この週末、九州大学で開かれた
第16回日本語臨床研究会に参加してきました。
(昨年の記録はこちら)
臨床の研究会なので、先生方はたいてい
治療者あるいはカウンセラーの立場の方です。
そこで、映画や歌舞伎、能などを通して「死」について
講演をした先生(映画がとても好きな方らしい)に対して、
「先生自身はやらないんですか?(役者として)」という
質問が出ました。
それに対してその先生曰く
「やりませんねえ。
…セラピスト役、研究者役、家庭人役、その他、
日常でいろんな役を演じていて、それで満足しているからでしょうね」
なんか、いいなあと思いました。
あと、私は対象関係論はあまり詳しくないのですが、
今回、お!と思い、今後勉強していこうと思ったものとして
クラインの「抑うつポジション」の話がありました。
(非常に有名な理論だと思うので、恥ずかしいのですが…)
クラインは、「抑うつポジション」を達成としてとらえ
「落ち込める」という段階に至ると考えたのだそうです。
自分の中に対象に対する愛と攻撃性が同時に存在するとき、
その両方を切り離して考えている間は特に葛藤は生じません。
しかし、それらを両方切り離さずに抱えたとき、
「罪悪感」などが生まれてきます。
たとえば愛しているのに傷つけてしまったなど。
傷つけてきたがこんなに愛していたのかなど。
それらの気づきは、統合によって可能になります。
その統合のために「抑うつ」が必要なのだと。
ざっと言えばこんな感じの話でした。
罪悪感を感じているとき、自分を責めているとき、
少しその感情に対して違った見方ができるかなあと思いました。
第16回日本語臨床研究会に参加してきました。
(昨年の記録はこちら)
臨床の研究会なので、先生方はたいてい
治療者あるいはカウンセラーの立場の方です。
そこで、映画や歌舞伎、能などを通して「死」について
講演をした先生(映画がとても好きな方らしい)に対して、
「先生自身はやらないんですか?(役者として)」という
質問が出ました。
それに対してその先生曰く
「やりませんねえ。
…セラピスト役、研究者役、家庭人役、その他、
日常でいろんな役を演じていて、それで満足しているからでしょうね」
なんか、いいなあと思いました。
あと、私は対象関係論はあまり詳しくないのですが、
今回、お!と思い、今後勉強していこうと思ったものとして
クラインの「抑うつポジション」の話がありました。
(非常に有名な理論だと思うので、恥ずかしいのですが…)
クラインは、「抑うつポジション」を達成としてとらえ
「落ち込める」という段階に至ると考えたのだそうです。
自分の中に対象に対する愛と攻撃性が同時に存在するとき、
その両方を切り離して考えている間は特に葛藤は生じません。
しかし、それらを両方切り離さずに抱えたとき、
「罪悪感」などが生まれてきます。
たとえば愛しているのに傷つけてしまったなど。
傷つけてきたがこんなに愛していたのかなど。
それらの気づきは、統合によって可能になります。
その統合のために「抑うつ」が必要なのだと。
ざっと言えばこんな感じの話でした。
罪悪感を感じているとき、自分を責めているとき、
少しその感情に対して違った見方ができるかなあと思いました。