中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

「光墜ち」

2024-05-11 23:43:40 | 自己理解
大河ドラマ『光る君へ』にドはまりしていますが,
それに関連するweb記事で,「光墜ち」という言葉を知りました。
「闇墜ち」という言葉は聞いたことがありましたが,
「光墜ち」とはその逆で,ヒールが改心していくことを指すのだそうです。

この「闇墜ち」「光墜ち」,いずれも,その人がどうしてそうなった?ということを
その人の置かれた環境との相互作用でとらえようとする視点ですよね。

根っからの悪人とか根っからの善人とか,そういう個人の資質にだけ注目するのではなく,
様々な関係性や状況との中でその人が変わっていく様をとらえる言葉です。
物語的にはそのように人をとらえる視点がかなり共有されているんだなと知った次第。
それは,一個人に多様な側面があることを許容するし,そのように,人は,
変幻自在であることを指し示しているなと思います。

…なんか色々考えていた気がするのですが,
忘れちゃった&頭がまわらないので,今日はこれにて。


「一般盤」と「専門盤」(2)

2012-12-18 21:27:00 | 自己理解
昨日の「一般盤」と「専門盤」の話をしたら
こんな考察をいただきました。

* * *

すぐなじめる音楽というのは聞く側にスキーマがあるんです。
だから聞きやすい。
はじめ、訳がわからないと思う音楽はこちらにスキーマがない。
だから聞けないんだけど、3回くらい聞くとこちらの方が変化して
聞けることがあります。
そして聞けるようになったら、それまで聞こえなかった音も聞こえるようになって
それは、もともとすんなり聞けた音楽では味わえない楽しみですね。

* * *

その人は、だから、わからない音楽も3回は聴いてみる、と言ってました。
それでダメならやっぱりダメだけど、3回聴くうちにこちらが変わることがあると。
音楽の専門家とかの意見とかではないのですが、
なるほどーと思って聞きました。
こちらが変わる快感、なるほど-。
だから、ハマってしまうんですねえ。

専門盤と一般盤

2012-12-17 21:18:28 | 自己理解
最近、とある音楽にハマッています。

最初は、あまり聞けなかったのですが、聞けば聞くほど中毒性が…

サウンドの構成やら、個々のミュージシャンの技術やら
いろんなことが耳に入るようになって
かなり、勉強している気持ちになりながら聞いているのです。

そのとき、私は思いました。

本に、「一般書」と「専門書」があるように
音楽にも「一般盤」と「専門盤」があるのではないかと。

一般書は読みやすくてわかりやすいのに対し、
専門書はなかなか読めません。
でも、自分の知識が増えれば楽しめるようになったり、
一つのことがわかり出すとどんどんわかるようになったりします。
ただ、そこに至るには何度も格闘し、わからないなりあれこれ
調べたりしなければならなかったりします。
その代わり、そうやって調べたいときには
どうしてもその本でなければならないといった部分があります。

そう、そんな音楽があるんじゃないかと。
はじめはなじみのなかった音楽だったのに、
何度も聞いていく内にすっかりはまり、
気づけばその世界のことをものすごーく探求してしまってしまう。

おお、これは「一般書」と「専門書」と同じ枠組みなのでは!?
ということで、音楽の世界にも、
「一般盤」と「専門盤」があるのではないかと思ったのでした。


それぞれの時代の青春

2011-06-01 21:25:00 | 自己理解
『ドン・キ・ホーテ』という話があります。
とある男、ケサーダが騎士道物語に魅せられ、
その小説の世界に没入し、
騎士、ドン・キホーテとして振る舞い数々の冒険を・・・

という話。

ここまででなくとも、このように、ある物語を提示されると、
私たちはその物語の世界に入り込んで、
現実でもその世界を生きることになる・・・
つまり、

何かの物語を読むことが、
私たちのアイデンティティ形成となる。

というわけです。

これは、「キホーテ原理」とよばれます。
→詳しく知りたい人は、『対話的自己』を読んでくださいね♪

さて。
とある授業で、ここのところずっと
明治期以降の青春について説明しています。

歴史をひもとくと、歴史という物語の中で、
私たちはそれぞれの物語に自ら乗っかって、
自分たちの生き方、自分たちのあり方を、
作り上げていることがうかがえます。

それぞれの時代に、大きな物語が存在します。
そしてその本質は、それぞれの時代が去った後、
ようやく見えてくるものかも知れません。

いずれにしても、そういうことを考えると、
今、この時代に、この文化の中で、生きていることが、
つまり、その物語を与えられたということの不思議を、
感じてしまうのでした。

