神々のいる山を訪ねる

巡礼登山家を目指して修行中、 一人淋しく霊山を訪ね歩いています。

観音峰と龍泉寺

2012-04-11 18:54:32 | 奈良の山


修験の聖地 洞川のみたらい渓谷から気軽なハイキングが楽しめる観音峰は大峰随一の展望台として名高い。登るにつれて登山道路には雪が残っている。大峰一帯は世界遺産に登録されてから道路や標識が整備され 前鬼から釈迦ヶ岳に至る階段などは顰蹙ものだが、ここの要所要所に建つ南朝ゆかりの物語風石碑は読んで楽しい。


玉八大権現



南北朝動乱期に大塔宮親王が北条の軍勢に追われて、逃げ込んだという洞窟の中に、小さな観音様が祀られている。恐れ多くて撮影は遠慮した




観音峰展望台からは残雪の大日、稲村ヶ岳から弥山方面の眺めが素晴らしい。前は三つ塚から法力峠に抜けたが今日は龍泉寺に行くのが目的なので引き返した。



「真言宗醍醐派大峯 龍泉寺」

吉野の護持院とともに大峯山寺を護持する護持院で 本尊「弥勒菩薩」、八大龍王、役の行者尊をお祀りしています。千三百年前、修業中の役行者が洞川のほとりで、こんこんと湧き出る泉を発見。竜の口と名付けて、そのほとりに小堂を建て、八大龍王をお祀りされたのが始まりとされる修験道の根本道場。



岩窟から湧き出る泉:竜の口から湧き出る清水は、役行者以来、絶えることなく清冽な流れを境内にたたえ、修験者の清めの水として大峯山中第一の水行場となっており 洞川から大峯山に入る修験者は、宗派を問わず龍泉寺に詣で、竜の口より湧き出る清水をたたえた水行場で滝行、又は門内の池の水行を行い、八大龍王尊に道中安全を祈ってから、山上ヶ岳に向かうのが習わしだとか。 境内の泉からはたえずこんこんと湧き水がでており、至る所に水場がある。「山があり水があり気がある」全てを兼ね揃えた山のお寺。龍神さまはお住みになっていました。 盛大に催される八大龍王大祭に出かけてみたいです。


※大峰奥駈道は和佐又~大普賢~弥山~前鬼まで何度となく歩いているが、吉野と洞川からの山上ヶ岳一帯は女人禁制なので私の預り知らぬ領域。



結界門:「この霊山大峰山の掟は宗教的傅統に従って女性がこの門より向こうへ登ることを禁止します。」

ハイハイ、女人禁制!ね 「傅統」って何て読むの? 伝統的?


阪神大震災が起きた年、1月15日から山岳会の合宿で川合から弥山を目指していた。大雪で初日に狼平小屋まで行きつかず、頂仙岳手前でテント設営、あくる日も大雪で弥山どころか狼平手前で敗退。結構精鋭メンバーだったけど雪深かったせい、あくる朝に地震が起きた。 


大雪の大普賢岳

山岳会の女性は冬季だれもいない山上ヶ岳に平気で登っていたし、沢やは神童子谷から詰め上げたら望まずとも禁制区域に入っていたような・・・・。私はそんな罰あたりはしていない。


すぐ先にある「天河弁財天」

五社殿には龍神大神をお祀りしています。
大峯・弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ坪内(壷中天)で蛇行し、その形は龍を偲ばせる。鎮守の杜 「琵琶山」の磐座に弁財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す。この地は「四石三水八ツの杜」といわれ、四つの天から降った石、三ツの湧き出る清水、八ツの杜に囲まれし処とされ、神域をあらわす。そのうち三ツの天石を境内に祀る。

パワースポットとしては全国区の人気で、巡礼する著名人や若者で賑わっているらしい。ブームの根源にあるのは古代史のロマン。ここを語ると一冊の本になる・・・といいながら社務所で「天河への招待」「続編」と二冊の本を買ってしまった。

