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万葉の里・高岡市の北部、富山湾を望んでそびえる二上山(ふたがみやま)は古来より神の山として崇められており、越中国一の宮・気多神社・射水神社ともにご神体山として位置づけている。
東麓に鎮座する気多神社
主祭神:大己貴命(大国主命)(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
婚姻のため越の国まできた大己貴命(大国主命)は「賢く美しい妻を求めて遠い越の国まできたしまった」と歌って、この国の女神・奴奈加波比売命と結ばれた。「古事記には、両神の間に交わされた贈答歌が収められている。
当社の創建は養老年間(717~724年)とされており、往時は神宮寺などの大伽藍が並んでいたが、木曽義仲、上杉謙信の兵火により焼失。1558~70年に再建された本殿は、室町建築の特色をよく伝えるもので、重要文化財に指定されている。
この伏木一宮一帯は、国府や国分寺が置かれた越中の中枢部として栄え、 越中守として当地に赴任した 大伴家持は奈良の二上山(にじょうさん)と同じ名前の山が近くにあることに感激、二上山(ふたがみやま)に特別の思いを寄せ。「万葉集に収められた479首のうち220首を在任中にこの地で詠んでいる。
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木々に囲まれた参道の石段を上ると、境内の一角に越中国総社後伝承地の「かたかごの岡」 本殿のそばに家持を祀る大供神社が鎮まる。 お盆のさ中、平日で訪れる人も少ない境内で、ご朱印の社務所の場所を尋ねたら、ほうきをもってお掃除に勤しんでいる方は禰宜さんだった。一瞬の時間だったが、ご誓文を書き記した紙を頂き、日々の生き方についてのメッセージを感応させて頂いた。(ビビッ、ビッときて、きっと近いうちにまた此処を訪れることになると感じた。
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二上山山頂直下までへは二上万葉ラインが通じている。 山頂からは剣立山連峰、薬師岳、白山などの雄大な眺望、能登半島、小矢部川、庄川の流れなど山と海を見晴らす景観は見事で、若き大伴家持の銅像も山頂近くに建っています。
他にも奈良とに共通点がありまして・・。
奈良の二上山は東に位置する神奈備・三輪山から登る太陽の沈む山として有名ですが、こちらの二上山は東に位置する霊山・立山から登る太陽の沈む山で、夕陽の眺めが見事らしいです。
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二上射水神社(いみずじんじゃ)
二上山をご神体山とする南麓に鎮座する神社で、養老年間(717~724年)行基の創祀と言われている。二上山上に広大な領域を有したが、2度の兵火で焼失、江戸時代、前田家によって再建された。
主祭神:ニニギノミコト
葦原中国に降臨した歴代天皇の祖先神で五穀豊穣の守り神としても崇敬される。古代の史書に、当社の祭神は「二上神(ふたがみのかみ)」と記され、ご神体山の二上山そのものを神として祀ったものと考えられる。 この二上神が、すなわちニニギノミコトとされる。
延喜式神名帳の式内社越中国34社のうち、唯一の名神大社。創建は不詳だが、奈良時代の宝亀11年(780年)の続日本記に「越中国射水郡二上神従五位下」の神階を授けられており、当時すでに北陸地方屈指の大社であった。
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古来、神仏習合により別当寺の養老寺が護持、二上山大権現と称し,盛大を極めたが兵火により焼失、前田利長公が社殿再興の上藩の祈祷所として保護した。明治の神仏分離令を受けて射水神社となり高岡古城公園に分社となったが戦後独立し、現在は元宮として、古代信仰を今に伝え、貴重な文化遺産を守り続けている。
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こちらは 明治八年、高岡城本丸跡に遷座された射水神社ですが、雰囲気は断然二上射水神社のほうに軍配があがります。