神々のいる山を訪ねる

巡礼登山家を目指して修行中、 一人淋しく霊山を訪ね歩いています。

観音峰と龍泉寺

2012-04-11 18:54:32 | 奈良の山


修験の聖地 洞川のみたらい渓谷から気軽なハイキングが楽しめる観音峰は大峰随一の展望台として名高い。登るにつれて登山道路には雪が残っている。大峰一帯は世界遺産に登録されてから道路や標識が整備され 前鬼から釈迦ヶ岳に至る階段などは顰蹙ものだが、ここの要所要所に建つ南朝ゆかりの物語風石碑は読んで楽しい。


玉八大権現



南北朝動乱期に大塔宮親王が北条の軍勢に追われて、逃げ込んだという洞窟の中に、小さな観音様が祀られている。恐れ多くて撮影は遠慮した




観音峰展望台からは残雪の大日、稲村ヶ岳から弥山方面の眺めが素晴らしい。前は三つ塚から法力峠に抜けたが今日は龍泉寺に行くのが目的なので引き返した。



「真言宗醍醐派大峯 龍泉寺」

吉野の護持院とともに大峯山寺を護持する護持院で 本尊「弥勒菩薩」、八大龍王、役の行者尊をお祀りしています。千三百年前、修業中の役行者が洞川のほとりで、こんこんと湧き出る泉を発見。竜の口と名付けて、そのほとりに小堂を建て、八大龍王をお祀りされたのが始まりとされる修験道の根本道場。



岩窟から湧き出る泉:竜の口から湧き出る清水は、役行者以来、絶えることなく清冽な流れを境内にたたえ、修験者の清めの水として大峯山中第一の水行場となっており 洞川から大峯山に入る修験者は、宗派を問わず龍泉寺に詣で、竜の口より湧き出る清水をたたえた水行場で滝行、又は門内の池の水行を行い、八大龍王尊に道中安全を祈ってから、山上ヶ岳に向かうのが習わしだとか。 境内の泉からはたえずこんこんと湧き水がでており、至る所に水場がある。「山があり水があり気がある」全てを兼ね揃えた山のお寺。龍神さまはお住みになっていました。 盛大に催される八大龍王大祭に出かけてみたいです。


※大峰奥駈道は和佐又~大普賢~弥山~前鬼まで何度となく歩いているが、吉野と洞川からの山上ヶ岳一帯は女人禁制なので私の預り知らぬ領域。



結界門:「この霊山大峰山の掟は宗教的傅統に従って女性がこの門より向こうへ登ることを禁止します。」

ハイハイ、女人禁制!ね 「傅統」って何て読むの? 伝統的?


阪神大震災が起きた年、1月15日から山岳会の合宿で川合から弥山を目指していた。大雪で初日に狼平小屋まで行きつかず、頂仙岳手前でテント設営、あくる日も大雪で弥山どころか狼平手前で敗退。結構精鋭メンバーだったけど雪深かったせい、あくる朝に地震が起きた。 


大雪の大普賢岳

山岳会の女性は冬季だれもいない山上ヶ岳に平気で登っていたし、沢やは神童子谷から詰め上げたら望まずとも禁制区域に入っていたような・・・・。私はそんな罰あたりはしていない。


すぐ先にある「天河弁財天」

五社殿には龍神大神をお祀りしています。
大峯・弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ坪内(壷中天)で蛇行し、その形は龍を偲ばせる。鎮守の杜 「琵琶山」の磐座に弁財天が鎮まり、古より多くの歴史を有す。この地は「四石三水八ツの杜」といわれ、四つの天から降った石、三ツの湧き出る清水、八ツの杜に囲まれし処とされ、神域をあらわす。そのうち三ツの天石を境内に祀る。

パワースポットとしては全国区の人気で、巡礼する著名人や若者で賑わっているらしい。ブームの根源にあるのは古代史のロマン。ここを語ると一冊の本になる・・・といいながら社務所で「天河への招待」「続編」と二冊の本を買ってしまった。

