神々のいる山を訪ねる

巡礼登山家を目指して修行中、 一人淋しく霊山を訪ね歩いています。

剣山とユダヤ人

2010-02-01 14:39:16 | 各地の山


徳島の山深くそびえる、剣山は標高1955m、石鎚山に次ぐ西日本第二の高峰で山頂の宝蔵石が太陽に輝くと遠く徳島市からも拝まれるという。山名の由来には、鋭い岩による説、神社の宝刀による説、安徳天皇の剣を山頂近くに埋めた故事による説などがあるが、近世以前の資料に記述のない秘密の霊山で、明治の神仏分離以降衰退した修験でも独自の展開をみせている興味深い山です。



日本百名山にも選ばれ、山頂までのアクセスが良いのでハイキング登山者が増え、平家の馬場と呼ばれる 笹に覆われた広々として美しかった一帯には



いつからか延々と木道が作られ、景観を台無しにしている。



剣山山頂下、大剣神社の背後にそびえる御神水が湧く石灰岩峰




この辺りは宮尾登美子の小説「天涯の花」で有名になった「キレンゲショウマ」の群生地




これだけならただの霊山なのですが・・・。剣山には隠された千古の謎がありまして・・・。
高根三教氏の学説によれば、アレキサンダー大王は、ヘブライ民族国家の国是である「神宝」を持ち出して、「崇神天皇」と変身なされております。さらにヨハネ黙示録に記されているとおり、剣山にはユダヤ民族が2千年にわたって求めて探しえない「契約の棺」が埋葬されております。つまり、日本民族の正系はユダヤにつながっており、この秘密を閉じ込めたことによって、日本民族は今日まで存続できた所以であります。



「かくて天にある聖所を開け。聖所の内に契約の棺を見たり、幾多の雷光と雷霆と地震と大いなる雹とありき」     黙示録11章19項



嘘か真か 伊勢神宮に納められている3種の神器「鏡」の裏面に書かれている言葉はヘブライ語に訳すと「モーゼ」が出エジプトの際に発した言葉。



アイヌ民族は最初に日本に来た正統派のユダヤ人(イスラエル)で崇神天皇より500年も前から日本に移住している。などなど、荒唐無稽なお話なのですが、だれも見たわけでないので真実だったりします。



弘法大師はこの秘密を探りあて、剣山を隠匿する為に高野山を開いたといわれ、四国八十八か所札所のいかなる場所からも意識的に剣山を望むことが出来ないようになっている。

確かに剣山は謎めいている。この本を剣神社で買ったのは随分前で、一読後放置していた。最近になって、巫女さんをしている友人から「ユダヤの神道って結構まともなの」って話を聞いて読みなおした。 明治以降、他の後進国みたいに、日本でキリスト教が広まらなかったのは、優れた文化と天皇を拝めた国家神道を保ったせいなのだが(廃仏は犠牲になった) 奴らは100年千年単位で物事を考えるから、神道に根を張り内部から乗っ取る画策だと思っていた。

最近メディアは 日本人は朝鮮や中国からの帰化人で、天皇は百済や新羅から来たという話を積極的に持ちだすようになった。歴史を知っている人ならどうってことないのに・・。

万世一系の天皇の存在は中国、朝鮮のみならず、さまようユダヤ人にとっても心の寄り何処ろとなるのだろう。 

みんな「日本が、天皇が好きなのです!」ってブログを見たことがあるけど・・・。
別に祖先がユダヤ人でも韓国人でもモンゴル人でもイスタンブールでもいい。チベットなら大歓迎  

明治の中頃まで見越神社の存在する箇所より上は絶対に登山禁止であったのが、明治中頃より山頂に登ることを許すともなく許されるようになっている。石鎚山でも同じ思いをしたのだけど、どこの山も山頂一帯にはあえて 足を踏み入れないほうがいいと思うようになった。



吉野山・金峯山寺

2010-01-12 19:46:19 | 奈良の山

金峯山寺パンフレットより


2010年は平城遷都1300年。奈良県内では記念イベントが目白押しですが、そのオープニングイベントとして2009年の午後10時から元旦の午前4時まで、吉野の金峯山寺蔵王堂(国宝)内の秘仏、蔵王権現立像(重文)が無料で特別公開されました。蔵王権現立像はお寺のご本尊で、高さ7.3メートルの中尊(釈迦如来)と6メートルの右尊(千手観音像)、左像(弥勒菩薩像)の三尊からなる木像。