「天川へ、一歩足を踏み入れれば、心が洗われる。」ここにくるとなぜか懐かしい原風景を体験する。長い年月をかけて積み重ねられた信仰の上になりたつ高い精神性。八ヶ岳の縄文遺跡のように気持が古代にタイムスリップする。もし住めるなら洞川より断然坪内。山はいいな。


弥山山頂:天河大辨財天社奥の院(弥山神社) 5月奥駆縦走の時の画像

「後鬼の湯・宿 花屋徳兵衛」に宿泊した。一日6組なので土曜日は取れないから、仕事をサボって日曜泊。お風呂は狭いけど24時間。食事は美味しかった。


諏訪の守屋山

2012-03-21 11:33:10 | 信州の山
古事記の神話伝承の舞台をなぞり宗像大社の事を調べていたら、対馬海流に添って諏訪大社に行きついた。諏訪大社の鎮座は1500~2000年前と推定。ご祭神はタケミナカタノカミ(建御名方神) 大国主神の子とされているが、日本書紀でも、祭神やその来歴は不明。タケミカズチノカミに敗れ諏訪の地より外に出ないことを条件に命を救われたと言われるが、出雲風土記に登場しないなど謎が多く、諏訪地方の国取り神話に組み込まれたと考えられる。


上社前宮:かつて現人神としてこの地を統治した「大祝」の宮居があった場所で原始信仰の形が残る前宮、背後に守屋山


上社本宮:布橋と呼ばれる長い参道をUターンして、弊拝殿・片拝殿に向き合うが、なぜか神体山(守屋山)が正面ではなく右手となっている事に違和感を感じるのは私だけ??



「ミシャグチ神」:上社の本宮と前宮の間にある。邸内は神長官守矢史料館を併設。ミシャグチ神の上方にある磯並山には、大祝が即位すると必ずこの山に登拝する決まりだった。背後に位置するのは守屋山。


諏訪地方には、外来の神のタケミナカタが土着のモリヤ神を破り、諏訪を支配するようになったという伝承がある。

上社の大祝(現人神として祭祀の頂点にたつ)はタケミナカタの子孫の神家(後に諏訪氏と名乗る)の世襲でしたが、祭祀の実権は代々諏訪のご神体山・守屋山に鎮まる洩矢神(モレヤガミ)の子孫と言われる神長官の守矢家が握っており、この氏族の奉じる「ミシャグチ神」こそ古来より諏訪地域の人たちが崇めてきた神と考えらています。


太古の信仰を連綿とつたえる諏訪大社・・・。一帯は「縄文時代の大都会」と呼ばれるほど太古の遺跡が集中している地域で よそ者が軽々しく語ることなど不謹慎な謎に包まれた深い深い神社。 八ヶ岳の帰路幾度となく訪れているけど 昔は神社に関心が無かったので印象が薄い。厳かで安易に人を寄せ付けない雰囲気は出雲大社と似ている。 岡本太郎は魅了され30回以上通いつめたらしいが、私の目的は守屋山。ご神体山と言われるのに、杖突峠からは立派なハイキングコースとなっている、これも不思議。


守屋とは物部守屋! 蘇我氏と聖徳太子連合郡に敗れて八尾の地で戦死したと伝えられるが、ところがどっこい!一族は美濃や諏訪の地に・・・。古文書には次男の武麿が信濃の「州羽(すわ)」に行き、神長守矢家の養子になったと書かれている。史料館の建つ邸内には 武麿の墓と言われる古墳があり、裏の守屋山には物部守屋公を祀る祠があるという。でもフツーに考えて守屋よりミシャグチ神のほうが先。

先住民族の神の名は『洩矢神』(もりやのかみ)27代目に武麿の名が記され、『弟君』と付記されているとか。物部ファンとしては何とも魅力的なミステリー。



村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめ)摂社 物部神社:奈良盆地のど真ん中、田原本町に建つ日本書紀に由来する古社で、地元では「森屋の宮」と呼ばれている。神社の宮司さんの名は守屋さん。物部守屋の血筋を引く方だと言われ 物部神社が祀られています。

河内で戦死したとされる物部守屋は替え玉で守屋は琵琶湖の北東で生をまっとうされ、伊吹山の麓、波久奴神社の岩屋に祀られているとの説もあります。 

「講釈師、見て来たようなウソを言う。」古代史はなんでもあり。八ヶ岳の神はどこにいる?