「天川へ、一歩足を踏み入れれば、心が洗われる。」ここにくるとなぜか懐かしい原風景を体験する。長い年月をかけて積み重ねられた信仰の上になりたつ高い精神性。八ヶ岳の縄文遺跡のように気持が古代にタイムスリップする。もし住めるなら洞川より断然坪内。山はいいな。


弥山山頂:天河大辨財天社奥の院(弥山神社) 5月奥駆縦走の時の画像

「後鬼の湯・宿 花屋徳兵衛」に宿泊した。一日6組なので土曜日は取れないから、仕事をサボって日曜泊。お風呂は狭いけど24時間。食事は美味しかった。


松尾山と松尾寺

2012-03-13 14:35:56 | 奈良の山


松尾山は奈良県大和郡山市と斑鳩町との境にある標高315mの山。電波塔が無ければ山頂を特定するのが困難な目立たない風貌ですが、法隆寺から続く矢田丘陵一帯には古寺、名刹が数多く歴史を感じさせてくれるマイ里山



中腹に建つ松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、42歳の厄年の時、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立されたと言われる日本最古の厄除霊場で、みずから、松尾山に籠り、「太古の大岩」と山岳を道場として修業、満願の養老2年2月初めの午の日、東の山に紫の雲たなびき、雲間より、千手千眼観世音菩薩が天降りご出現なされたと「松尾山縁起」に書かれています。 




ここ数年 節分の日は境内の七福神堂で無料配布される豆を頂くのですが、これが実に香ばしくて美味しい。 生きている限り節分の日は松尾寺に来ると決めている。


今年の2月3日も当然のごとく参拝。この日は初午の日で 柴燈大護摩奉修が執り行われていた。そんな重大な行事とは思わず、護摩が焚かれている脇を素通りして、松尾山神社に参拝して 十三重の塔の前から尾根通しに松尾山に登頂(20分程度だが) 山中でほら貝の音色を心地よく聞き下山したら すでに法要は終わっていた。



鬱蒼としていた鳥居前の木々が刈り取られて眼下が一望できるようになった。


松尾山神社
松尾寺の地主神として祀られているが、古来は一帯の鎮守の神であったと思われる。春日造り桧皮葺の三社殿が並び、主神の松尾大明神(大山昨命)を本社、清滝権現(善女竜王)・牛頭天皇(スサノオさん)を脇社として三社斎祀しています。 

牛頭天皇は京都八坂神社の祭神で新羅からの渡来神だがスサノオさんの別名だといわれる。清滝権現は醍醐寺の地主神だから、当山派の正大先達になった時期に勧請されたものでは?

松尾大明神と呼ばれる大山昨命は寺の創建より早くからこの地に地主神として祀られおり、ここ一帯には半農半猟の士族が暮らし松尾山を神の山として崇めていたのだろう。生駒山、二上山、若草山、三輪山が眺望できる格好の位置。


丹生社の祠

本堂背後の岩磐(巨石)から山頂に行く脇に水の神・丹生社の祠があり、岩間から清水が湧き出ている。 「水があり、杜があり、気がある」神の山と呼ぶ要素は揃っている。山が先か寺が先か?と問われたら、どんな有名な社寺でも「山が先」


参詣道の途中に祀られている気になる大歳さん。  



罰当たりな電波塔の脇に建つしょぼい三角点、アンテナが建つと神さまは逃げます。


松尾寺の縁起は「古寺巡礼 奈良」という一冊の本になっているほど深く見どころも多いので書ききれませんが、行者堂内に安置されている木造彩色・室町時代の作で総高6尺に及ぶ木造としては日本最大の役行者像は必見です。