蔵王権現立像は 日本最大の秘仏とされ、右手に持つ三鈷は悪を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿をされています。 さらに背後の赤い火炎は仏さまの偉大な智慧、身体の青黒色は仏さまの深い慈悲を現わしています。三尊の全身はことごとく悪魔を払う怒りの形相を現わされていますが、それは 釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩を本来のお姿とする変化身で、それぞれ過去、現在、未来わたってわたくし達を守って下さる守護仏でもあります。



通いなれた吉野ですが、金峯山寺拝観は初めて、いきなりライトアップされた蔵王堂に圧倒され、さらに蔵王堂内の法要に案内され午後10時の合図とともにライトアップされた秘仏・蔵王権現立像を目の前1~2メートルで拝見させて頂いた時、誰もが「凄い!」としか言葉がありませんでした。 



金峯山(きんぷせん)とは吉野山から山上ヶ岳(大峰)一帯を指す。飛鳥時代から聖地として知られ、7世紀後半、修験道を始めた役行者はこの金峯山で修業され、山上ヶ岳において、人々を迷いや苦しみから救い、悟りの世界に導くために金剛蔵王権現を祈りだされ、そのお姿を桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建てお祀りされました。



法要も素晴らしかった。境内に響き渡る太鼓の音やホラガイの音色、行者さんのお経を読む作法にも感動。 吉野でも神様の追っかけをしていた自分ですが、陰陽 太陽と月、神と仏の重要性を再認識! 恐るべき修験業。 太鼓を叩いている精悍な行者さんのあまりのカッコよさに惚れ惚れしてしまった。



人々を救いたいという役行者の願いによって祈りだされた権現様、シバ神に捧げられたマントラにも似た感性で、心の中の内在神をビリビリ感じさせてくれた。いやぁ~何度行っても吉野は奥が深い。 真夜中の寒空で振舞われた吉野仙人鍋の暖かくて美味しかった事  
                                     


談山神社と御破裂山

2009-12-18 13:18:16 | 奈良の山

桜井や天理方面から眺める特徴的な御破裂山ごはれつざん)標高618m



奈良県桜井市多武峰に鎮座する談山神社は、大化の改新の舞台となった血塗られた歴史の残る神社です。



蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)とともに645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。 ・・・・。

と公式サイトにはきれい言葉が並べられていますが、当時朝鮮半島からの渡来人の代理戦場と化していた飛鳥の地で親百済派の蘇我一族が親新羅派の中大兄皇子と親唐派の中臣鎌子に滅ぼされた、よくある権力闘争の舞台となった場所です。 鎌足に打たれた入鹿の首は入鹿神社の近くにある曽我の「首落橋」まで飛んだと言われています。また殺された理由が解らず二人を睨みつけ、逃げる二人を追いかけてなぜか高見山にまで飛んでいき、日暮れになったので甘樫丘の自宅に帰ろうとしたが、飛鳥寺の首塚の上空で力尽きたという哀れな話もあります。そりゃ騙されて殺されたんだもんね。



談山(かたらいやま)

境内の竜神社の脇にある階段状の道を辿り分岐を右に10分ほど。
談山神社本殿の裏に位置する山で古くから「談所の森」と名づけられ中大兄皇子と鎌足が大化改新の秘策を練られた場所とされています。



さらに植林された尾根を北に進むと石段の上に鳥居がある。



山頂には鎌足公のお墓とされる古墳があり、古くから国家に不祥事があると「神山が鳴動」した記録が残っています。とか・・・。裏手に回ると展望台になっていて天気が良ければ大和三山や二上山が望まれる(はず)




西大門に下る途中にある石仏


駐車場の前に広がる音羽三山

今年二度目になる談山神社、ずっと昔に来た事があるはずだがまったく記憶がない。 奈良の神社にしてはめずらしく拝観料500円が必要なのは紅葉を目当てにくる人が多いから。 今回拝観して以前の記憶を思いだした。本殿の醸し出す雰囲気は薄く神さまの存在が感じられない。 蘇我の子孫は談山神社に来ると腹を壊すと何かの本で読んだ事があるが、あくる日腹を壊したワタシは蘇我の子孫かもしれない。自分では蘇我に滅ぼされた物部の子孫だと思っているのに・・・・。


