宮川にかかる橋から拝殿が望める

白山美濃馬場の拠点として栄えた石徹白、名字帯刀が許され年貢免除の恩恵にあずかるほど、ご信仰の厚さを誇る伝統の地。 今も白山南縦走路の入山口だが訪れる人は少ない。途中にある雨宿りの岩屋は、泰澄大師の母が女人禁制の白山に大師の後を追って登ったため、山の神の怒りに触れ、血の雨・槍の雨が降ってきたのを避けた場所だとか。母性はいつの時代も変わらない。物悲しい雰囲気に包まれ、古代人が生きていた事を実感できる、言葉では表現できない神社です。



「磐境」(いわさか)は古代祭祀場の磐境で、神が鎮座された場所。稲作を始めた頃からは豊作を祈願する祭りの場所でもあり、本格的な山開きが始まる7月には安全祈願の例祭が行われる。 白山の真っ正面に当たる場所だそうです。

白山文化博物館の受付にいた女性によると、このルートはチブリ尾根に比べると、熊の出没話題は聞かないらしい。 辿ってみたい。

富士山

2008-09-24 12:47:18 | 各地の山


「日ノ本の大和の国の鎮めとも坐す神かも宝となれる山かも」 

万葉集に誇り高く詠われている日本随一の霊峰。穏やかで秀麗な外観と、有史以来18回の噴火という怖ろしい内面から醸し出す荘厳さ・・・。太古の昔から人々の畏敬を集めてきた。ご信仰登山の歴史も古く、役行者が伊豆から雲に乗って飛来した、聖徳太子が登排したという伝説も残っている。 入山して修行する行者が現れたのは平安期で、山岳信仰の開基は1149年、登山道が開かれたのは南北朝の頃、江戸時代になると吉田口を中心に角行が庶民の間に富士講を広めていく。 



9月連休の隙間、富士宮登山口から歩いてみた。登山道路は閉鎖と記された看板が立っているが、出入りは問題ない。あくまで自己責任でどうぞ。ということか。 平日なので、出会う人はまばらで単独行、若い男性が多い。 下山中、午後3時頃から登ってくる人もいるが、皇太子殿下が歩いた後はガードレールが出来るとの言葉どおり、山頂まで虎ロープが架かっているので、迷う心配も不安さもないが山小屋が閉鎖されてるので風雨に晒されたらひとたまりもない。 もちっと岩室が欲しいところだがご信仰登山だと思えばまぁいいか。



富士登山は12月の御殿場口、3月の吉田口、10月須走口、今回の富士宮口と4度目になるが、山の中で人と出会ったのは初めてで、7月8月は行列が出来る山です。と言われてもピンとこない。麓から仰いで登ってみたいと思う反面、8合目から上はご神域ですと言われると最近躊躇するようになった。明治5年までは、女人禁制の山。


「おまえ、原宿だろう!」って感じの若者が駆け足で降りていった。絶対に付いていけないわぁ。

帰路富士山本宮浅間大社に寄った。ご祭神は木花之佐久夜毘売命、なんで、浅間大神として富士山の守り神となったか、由来や時期は不明。こんな由緒や肩書きなど無くても存在感は日本、いや世界一かもしれない。 世界遺産という観点から見たら一番に登録されるべきだが、登山道路に林立するトタン抜き出しの山小屋の汚さ、先年までのトイレ垂れ流し、オーバーユースからくる山小屋の意識レベルの低さ、関係自治体を巻き込んだ地元の利権など お金が集まる宝の山ゆえに修行とは無縁の問題も多く、神の坐す山が再び怒り爆発する事もあるように思われてならない。



本宮山

2008-08-26 17:12:13 | 各地の山


三河富士とも呼ばれる本宮山(標高789M)は古代より信仰の山で 境内には大小の磐座が点在しています。千年近い大木の杉檜が林立した頂上附近の自然林は神域として保護され数百種の草木が繁茂し、愛知県天然記念物として指定されています。 頂上には 三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座し、大己貴命(大国様)をお祀りしています。



頂上まで本宮山スカイライン( 現在無料) が開通しており アンテナが林立する山頂一体は風情も何も無いが 奥三河の山々の後に南アルプス連峰、富士山、浜名湖など展望に恵まれており、名実共に三河国唯一の霊山です。  




