ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

イラン。アフガン国境の町へラート

2007年04月20日 | Weblog
 イランの首都から1800キロの道のりを車で36時間をかけて、トルバテジャムに着き、そこから砂漠の国境地帯を抜け、国境から道なき道を4時間かけ走るとアフガン第3の都市ヘラートに入る。
戦禍での被害が少なかった街でアフガンでは珍しく傷んではいるものの舗装された道が残っている。
悪路での旅なので一応ほっとする思いであった。
夜6時から9時まで電気が供給されて、電気のある生活はカブールとこのヘラートだけ。
陽が沈み始めると、日中の暑さはどこへいったのかと思うぐらいに寒暖の差がはげしくて、慣れない環境に体調を崩してしまう。
夜になれば、どこからとなく人があふれ、出店が数多く街頭にあふれ、賑やかになってくる。の中心に大きなモスクがあり、礼拝の人が溢れている。昭和初期の日本の商店街を歩いているようで、戦争が終わり人の表情も幾分明るく見えた。

市内にある唯一のホテル 
アシアンホテルの屋上からスケッチしたヘラート市内  03.9画

アフガンに学校を

2007年04月19日 | Weblog
 2003年7月にイラン北西部で地震があり、現地に支援の目的で訪れた。
結果被災した場所に小学校建設を申し出て、日本の耐震性に優れた木造平屋建ての校舎を日本から資材と職人を引き連れてその年の12月に完成させたが、かかった費用1500万円、自分自身の経営も大変だだったのだが、阪神大震災で事務所が全焼し、一度は人生をあきらめたときに、さまざまな地域、人の支援を受けてきたことを思えば、被災の状況を見て、何か出来ることがないかと思い、一気に突き進み、同時にアフガンの支援も申し出た。
今から思えば、狂気の沙汰であったが、アフガンにいたっては、資材がイランの港で留め置かれ実現しておらず、その後事業の失敗から30年経営した設計事務所を整理し、今年からようやく再起をかけてやり始めた。
なんとしてでも、アフガンの子供たちとの約束をはたしたく、今再び実現の時期をうかがっている。

建設予定地のバドギス州ザードシャヒ村の子供達。同行した毎日新聞栗田慎一記者撮影。

山古志商工会会長 田中 仁さんのこと

2007年04月16日 | Weblog
 04.11.1に神戸の長田から支援物資を山古志村の人たちが避難していた、長岡高校に行ったのが出会いで、神戸との共感、協働の集いということで座談会を持った。
その後、神戸に復興対策本部神戸事務所を韓国民団に開設。神戸からも山古志の状況を全国に発信しようと、願いでたのがきっかけで彼の住所地の虫亀に住所移転。
仮設住宅を与えてもらい、長岡市に合併するまでの間、神戸と山古志をいったり来たり、長島村長とともに震災初動に於いては、復興に向け不眠不休の活動を展開。

木材の伐採業が本職で当時村議も勤め、山古志村内では人望の厚い人である。
現在は虫亀の自宅に戻った。
思えば、私のようなエセ村民を快く受け入れてくれて、周囲の人からはどうなったのかといぶしがられたと今になって申し分けなく思ったりするが、今も神戸との交流は続き、今後どのような関係とし交流と付き合いができるかといつも思っている。

当時長岡市内で復興住宅の協力してくれた、地元建築士との写真

右 田中 仁氏 左 地元 建築士

我が家の歴史の一部

2007年04月16日 | Weblog
 2月27日に父外石が86歳で神戸にて逝去した。
大正、昭和、平成の時代の中を生きて逝った。在日韓国人3世である。祖父の秉元は韓国全羅北道南原の出身。当時日本の植民地であった韓国を捨て、日本に職を求め単身渡日、生涯、ふるさとに帰ることもなく、日本で骨を埋めた。

日本では、福岡の飯塚炭鉱に最初渡ってきたが、その後宮崎に移住し、行商など行いながら、生活を支えてきた。
その当時、行商を営んできた道具の天秤量りとそろばんが従弟の元にあり始めて見せてもらった。
そして、私の父がコレクションとし所持していた、古紙幣、朝鮮銀行紙幣、満州銀行紙幣をともに重ねあわせれば、過ぎ去った時代が見えてくるような思いがある。

GNPとGNHの違いブータン共和国から学ぶ

2007年04月14日 | Weblog
 先進国では、国民の生活の度合いをGNPすなわち国民生産高で国のよしあしを決めているが、結果物、金中心が引き起こしたのが環境破壊と戦争の明け暮れに他ならない。いまや人類の命の基盤までが危うくなっている中で、片やGNHとは、ブータン共和国が掲げる基準。Hは幸福の度合いということであって、農村に行くほどに高くなるという。
ヒマラヤに囲まれた大自然の中で、物、金に左右されず生きるこの国家のあり方が今注目されている。
たとえば、日本の中で山古志が被災を受け、全国から注目を浴びたのか、そこには日本の現風景と暮らしが存在していたからにほかならない。
美しい日本を説く前に今、先進国といわれる国がこれまで歩んだ道をもう一度、振り返り、人の幸福とは何かを問い直すことからはじめなければならない。

写真  山古志仮設住宅にて山菜を調理する光景 95,5月写す

池田大作氏温家宝総理に返誌

2007年04月14日 | Weblog
 池田名誉会長は13日、中国の温家宝総理に友誼の心薫る漢詩を詠み送った。

春風應時櫻繽紛
春霖迎來一貴人
融雪破冰志堅定
温文儒雅又親民

知難不難迎難上
言信承諾行必果
同一世界同一夢
和諧社曾喜春暉

訳 時節に適った春風に桜花は美しき咲き薫り、春の霧雨の中、一人の貴人を迎えた。
雪を溶かし、氷を破らんとするその意志は堅く、立ち居振る舞いが上品で、又民にも親しんでおられる。
困難を知る事は易しいが、あえて困難に立ち向かって進み、有言実行にして、約束は必ず守り、行う以上は断乎として結果を残す。
同じ世界にあるからには、夢はただひとつ、それは、調和の社会が春の日差しを喜ぶことである。
  
聖教新聞07.4.14付

童地蔵の物語

2007年04月13日 | Weblog
 中越地震で壊滅的な被害をこうむった山古志村の倒木の樹齢300年の杉で復興のシンボルとなる童地蔵9体を京都の仏師松本明慶氏が制作し、その一体が神戸の長田区の鷹取東地区の地蔵堂に今も安置され、この地域と山古志と今も交流が続いており、本年の阪神大震災12周年の追悼式には長島衆議院議員も参加した。
地元市議の浜崎ためし氏が副議長当時に受け入れたこともあって、選挙の応援にも長島氏がメッセージを送り浜崎氏はこのたび激戦を制してこれまでにない6700票を獲得。堂々2位で当選した。

復興のシンボルとしての童地蔵、神戸長田に来てはや三年目を迎えた。

12周年で山古志から来神 田中仁氏 五十嵐豊氏 浜崎ためし  神戸市会にて