文房具の思い

2011-04-05 20:34:08 | 自己理解
小さい頃、新学期を控えた時期には、
新品の文房具をそろえることができて、
ワクワクしたものです。

学期途中で文房具や筆箱などをもらっても、
新学期になるまでとっておいたような記憶があります。

新品のノートに丁寧に名前を書いたり、
(母に書いてもらうことが多かった気がしますが)
鉛筆や消しゴムを新品でそろえて筆箱に並べたりしてウットリ

という、文房具への思いが私なりにあったわけですが、
このたび、文房具の思いを聞くことができました。
見ているうちに(聞いているうちに?)
ドキッとさせられることもあったり。

よろしければ、気分転換にどうぞ

1,「消しゴムさんインタビュー」

2.「鉛筆さんインタビュー」

3.「三角定規(弟)さんインタビュー」

4.「分度器さんインタビュー」

5.「したじきさんインタビュー」

みんな個性豊かだな。
彼らなりの(人間関係じゃなくて)文房具関係や、
仕事に対する意識を知ることもできて、興味深かったです。

今でもお世話になっている文房具たち。
いつも、私の勉強や仕事を支えてくれているんですね。
ありがとうございます

西郷さんと大久保さん

2011-04-02 22:30:24 | 自己理解
先日、平田靱負について書いていた時、
思い出したことがあります。

去る3月12日、九州新幹線が開通したわけですが、
その開通に向けて、色んな雑誌で九州のPRが展開されていました。

たしか、郵便局においてあった広報誌だったと思います。
「九州ってこんなに魅力的だよ」ということを、
各県出身の有名人が、地元に対する思いを語る、
といったコーナーがありました。

プロ野球球団のオリックスに、木佐貫洋選手がいます。
彼は、鹿児島で生まれ育った生粋の鹿児島県民です。
木佐貫という姓自体が、鹿児島でよく聞く姓なんですよね。
→木佐貫選手について、こんな記事も見つけました。。。
うーん、アツイですね

さて、そんな彼が、鹿児島について語っていたんですが、
その内容を読んで、
同じく鹿児島で高校までの18年間を過ごした私は、
大きな衝撃を受けたのです。
なぜなら、それまで気づいていなかった事実に
はじめて気づかされたからです。
これは大きな自己理解です。

うろ覚えですが、彼はこんなことを言っていました。

「鹿児島人は、西郷さん、大久保さんに対する思いが強い。
 こうやって「さん」づけで呼ぶ。」


・・・ええ、その通りです。
でも年配の方々が「西郷さん」を鹿児島弁で「せごどん」と
呼ぶのに対し、私は標準語で「西郷さん」と呼びます。

・・・ということは大した問題ではなくて、
そう呼ぶ時点で、鹿児島県民なんですね

そして、私が驚いたのは、
自分がそのことについて、一度も不思議と思ったことも、
ヘンだと思ったこともなかったということです。

言われてみれば、西郷さん・大久保さん以外の歴史上の人物を
さん付けで呼ぶこと、まずありませんね。
「坂本龍馬」を尊敬をこめて「龍馬さん」と呼ぶことはありますが
なんかちょっと違うんです。

言われてみれば確かに、その呼び名自体に
西郷さんや大久保さんに対する
語り手の心の近さがうかがえてしまうってもんです。

考えてみれば、鹿児島に住んでいると、
西郷さんや大久保さんの話題に触れる機会が
とても多いように思います。

鹿児島に西郷・大久保ゆかりのスポットはとても多く、
私の祖母なんかは、その土地で西郷さんは何をしたとか、
どう考えたとか、そんな逸話をまじえて
たぶん、時には妄想もまじえて、よく話をしてくれました。

そんな日常の中で、私の中には
西郷さんや大久保さんという人たちへの共感が知らず知らず育っていき、
見たことも会ったこともないけれど、なんだか、
ごくごく自分に近しい人たちのように思えていったのでしょう。

なので、子どもの頃は、
西郷さんたちのことが教科書に載っていると、
「すごい!西郷さんが載ってる!!本当にすごい人だったんだ!」
と何となく誇らしく思ったり、
「てゆーか、こんなこともあんなこともあったんだけどー」
と、自分が知っていることさえ記載されていないことに
物足りなさを感じたりしていたものです。
(今も勝手な身内意識はどこかにあると思う・・・)

そして、実は、その心の近さを端的に表していたのが
「西郷さん」「大久保さん」という呼称だったんですね。

いやー、本当に気づきませんでした。

自分が身を置く「文化」の実態、
それがどんな風に自分の行動に影響しているか、
本人が可視化するのは本当に難しいもんですね。

麻生三郎展

2011-02-03 00:53:08 | 自己理解
先月、麻生三郎展
行って参りました。
麻生太郎と間違えてしまいそうな名前だし、
私はそんなに美術館行く方ではないので
自分では絶対行かなかっただろうと思いますが、

