ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

山古志商工会会長 田中 仁さんのこと

2007年04月16日 | Weblog
 04.11.1に神戸の長田から支援物資を山古志村の人たちが避難していた、長岡高校に行ったのが出会いで、神戸との共感、協働の集いということで座談会を持った。
その後、神戸に復興対策本部神戸事務所を韓国民団に開設。神戸からも山古志の状況を全国に発信しようと、願いでたのがきっかけで彼の住所地の虫亀に住所移転。
仮設住宅を与えてもらい、長岡市に合併するまでの間、神戸と山古志をいったり来たり、長島村長とともに震災初動に於いては、復興に向け不眠不休の活動を展開。

木材の伐採業が本職で当時村議も勤め、山古志村内では人望の厚い人である。
現在は虫亀の自宅に戻った。
思えば、私のようなエセ村民を快く受け入れてくれて、周囲の人からはどうなったのかといぶしがられたと今になって申し分けなく思ったりするが、今も神戸との交流は続き、今後どのような関係とし交流と付き合いができるかといつも思っている。

当時長岡市内で復興住宅の協力してくれた、地元建築士との写真

右 田中 仁氏 左 地元 建築士

我が家の歴史の一部

2007年04月16日 | Weblog
 2月27日に父外石が86歳で神戸にて逝去した。
大正、昭和、平成の時代の中を生きて逝った。在日韓国人3世である。祖父の秉元は韓国全羅北道南原の出身。当時日本の植民地であった韓国を捨て、日本に職を求め単身渡日、生涯、ふるさとに帰ることもなく、日本で骨を埋めた。

日本では、福岡の飯塚炭鉱に最初渡ってきたが、その後宮崎に移住し、行商など行いながら、生活を支えてきた。
その当時、行商を営んできた道具の天秤量りとそろばんが従弟の元にあり始めて見せてもらった。
そして、私の父がコレクションとし所持していた、古紙幣、朝鮮銀行紙幣、満州銀行紙幣をともに重ねあわせれば、過ぎ去った時代が見えてくるような思いがある。