幾度となく訪れているので当初の感慨を感じなくなっている。ところが修験道のお寺なので 気を抜くと凄いお力を発揮され 痛い目に遭わされ気付かせてくれる。初午の重要な行事を軽く考えた自分の身体に帰宅後異変が・・・。今日の行いだと気がつき 3月10日の柴燈大護摩奉修で懺悔すると決めたら翌朝回復。 3月10日の初午の日も駐車場は満員、大勢の方が護摩供養に参加されていた。


修験道は山中の霊気の中に身を置くことによって、魂の浄化と修練の蓄積が出来ることを目的にしている。修業を通して、自然の力(験力)を獲得しその神秘的な力によって自他の救済を目指します。そのため各地の霊山・霊地での修業は欠かせません。

究極の目的は修験道かなぁ。 山歩き、断食、粗食は歓迎。 団体行動は苦手だと言って一人で山に入ると魑魅魍魎の餌食になるのが目に見える・・・。



※初(はつうま)とは、2月の最初の午の日で稲荷社の縁日と言われるが松尾寺の場合、養老2年2月初めの午の日、千手千眼観世音菩薩が天降りご出現なされたという「松尾山縁起」により、42歳の人は“まつのおさん詣り(やくよけ祈願)”に参拝するといいと特記している。




枚岡神社と神津嶽(かみつだけ)

2010-09-26 12:54:26 | 奈良の山

河内国一の宮 枚岡神社は奈良から悪路で名高い国道308号線の暗峠を越えた生駒山西麓に鎮座。 創祀は、皇紀前まで遡り、神武天皇が大和の地で即位される3年前、神武天皇の勅命を奉じて、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。 


ご神域は2万1千坪に及び、生駒山にあっては奈良側の往馬大社とともに貴重な自然が保存されており鎮守の森を守る活動も盛んです


主神の「天児屋根命」は天岩戸開き時、祝詩を詠んで天照大神を誘いだした神、「比売神」はその妃とされますがホントは古くから麓の人によって祀られていた地主神だという説もります。 西暦767年~770年春日大社に分祀せられたため、ここの神社は「元春日」と呼ばれ その後、春日大社から東国の神々「タケミカズチノ命」「フツヌシノ命」を勧請した。




ご神体山の元宮へは府民の森「かみつだけコース」として整備されているハイキングコースにそって展望台を目指して登る。スタート地点にある梅林は明治の神仏分離政策で廃寺となった多数の神宮寺院の跡地に造られたのが始まりだとか、枚岡梅林は梅の名所として有名で東大阪市の名勝に指定されています。



梅林から徒歩2~30分、途中の展望台から かみつだけコースに進み分岐の右手、しめ縄の掛けられた鳥居から急な石段を100メートル程歩くと 御神体山神津嶽で明るく開けた台地の上に枚岡神社創祀の地・元宮が建てられている。昔は柵が設けられ禁足地となっていたらしいが、昭和56年に石碑が建てられ、平成5年に石の社殿が築かれた。



お隣の石切神社と同じように神が降臨する山として古代信仰の名残があり、神津嶽の周りには、古代祭祀跡と思える磐座が存在、ワタシ的にはこれで充分、真新しい石碑も社殿もいらないんだが・・・。



展望台からは大阪平野を始め、瀬戸内海、淡路まで一望できる



大阪とは思えない鬱蒼とした静かな杜に囲まれた枚岡神社。出雲井・白水井という背後の山からの湧水を社殿の中にお祀りしていると言うことからして、古来は素朴な水の神様をお祀りしていたと思われる。ひらおかの森を守る会のサイトで本殿前のお堀の中に群生していたピンクの可愛い花は秋海棠だと知った。

暗峠:奈良平城京の三条大路から難波宮を一直線に最短距離で結ぶ古代の主要道路で、加太越伊勢街道とも呼ばれる。大和と河内の国境で難波に着岸する異国の悪しき侵入を防ぐ関門として宗教的な意味合いを持つ地名だとか。現在も国道308号線として機能しているが、運転大好きな自分でも二度と行きたくない道ナンバーワン!石畳の道路の狭さも特筆ものだが、特に奈良側から枚岡神社に抜ける道の勾配の凄さと言ったら、殆どオカルト。ジェットコースターで急降下するより恐怖だった。怖いもの見たさでもう一度行ってみたい気もするが・・・。