行ってみたら…

とにかく、めっちゃくちゃよかったです。

上記リンクからの転載になりますが、麻生三郎氏の作品とは:

社会の現実を肌で感じながら、重い空気に抗して屹立する人間像を描き続けた麻生三郎(1913-2000)。没後10年を経て、わかりやすさや表面的にキレイでカワイイものがもてはやされがちな今日、人間存在の核心を追求した重厚で真摯な麻生の造形世界は、あらためて見る者に「絵画とは何か」という中心テーマを突きつけるでしょう。初公開作品を含む油彩、素描、立体約130点によって、その画業のすべてを紹介します。

と解説されるようです。

見ていると、何か、自分の内面、そして、
それが身を置く世界との関わりのあり方を
つきつけてくるような力をもつ絵がてんこもり。

混沌とした、でも、何か本質だと感じさせるものを表現していて、
かつ、きちんと他者の視点がどこかで維持されているような、
表現者としての表現、
決して自己満足に埋没していない、怜悧な混沌、、、

・・・うーん、言葉にできない。

あ、言葉にしきれないからこそ、絵なのか…

とにかく、心奪われました。

特に、こんな作品群には、本当に釘付けになりました。

「赤い空」(実物はものすごく大きいです!)

・・・ああ、私はこんな絵が好きです。打たれます。

ものすごく際どいところまでえぐっているんだけど、
ちゃんと際でとめている感じの安定感が
確固として維持されているような。
決して自分の混乱を見ている側に押しつけてこない。
だからでしょうか、
見ていて何か、神経がとぎすまされるのは感じるのだけれど、
変なエネルギーの奪われ方をしないでいられる。
興奮する一方で、なぜか心が安らぐのです。
それを作り得る彼の精神的自我の強さを感じました。

そういう表現ができる人、とても憧れます。

そんなことを体験して、自己理解を深めた一日となりました。

京都では2月20日(日)までやっているみたいです。
興味がある方はぜひお出かけください。

再会

2010-12-14 09:39:43 | 自己理解
このたび大阪大学時代の先輩に研究協力をお願いし、
先日、なんと、卒業以来の十数年ぶりにお会いしました。

現在の肩書きは、第一に「写真家」が来ているようですね。
こちらがその先輩、大橋一弘さんのページです。

大橋さんは2学年上の先輩で、
大橋さんをはじめ、その代の先輩方には、
学部時代に本当にお世話になったものです。

そしてその代の先輩方(もしかしたらその前の先輩も?)は、
非常に濃厚なキャラぞろいでした。

濃厚といっても色々なベクトルがあるかと思いますが、
とにかく「議論好き」なのです。

うっかり「私、自分の名前が嫌いなんです」などと言おうもののなら
「名前というのは…」「名前が嫌いというのは…」と
先輩方の間で議論が始まり、
「自分に対してどんなことを思っている?」
「水間(←当時)さんにとっての自分って何?
 たとえば、~~っていう時のは自分に入る?
 ○○は?△△は?」
など、追求が始まります。
そこまで議論できる根性もなく、また、そんなつもりもない場合には
「もう」という気持ちになり、
「わからないですよ
などとキレぎみに答えるのですが、
「そこで逃げたらあかんな」と、
がっしり捕まえられて逃がしてもらえない…
なかなか恐ろしい方々でした。

でも、卒論のテーマが決まらず苦しみ続けていた際、
テーマの樹海に入り込み、
「愛ってなんだろう」「信じるってなんだろう」
など、そんなことを考えていた際には
「愛ねえ、難しいね。~~~~」と
一緒に考えてくれたりした、そういう思い出もあります。
その代表格が大橋さんでした。

あの時代の研究室は、本当になんだか特殊な文化が
共有されていたなあと思います。
皆それぞれに、「自己とは」「生きるとは」
そしてそれらに我々はどう向き合っているのかという、
答えの出ない問いにそれぞれこだわって
まあ、それゆえ苦しんだりもするわけですが、
あの独特の文化は、今となっては懐かしい限りです。

久しぶりにお会いした大橋さんは、
驚くほどに当時のアツさを維持していて
また、顔もツヤツヤしていて、びっくりしました。
もちろん、議論好きも批判精神も健在で、
どんどん当時が再現されていくような気になりました。

研究協力をお願いしていたので公的な顔でお会いしてたのですが、
仕事の後で、小一時間ほどよもやま話をしていたら、
「あその顔、よく見た」と言われました。

大橋さんはまったく変わってなかったのですが
私は一見変わったように見えたようです。
でも、、、時間が経つと油断するので当時に戻ったようでした
しゃべり方とか表情とか。
すっかりモードが当時に切り替わっていたんですね
混沌とした学部時代の私は、先輩方に
さんざん迷惑をかけちらかしていたのですが、
その私がひょっこり顔を出し
…まあ、もちろん、それも私ですから。
そしてその私と先輩方との関係性があったわけですから。
懐かしがっていただけて何よりです。

