マンデーの日記

Whatever Will Be, Will Be.

日曜日の午後

2011-09-20 | 日記
日曜日。
夫と泊まりに来ていた娘と一馬とでお昼に蕎麦を食べに行きました。

食べた後に夫が、2年前までの勤務地を見てみたいと言う。
そこは3.11の大震災で大きな被害を受け、たびたびマスコミ等で話題になった地で、やはりかつて勤務した場所がどう変わってしまったのか気になるのだろう。

多くの児童と教師が犠牲になった大川小学校。
裏山に避難すれば助かっただろうと言われています。


夫が仕事で良く訪れていたという雄勝公民館。
昨年、‘帆立祭り’に行って皆さんにたくさん声をかけて頂いた場所ですが、半年を過ぎた今、ひと気は全くない。


ビルが津波でこんな風になるなんて世界的にも珍しいのだそうで、この建物をモニュメントとして後世に残そうと言う動きがあるそうだ。


この辺は友人宅もあった場所で2度ほど泊まりに行った記憶があるが、彼女の実家の食堂は跡形もない。
40年前、夕方食堂を手伝い、夕食は何を食べるかと聞かれ、カレーとラーメンを食べたっけ。


高校時代の水泳部の友人の実家があった地で、一度皆で遊びに行った浜だ。
それ以来だったが、友人の実家はどこら辺にあったのかも記憶になく、探せなかった。
遠くにうっすらと見える小さな島は、水泳部の皆と泳いで渡り、潜って新鮮なウニや牡蠣を取って磯の石で割って食べた場所で、懐かしかった。
私はそれ以来生で牡蠣が食べれるようになった。
その話をすると、それって本当は駄目なんでしょ?
と娘が聞いてきた。
たぶん駄目なのかなぁ~40年前の昔は煩くなかったんだと思う。

海の色がコバルトブルーの大変美しい、観光化されていない静かで綺麗な場所なんだけれど、津波の爪痕が生々しい。


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4 コメント

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Unknown (TM)
2011-09-20 21:29:37
津波があんなに恐ろしい力を持っているなんて、想像も出来ませんでした。この脅威を後世に伝えるためには、被災地の姿を映像やモニュメントで視覚に訴える必要がありますね。

大川小学校のことは、マスコミ報道で知りました。どうして逃げてくれなかったのだろう、逃げる時間はあったのに‥‥。この無念さも後世に伝えなければ成りませんね。
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Unknown (うらら)
2011-09-22 00:31:17
ビルの上に船が載った画像はよく見ました。
ココのはバスが…
あらためて津波の威力の大きさを知りますね。

大川小学校は人災だと思います。
一回目の被害調査記録が破棄されてしまったというところも、いろいろ管理者側の問題を感じさせます。
しかし、もし自分があの時大川小学校の教諭だったとしたら、ちゃんと児童を高いところに引率できてたか自問してしまいます。
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TMさんへ (マンデー)
2011-09-22 21:04:33
海沿いの街だった場所は、何にも無くなってしまった所が多く驚くばかりでした。
これからもっともっと色々な問題が浮き出てくるでしょう。
大川小学校は見ただけで胸がつまるようでした。

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うららさんへ (マンデー)
2011-09-22 21:45:24
今回の津波で一歩間違えばという状況で助かったと言う人がたくさんいます。

津波が来るまで時間があったのですから何故一番安全な裏山に逃げなかったのか、あの場所に立って見て感じました。
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