2018年のブログです
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伊藤良子さんの『心理治療と転移-発話者としての<私>の生成の場』(2001・誠信書房)を再読しました。
今年の遊戯療法学会のワークショップでお話をきく機会があり、せっかくなので以前読んだことのある本書を読んだうえでお話をきこうと思って再読をしたのですが、読み終わるまでに少し時間がかかってしまいました。
じーじの本には2種類の付箋が貼られていて、おそらく2回は読んでいるようなのですが(?)、なかなか難しい本で、今回も結構、難渋をしました。
それでも、少しだけ、印象に残ったことを書いてみます。
一つめは、自閉症児は「見ること」へのとらわれがあるのではないかという仮説です。
自閉症児が「見る」ことに過剰にとらわれて、「もの」に執着し、「人」への対象の移行がうまくできていなにのではないか、ということをいくつかの事例をとおして考察しています。
なかなかの卓見のように思われます。
二つめは、ラカンさんの「鏡像段階」の考えを援用して、わたしたちは、自分の存在証明を「鏡像」という「他者」の存在に負うているのではないかということを、これも事例をとおして述べられています。
この事例をワークショップで詳しくご紹介いただいて、検討しましたが、とても感動的な事例で、伊藤さんの熱いプレイセラピストぶりも感動的でした。
三つめは、言葉の誕生についての考察で、クライエントの発する言葉をセラピストが真にきくときに、クライエントの言葉は「充ちた」言葉になる、という視点。
人が言葉を発するときに、それを真にきく他者がいないと、言葉は「言葉」とならないのだ、ということを述べられておられます。
四つめは、このところ、他の本でも話題になっている、セラピストが生きのびることによって、クライエントを守らなければならない、ということについて。
伊藤さんは、このことについて厳しくおっしゃられ、それができないくらいなら心理療法を引き受けてはならない、とまで言い切っていて、伊藤さんの覚悟が感じられました。
まだまだ大切なことがいっぱい述べられていますが、今のじーじの力量では十分にご紹介できないのが残念です。
今後も臨床経験を積み重ねたうえで、さらに読み返して、理解を深めていきたいと思います。 (2018.6 記)
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2022年2月の追記です
人が言葉を発するときに、それを真にきく他者がいないと、言葉は「言葉」とならない、というところは大切だなあ、と思います。
言葉を発しても、周囲の他者にきちんときいてもらえないと、とても苦しい状況に陥ることは容易に想像できますし、クライエントさんには、こういう人が多いように思います。
その原因がどこにあるにせよ、また、ふだんの人間関係や治療関係に限らず、人の言葉を真にきく他者の存在は大きいなあ、と思います。 (2022.2 記)