大橋さんは色んな表現手段を探し続けて、
写真にたどりついたそうです。
でも、言葉のセンスもとてもすごいです。
たとえば、HPのトップページ、
一見refineされたあるいは深遠な世界といった印象を与えるにもかかわらず、
実はこれはただの二次元だよと笑いかけるような作りに見えるし、
それでも深刻ぶって見ようとすると、それをあざ笑うかのように
「犬を歩けば棒に当たる」などという、
非常に生活じみた言葉が投げられてくる。
そういう感覚の「ずらし」の仕掛けが、
本当にうまいなあと思いました。
大橋さん曰く「深刻ぶる必要もないしね」

私は写真はまったくわからないので
写真集をいただいたのですが、
「すみません…よくわからないんですよ…」と言うと
それぞれに「写真を見て一言」的なことを言ってもらうと、
「おお~~~」と一気に世界観が広がり。
その2つの「表現の組み合わせの妙」を作り出すセンスが
とにかくすごいなあと思いました。

でも写真家としては写真だけで訴えたいそうで
言葉で言わないと伝えられないなら僕の負けだね、と
おっしゃってられましたが。

表現って、追求し始めると、本当に奥が深いですね。
表現に限らず、ですが。

ある意味めんどくさい研究室だなあと思っていましたが、
本当にちゃんと考えるってことはめんどくさいものですよね。
めんどくさいけど、考えるべきことには骨太に取り組まねば
そしたら、そのめんどくささがとてつもない快楽になるー

いつもと違った刺激を受けて帰宅したのでした。

できる子・できない子

2010-07-20 23:59:59 | 自己理解
いつものピアノの先生の話。

昔、ある女の子がお母さんに連れられてやってきた。
その子の2つ上のお兄ちゃんがすでにピアノを習っていて、
いつもその子はお母さんについてきていた。
その子が自分もやりたいと言っているし、
3歳になったので、始めさせたいとのことだった。

ピアノの前に座らせる。
楽しそうに鍵盤を叩く。
だが、いざ、教本になるとまったく弾けない。
最初の曲はきらきら星。
ドのところに先生が指を置く。
だが、どうしてもソにいかないのだそうだ。
鍵盤を叩くが弾けない。そんな時間が延々続く。

お母さんはこう言った。
「この子は能力が悪いんじゃないだろうか。ピアノは無理かもしれない。」
お兄ちゃんは上手に弾けていたのにこの子はどうもうまくできない。
日常の色々な出来事が、この子はお兄ちゃんと比べてうまくやれていない。
無理してさせるのもかわいそうなのではないか。お母さんはそう考えた。

先生は言った。
「そんなことはないと思う。私にはそうは思えない。
 ちょっと待ってみよう。」

それからおよそ2ヶ月間の間、
先生はその女の子と歌ったり踊ったりして過ごした。
ただただ、そのような時間を過ごした。

そしてある日、ピアノの前に座らせてみた。
すると、きらきら星が弾けた。
そして次の曲、次の曲・・・と驚くような早さで
その子は教本を進めていった。

その先生は言う。
あのときは、「弾く」というところまで発達していなかったんだろうね、と。
能力があるないではなく、
その能力が出せるところまで発達していなかったんだと。

この子の場合、先生が待ったのはたった2ヶ月。
親は、でも、その2ヶ月が待てずに、結論を出そうとしていた。

先生は待ってくれたんだなあ。

私は全然覚えていませんが、
これが、私とピアノの先生との出会いのお話だそうです。

十七歳の地図

2010-07-15 21:55:06 | 自己理解
以前、「D5の夜」なんていうふざけた記事を書きました。
あれは、尾崎豊の「15の夜」の替え歌でした。

そんな私ですが、ここのところ、真剣に、
尾崎豊のデビューアルバム
『十七歳の地図』を聞き続けています。
1985年ものです。今さらです。
当時、熱烈なファンが周りにいたため当時も耳にしてはいましたが、
こんなに聞き続けているのは初めてかもしれません。

当時の私は、尾崎豊について、「なんだかすごいなー」と思うものの、
「男の世界」として理解していました。
「盗んだバイクで走り出す」とか「窓ガラス壊してまわる」なんて
「男の領域」の気がしていたのです。
なので支持はするけど共感はできない、という感想をもってました。
また、声と歌い方も、なんとなく乱暴な感じがしていました。

ということで、曲はよく知っていたけど、
進んで聴くことはあまりありませんでした。

しかし。
何か特定の音楽を聴きたくて仕方がないというときは
心の何かがそれを求めているのでしょうか。
最近、妙に、尾崎豊が聴きたくなって、ふと聴いてみたら
ぴったりと心にはまって入ってきました。
で、1ヶ月ほど聞き続けているわけです。