※諏訪の神は古くから、水、雨、風に関係のある農業の守護神として信仰されてきた。諏訪信仰の本源は竜神、霊蛇に関わる信仰でないかと考えられる。さらに風の神としての性格。 日本書紀(691)には『龍田の風神、信濃の諏訪(大社)、水内社などの神を祀り晴雨の祈願を込められた』との記述がある。軍神として武士に重宝されたが、原始は自然信仰的な地方神だったのだろう。


神々の峰・八ヶ岳

2012-03-20 19:53:32 | 信州の山
八ヶ岳連峰は主峰赤岳を中心にして南北に八つ連なる。周辺にはそれぞれの峰を神山として形づけられたと思われる数多くの縄文遺跡がある。



すべて八ヶ岳の峰を神山として正面に形づくられたと想像できる縄文時代の遺跡。それぞれの遺跡によって対象とされる八ヶ岳の形は異なるが、どこからも主峰・赤岳が見えている事から赤岳の存在感は別格だったようだ。

30年前に読んだ「日本史探訪」・・・・。今から1万年前とも6000年前とも言われる「縄文時代」 八ヶ岳の中腹、標高1000メートルあたりを帯のように湧く、湧水地帯を目指して、日本列島各地から原日本人たちが 海や野を捨てて、この中央高原にやってきた。まさに縄文の文化が開花した時代。

熱海での法事のあと、御殿場から移動して八ヶ岳の麓を散策した。古代祭祀の追っかけをしていると縄文遺跡に辿りつく。



井戸尻遺跡は網笠山の麓に位置する風光明媚な日本の原風景。目の前に甲斐駒ヶ岳・鳳凰三山の山々、富士山も大きく遠望でき縄文時代から湧き出ている豊かな水に恵まれている。



尖石遺跡は縄文時代の集落研究の上でも価値が高い遺跡と言うことで特別史跡に指定されている。一帯はさらに奥深くまで三井の森別荘地として開発されている。 各地から涼を求めて住みつく構図はもしかしたら縄文時代の再来かもしれない。




少し先にある「竜神池」名前にときめいたが、別荘地の公園で溜め池として作られてとかでがっかり。天狗岳や阿弥陀岳が神々しい。




八ヶ岳西面・東面とも数えきれないほど通った。山頂に祠はあるが、看板や山小屋、登山道路が整備されている今、山頂に神が住んでいる確信は見えない。阿弥陀岳、権現岳、編笠岳、天狗岳などの名前から、修験道が縄文世界観を受け継いで平地勢力の侵入を防ぎ、継承していったのだろう。神さまは諏訪ですか・・・。

マイナス20度のテント場や辛い風、遭難死した知り合いもいるので、あまり楽しい想い出はない。










松尾山と松尾寺

2012-03-13 14:35:56 | 奈良の山


松尾山は奈良県大和郡山市と斑鳩町との境にある標高315mの山。電波塔が無ければ山頂を特定するのが困難な目立たない風貌ですが、法隆寺から続く矢田丘陵一帯には古寺、名刹が数多く歴史を感じさせてくれるマイ里山



中腹に建つ松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、42歳の厄年の時、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立されたと言われる日本最古の厄除霊場で、みずから、松尾山に籠り、「太古の大岩」と山岳を道場として修業、満願の養老2年2月初めの午の日、東の山に紫の雲たなびき、雲間より、千手千眼観世音菩薩が天降りご出現なされたと「松尾山縁起」に書かれています。 




ここ数年 節分の日は境内の七福神堂で無料配布される豆を頂くのですが、これが実に香ばしくて美味しい。 生きている限り節分の日は松尾寺に来ると決めている。


今年の2月3日も当然のごとく参拝。この日は初午の日で 柴燈大護摩奉修が執り行われていた。そんな重大な行事とは思わず、護摩が焚かれている脇を素通りして、松尾山神社に参拝して 十三重の塔の前から尾根通しに松尾山に登頂(20分程度だが) 山中でほら貝の音色を心地よく聞き下山したら すでに法要は終わっていた。