玉置山と玉置神社

2010-05-11 12:58:33 | 奈良の山


紀伊半島の中央。大峰山脈の南端に位置する標高1076メートルの玉置山。北山川と十津川の深い渓谷に挟まれた山頂からは南に太平洋、北に吉野、熊野の山々を遠望できる神秘的な山で、玉置山の森は、森林浴の森100選にも選ばれている。



広々とした山頂からは熊野灘を望み「沖見岳」「舟見岳」との別名もある。山全体がご神体と崇められている神奈備と思われるのに、あろうことか山頂付近にアンテナが立てられ台無しに・・・。前に来た時はもっと整然としていたような記憶がある。



山頂直下9合目に建つ玉置神社の境内はうっそうとした原生林に覆われ、神代杉をはじめとして樹齢3000年と言われる大きな木々が林立。荘厳で神聖な雰囲気の中に社殿が鎮座しています。


神代杉


玉石社:御祭神・大巳貴命




玉石社の後ろに「霊石三ツ石神祠」
大峰奥駆道の拠点ともなっているので、この日も3人の若者が大きなザックを背負って降りてきた。


玉置神社は神武天皇東征の際、熊野に上陸後、ヤタガラスの先導にて、この地で十種神宝を奉祀されたとの伝説があり古来より十津川郷の鎮守であったと思われます。熊野三山の奥の院と呼ばれていて、熊野本宮には玉置神社の遥拝所があったという事ですが・・・。

この件に関して最近の書物(熊野 神と仏)の中で熊野本宮宮司、金峯山寺執行長という立場の方が対談でどちらも玉置神社との関係を否定し、スピリチュアル系の変な人たちの拠り所になって、「あそこはすごい」と言って本来の形とは違っている・・・と、極めて否定的な意見を述べていたが、段々変な雰囲気になってきたのは、明らかに熊野本宮のほうだと言うことは 行ってみれば誰でも解る。 視野の狭い人だ。

確かに玉置神社は道路が整備されて雰囲気は変わった。それでも境内にポツンと置かれた無人のお神酒、車道があるにも関わらず自動販売機はなく、休憩所にある無料の熱いポット・・・。ずっと前奥駆の道中、お賽銭代もなくタダで頂いた記憶がよみがえり、変わらない心があるように感じた。  山頂のアンテナで神さまは何処かに逃げたと思うけど、いつの日か戻ってくる予感がある 他に類を見ない霊山。


吉野山・金峯山寺

2010-01-12 19:46:19 | 奈良の山

金峯山寺パンフレットより


2010年は平城遷都1300年。奈良県内では記念イベントが目白押しですが、そのオープニングイベントとして2009年の午後10時から元旦の午前4時まで、吉野の金峯山寺蔵王堂(国宝)内の秘仏、蔵王権現立像(重文)が無料で特別公開されました。蔵王権現立像はお寺のご本尊で、高さ7.3メートルの中尊(釈迦如来)と6メートルの右尊(千手観音像)、左像(弥勒菩薩像)の三尊からなる木像。

蔵王権現立像は 日本最大の秘仏とされ、右手に持つ三鈷は悪を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿をされています。 さらに背後の赤い火炎は仏さまの偉大な智慧、身体の青黒色は仏さまの深い慈悲を現わしています。三尊の全身はことごとく悪魔を払う怒りの形相を現わされていますが、それは 釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩を本来のお姿とする変化身で、それぞれ過去、現在、未来わたってわたくし達を守って下さる守護仏でもあります。



