中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

「ピカピカ小学校プロジェクト」

2011-06-28 12:40:16 | 東北関東大震災
この週末は、「がんばっぺ!いわき」ということで
いわきに行ってきました。



このステッカー、コンビニなどで売られているようで、
土曜日に一緒に活動したリーダーが
帰りにわざわざコンビニに立ち寄ってくださいました。

今回も色んな人に出会うことができました。
引き続き、応援していきましょう!

というわけで、兵庫教育大学の皆さんにお知らせがあります。

結構時期遅れかもしれませんが、まだ間に合うのでお知らせです。

下記のメールが、
「社会ボランティア体験学習」担当の森田先生の責任下で、
大学院生・学部学生、並びに教職員 各位 宛に届いていました。
ですが、ゼミ生などに尋ねると、回ってきていない人もいるみたいなので
一部省略しつつ、ここに転載しておきますね。

【被災地の小学校に雑巾を送ろう!「ピカピカ小学校プロジェクト」について】

大学院生・学部学生、並びに教職員 各位

この度の大震災に関わる学生ボランティアの情報を収集している中で、
以下の学生の取り組みを知りました。
現地になかなか行くことのできない私たちが協力できることとして、
可能な限り大学内に広めてはと考え、全学にメール配信しました。
下記文章をお読みいただき、ご協力いただけましたら幸いです。
宜しくお願いします。

  ===============================================


☆被災地の小学校に雑巾を送ろう!「ピカピカ小学校プロジェクト」

3/11東日本大震災。被災者は大変多く、宮城・岩手・福島の三県を合わせて死亡・行
方不明となった小中高生は536人、うち小学生は234人にものぼります。とても悲しく、
受け入れ難い現実です。しかしそんな中でも次々と小学校が再開され、子どもたちも
笑顔を取り戻し始め頑張っています。
先日、宮城を中心に活動しているNPO団体の一員として、津波被害の大きかった石巻市
内の小学校を回り、先生方に被災状況や児童の様子、不足して困っている物などを直
接尋ねてまいりました。そこで、どこの小学校でも共通して不足している物のひとつ
が「雑巾」だとわかりました。避難所となっている体育館、泥や瓦礫で自由に走り回
れない運動場。そんな中、子どもたちが安全に快適に過ごせる唯一の場所が校舎です。
その校舎を綺麗にするための雑巾が、3ヵ月経った今でも足りていません。
被災地から帰ってきてから個人的に集め送り続けていましたが、膨大な数に個人での
限界を感じ、この度大学からサポートしていただく運びとなりました。

このプロジェクトでは以下の物を集めています。
(1)雑巾(中古でも汚れていなければOK。)
(2)タオル(中古でも汚れていなければOK。フェイスタオル以上の大きさならOK。)

6/13(月)~6/30(木)の期間、共通講義棟1Fホールにダンボールを置いていますので、
ご協力できる方はそこに入れてください。もちろん一枚からでもかまいません。

また、集まったタオルは、家庭科の潮田先生のご協力をいただいてミシンを借用して
雑巾に縫う予定ですが、その際にご協力いただける方も募集しています!ご協力いただ
ける方は、
(1)6/21(火) (2)6/23(木) (3)6/28(火)(4)6/30(木) 17:00~18:30
被服実習室(自然生活・健康棟2F)に来てください。事前の申込み等は不要です。
一日だけ、短時間だけでもかまいません。

何かしたいけどどうしたら良いか…という声をよく聞きますが、遠い被災地には行けな
くても、忙しくて時間がとれなくても、他にもいろんな支援の形があるとご理解いた
だけたら嬉しいです。
興味のある方、質問のある方、気兼ねなくご連絡いただけたら幸いです。
子どもたちのために、よろしくお願いします!