鬱蒼としていた鳥居前の木々が刈り取られて眼下が一望できるようになった。


松尾山神社
松尾寺の地主神として祀られているが、古来は一帯の鎮守の神であったと思われる。春日造り桧皮葺の三社殿が並び、主神の松尾大明神(大山昨命)を本社、清滝権現(善女竜王)・牛頭天皇(スサノオさん)を脇社として三社斎祀しています。 

牛頭天皇は京都八坂神社の祭神で新羅からの渡来神だがスサノオさんの別名だといわれる。清滝権現は醍醐寺の地主神だから、当山派の正大先達になった時期に勧請されたものでは?

松尾大明神と呼ばれる大山昨命は寺の創建より早くからこの地に地主神として祀られおり、ここ一帯には半農半猟の士族が暮らし松尾山を神の山として崇めていたのだろう。生駒山、二上山、若草山、三輪山が眺望できる格好の位置。


丹生社の祠

本堂背後の岩磐(巨石)から山頂に行く脇に水の神・丹生社の祠があり、岩間から清水が湧き出ている。 「水があり、杜があり、気がある」神の山と呼ぶ要素は揃っている。山が先か寺が先か?と問われたら、どんな有名な社寺でも「山が先」


参詣道の途中に祀られている気になる大歳さん。  



罰当たりな電波塔の脇に建つしょぼい三角点、アンテナが建つと神さまは逃げます。


松尾寺の縁起は「古寺巡礼 奈良」という一冊の本になっているほど深く見どころも多いので書ききれませんが、行者堂内に安置されている木造彩色・室町時代の作で総高6尺に及ぶ木造としては日本最大の役行者像は必見です。


幾度となく訪れているので当初の感慨を感じなくなっている。ところが修験道のお寺なので 気を抜くと凄いお力を発揮され 痛い目に遭わされ気付かせてくれる。初午の重要な行事を軽く考えた自分の身体に帰宅後異変が・・・。今日の行いだと気がつき 3月10日の柴燈大護摩奉修で懺悔すると決めたら翌朝回復。 3月10日の初午の日も駐車場は満員、大勢の方が護摩供養に参加されていた。


修験道は山中の霊気の中に身を置くことによって、魂の浄化と修練の蓄積が出来ることを目的にしている。修業を通して、自然の力(験力)を獲得しその神秘的な力によって自他の救済を目指します。そのため各地の霊山・霊地での修業は欠かせません。

究極の目的は修験道かなぁ。 山歩き、断食、粗食は歓迎。 団体行動は苦手だと言って一人で山に入ると魑魅魍魎の餌食になるのが目に見える・・・。



※初(はつうま)とは、2月の最初の午の日で稲荷社の縁日と言われるが松尾寺の場合、養老2年2月初めの午の日、千手千眼観世音菩薩が天降りご出現なされたという「松尾山縁起」により、42歳の人は“まつのおさん詣り(やくよけ祈願)”に参拝するといいと特記している。




朝熊山の八大龍王

2012-01-25 12:27:36 | 近畿の山
伊勢に来るたび足をのばす朝熊山。辰年なので山頂の八大龍王社を目指して朝熊岳道を歩いてみた。
 
「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」 「岳参り」と呼ばれ金剛證寺への参拝道として整備された名残の町石が一町(109メートル)ごとに建てられている。高野山町石のミニ版。 



次第に雪道と変わる登山道路は急な坂もあるが整備されて歩きやすく、時折眼下に伊勢の風景が見える。


終点の22町石。



ここから舗装道路を歩き、八大龍王社の建つ山頂へ、




朝熊山は古来山全体が八大龍王の山だったのでは? 静けさの中に一種独特の雰囲気は残っている。そして山頂にお決まりのテレビ塔



数年前からマイブームは龍神さんなので、朝熊山は気になる山だった。どこからも眺められる身近で神々しい山・・・。昔はさぞ威厳のある霊山だったろう

八大龍王とは仏教を守護する龍(ナーガ)族の王さまを八尊集めたもの。経軌によって内容に差異があるが、『法華経』序品に説く八大龍王がもっとも流布している。他に『陀羅尼集経』では別の組み合わせを説く。わが国では主に、祈雨、止雨の尊格として信仰される。