中でも、表題作である「十七歳の地図」は、
歌詞を聞いてて涙が出てきてしまいます。

たとえばこんな歌詞です。

 街角では少女が自分を売りながら あぶく銭のために何でもやってるけど
 夢を失い 愛をもて遊ぶ あの子忘れちまった
 心をいつでも輝かしていなくちゃならないってことを


「心をいつでも輝かしていなくちゃならない」
…なんてまっすぐな歌詞なんでしょう。
尾崎豊については大人への反抗ということがクローズアップされがちですが、
こんな心のうちも歌っていたんですね。

こんな気持ちをまっすぐ言葉にできるのってすごい!
と思うのは、
私が幾分(多分に?)やさぐれた心になってしまったからでしょう。
中学生の頃はともかく、高校生の頃は、やっぱり、
自分がどういう人間であるべきか、どうありたいのか、
真剣に考え、友だちと語り合い、日々を生きていたように思います。
その頃に聴いていたら、こんな言葉にハッとするというよりは
「そうそう!」と自分たちの気持ちを代弁する歌詞として
受け止めていたかも知れません。

それがいまや…
「言われてみれば本当にその通りだよなあ…忘れてた!」
って感じです。

まあ、当時を理想化しているのかもしれませんが、
いずれにせよ、この言葉をとてもまぶしく受け止め、
改めて「本当にそうだなあ」と感じたのでした。

そして、こんな歌詞が続きます。

 電車の中 押し合う人の背中にいくつものドラマを感じて
 親の背中にひたむきさを感じて このごろふと涙こぼした
 半分大人のSeventeen's map


うう、そう感じる17歳こそにひたむきさを感じて、
涙こぼしちゃいました。

この年になって、「10代の教祖・尾崎豊」の気持ちに
いたく感動していることはややイタイ気がするのですが、
なぜか、今、心にそれがフィットするのだから仕方ありません。

彼の世界というか彼の心の持ちようがまぶしく響き、
それに対して今更ながらに憧れを抱く自分に気づいた時、
ああ、いつの間にか大人の階段昇ってしまってたんだなあと
なんだか若干ものがなしい気持ちにもなったのでした。

でもいいんです(←大人だ)

“自分”って何だと思いますか

2010-06-17 12:17:57 | 自己理解
昨日に続くトピックです。
「先生はなぜブログを書こうと思ったんですか」と書いてくれた学生は、
さらにこんな質問もしてくれていました。


 先生は、“自分”って何だと思いますか。
 いつか聞いてみたいと思っていました。



すごい問いですね。
「自己論」を専門の一つに掲げている私としては、
つい力が入ってしまいます。

しかし、よくわかりません。自分ってなんでしょうね。

それだけで一生を費やしてしまいそうな問いです。
となると、現在の私が説明できるのは、結局
「自分は自分でしかない」ということくらいです。

しかし、その子が学術的な答えを期待しているとも思えませんでした。
なので、
「あなたは“自分”というものをどういうものだととらえていますか」
という意味の問いとして解釈させてもらい、
それに答えさせてもらうことにしました。


このコメントには以下のように答えさせていただきました。


 自分は自分だと言ってしまいそうになりましたが、
 “自分という存在”ということで考えると、与えられたもの、でしょうか。
 一個人としての考えですけどね。
 この世を生きるために与えられた器?乗り物?みたいな感じでしょうか。
 とりあえず、とりあえず、
 この自分という存在を与えられて、生まれてきてしまって、
 その自分としてやっていかねばならない、
 それは自分が選び取ったわけではないけど、どう悩もうと、
 自分は自分なのだと思います。
 その意味では、正確に言うと、
 勝手に与えられてしまったけど、引き受けなきゃいけないものである
 という感じでしょうか。
 ・・・でも質問の意図とは答えがずれていますか?



自分という存在については、幼い頃からずっと考え続けてきました。
この自分としてこの世に生まれてきたことに納得いかない気持ちを、
常にどこかでくすぶらせ、根本的な自己嫌悪を抱き続けてきました。

しかし、この年になると、上記答えのように、
ああ、もう、これは、引き受けなきゃならないんだ、
じたばたしても仕方がないんだ、と、
ほどよい諦めの境地に至っています。
どれだけ嫌だと思っても、私は私でしかありえないのです。

自分というものを受け入れられずに苦しんでいる若い人がいたら、
単純ですが、私はまず、こう言いたい。
「年をとると、見方が変わるよ!もう少し生きてみよう!」

同時に、ありきたりに響くかもしれませんが、
戦争が起こっていない場所に、
食べるもの、寝る場所、着る物を
当たり前のように享受できる環境に、産み落とされたこと、
それも、私が引き受けている現実であることにも
気づけるようになっています。