一等三角点は情けない事に 電波塔の真下にあるこんもりした岩くず。何たるさまだ! この風景は遊園地の境内にある生駒山 山頂と重なる。 一帯は国有地だと書いていたが、国民の便宜を図るため、税収の為には何でもあり。



神社側の一帯は奥宮神域として保護され、杉の巨木が林立している。
「天の磐座」 国見岩
神話によると 大己貴命がこの岩山に神霊を留め、、”穂の国造り”にあたり この岩上から国見をしたところからの名称、この奥に岩戸と呼ばれる岩石の割れ目があり その奧に末社・岩戸神社が鎮座する。

磐座の事を調べていると言ったら、本宮山奥宮の方が 新城市にある石座神社を教えてくれたので足を延ばした


石座(いわくら)神社。
 


背後にある雁峯山の磐座信仰が行なわれていたと考えられる。古代祭祀場を髣髴とさせる静かな中にも荘厳さが漂う境内。
ご祭神は天御中主命、古く大和朝廷の時代から存在していた事をうかがわせる。


砥鹿神社里宮

格式の高い神社の風格がある。砥鹿神社の縁起には、701年、文武天皇の病気平癒のため当地に遣わされた草砥鹿公宣は砥鹿神が化身した老翁に出会い当社を創建、歴代宮司の祖となったと記載されている・・・・。エライっちゃ偉いが、何でも話は都合の良い後付けのような気がする。 家康の庇護の下、三河国を庇護する社として発展してきたのは花火や流鏑馬など祭り事にも色濃い。 古代は本宮山と磐座信仰だったろうに・・・・。





 

石鎚山

2007-10-27 14:27:34 | 各地の山
高知県出身の自分にとっては慣れ親しんだ地元の山である。
登山に興味のない若者同士でも鎖場を面白がってハイキング気分で行く。富士山のような山かもしれないが、 神社本教のある西条市では様子は異なり「いのちの源、お山へいこう」 と、心願成就を願う ご信仰の山であります。

高知県側からはスカイライン利用の土小屋コース
愛媛県側からはロープウェー利用の成就社コースが便利
堂ガ森~二ノ森コースは特筆すべき大展望のパノラマコースで最高の山行となる

信仰の伝統は7月1日、女人禁制にはじまる10日間の山開きに集約される。全国各地から白装束の信者が集まり、ホラ貝の響きとともに念仏を唱えながら、山頂直下の鎖場をよじ登る。

この日もかなり高齢の女性が、多勢の人に両脇を抱えられながら 頂上を目指している真剣なお姿を目にしました。



近づくにつれ山容を表わす、岩峰


常に姿を表わす女性的な山容の瓶ヶ森・・。美しい。

信仰の歴史は古く、由緒では役行者によって開山されたとある。役行者は13歳で大和葛城山で修行を始め、熊野、大峰、笠置、羽黒、、生駒、を経て52歳の時伊予石鎚山を開山。その後66歳の頃伊豆島に流された後も富士山、熱海と開き、68歳、還流より還り天皇国司となったのち、山城愛宕山に祈宣、この年ご入寂されている。



3の鎖を抜けると弥山頂上直下に飛び出す、天を突く天狗岩の岩峰が目に入る



バリエーションルートとなっている天狗岩への道、しょっぱなから垂直の鎖の降下となているのは「出来れば行って欲しくないのです」という神社側の意志の表われであろう。 確かに天狗岩手前に一箇所、悪天候なら引き返す岩場のトラバースがある。


山そのものを神(ご神体)として仰ぎ登拝する教えのなかに、修禊、修行、鎮魂と3つの教えの体得をあげています。山容の異彩は四国の山の中では突出していて、頂上一帯は草木一本生えない大巌峰で山の語源も「石の神」にあるという。山頂直下、鎖を使ってそれこそ、よじ登る「鎖禅定」は
170メートルも続き、「一の鎖」はご神体と言われます。


3の鎖入り口


頂上直下に抜ける3の鎖

中世から近世にかけては、前神寺と横峯寺が信仰を広めるため先達や信者を組織化したが、ご多分に漏れず両者のいざこざが続く。明治の神仏分離政策で、石鎚山は石鎚神社が管理するようになり、新たに石鎚本教を設立した。



最高峰・天狗岩(標高1982M)


天狗岩から眺めた弥山頂上(標高1974M)、こちらから眺めても険しい山容だ


婦人登拝について、
古来女人禁制でしたが時の流れと共にその風習も緩和され、現在は夏季大祭中、7月1日には三体の御神像が頂上社へと御動座となり、まさに勇山となるため、ご婦人の登拝は遠慮頂いております。(※成就社より頂上社までの登拝道は、神社の私有地となっている)



ご神域となっている頂上社両部鳥居・身震いする厳かさがあります。荘厳です。出来れば人間を近づけないで!