通いなれた吉野ですが、金峯山寺拝観は初めて、いきなりライトアップされた蔵王堂に圧倒され、さらに蔵王堂内の法要に案内され午後10時の合図とともにライトアップされた秘仏・蔵王権現立像を目の前1~2メートルで拝見させて頂いた時、誰もが「凄い!」としか言葉がありませんでした。 



金峯山(きんぷせん)とは吉野山から山上ヶ岳(大峰)一帯を指す。飛鳥時代から聖地として知られ、7世紀後半、修験道を始めた役行者はこの金峯山で修業され、山上ヶ岳において、人々を迷いや苦しみから救い、悟りの世界に導くために金剛蔵王権現を祈りだされ、そのお姿を桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建てお祀りされました。



法要も素晴らしかった。境内に響き渡る太鼓の音やホラガイの音色、行者さんのお経を読む作法にも感動。 吉野でも神様の追っかけをしていた自分ですが、陰陽 太陽と月、神と仏の重要性を再認識! 恐るべき修験業。 太鼓を叩いている精悍な行者さんのあまりのカッコよさに惚れ惚れしてしまった。



人々を救いたいという役行者の願いによって祈りだされた権現様、シバ神に捧げられたマントラにも似た感性で、心の中の内在神をビリビリ感じさせてくれた。いやぁ~何度行っても吉野は奥が深い。 真夜中の寒空で振舞われた吉野仙人鍋の暖かくて美味しかった事  
                                     


談山神社と御破裂山

2009-12-18 13:18:16 | 奈良の山

桜井や天理方面から眺める特徴的な御破裂山ごはれつざん)標高618m



奈良県桜井市多武峰に鎮座する談山神社は、大化の改新の舞台となった血塗られた歴史の残る神社です。



蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)とともに645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。 ・・・・。

と公式サイトにはきれい言葉が並べられていますが、当時朝鮮半島からの渡来人の代理戦場と化していた飛鳥の地で親百済派の蘇我一族が親新羅派の中大兄皇子と親唐派の中臣鎌子に滅ぼされた、よくある権力闘争の舞台となった場所です。 鎌足に打たれた入鹿の首は入鹿神社の近くにある曽我の「首落橋」まで飛んだと言われています。また殺された理由が解らず二人を睨みつけ、逃げる二人を追いかけてなぜか高見山にまで飛んでいき、日暮れになったので甘樫丘の自宅に帰ろうとしたが、飛鳥寺の首塚の上空で力尽きたという哀れな話もあります。そりゃ騙されて殺されたんだもんね。



談山(かたらいやま)

境内の竜神社の脇にある階段状の道を辿り分岐を右に10分ほど。
談山神社本殿の裏に位置する山で古くから「談所の森」と名づけられ中大兄皇子と鎌足が大化改新の秘策を練られた場所とされています。



さらに植林された尾根を北に進むと石段の上に鳥居がある。



山頂には鎌足公のお墓とされる古墳があり、古くから国家に不祥事があると「神山が鳴動」した記録が残っています。とか・・・。裏手に回ると展望台になっていて天気が良ければ大和三山や二上山が望まれる(はず)




西大門に下る途中にある石仏


駐車場の前に広がる音羽三山

今年二度目になる談山神社、ずっと昔に来た事があるはずだがまったく記憶がない。 奈良の神社にしてはめずらしく拝観料500円が必要なのは紅葉を目当てにくる人が多いから。 今回拝観して以前の記憶を思いだした。本殿の醸し出す雰囲気は薄く神さまの存在が感じられない。 蘇我の子孫は談山神社に来ると腹を壊すと何かの本で読んだ事があるが、あくる日腹を壊したワタシは蘇我の子孫かもしれない。自分では蘇我に滅ぼされた物部の子孫だと思っているのに・・・・。


春日大社の神奈備・御蓋山(みかさやま)