伊豆山神社末社・白山神社

2009-11-30 11:28:49 | 各地の山


伊豆山神社:熱海駅の東北1.5キロ。市道に面した「宿の平」から169段の石段の上に建つ。伊豆山は「走り湯」で知られるが、その開湯を神霊出現にかかわる霊験と伝えるのが、かつて「走湯大権現」「伊豆大権現」と崇められた伊豆山神社です。 ご祭神は「伊豆山神」として、ホムスビノミコト、イザナギノミコト、イザナミノミコトの3柱  「延喜式」神名帳に」書かれている「火牟須比命神社」(ホムスビノミトコ)と考えられている。  日本書記によると火の神で、イザナギ、イザナミの御子だが、この神を生んだ時の火傷が原因でイザナミが亡くなったので、のちにイザナギに切り刻まれて殺害されてしまう・・・。ってなんか現在の事件を彷彿とさせる所業。


本殿に向かう急な石段の参道

北条政子と源頼朝が逢瀬を重ねた場所とされ、頼朝から戦勝祈願など篤い尊崇をうけ、箱根神社とともに「二所詣」として歴代の将軍、執権に受け継がれ、のちに三島大社を加えた三社への参詣は恒例となる。



境内はホトトギスの名所としてしられる伊豆の雄山、古々比杜(子恋の杜)の一部で四方坪、海抜170m、相模灘を一望の中に収め、遠くは御神火なびく大島、近くは初島が手に取るように眺められる景勝の地で枕草子にも登場する歌枕の地として名高い



古代祭祀の追っかけをしている自分的には鎌倉、平安の文字には心が躍らない。気になるのは末社の白山神社、神社の右手、資料館の脇にある鳥居をくぐり



「癒しのパワースポット」と書かれている 子恋の森公園へと続くハイキングコースを辿ること15~20分




石蔵谷の磐座に社殿が鎮座。樹木に囲まれ小鳥のさえずる静かな森一体は磐座が林立して古代祭祀のあとだと思われる。


白山神社

由緒によれば、天平元年夏、疫病が発生した時「悪行のなす所、救いに術なし、白山の神意を頼むべし」とのご神託があった。猛暑の頃であったが一夜のうちに石蔵谷(鎮座地)に雪が降り積もり幾日たっても消えず、病あるものこれをとって舐めてところ、病苦たちどころに平癒、よって社を創立。古来より病気平癒や厄難解除の信仰が厚い。

実家のお墓が山続きの日金山にあり、神道なので法要の度に伊豆山神社の宮司さんにお越し頂くようになった。そのご縁で参拝させて頂くようになり このブログを始めた当時、全国各地の神社の画像の中から白山神社を選択したのは 自分の意思でない何かを感じる。山の中にひっそり佇む霊験あらたかな畏敬の念を持って敬うべき存在です。

神社の真上に住宅があるので気になって、登ってみたら個人の別荘とのこと。声をかけて頂いて親切に招き入れて下さった。立派な調度品の豪邸で地下に温泉も湧いているとの事・・・。厚かましくお茶を御馳走になり話をして「白山神社さまの真上ではないですか!」と言ったが特に気にならないと・・・。 でもこの別称を建て定年後は御夫婦で過ごす事を楽しみにしていたのに、すぐに奥様が亡くなられたと話されたので、自分的にはとっても怖かった。やはり磐座より上部まで行かないほうが良かった。ごめんなさい。昨日今日体調がすぐれない。



最古の霊山 文殊山 

2009-10-24 21:23:38 | 各地の山


越前五山(白山、日野山、越知山、吉野ヶ岳、文殊山)の中心的霊山として知られている山で、養老元年(717年)泰澄大師が開いたと伝えられている。標高365m、大文殊を中心に小文殊(298m)と奥の院(350m)から成り、大文殊の本堂には文殊菩薩が安置されている。 小文殊の室堂には泰澄作か運慶作と言われる木造座像の阿弥陀如来、 さらに奥の院には泰澄作と言われる聖観音菩薩が祀られている。

大文殊にある本堂周辺からは約4300年前の縄文時代中期の土器片が発見されてことから、古来より神の宿る山として祭祀を行っていたのだろう。 また本堂の周囲に「青龍」「朱雀」「白虎」「玄武」、中央を護る「黄龍」が人工的に配された配石遺構があり、類例の無い霊山様式を残している。霊山の山頂から縄文土器が見つかったのは非常に珍しい事で、土器片が祭祀用とすれば、日本最古の霊山ということになる。
 