端的に言えば仏教を守護する龍神のこと。真言密教では水神として雨乞いの神さまです。主に水中に住み、雲をよび雨を降らす神力を有する。インド原住民の間で信仰されていた蛇神が仏教に取り入れられたものと言われる。

「時により、過ぐれば民の嘆きなり、八大龍王 雨やめたまへ」 洪水が天に濫り、河川が氾濫、田畑の荒廃に苦慮した 将軍・源実朝 自ら祈念した歌がある

龍神信仰は奥が深く、幅も広い、朝熊山では感じなかったけれど、ふと宗像神社が浮かんできた。





巻向山とリョウサンの池

2011-02-25 11:08:31 | 三輪山
 
去年の秋、対岸の外鎌山の山頂から眺めた巻向山~初瀬山

三輪山の東に連なる標高567Mの山。山頂が顕著なわけでもなく、何かが祀られているわけでもないのにミステリアスな山域として古代史ファンには人気がある。学術的に公表されている物では満足できず、何か隠されたものがあるんではないかと嗅ぎまわるヨタを自認する自分的にも気になる山で今まで5~6回、周辺を歩いているが、神々の山に直結するデータはない。神奈備の三輪山と連なっている事から古来より禁足地だったのではないかと思う。



物部氏の祖神・ニギハヤヒさんを祀っていたと言われるリョウサンノ池。初瀬山と巻向山の分岐から巻向に向かう途中、桜井市白河の奥深い山中に青々とした水をたたえた大きな池のほとりにひっそりと佇む。ご祭神はスサノオ→牛頭天皇→善女龍王と変わり、明治に高麗神(タカオカミ)となり現在に至る。白河地区だけでなく出雲村の人々も高山神社に登り、雨乞いを祈ったという。



この一帯には他にもわき水や池が存在する。古来より雨や水に対する龍神信仰が行われていた事がうかがわれる。 


巻向山山頂・三等三角点(昔は眺望に優れていたらしいが今は植林に覆われている)


ダンノダイラ(三輪山の東1700m峯の上にあった古代出雲集落地) 麓にある十二柱神社は出雲村の村社だが、大昔は神殿がなく「ダンノダイラ」の磐座に向かって拝んでいた。 明治の初め頃まで、全村民が「ダンノダイラ」へ登って出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中相撲をしたり、食べたりした(出雲村伝説より)とされる。

以前、事前学習なしにダンノダイラに訪れ、しめ縄で囲われた磐座よりさらに上によじ登ってしまい、後で聖域だと知った。ごめんなさい。こんな事を繰り返さないようにしないと。


十二柱神社

三輪山の麓、出雲地区の氏神様。境内には武烈天皇の皇居のあった地とされる列城宮跡伝承の碑が立つ。



さらに野見宿禰の五輪塔など 一帯には古代史に神話伝承に関わる名だたる地名が多い。相撲神社と言えば穴師にあるがこの五輪塔は出雲地区出身と言われる野見宿禰の古墳から移したお墓とされている。


さすが、相撲の起源、一対の狛犬を支えているのは8人のお相撲さん。





リョウサンの池の麓白河地区、白河川を挟んで右に初瀬山、巻向山に囲まれた絶好のポイント。夕暮れなので、パッとしないが桜の季節や棚田が整った季節はカメラマンに人気がある。



「 龍王の淵に湧き出る神の水 流れて清き白河川 」 高山神社の祠の傍に建つ碑

居合わせた方にお話を伺ったら、彼はこの碑を建てた時の地区会長さんだった。十二柱神社でも地元の謂れを伝記として書きしるしているという方から昔のダンノダイラの話を教えて頂いた。地元の方とお話できるチャンスはとても有難く、出会いを頂けるのは神さまからのプレゼントだと思う。 

巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る 柿本人麻呂

雪が降ったらまた、巻向山に行こうと思っている。


枚岡神社と神津嶽(かみつだけ)

2010-09-26 12:54:26 | 奈良の山

河内国一の宮 枚岡神社は奈良から悪路で名高い国道308号線の暗峠を越えた生駒山西麓に鎮座。 創祀は、皇紀前まで遡り、神武天皇が大和の地で即位される3年前、神武天皇の勅命を奉じて、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。 


ご神域は2万1千坪に及び、生駒山にあっては奈良側の往馬大社とともに貴重な自然が保存されており鎮守の森を守る活動も盛んです


主神の「天児屋根命」は天岩戸開き時、祝詩を詠んで天照大神を誘いだした神、「比売神」はその妃とされますがホントは古くから麓の人によって祀られていた地主神だという説もります。 西暦767年~770年春日大社に分祀せられたため、ここの神社は「元春日」と呼ばれ その後、春日大社から東国の神々「タケミカズチノ命」「フツヌシノ命」を勧請した。




ご神体山の元宮へは府民の森「かみつだけコース」として整備されているハイキングコースにそって展望台を目指して登る。スタート地点にある梅林は明治の神仏分離政策で廃寺となった多数の神宮寺院の跡地に造られたのが始まりだとか、枚岡梅林は梅の名所として有名で東大阪市の名勝に指定されています。



梅林から徒歩2~30分、途中の展望台から かみつだけコースに進み分岐の右手、しめ縄の掛けられた鳥居から急な石段を100メートル程歩くと 御神体山神津嶽で明るく開けた台地の上に枚岡神社創祀の地・元宮が建てられている。昔は柵が設けられ禁足地となっていたらしいが、昭和56年に石碑が建てられ、平成5年に石の社殿が築かれた。



お隣の石切神社と同じように神が降臨する山として古代信仰の名残があり、神津嶽の周りには、古代祭祀跡と思える磐座が存在、ワタシ的にはこれで充分、真新しい石碑も社殿もいらないんだが・・・。



展望台からは大阪平野を始め、瀬戸内海、淡路まで一望できる



大阪とは思えない鬱蒼とした静かな杜に囲まれた枚岡神社。出雲井・白水井という背後の山からの湧水を社殿の中にお祀りしていると言うことからして、古来は素朴な水の神様をお祀りしていたと思われる。ひらおかの森を守る会のサイトで本殿前のお堀の中に群生していたピンクの可愛い花は秋海棠だと知った。

暗峠:奈良平城京の三条大路から難波宮を一直線に最短距離で結ぶ古代の主要道路で、加太越伊勢街道とも呼ばれる。大和と河内の国境で難波に着岸する異国の悪しき侵入を防ぐ関門として宗教的な意味合いを持つ地名だとか。現在も国道308号線として機能しているが、運転大好きな自分でも二度と行きたくない道ナンバーワン!石畳の道路の狭さも特筆ものだが、特に奈良側から枚岡神社に抜ける道の勾配の凄さと言ったら、殆どオカルト。ジェットコースターで急降下するより恐怖だった。怖いもの見たさでもう一度行ってみたい気もするが・・・。





弥彦山と弥彦神社

2010-06-09 11:43:09 | 各地の山


「越後は弥彦山から」 越後平野にそびえる神の山。越後の国で最初に朝日に輝く山と言われ、海抜638mの頂上には御祭神の御神廟があり、神剣峰とも言われている。この主峰に対し北方にある峰を十宝山と称し御祭神が神宝を納められたと伝えられている。



御祭神は天香具命(アメノカゴヤマノミコト)弥彦山は高倉下命がお祀りされるずっと以前、古代から神の鎮座する霊山として、自然信仰の対象で崇拝されていたはずだから、高倉下命の登場は弥彦山ではなく弥彦神社の始まりとなる。

神武天皇東遷の最大の功労者がなぜ日本海の荒波を舟で渡って越の国に行かされたのか謎・・・・。



弥彦神社の境内は広く約四万坪、樹齢4~500年の古木に囲まれ、御本殿の背後に見える弥彦山の境内林、社有林は約六万坪の広大な苑地となっている。

拝殿の左手から弥彦山登山口に続く道は杉木立に囲まれた静かな散歩道で、万葉集に登場する植物とともに、歌碑が建てられ「万葉の道」として整備されている。新潟県森林浴の森百選に選ばれているだけあって、非常に居心地の良い神気漂う杜




登山道路は霊山の雰囲気満々で神気に浸り・・・。ロープウエー山頂駅と合流する9合目を過ぎたころ、突然左手にアンテナが、ゲッ・・・。ここにもか?? 