青年期論についての質問(1)

2011-06-26 19:47:53 | 授業日記
では、質問に答えていきましょう。

「学生運動に関わった人たちのうち、同一対象への固着をした人と、
喪失した人の追跡調査をした資料はありますでしょうか。」

→追跡調査をした資料は、
 私はまだ見つけられていません。
 主導者の人たちの幾人かについては、
 NHKで取材がなされ、数名の方が、
 予備校の教師になっていらっしゃいましたが、
 それ以上のことについては、まだ私が調べられていません。 

「“おたく”は、「お宅」家に居て、外で交流を持たず、
まんがを読む人が語源ときいたことがありますが、
本当でしょうか。」

→一般には、違う理解がされています。
 中森明夫がコミケ(同人誌即売会)に行った時、
 普段はおそらく、教室の隅っこでひっそりとしてるような人たちが、
 うってかわって明るくふるまっていた姿を見て
 そういう人たちを集団としてカテゴライズした。
 その人達は相手のことを「あなた」とか「君」とか呼ばず、
 「おたく」と呼んでいたことから、
 「おたく」と命名したとされています。

「新人類って何ですか。」

→80年代の若者論です。
 これまでとは全く異なる体質の新しい若者ということで
 命名されました。
 特に、メディア(テレビ、ラジオ、雑誌)や
 情報機器(パソコンやオーディオ機器など)への感度が高く、
 消費による自己構築にも熱心で、
 コミュニケーション能力も高い、
 でも、会社よりも自分を大事にする、といった人たちが
 イメージされるようです。

青年期論についてのコメント

2011-06-25 19:29:52 | 授業日記
火1の授業「ライフサイクルの中の学びと発達」では、
青年期論などを話していました。
特に、アイデンティティの理論を足場に、
それが各時代の青年を理解する上でどの程度有効か
あるいは、どう再考されるべきなのか、など。

2006~2008年度の科研で検討してきた課題を
発展させたものでもあり、
個人的にお気に入りの論考です。

まずは共有を目的に、コメントを抜粋しましょう。

「物の豊かさを求めていた時代は、それを追い求めることに
一生懸命で、その時代の青年達は迷いも少なかったのでしょうか。
心の豊かさを求める分、選択肢があって、それはそれで
不自由だとも思います。」

「表面化、同じことをすることで
自分自身を納得させている面については
今もなお続いていると思う。
「仲間がいないと自分が不安になる」これは全てに
言えていることではないだろうか」

「エリクソンから出発したidentity論が、
日本文化の中でどのような意味があるか、適応されるかについて
再考しました。
生物学的、精神的発達段階論にも、その人間が育つ社会という
大枠の影響を受けるんだなと思いました。
(中略)その中で、若者の葛藤の度合いも、自己理解も
異なってくるのではないでしょうか。」

「就職難の現代は、大学だけでなく大学院においても
就職先がないので進学するというような学生も
少なからずいると思うので、
これからは、大学院の役割や大学院生というものが
問われるのかな?と思いました。」

「大学の入学式に同伴する保護者、
オープンキャンパスで子どもよりも積極的な保護者を見ると、
すごく不思議に思う。
誰が入学し、誰がそこで学ぶのか、子どものためにと
何から何まですることが、本当に子どものためなのか、
みんなが考えるべきだと思う。
(大学生が)“幼稚園化”したというのはその通りだなと思った。
ただ、大学に行っている子も増え、
“大卒”という肩書きだけを得るために行く人と、
早くに目標を決め、専門に行ったり働いたりする人との
給料の違い、待遇の違いは、すごく残念に思う。」

「“心の時代”のところで、“物の豊かさ”と
“心の豊かさ”についての調査結果がありましたが、
それらは独立しているものなのか?
心の豊かさは、家庭円満などさまざまな要因で満たされるものと
考えられるが、“物の豊かさ”が満たされるが故に
“心の豊かさ”も満たされるのではないかと
疑問に思いました。」