2009-09-15 16:59:56 | 奈良の山


春日山錬成会 秋の峰に参加して、古来より禁足地として守られている、標高295メートルの御蓋山浮雲峰に御鎮座されている本宮神社をお参りさせて頂いた。 巡拝は水谷神社でお祓いの後、大宮ご参拝、若宮ご参拝ののち、通常は入山が厳しく制限されている神域に入り、峰々に御鎮座になる神々様と、尊い御神縁を結ばせて頂きました。


若草山から望む御蓋山

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)
延喜式内社「大和日向神社」に比定される古社で創立は明らかではないが、古伝によれば春日大社のご祭神タケミカズチノミコトはまずこの浮雲峰に降臨され、のちに現在地に遷祀されたと伝えられているだけに、その発祥は極めて古い。現在の社殿は近世に入ってから建てられたものであり、それ以前は社前にみられる約10メートル四方の自然石で囲んだ磐境に神様をお迎えし、お祭りが営まれたのであろう。

高山神社(こうせんじんじゃ)
春日山原始林の中、能登川の水源にお鎮まりになる水神さま。社前の水源には興福寺東金堂衆が鎌倉時代に奉納された石舟が現存する。

鳴雷神社(なるいかずちじんじゃ)
延喜式内社で、佐保川と能登川の源流である春日山の分水嶺に御鎮まりになる水神様。現在も11月26日には新嘗祭が執り行われている。以前は「香山龍王社」と呼ばれていた。社前にある「龍王池」は神秘な伝説が今に伝えられているが、鎌倉時代に書かれた『古事談』によれば猿沢池に住まわれていた龍王さまは、巫女の身投げで穢れた池から此処に移られたのち、室生の龍穴神社に移られた・・・。とか


山林内立ち入り禁止の看板

春日大社は1200年前、奈良に都が出来た頃 日本の繁栄と国民の幸せを願って、鹿島神宮から御神霊を御蓋山にお迎え、河内一の宮 枚岡神社からアメノコヤネノミコト、ヒメミカミをご分配され、768年現在地に社殿を造営。以来藤原氏の守り神として今に至っていますが、それ以前より春日の神は摂社の榎本神社に祀られており、榎本神社の御祭神がこの土地の神さまと伝えられている。


鶯の滝

奈良に住んで20年、春日大社に初めてお参りしました。春日錬成会は春ノ峰・夏ノ峰・秋ノ峰・冬ノ峰として年4回行っていて どなたでも参加できます。朝9時~午後5時までの長時間歩行となるので少々の体力は必要ですが 清らかで心地よい御心遣いと美味しい昼食、直会、御神楽、お守りなど至れり尽くせりの御奉仕を頂き実に楽しい一日でした。本宮神社など禁足地内の神社撮影は許可されましたが、恐れ多くて掲載は控えます。 今なお 春日の御山に神様は御座しました。




代わりに・・・・。




石切劔箭(つるぎや)神社と宮山

2009-05-23 21:11:58 | 奈良の山


石切劔箭神社の起源は、神武天皇、紀元2年、生駒山中の宮山にニギハヤヒの尊を奉斎申し上げたこと。崇神天皇の御代になって、「下の之社(現在の本社)に可美真手命が祀られたとあります。



大阪では石切りさんと親しまれて、「でんぼ」(腫れ物)を治して下さる神様として確固たる地位をお持ちの神様ですが、どっちかって言うと参道の怪しい占い通りのほうが有名で、御祭神の名前を御存じの方は少ないように思います。ニギハヤヒさんをご祭神に銘打って、神社庁には所属しない独立独歩の神様です。御力はありますぞ。


「下之社境内にある神武社」

ニギハヤヒさんはスサノオさんの御子で、幼名を大歳尊(オオトシノミコト)といいます。その後、大和(奈良)に東遷、途中玉櫛姫を妃として、天日方日奇命(大三輪氏の祖先)がご誕生。名前をニギハヤヒと変えられ、当時の奈良の豪族ナガスネヒコさんを服従させて、妹と結婚、可美真手命と伊須気余理比売(神武天皇の皇后)がご誕生。三輪山頂にある奥津磐座がお墓ではないかとの説がありますが、生駒山中にもお墓があります。 古事記の神武記や十種神宝の話をしていると、石切さんの話ができないので割愛。