気を取り直して急な石段を歩き、奥宮の鳥居が見えた時、大きな建物が見えたと思ったら、それはそれは巨大な東北電力のアンテナ設置塔だった。鳥居も社務所も奥宮御廟森もかき消される威圧感で立つアンテナ、これはないでぇ!と思ったら左手の弥彦裏参道には巨大なNTTアンテナが・・・・。

 
山頂の奥宮 御神廟、右にも奥にも巨大なアンテナが見える。御神体山の風貌が台無しなのだが。

でもね、社務所で頂いた縁起には、

山上には日本山岳会の建てた記念碑、展望台もあり、NHK,民間放送局のテレビ塔、警察、県の防災無線塔、気象レーダー観測所、NTT,JR通信施設などがあって、神のいます山上から電波にのせて新しい文化の光を日夜県内外に放っている。


・・・。と書かれているので、別によそ者から文句言われる事ないのよね。国の為、人民の為なら神はわが身の安泰なん異に解さないと信じたい。



山頂から眺めた神社が見える杜は素晴らしかった。



神の住まう山は、杜があること、水の流れがあること、気があること。
すべて満たした、期待を裏切らない素晴らしい霊山で弥彦の町全体が境内のように見える。
神代から、越後の稲田を見守る「おやひこさま」は山頂ではなく、杜の中に佇んでいる。

1956年1月1日、福餅撒きに集まった参拝者が将棋倒しとなり、124人が死亡した。弥彦神社事件と呼ばれる痛ましい事故が起きている。


熊野の神々がいる山

2010-05-13 15:52:44 | 近畿の山

大馬神社境内の大滝

奥深い森に囲まれた熊野、太古の神話が語る熊野の信仰は「山の信仰」と「海の信仰」があると言われる。熊野本宮を中心に、山中を他界として認識したのが、山の信仰。新宮と那智を拠点に海の彼方を理想像として憧憬したのが海の信仰。神話との関わりも深く、独自の歩みと歴史を持つが、11世紀頃互いにご祭神を勧請して「熊野三山」と称するようになった。鎌倉時代には皇族・貴族の間で「熊野詣で」が流行し「蟻の熊野詣」という言葉が生まれた。


熊野速玉大社

全国3000社以上ある熊野神社の総本宮・熊野本宮大社は沢山の人で溢れかえり真新しい資料館や店舗が増えていた。世界遺産に登録されてから参拝者が急増、住人7千人の本宮の町に正月三ヶ日で27万人の参拝者が訪れるとか・・・。明治24年に遷座された歴史の浅い神社だが、静かで厳かだった境内の雰囲気は一変! 以前は見かけなかった禁止事項の看板が境内の至る所に立ち並び、悲しくなる。


熊野本宮大社:大斎原

「聖地の条件は1センチたりとも動かない事」と言う言葉があるが、水害で流出する100年前まで聖地だった大斎原・・。ここもお供え物禁止、無断撮影禁止、あれもこれも禁止・・。でもお賽銭箱はしっかりあるという、新興宗教のような感性で、訪れる人の心に訴えるものは少ない。



熊野速玉神社の元宮・神倉神社。神倉山の山頂にゴトビキ岩とよばれる巨石がご神体をして祀られている。ここは熊野権現が最初に降臨した根本聖地とも伝えられている。磐座を拝んでいるとホントに神社仏閣の豪華な鳥居や建造物はまやかしで不要だと感じさせてくれる。