お墓参りの折 角原町からの登山道路を歩いてみた。道路は整備されていて歩きやすいが、熊に注意の看板がある。麓にあるお寺の話では庭の柿の木に熊がいた事もあるらしい・・・・。



駐車場から沢沿いの杉木立を歩くこと40分程で 二上、大村登山口からの道路と合流、尾根道の両脇にはカタクリの群生地が広がっている。途中の展望台からは眼下に福井方面、越前方面の展望が望まれる。 



尾根伝いに20分程歩くと石仏が立ち並ぶ山頂の本堂に到着、 泰澄大師開山、越前五山の中心と書かれた標識のある山頂は開けていて眺望が良く遠く白山も望まれる。


泰澄生誕の地・泰澄寺



白山を開山したとされる泰澄は元の名を「越の大徳」といい682年(?)越前麻生津に生まれた。現在生誕の地は「泰澄寺」として残されている。 父は渡来系の秦氏の出で、朝鮮半島と大和を結ぶ海運業に従事していた。 幼少のころから泥で仏像を造っていたと言われ 越知山で修業を重ねていたが 36才の時、白山に神意を見いだし、山中に深く入る。白山で行基と出会い神仏習合思想を定着させた。 この頃の山岳宗教には教義がなく五感で受け止める自然崇拝だったが素朴な自然への敬いに理的な仏教の教えが加わり知識が加わった。 神仏習合は泰澄のいた越前、白山がその源であったと考えられ 以後仏教の思想、教義を加えて白山信仰は宗教になり 平安時代には天台宗と結びつきより体系化されていった。



高台にある泰澄寺の正面から見える文殊山は気高い。

我が家のお墓はこの文殊山の麓にある、泰澄さんの生家とは目と鼻の先、北陸地方は朝鮮半島からの帰化人が多いと言われるが、飛鳥時代の書物などひも解くと蘇我氏も物部も海部も藤原も・・・。稲作や鉄、水銀など先鋭的な文化はすべて朝鮮半島から伝わってきた。 また仏教のみならず八幡、稲荷など日本の代表的な神社宗教すら渡来人が関わっていた事実を江戸時代の国学者や明治の皇国思想が知らないふりをするのは笑える。 

 「越に来て富士とやいはん角原の文殊が岳の雪のあけぼの」  西行法師



太郎坊山

2009-10-17 21:50:32 | 近畿の山


滋賀県東近江市、蒲生平野の唯中にある。この辺りは大小の山峰が多数散在して独特な景観をみせている。琵琶湖の水位が高かった古代においていずれも島だった事が覗える。平野の中に唐突に現れる山々の姿は古代人の信仰の対象として崇められていたのだろう・・・。中でも箕作山の南に張り出した太郎坊山の岩山は特異な印象でご神体山信仰の象徴とも語られる山である。 



この山は太郎坊宮(阿賀神社)のご神体で、赤神山とも呼ばれる。創祀は約1400年前、推古天皇の御宇 聖徳太子が当地「箕作山」に瓦屋寺を建立された時、当地の霊験が顕著であることを聞き、国家の安泰と万人の幸福を祈念されたと言われている。




山頂直下には太郎坊宮(正式名は阿賀神社)が祀られている。神道に天台宗、修験道の信仰が相交わった信仰形態のもとに今日の太郎坊信仰道が確立された。



夫婦岩:本殿の前に高く聳え立つ高さ数十メートルの二つの巨石は、別名「近江の高天原」とも唱えられ、その昔大神の神力を以って巨石を左右に押し開きおつくりになったものと伝えられる。この間を通って参拝するものは、即座に病苦を除き諸願成就されるが、悪心あるものは「岩に挟まれる」と言われる。心が引き締まり、一種の尊い霊感を覚える神秘的な存在。


見るからに神秘的な霊山は神体山信仰、磐境信仰発祥の地と言われている。従って磐境信仰の定型である山上には奥ツ磐座があり、山麓には奥宮を遠望でくる場所に巨大な磐座の辺ツ磐座と祭祀場もある。

太郎坊と呼ばれるのは神社を守護している天狗さんのお名前で、鞍馬山次郎坊の兄とも呼ばれます。勝運授福の神として霊験あらたかな神様ですが、特に地鎮祭などにはバリバリお力を発揮して頂けそうな心強い庶民の味方の神様です。


春日大社の神奈備・御蓋山(みかさやま)