富士山はもとより、立山、御岳、白山室堂も・・・・。ご神体山の山頂に宿舎を立てたり、観光目的の人にお札を売ったりすることを規制するのが先決のような気がします。 男なら遊び目的でもOKなのに、女性と言うだけでダメというのは説得力に欠けます。ご神体山は麓から遥拝するだけで充分なのでは?山頂に祠も鳥居も要りません、磐座があってそこに山が存在するだけで充分です。




石鎚と並ぶ人気の山・標高1897Mの瓶ヶ森


瓶ヶ森林道から眺めた石鎚山に沈む夕日、場所によって構図が異なり、待ち構えるカメラマンの数も多いと聞く。一番良いのは瓶ヶ森山頂から眺める夕日です


南宮山と南宮大社

2007-10-10 16:17:05 | 各地の山
濃尾平野の扇の要、伊吹山と養老山系の中間にある南宮山、山麓に鎮座される南宮大社のご神体山として全山境内は百町歩、まさに幽邃な神域であります。


神社の背後に聳えるご神体山

南宮大社の主祭神は金山彦神(天照大神のお兄さん)で 山の神、製鉄、鋳物の神。神武天皇東征の折、金鵄を助けて大いに霊験を顕した。壬申の乱の折、吉野を脱出した大海人皇子に当社の宮司が味方した。竹中半兵衛、春日野局、芭蕉など古社だけあって由来には事欠かないですが、 有名なのは関が原の合戦時 毛利秀元の陣所となった事、頂上の台地には見取り図が書かれています。 徳川家康と石田三成の戦った関ヶ原は南宮山よりも西方ですが この配置で何で西方が負けたのか不思議で残念なこと!

神社の左手にあるハイキングコースの看板に沿って歩くと 壮大な境内の途中に色々な神社を御祀りしています。 立派な稲荷社のあたりはすでに森の中で、いきなり野生の鹿の親子3頭に遭遇して驚きました。






しばらく歩くと道は二手に分かれます。 案内標識を見て左手に進み帰りには右手西蛇留池方面 からここに合流しようと思います。コースは階段状に整備され歩きやすい。  天人降臨のご神木と言われる一ツ松の旧跡、石垣の上に祠が建つ高山神社(ご祭神・木花咲耶姫命)子安神社(ご祭神・保食神) 由来によるとこの奥宮は椿姫宮とも言われ美濃の水源を司る女神として御神徳の高い神様で、山頂の神様は稲を守ると共に子供を育てる水の神様です。 神社の入り口にひっそりと置かれている巨大な磐座が表わすように至る処で古代信仰の名残を感じます。


神社の入り口にある磐座

40分ほど歩いて 東屋が建っている展望台に出ると視界が一気に開けて濃尾平野が一望、 この辺りが 毛利秀元が陣を張った場所とされています。山頂へは、看板の左側から踏み跡の少ない登山道へ進む、一旦一気に下り、偽のピークを越えて斜面を登りきった所が三角点のある山頂ですが 眺望はないので ハイキングの人は展望台で引き返すようです。 下山にとった左側の道路は急斜面で整備されていないので歩きにくかった。 


御岳山、名古屋市内、木曽川、大垣市内が一望

途中「眠り神」と書かれていた由緒ありげな 石積があって

 眠り神の由来 ここには明治維新の神仏分離まで、薬師堂があり、あらゆる病気がなおるという霊験の厚い薬師仏がまつられていました。 その仏さまと相並んで眠り神は、「ねる子は育つ」ということから、幼児健育の守護神として厚く尊敬されてきました。 御神木が椿であり、付近一帯の椿林は、健康長寿の御神徳を表徴しています  と書かれていました

ご神体山・麓の神社・古代祭祀の磐座。全てを兼ね備えた紛れもない神の坐す山でハイキングコースとして整備されている割には 自然が残る趣のある山でした。