世界遺産登録で海外からの観光客が増えている。 ごとびき岩のすぐそばで日本人ガイドに連れられた20人位の中南米団体客が長時間休憩していた。

熊野は古代の自然信仰、原始信仰の聖地であったと思われるが、今なお熊野の神さまが住んでいる山々を探訪しようと、事前に聞いていた山懐の神社を訪ねてみた。どこも深い杜と清流に囲まれ、静かで神々しい信仰の原点を感じさせてくれた素晴らしい神社だった。



神内神社:岩壁をご神体として祭った原始宗教の名残りがある。境内には300種類の植物が繁茂し貴重な杜です。


大馬神社:古代信仰の滝と岩と山がご神体とされています。杉の巨木に囲まれ 熊野地方が植林化される以前の植性を持つ貴重な社叢とされています。


産田神社:地元に伝わる話では「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野に遷したのが、熊野本宮大社の始まりだといわれている。広大な社叢をもつ弥生時代からの古い神社で古代には建物はなく『ひもろぎ』と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)へしめ縄を張り神様を招いた。ひもろぎの跡(神の宿る所)も残っている。日本で二箇所しか残っておらず大変古くて珍しい。と書かれていた。

巨岩を御神体とする丹倉神社には近くまで到達したが、なぜか辿りつけなかった。やはり神さまは観光客を避けて人里離れた山の中にいる。

熊野信仰も元をたどれば出雲にある熊野山(天狗山)を発祥とする出雲の熊野大社にルーツがある。また那智大社社伝には神武天皇が大滝に神を祀ったのが始まりとされているが、那智大瀧にそれより以前、すでに「大己貴神」を祀っていたとされるので出雲より熊野に勧請されたのは神代の時代であったと思われる。




玉置山と玉置神社

2010-05-11 12:58:33 | 奈良の山


紀伊半島の中央。大峰山脈の南端に位置する標高1076メートルの玉置山。北山川と十津川の深い渓谷に挟まれた山頂からは南に太平洋、北に吉野、熊野の山々を遠望できる神秘的な山で、玉置山の森は、森林浴の森100選にも選ばれている。



広々とした山頂からは熊野灘を望み「沖見岳」「舟見岳」との別名もある。山全体がご神体と崇められている神奈備と思われるのに、あろうことか山頂付近にアンテナが立てられ台無しに・・・。前に来た時はもっと整然としていたような記憶がある。



山頂直下9合目に建つ玉置神社の境内はうっそうとした原生林に覆われ、神代杉をはじめとして樹齢3000年と言われる大きな木々が林立。荘厳で神聖な雰囲気の中に社殿が鎮座しています。


神代杉


玉石社:御祭神・大巳貴命




玉石社の後ろに「霊石三ツ石神祠」
大峰奥駆道の拠点ともなっているので、この日も3人の若者が大きなザックを背負って降りてきた。


玉置神社は神武天皇東征の際、熊野に上陸後、ヤタガラスの先導にて、この地で十種神宝を奉祀されたとの伝説があり古来より十津川郷の鎮守であったと思われます。熊野三山の奥の院と呼ばれていて、熊野本宮には玉置神社の遥拝所があったという事ですが・・・。

この件に関して最近の書物(熊野 神と仏)の中で熊野本宮宮司、金峯山寺執行長という立場の方が対談でどちらも玉置神社との関係を否定し、スピリチュアル系の変な人たちの拠り所になって、「あそこはすごい」と言って本来の形とは違っている・・・と、極めて否定的な意見を述べていたが、段々変な雰囲気になってきたのは、明らかに熊野本宮のほうだと言うことは 行ってみれば誰でも解る。 視野の狭い人だ。

確かに玉置神社は道路が整備されて雰囲気は変わった。それでも境内にポツンと置かれた無人のお神酒、車道があるにも関わらず自動販売機はなく、休憩所にある無料の熱いポット・・・。ずっと前奥駆の道中、お賽銭代もなくタダで頂いた記憶がよみがえり、変わらない心があるように感じた。  山頂のアンテナで神さまは何処かに逃げたと思うけど、いつの日か戻ってくる予感がある 他に類を見ない霊山。