2009-09-15 16:59:56 | 奈良の山


春日山錬成会 秋の峰に参加して、古来より禁足地として守られている、標高295メートルの御蓋山浮雲峰に御鎮座されている本宮神社をお参りさせて頂いた。 巡拝は水谷神社でお祓いの後、大宮ご参拝、若宮ご参拝ののち、通常は入山が厳しく制限されている神域に入り、峰々に御鎮座になる神々様と、尊い御神縁を結ばせて頂きました。


若草山から望む御蓋山

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)
延喜式内社「大和日向神社」に比定される古社で創立は明らかではないが、古伝によれば春日大社のご祭神タケミカズチノミコトはまずこの浮雲峰に降臨され、のちに現在地に遷祀されたと伝えられているだけに、その発祥は極めて古い。現在の社殿は近世に入ってから建てられたものであり、それ以前は社前にみられる約10メートル四方の自然石で囲んだ磐境に神様をお迎えし、お祭りが営まれたのであろう。

高山神社(こうせんじんじゃ)
春日山原始林の中、能登川の水源にお鎮まりになる水神さま。社前の水源には興福寺東金堂衆が鎌倉時代に奉納された石舟が現存する。

鳴雷神社(なるいかずちじんじゃ)
延喜式内社で、佐保川と能登川の源流である春日山の分水嶺に御鎮まりになる水神様。現在も11月26日には新嘗祭が執り行われている。以前は「香山龍王社」と呼ばれていた。社前にある「龍王池」は神秘な伝説が今に伝えられているが、鎌倉時代に書かれた『古事談』によれば猿沢池に住まわれていた龍王さまは、巫女の身投げで穢れた池から此処に移られたのち、室生の龍穴神社に移られた・・・。とか


山林内立ち入り禁止の看板

春日大社は1200年前、奈良に都が出来た頃 日本の繁栄と国民の幸せを願って、鹿島神宮から御神霊を御蓋山にお迎え、河内一の宮 枚岡神社からアメノコヤネノミコト、ヒメミカミをご分配され、768年現在地に社殿を造営。以来藤原氏の守り神として今に至っていますが、それ以前より春日の神は摂社の榎本神社に祀られており、榎本神社の御祭神がこの土地の神さまと伝えられている。


鶯の滝

奈良に住んで20年、春日大社に初めてお参りしました。春日錬成会は春ノ峰・夏ノ峰・秋ノ峰・冬ノ峰として年4回行っていて どなたでも参加できます。朝9時~午後5時までの長時間歩行となるので少々の体力は必要ですが 清らかで心地よい御心遣いと美味しい昼食、直会、御神楽、お守りなど至れり尽くせりの御奉仕を頂き実に楽しい一日でした。本宮神社など禁足地内の神社撮影は許可されましたが、恐れ多くて掲載は控えます。 今なお 春日の御山に神様は御座しました。




代わりに・・・・。




物部神社と八百山

2009-09-07 14:08:51 | 中国地方の山


石見国一の宮:島根県大田市、山陰の名山三瓶山入口にあたる川合町に鎮座。社伝によれば514年(継体天皇8)勅命により祈祷を専門とする神殿が創建されたという。その後石見銀山争奪戦の兵火などで三度消失。現在の本殿は1856年改修された春日造りの重厚な建築で、県下では出雲大社につぐ規模となっている。



御祭神は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト) 物部氏の御祖神として知られ、神武天皇即位の際、父神ニギハヤヒノミコトが携えて天降った十種の神宝を用いて、天皇のために鎮魂宝寿を祈願。その後 天香具山命(高倉下命)と共に物部の兵を率いて尾張、美濃、越国を平定され、高倉下命は越後の弥彦神社に鎮座。ウマシマジさんはさらに播磨、丹波を経て石見国に入り都留夫(つるぶ)・忍原(おしはら)・於爾(おに)・曽保里(そほり)の豪族を平定し、厳瓮(いつぺ)を据え、天津神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。
そののち鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山に似ていることから、この山の麓に宮居を築かれました。


折居田のお腰掛岩:ご祭神が腰を掛けられた磐座と桜の樹を移設


物部神社はウマシマジさんが住居とした所に創建され、最初はご神体山である八百山を崇めていました。命が亡くなられてから八百山に葬られ、これが山頂にあるご神墓であるという。


稲荷神社の脇から登拝する



すぐに結界がある





御祭神ウマシマジノミコトの御神墓といわれる元宮(登山口から5分ほど)