動機づけについてのコメント

2011-06-24 16:24:45 | 授業日記
こんな取り組みを書いてくださった方もいらっしゃいました。

ご紹介しますね。

失敗恐怖が高い生徒にとって、少人数授業はとてもよい
取り組みだと思いました。
少人数授業というのは、クラスを半分に分ける、成績別に分ける
などの方法がありますが、
私が行ってきたのは、数学で、基本クラスを作るため、
1クラス10人以内の希望性をとる方法でした。
私がこだわったのは、希望性であるということでした。
そこでは、「できることを増やす」ことに目標を持ち、
その授業内に1人1人が必ず達成感を得られるように
課題を与えます。
みんなできないので「できないのははずかしくない」
「できないからここで基本を学ぶ」と
胸を張って言うようになります。
大きなクラスでは萎縮してしまう子どもたちも、
伸び伸びと発言します。
残念ながら、成果が上がることの例は少ないですが、
楽しみにしてくれるという意味では、
この制度はなくしてほしくないと思います。

→とても大事な取り組みだなと思いました。
 学ぶことを楽しむ態度を形成できる取り組み、
 素晴らしいと思いました。
 態度が形成されれば、他の領域にも転用する可能性が
 でてきますよね。
 もちろん、使い方を教える必要があるかもしれませんが…。

 また、最後の3行、学校の意味を考える上でも
 大事な指摘だと思いました。
 成果が上がるというのは、成績が上がるということだと思いますが、
 それだけで測られてしまうのは悲しいですね。
 学ぶとは何か、それが人間にとってどんな意味があるのか、
 そもそもの話と現状とのギャップも含め、
 それらのことを、改めて考えさせられます。

動機づけについての質問(2)

2011-06-23 18:41:59 | 授業日記
動機づけについて話をしていたのですが、
こんな意見もありました。

「学んでいることは、これまで起こってきたことなどについて
「そうだったのか」「なるほど」という気持ちになりますが、
では、どうすればいいのか、と思います。
たくさんの有効なインプットがありますが、
具体的に動けないもどかしさを感じます。」

「心理学で得られた動機づけ理論はたくさんありますが、
どの理論も納得する部分はいずれの理論にもあります。
ただし、課題はそれらの理論を現実の場面にどのように
応用するかという点だと思います。
(中略)そこで生まれる疑問は、
「複雑な現実場面をいかにその場で状況を整理
(分類・取捨選択など)して、自分の行動に反映させられるのか」
という点です。
知識(心理学理論を知っている)ことが条件でしょうか。
それとも、経験にもとづく直観なのでしょうか。」

→心理学をどう応用するかということに関わる話ですね。

 理論がどう役に立つのか、ということについてですが、
 動機づけに限らず、理論というのは、
 まず、現場で何が起こっているのか、
 それを整理する視点や枠組みを提供してくれると思います。
 また、表面的な問題の裏にあるしくみも知ることが
 可能になることもあるでしょう。

 つまり、現状をよく理解する、という点で役に立つと思います。

 もちろん、現実場面では、とっさの判断も必要でしょうが、
 それについても、その後、その行動の意味を考える必要があった時、
 何らかの視点をもっていれば、
 色々なことを掘り下げて考えることができます。

 その際、多様な観点から考えるのが有効ですので、
 知識はあるに越したことはないと思います。

 現状を理解することがなぜ重要かというと、
 それに即した対応を考えることに役立つからです。

 とはいえ、心理学の理論は、平均をベースに構成されていきますから、
 むしろ、その理論で理解できない子どもなどが
 現場で重要な問題になっているのだろうと思います。

 それでも、平均をベースとした一般的な理論を知っていることは
 必要だと思います。
 問題になっている子にも、当然ながら、
 一般的な心理学理論で理解できる部分はあるからです。

 …と、理論は使える、という点を強調して書きましたが、
 当然ながら、理論だけ知っていれば現場に対応できるかというと
 そんなことはないでしょう。
 何かの問題を解決するための万能な理論は当然ながら、ありません。
 