石切劔箭神社上之社:現在の本社は「下之社」ですが、元は「上之社」が本社でした。



さらに上之社の背後にある「宮山」山中には ニギハヤヒとウマシマジを祀ったとされる「元宮」の地があります。



上之社から一旦歩道にでて、辻子谷ハイキングコースとなっている住宅地や漢方薬工場の立ち並ぶ急なコンクリートの坂道を辿る。道の脇には幾多の石仏がたてられていてそれぞれ表情が豊かで懐かしい気持ちになる。江戸の昔から生駒山に向かう旅人を見守っていた事だろう。 夜泣き地蔵さんを過ぎたあたりで左に分岐して山道に入る。神社の方や、地域の方から「けもの道ですよ」と聞いていたが踏み跡はきれいについている。



分岐から10分も歩くと鶯がさえずる木立の中にひっそりと佇む小さなお社。ここは2000年前に石切劔箭神社が祀られた場所だ。うん、いい・・・・・。



お社から急斜面を5~6メートル駆け上がると縦走路の鞍部にでるが、げっ!案の定お社の真上には生駒名物のアンテナが!



神武天皇が長髄彦と刃を交えた峠「孔舎衛坂」に由来する地名日下(くさか)から遠望した生駒山。 ちょうど下之宮、上之社、宮山を結んだ延長に生駒山の山頂がある。ここ元宮の場所は天孫降臨の地として古代祭祀が執り行われた場所と考えてしても・・・。ふむ納得できる。



ニギハヤヒさんのお墓:
生駒山中、現在生駒総合公園内のグラウンドから林の中を辿ること20分、こちらもアンテナの真下にひっそりと佇んでおられる


笠山荒神社と鷲ヶ峯山

2009-02-17 20:25:30 | 奈良の山


大和青垣山に連なる倭笠縫邑の伝承地 笠山の鷲ヶ峯(じゅぶさん)山、頂に建つ三宝荒神社。
御祭神は 土祖神一座(はにおやのかみ)
     興津彦の命(おきつひこのみこと)
     興津姫神(おきつひめのかみ)



 
「鷲ヶ峯」笠山は「七岫七谷の祠」と呼ばれ、太古の昔から「かまどの神」のご神体山として何人も立ち入れないご神域「神の郷」仰がれていました。また神代の高天原との伝説もあり、日本書紀による「神浅茅原なり」 また竹林寺縁起文中による「倭笠縫邑」との伝承もあります。 



三輪山の山裾を柘植に向かって進む。巻向山、穴師山、初瀬山・・・。一帯は古代史の宝庫で右も左も気になって仕方がない。 門前に出来た「笠そば処」のお陰で道路標識が増えて迷うことはまずない。

初瀬の川(大和川 )天理の布留川に至る笠山のすそ野、山ノ辺の道に散在する大和の社寺の三宝を守る神、奥の院として栄える。聖徳太子を始めとし、東大寺初代官長、中国の高僧、弘法大師・・・。また役の行者など この山に登りて修験、祈願をかけ、ご霊験を授かること多く、往時は一山寺として栄え名声は広く日本全土津々浦々に響きわたりとある。




竹林寺・(御祭神 板面三宝荒神・薬師如来像)は古代笠寺と呼ばれ七堂伽藍、三重の塔、大門を建立して一山寺を形成していた中の一つで、空海の縁で名づけたとされる。当時は長谷寺の奥の院と云われ 東大寺の根源との説もある。