熊野大社~出雲大社をご参拝して、念願の物部神社に来ることができた。出雲にはスサノオさんやニギハヤヒさんの気になる神社が多い。ウマシマジさんはニギハヤヒさんが長髄彦の妹を妃として誕生された御児。父から伝えられた大和国統治の印であり皇位継承の印でもある「瑞宝十種」を神武天皇に奉献。神武天皇が橿原宮で即位された時の皇后はウマシマジさんの妹・・・・。 これはニギハヤヒさんの統治権をウマシマジさんから神武天皇が継承されたということで、大和朝廷成立に関わる重大な事柄?・・・・。


ご朱印帳をお願いした時、宮司さんにお聞きしたら どうぞ登っても良いですよっと言われたが、最近ご神体山に登拝するのは躊躇してしまう。 山頂の磐座に本宮としてスサノオさんをお祀りしている石上布都魂神社と雰囲気が似ていた。せめてのお詫びに社殿創建1500年記念事業のご奉賛ご寄付をしてきた。

鎮魂祭:
古くは11月中の寅日申刻に行われていたが、現在は新嘗祭前夜に行われる。神武天皇御即位の時、祭神が宝寿の長久を祈念された古事による神事。神武即位以後毎年11月にウマシマジ及びその子孫が司祭者となって宮中で行われていた「鎮魂祭」の儀。その後現在に至るまで石上神宮でも行われているが、皇居では今でも布留大神の鎮魂祭を受け継いで行われているとか。

いやいや、日本国建国に関わる奥の深い神社です
物部神社の物静かで、すべてを語らない威厳は実にタイプ。アンチ藤原 物部ファン だしね





二上山と気多神社(けたじんじゃ) 射水神社

2009-08-16 15:13:06 | 各地の山


万葉の里・高岡市の北部、富山湾を望んでそびえる二上山(ふたがみやま)は古来より神の山として崇められており、越中国一の宮・気多神社・射水神社ともにご神体山として位置づけている。 

東麓に鎮座する気多神社 

主祭神:大己貴命(大国主命)(おおなむちのみこと)
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)

婚姻のため越の国まできた大己貴命(大国主命)は「賢く美しい妻を求めて遠い越の国まできたしまった」と歌って、この国の女神・奴奈加波比売命と結ばれた。「古事記には、両神の間に交わされた贈答歌が収められている。

当社の創建は養老年間(717~724年)とされており、往時は神宮寺などの大伽藍が並んでいたが、木曽義仲、上杉謙信の兵火により焼失。1558~70年に再建された本殿は、室町建築の特色をよく伝えるもので、重要文化財に指定されている。

この伏木一宮一帯は、国府や国分寺が置かれた越中の中枢部として栄え、 越中守として当地に赴任した 大伴家持は奈良の二上山(にじょうさん)と同じ名前の山が近くにあることに感激、二上山(ふたがみやま)に特別の思いを寄せ。「万葉集に収められた479首のうち220首を在任中にこの地で詠んでいる。



木々に囲まれた参道の石段を上ると、境内の一角に越中国総社後伝承地の「かたかごの岡」 本殿のそばに家持を祀る大供神社が鎮まる。 お盆のさ中、平日で訪れる人も少ない境内で、ご朱印の社務所の場所を尋ねたら、ほうきをもってお掃除に勤しんでいる方は禰宜さんだった。一瞬の時間だったが、ご誓文を書き記した紙を頂き、日々の生き方についてのメッセージを感応させて頂いた。(ビビッ、ビッときて、きっと近いうちにまた此処を訪れることになると感じた。



二上山山頂直下までへは二上万葉ラインが通じている。 山頂からは剣立山連峰、薬師岳、白山などの雄大な眺望、能登半島、小矢部川、庄川の流れなど山と海を見晴らす景観は見事で、若き大伴家持の銅像も山頂近くに建っています。

他にも奈良とに共通点がありまして・・。
奈良の二上山は東に位置する神奈備・三輪山から登る太陽の沈む山として有名ですが、こちらの二上山は東に位置する霊山・立山から登る太陽の沈む山で、夕陽の眺めが見事らしいです。






二上射水神社(いみずじんじゃ)

二上山をご神体山とする南麓に鎮座する神社で、養老年間(717~724年)行基の創祀と言われている。二上山上に広大な領域を有したが、2度の兵火で焼失、江戸時代、前田家によって再建された。