そういうことは、私が選んで得たわけではなくて、
いやだと思っても、ありがたいと思っても、
とにかく、この私として生まれてきてしまった、
私はそこから始めるしかないのだと思います。
その意味で、私は私という存在を与えられてしまったのだと思います。
もうそれは、仕方がないのです。
そして、その存在を生き続けねばならないことも、また、
仕方がないことなのです。
その辺りのことは、観念しなければならないのです。
そこはもうあきらめて、じゃあ、どう生きるかを考えるしかない。

この世を生きるために与えられた乗り物に乗って日々を生き、
日々を生きる中で、その乗り物も少しずつ変化していく。

私にとっての“自分”とは、その、乗り物みたいなイメージなのです。

昨日の質問に続き、自己理解を深めさせてくれる質問でした。
ありがとうございました。
来年の今頃、どう思っているかは分かりませんが、
だからこそ今の思考を書いておく事は意味があるなあとも思います。

ブログを書く理由

2010-06-16 10:27:57 | 自己理解
先日、非常勤先の講義のコメントで、このような質問を受けました。

先生はなぜブログを書こうと思ったんですか。

改めて質問してくださってありがとうございました。

このコメントには、以下のように返しておきました。

基本は学生に読んでもらうためです。
授業以外での私の背景(研究者としてはこんなことやってるとか)を
知ってもらいたいと思ったのが最大の理由です。
具体的に、授業の補足として、授業で言い切れなかったところや
授業でのねらいや受講生へのメッセージを書いていた時期もありました。
が、今はそれに加えて、もう少し一般的に、
雑談めいたことも含めて書いています。
学生や一般の方に読んでもらいたいという目的は変わらずですが、
それに加えて今は、ある程度、公共性に耐えうる内容を、
きちんと構成を考えた上で文章を書く、ということを、
自分の中で日常的行為にしたいという目的も加わっています。
これからもご愛読よろしくお願いします。


最初は各授業ごとに書こうとしており、
それでカテゴリーも作っていました。
つまり、現在「授業日記」となっているカテゴリーも、
最初は「○○論」など、授業科目名だったのです。
しかし、書いていると、
・いくつかの授業にまたがる内容になったりしてしまう
・書いている内に授業内容から大きくずれてしまう
・ブログに書く内容のために、授業の概要を書くのは大変
などの理由から、どうもそれでは整理がつけづらくなり、
過去のそれらは年度ごとの「授業日記」にまとめ、
最近はもっぱら、「授業日記」以外のカテゴリーで書いています。

また、この4月半ばくらいから、「とにかく書く!」ということを
自分に課しています。
いつまで続くかわかりませんが、上記目的のもと、精進中です。

これからも、ご愛読よろしくお願い申し上げます。

なかなか、こういうことを改めて答える機会なんて
そうそうないので、いい自己理解の機会になりました。
質問してくれた方、ありがとうございました。

誕生日

2010-05-30 01:12:00 | 自己理解
今日は私の誕生日です。

以前、ラジオで聞いた、
誕生日にまつわるちょっといい話をご紹介しましょう。



誕生日って、生まれた人がお祝いされますよね。

でも、もう1人、お祝いされなきゃいけない人がいる。

それは、その日にものすごくがんばってくれた「お母さん」。

誕生日というのは、

「あなたが生まれた日」であると共に

「お母さんがあなたを生んだ日」でもあるんです。

主語が2つあるように、「誕生日」の主役は2人いる。

お誕生日おめでとう、というのは、

誰よりも、お母さんに言ってあげたい言葉です。




正確には覚えてないんですが、確かこんな内容でした。

当たり前のことなんですが、
私たちは、誰でも「お母さん」から生まれるのですよね。
「お母さん」が生む事をやめていたら
私たちは生まれていない。
私が勝手に生まれてきたわけではないのです。
私が生まれた日でもあるけど、
お母さんが私を生んだ日でもある。

お母さんが1年間私を胎内で育て、それをがんばって身体の外に出し、
1人の人間としての存在を始めさせた、
そんな日でもあるんだなあということに
しみじみ思いをはせる一日でした。

17歳へのあこがれ、あるいはマイメロディへの愛

2010-05-22 22:49:49 | 自己理解
小さい頃、私は「お姉さん」に憧れていました。
「お姉さん」というのは、高校生~大学生くらいの
清潔感漂う、おしゃれでさわやかな、制服を着た女性です。

具体的に何か出会いがあったのかは覚えていませんが、
小さい頃、何かものすごくお気に入りのものを手にすると
「17歳になったら使おう」と思っていたのです。
頭の中では、素敵なグッズに囲まれたキラキラしたお姉さんに
なっている自分というものをイメージしていました。
ええ。妄想です。