霊場・閼伽井(あかい)不動明王

806年、空海は高野山建立を志し、笠山に来たが 鷲ヶ峯は入山禁止の山なのでこの池で身を清め21日間の行を修め、下山の後高野の山を開基する。しかし思うにまかせず、再度笠山に登り 閼伽井の池にて水行をなし、此処に不動明王を祀り荒神の分身をさずかり高野山にもどり山寺を開山したと伝えられる。また此の分神を吉野のたてりに奉祀し、たてり荒神と名付けられる。 以後この池は荒神参拝の前に身を清める浄水として用いられる。




門前にある笠そば処は休日ともなると行列の出来る人気スポットとなっている。店も広く綺麗で地元生産のそばで作られた素朴な味はなかなかのもの。地元の野菜販売も行っている。

※山ノ辺の道、三輪神社、石上神社、大和神社など名だたる名所が立ち並ぶ一帯にあって、摩訶不思議な雰囲気をかもし出している気になる荒神さまである。有名な神社仏閣のように大きな組織に属していないので、古文書も少なく、地域の輪番制による伝承で伝えられてきたようだ。唯一社務所で頂いた荒神縁起には推古天皇や聖徳太子の名前が書き記されているが、字の解読は困難を極める。竹林寺伝記で江戸時代に書かれたものらしい。



石上神社と桃尾山

2008-12-18 23:02:07 | 奈良の山
天理の石上神宮から布留川に沿って歩いていくと源流に程近く、桃尾の滝の手前、うっそうとした林の中に鳥居が見えてくる。


右手の流れは布留川の源流

古びた石の階段を歩くと水量の多い手水場があり、かなりの歴史を感じる拝殿の奥に石上神社があり、地元では石上神宮の奥の院・元社とも言われている。  あたりは台地になっていて、焚き火のあとが見られたが、境内は綺麗に手入れされていて、この時期落ち葉ひとつ見られなかった。

一旦林道にでて、すぐ先にある桃尾の滝は別名 布留の滝とも言われる落差23mの直瀑で、今でも修験道の行場となっているのだろう。 いつも綺麗な花が供えられろうそくをお供えした形跡がある。



春日断層崖の中で最大の滝。今日は沢山の方々がお掃除に精を出していました。地元の方かと思ったら各地から集まった行者の方だそうです。 帰途立ち寄ったら真新しいお酒や塩が備えられ一帯はそれは美しく整えられていました。

 今はまた行きても見ばや石上 布留の 滝津瀬 跡を尋ねて   (古今和歌集・後嵯峨天皇)


布留の滝:芭蕉も訪れたとの碑があります。




更に奥にある「大親寺」は 弘法大師再興の真言宗「龍福寺」 古くは境内が東西十町(1090m)、南北六町(655m)にも及ぶ大寺院で、710年頃は 義淵(ぎえん)建立の 龍蓋寺(岡寺)、龍門寺(廃寺)と共に三大名刹の一寺でした。 その後 行基が十六坊を配する大伽藍を完成、中世には五百石分、江戸時代には百石分の寺領を有しましたが、明治初期廃仏毀釈で廃寺となり、今では石垣に往時を偲ぶのみとなっております。



布留の滝はヤハタノ大蛇が降臨したとの伝説もありますが、石上神社は古来 布留川の水神祭祀の場であったのだろう・・・。大国見山にかけて一帯には数多くの磐座が存在します。 


国見山山頂にある祠と桃尾山上御山大神

この大国見山は別名、鳥見山、桃尾山と称し 石上神宮「鎮魂祈祷祝詞」の中で『天祖御祖の大語を稟給ひて、饒速日命天磐船に乗りて河内國河上哮峯に天降坐て大和國鳥見の山麓白庭の高庭に遷坐せて鎮齋給ひ石上大神と号け称奉る』と記されているとされる、実に奥の深い解釈の山でして・・・・。日本国造り、神国日本の神社発祥の地としてのお山でありまする。

これでしょ!神社の原型は!個人的には実に好きな雰囲気の神社です。