主祭神:ニニギノミコト

葦原中国に降臨した歴代天皇の祖先神で五穀豊穣の守り神としても崇敬される。古代の史書に、当社の祭神は「二上神(ふたがみのかみ)」と記され、ご神体山の二上山そのものを神として祀ったものと考えられる。 この二上神が、すなわちニニギノミコトとされる。

延喜式神名帳の式内社越中国34社のうち、唯一の名神大社。創建は不詳だが、奈良時代の宝亀11年(780年)の続日本記に「越中国射水郡二上神従五位下」の神階を授けられており、当時すでに北陸地方屈指の大社であった。



古来、神仏習合により別当寺の養老寺が護持、二上山大権現と称し,盛大を極めたが兵火により焼失、前田利長公が社殿再興の上藩の祈祷所として保護した。明治の神仏分離令を受けて射水神社となり高岡古城公園に分社となったが戦後独立し、現在は元宮として、古代信仰を今に伝え、貴重な文化遺産を守り続けている。





こちらは 明治八年、高岡城本丸跡に遷座された射水神社ですが、雰囲気は断然二上射水神社のほうに軍配があがります。



笠置山と笠置寺

2009-06-15 09:51:36 | 近畿の山


京都府の南、奈良市の北東にある笠置山、標高は300メートルに満たないが険しい修業を物語る霊峰で古くから修験行の道場として知られている。 山は花崗岩が多く、磨崖仏、ゆるぎ石、甲吹岩など数多くの奇石が林立する様子は、独特の景観で 山頂周辺は修験行場めぐりとして整備され、胎内潜りなど、行場の名残を体験することができる。


弥勒大磨崖仏
1300年の昔、天智天皇の御子によって彫像されて以来、笠置寺を弥勒信仰の中心に位置づけるに至った笠置寺の本尊です。

笠置山の大巨石の前で弥生式時代の石剣が発見されたことにより、すでに2000年以上前から信仰の対象として崇められていた事がわかる。実際に建物が建てられたのは、1300年前、東大寺の和尚によって、笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として、笠置山全体が一大修験行場として栄えた。



虚空蔵磨崖仏
高さ12m・幅7mの花崗岩に、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)のお姿がはっきりと拝める。平安時代・奈良時代と確定していませんが、弘法大師が一夜にして彫ったとの説もある。幸運にも元弘の戦乱の炎を受けることもなく、現在までそのお姿を残しています。

縁起によると、天智天皇の皇子が狩猟の際、危機に瀕したが、弥勒菩薩のご加護により救われた。皇子は報恩のため、石仏を刻むことを発願されたのが発端という。役行者、良弁、空海などにまつわる伝承も数多く、ご信仰の深さをうかがわせる。



胎内くぐり
修行場のスタート場、笠置山には滝がないので、この岩をくぐることによって、一度母の胎内に戻り再生する、浄化の場所です。



貝吹き岩(かいふきいわ)
西側が望めるこの場所は、元弘の戦乱のとき、連絡のためのほら貝を吹いたので、こう呼ばれています。



宝蔵坊あと
お経の収められた、経蔵があったと思われる場所は、もみじ公園と呼ばれる、紅葉の名所ですが、目の覚めるような新緑も素晴らしい。


平安から鎌倉にかけては、世の末法思想の流行りとともに吉野金峰山と並ぶ、弥勒菩薩信仰の霊場として栄え、山中の30か所を巡る修行が盛んに行われた。1191年、解脱上人が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から発信したとき、笠置山は宗教の山、信仰の山として、全盛を極めた。 



笠置寺山門

しかし、後醍醐天皇が南朝の皇居を笠置山に定められた元弘の乱の戦乱で、後醍醐天皇の拠点となったために 1か月に及ぶ北朝側の攻撃を受け、全山が消亡、壊滅、衰退の一途をたどった。



貝割れ岩から望む木津川は万葉集に泉川として詠われている。



自遊宿 松本亭

一般的には笠置ボルダーと木津川河川敷のキャンプで有名な場所。急カーブの狭い道路が山頂まで通じ きじ料理の料理旅館が数件建つ。 中でも門前の松本亭には素敵なカフェが併設されていて、自然に囲まれた自遊宿というネーミングがぴったり。 近隣に山城国分寺や恭仁宮跡、735年聖武天皇の勅願により東大寺の良弁僧正によって開創されたと伝えられる、海住山寺など見どころ満載の美しい木津川流域です。