具体的なエピソードがあります。
小さい頃に、サンリオの「マイメロディ」というキャラクターが登場しました。
小さい頃、私はうさぎが大好きで、サンリオの中に
うさぎのキャラクターが出てきたことに大喜びしていました。
「マイメロディの私のお部屋」というおもちゃを買ってもらったとき
マイメロディちゃんのかわいさに浮かれまくっていたのを覚えています。

ある日、マイメロディの鉛筆を買ってもらいました。
鉛筆というのは使うためには削らねばならず、当然、
削ったら柄が消えていってしまいます。
消しゴムもメモ帳もしかりで、
文房具というものは、使ったらなくなってしまうのです。
どうしてももったいなくて使えず、
キラキラ17歳の私に使ってもらおうと、
ずっと引き出しにしまっていました。

その頃の私の頭の中には、17歳の素敵な私が
妄想されていました。
お姉さんに成長した私は、
革の学生鞄からペンケースを取り出し、
マイメロディの鉛筆で何か(←漠然~)を書く…。

いやはや、イメージですから、お許しください。
小さい頃の私にとってはこれこそが憧れのシーンだったのです。

ところが。

人の成長というものは予想通りにいかないもんです

「こう育ってほしい」と期待する内容を
「発達期待」といいます。
親の発達期待というものは、子どもに対する親の対応などに
現れてくるので、ある程度、その発達期待の影響を受けながら
子どもは成長していきます。

そう考えると、小さい頃の私は、
私自身に対して「発達期待」を抱いていたとも言うことができ、
少しくらいは影響を受けていてもいいもんです。

しかし、親と違って、自分に対してそうなるための
はたらきかけなんてしていませんし、
ふとした時に17歳への憧れを抱くことはあっても、
大抵は、その時その時の時間に夢中になるわけで、
運動したり、友達と大笑いしたり、やんちゃしたりしながら
自分が抱いた妄想的な憧れに自分を照合させる作業を
まったくしないままに育っていきました。

気づいてみれば、17歳になった私は、
幼い私の声なんかすっかり忘れ、
とてもがさつな、乙女とは遠い娘に成長してしまっておりました。
17歳当時、「憧れの年齢になったなあ」という感慨さえも
抱かなかったように思います。

ただ、それよりショックだったのは、
引き出しの中に「マイメロディ」の鉛筆を見つけた時のことです。
その時にはすっかりマイメロディの人気はすたれ、
また、私自身にとってもそこまで宝物のような価値はもたないものに
変化してしまっており、
それを使ったらむしろかっこわるいよ…という
現実が到来していることに気づいたのです。

素敵な17歳に成長していたとしても、
きっと私はマイメロディの鉛筆には見向きもせず、
がさつに成長した私がそうしていたように、
その時の好みで好きな文房具を買っていたことでしょう。

未来は予定通りにはやってこないのですね。
私の心に描かれた未来と、現実に到来する未来は違うんですね。

そんな事実をかみしめ、
でも、幼い頃の私があんなに大事にしてたものだよなあ、と
思うとマイメロティの鉛筆はとても愛おしく思え…
という感慨は一瞬沸いたものの、
とりたててその感慨に執着することもなく、
自宅でマイメロディの鉛筆を惜しげもなく使ったのでした。
こんなことなら、一番それを気に入っている時にこそ
使えば良かったとつくづく思いました。
その時だったら、それを使うだけできっと幸せだったでしょう。

コレクターじゃない限りは、
ものは、使うべき時に使いましょう。

教師と権力:シュプランガーの価値志向分類

2010-05-17 20:47:59 | 自己理解
先日、師匠と弟子についての記事を書きながら、
弟子を飼い殺すなんて、理不尽な権力行使だよなあと思い、
その関連で、思い出した話がありました。

今日はその話を書きたいと思います。
ですが、その前に、皆さんにやってもらいたいことがあります。

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次の項目が、ご自身にあてはまるかどうか考え、
「とてもよくあてはまる」…◎
「まあまああてはまる」…○
「あてはまるともあてはまらないともいえない」…?
「あまりあてはまらない」…△
「まったくあてはまらない」…×
のいずれかのマークを、それぞれの項目に対してつけていってください。