 それでも、手持ちのカードが増えるのは
 悪くはないことだと思うのです。
 (もちろん、手持ちのカードを増やすことだけに執心すると
  本末転倒になってしまいますのでそれは問題外です。)

 たとえそれが1枚だけでは使えないカードであっても
 何か別のカード(それは“経験知”かもしれません)と
 組み合わせることによって、効力を発揮してくれるものに
 なるかも知れません。
 
 そのやり方については、模索していくしかないですね。

 次回からは、この辺りも補足して伝えられたらいいなあと思いました。

動機づけについての質問(1)

2011-06-22 18:32:20 | 授業日記
昨日に引き続き、木1の授業(動機づけ担当)での
コメントです。

今回は、質問ですので、答えていきます。

「失敗恐怖は成功願望よりも強いと思います。
失敗恐怖と成功願望の良いバランスはないのでしょうか」

→アトキンソンは、失敗恐怖が強いと、回避してしまうと言いましたが、
 実は、失敗恐怖の方向で、課題に取り組む動機づけが起こることもあります。
 「自分はあまりうまくやれない、だから、失敗しないように頑張ろう」
 といった形の動機づけです。
 今は、「成功できるように頑張ろう」というパターンだけでなく
 「失敗しないように頑張ろう」というパターンでも
 人は動くことが出来る、しかも、その結果に差はないということが
 示されるようになっています。
 自分にあった形で、動きやすいパターンを探すのが
 大事であると考えています。

「学習性無力感において、行動し、結果が伴わないことでおこるということは
レポート等において、一生懸命行動した(レポートを書いた)ときに、
成績の評価(結果)が、自分で思っていた、予想していたよりも悪かった時に
起こるというようなことでしょうか?
評価が悪くても、どこがどう悪かったのかということを
フィードバックされた場合は、学習性無力感は起こらないと思うのですが、
なら、フィードバックされなかったために、学習性無力感が
おこるということではないのですか?」

→評価が悪くても、きちんとフィードバックがなされれば、
 次に行動するための具体的な目標を得ることができるので
 無力感には陥らないでしょう。
 たとえば、どれだけ努力を重ねても、
 常に、レポートに大きく「×」だけされて
 返ってくるような場合には、その教科に対しては
 「何をやっても無駄だ」と、無力感に陥るかもしれませんね。
 もしも、その無力感が他の領域でも回復されないと、
 慢性的な無力感に陥ってしまうかもしれませんね・・・

大学院・なかま祭り終了

2011-06-21 12:45:47 | 授業日記
この数週間は、オムニバス授業の担当が一気に重なっていました。
月1、火1、火2、木1が当たっていたこともあったので、
特にゼミの学生にとっては、それに加えてゼミもあり
なかまれいこ祭り状態だったと思います。お疲れ様でした。

火1、木1の授業については、
授業が続いている間は、コメントにあった質問に
答えていたのですが、最終回については授業で返せないので
ブログ上でポツポツお答えしていきたいと思います。

まずは、木1の授業「子どもの発達と学校の関わり」
(動機づけのパートを担当)から、
とりあえずコメントを共有しておこうと思ったものを載せますね。

「講義内で行ったパズルの中で、先生が誉めた場面があったが、
あのような状況は実際の学校現場でよくあることだと思う。
その場ごとに誉めることで、児童に活躍の場を与えることになるが、
一方で、他の児童(誉められていない)のことも
気にかけるべきだと実感した。
誰かを誉めるのは、一方で誉められない児童もいるということだ。
“誉める”ことが大切であるが、それによる負の状況が
あることもおさえる必要があると思った。」

「私は集中力が途切れたり、眠たくなったりすると、
すぐに何かしらの“行動”をします。
場所を変える、座り方を変える、立つ、飲物を飲む、
リズムを取る、歩く、人と言葉を交わすなどなど。
これらは全て、行動によって気持ちを変えようとするためのものです。
今回の講義の中であった、身体によって、脳の活動を
喚起することだと思います。
ただ、おかげで忍耐力はないのですが…」