A.「これは何だろう」「なぜこうなるのだろう」という疑問をもつ。
A. 辞書や事典を引いたり、図鑑で調べたりするのは好きな方だ。
A. ものの仕組みがどうなっているのか、興味をもつ方だ。
B. 家族や友人に対する愛情が深い方だ。
B. 仲間と力を合わせて、1つの目標に向かってがんばるのが好きだ。
B. 誰かが困っているのを見たら、すすんで手助けする。
C. 他人に対して、自分の意見をはっきり言う方だ。
C. 自分が正しいと思うことなら、反対する人を説得してでもやり通す。
C. まちがったことをしている人を見たら、きちんと注意する。
D. 自分が生まれてきたことの意味について考えることがある。
D. この世界には、人間の知恵の及ばない、大きな力がはたらいていると思う。
D. 人間の運命というものを感じることがある。
E. きれいなものを集めたり飾ったりすることが好きだ。
E. 身のまわりの物の形や色に、強く心を引きつけられることがある。
E. 自分がふだん使うものは、色やデザインにこだわる方だ。
F. 人よりも計画性がある方だ。
F. 10分や20分の空き時間・待ち時間も、なるべく有効に使う。・・・・・・
F. どうせやらなくてはならない雑用は、早めに片付けてしまう。・・・・・・・

マークをつけおわったら、
◎…5点
○…4点
?…3点
△…2点
×…1点
として、A~Fのそれぞれの記号ごとの得点を出してみてください。

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では本題です。
かつて、奈良女子大学に勤めていた頃、
パーソナリティ心理学者の酒井恵子先生(大阪工業大学)が
非常勤講師で来てくださっていました。
何度かお話をする機会があって、先生の研究の話など、
色々勉強させていただきました。

酒井先生は、特に、シュプランガーの理論に精通されており、
「価値志向によるパーソナリティ分類」の尺度化をなさった方です。

そこで用いられているシュプランガーの理論とは、
各人が生活の中で重視する価値の種類によって
パーソナリティを分類しようとする理論です。

たとえば、同じ山を見たとしても、それへの反応は様々です。
ある人は、その美しさに心うたれる。
ある人は、その頂上にたどりついたときの征服感に思いをはせる。
ある人は、その山に登る仲間を想像する。
ある人は、その山の資産としての価値を思いめぐらす。
ある人は、その山に神を感じる。
ある人は、その山の成り立ちや分類に興味を抱く。

このような反応の違いを、
その人が生活の中で重視する価値体系の違いが反映されたものと考え、
どの価値をより志向するのかということを、
シュプランガーはパーソナリティ分類の枠組みにしたのです。

その分類は6つ。
事物を客観的に見て、論理的な知識体系を創造することに価値をおく“理論型”
事物の経済性、功利性をもっとも重視する“経済型”
繊細で敏感であり、美しいものに最高の価値をおく“審美型”
神への奉仕、宗教体験を重視する“宗教型”
権力を求め、他人を支配しようとする“権力型”
人間を愛し、進歩させることに価値をおく“社会型”
です。

先ほどの山に対する例でいうと、
その美しさに心うたれる…審美型
その頂上にたどりついたときの征服感に思いをはせる…権力型
その山に登る仲間を想像する…社会型
その山の資産としての価値を思いめぐらす…経済型
その山に神を感じる…宗教型
その山の成り立ちや分類に興味を抱く…理論型
といった感じです。

酒井先生の作られた尺度は、どのタイプにあてはまるかではなく
それぞれのタイプとされた性質が個人の中にどのくらいあるのかを
測定するものですが、
自分が、それぞれのタイプの性質をどの程度もっているのか、
特に強くもっている性質は何か、などを考えてもらうことはできます。

酒井先生は、それを教職課程の学生に回答してもらって、
自分の価値志向性を知ってもらい、
教員という職業を選んだ理由にも、
少なからずそれが反映されている可能性があることを
自覚してもらうようにしているとおっしゃっていました。

たとえば“権力”志向が強い場合は、
教師はある程度生徒を支配することができるというところに、
“社会”志向が強い場合は、
子どもと仲良くできるなどというところに
それぞれ注目して教職をとらえている可能性が考えられるので、
教職に関するそれ以外の側面については、
より意識的に学んでもらう必要があるというわけです。
また、実際の場面においても
“経済”志向が強い場合は効率を最優先させる傾向が、
“理論”志向が強い場合は正しい理解を最優先させる傾向が、
クセのように現れる可能性があるので、
それを自覚しておくことも役に立つでしょう。

というわけで、冒頭には、酒井先生の尺度からの項目を
一部抜粋させていただきました。

著作権などの関係があるのであくまでも一部ですが、
ご自身の価値志向性について、考えるきっかけにしてみてください。
正確に知りたい方は、
酒井恵子・久野雅樹 1997 価値志向的精神作用尺度の作成 教育心理学研究, 45, 388-395.
を御覧ください。
※論文へのリンクは、大学など、電子ジャーナル契約のあるところからのみ
 ジャンプすることができます。

というわけで、
A~Fの得点はそれぞれ、
A:理論
B:社会
C:権力
D:宗教
E:審美
F:経済
を測定する項目の得点でした。