『主人公は僕だった』

2011-06-15 13:44:32 | 映画日記
ハーマンスの『対話的自己論』では、
思想はもちろん、小説のあり方や美術の変遷など、
多様なジャンルにおける“対話”の出現と、
それによる形式の変化がまとめられています。

小説については、登場人物のことを全知する著者がいて
その視点から語る「全知の神」の様式と、
登場人物が自由に動き回るようになる形態、
登場人物が勝手に対話を初めてそこから物語が展開される様式とが
区別されます。

つまり、“対話”の出現によって、大きく世界の構造が変わることを、
いろんな例を出して説明してくれています。

さて、『主人公は僕だった』という映画では、
その2つの様式の妙を味わうことができます。
さらに、ハーマンスが指摘した以上の対話のあり方が見てとれます。

ある小説家が物語を書いているのですが、
実は、実在する男の物語であり、
(書き手もそれを知らず、全知の著者としてそれを書いている)
その男の現実に、書き手のナレーションが聞こえ始め、
日常がそれまでとは違ったものになってくる。
男はなんとか小説家を見つけ出し、対話を始めます。

登場人物が勝手に対話を始めるだけではなくて、
登場人物がその小説の世界を越えて、書き手と対話する。

そんな話になっています。

意識改革の時代

2011-06-12 23:12:24 | 映画日記
1950-60代、世界的に学生運動が盛り上がっていました。
また、ウッドストック音楽祭という伝説のイベントも開かれ、
新しい若者の姿が注目されました。

ということを最近授業でやっていたため、それ以降の時代のいろんな動向を知りたく、
映画三昧に過ごしてみました。

『イージーライダー』自由を志向する若者文化と大人との対立
『スタンドアップ』世界初のセクハラ裁判
『遠い夜明け』南アフリカ、アパルトヘイト政策への反対運動

イージーライダーだけちょっと異色ですが、
後二者は、現状を変える難しさ、戦うことには勇気が必要であること
などを考えさせられました。

『スタンドアップ』は3回目くらいだったのですが、
『遠い夜明け』はまともに見たのは初めてで。
かなり強烈な印象を受けました。

命がけの戦い。
見ていて苦しかった…

しかも、まだ続いてるといった印象のエピローグ。

また、演説で語られていた内容も、ずっしりひびきました。
一番の問題は、自分の意識だと…

理不尽さや無力感、その中でも戦い続ける人たち・・・
そして、壮絶な脱出劇。

かなり印象に残った映画でした。

それぞれの時代の青春

2011-06-01 21:25:00 | 自己理解
『ドン・キ・ホーテ』という話があります。
とある男、ケサーダが騎士道物語に魅せられ、
その小説の世界に没入し、
騎士、ドン・キホーテとして振る舞い数々の冒険を・・・

という話。

ここまででなくとも、このように、ある物語を提示されると、
私たちはその物語の世界に入り込んで、
現実でもその世界を生きることになる・・・
つまり、

何かの物語を読むことが、
私たちのアイデンティティ形成となる。

というわけです。

これは、「キホーテ原理」とよばれます。
→詳しく知りたい人は、『対話的自己』を読んでくださいね♪

さて。
とある授業で、ここのところずっと
明治期以降の青春について説明しています。

歴史をひもとくと、歴史という物語の中で、
私たちはそれぞれの物語に自ら乗っかって、
自分たちの生き方、自分たちのあり方を、
作り上げていることがうかがえます。

それぞれの時代に、大きな物語が存在します。
そしてその本質は、それぞれの時代が去った後、
ようやく見えてくるものかも知れません。

いずれにしても、そういうことを考えると、
今、この時代に、この文化の中で、生きていることが、
つまり、その物語を与えられたということの不思議を、
感じてしまうのでした。