キャリア形成論第2回、「自分とは(1)」の回のコメントをようやく読み終えました。
「自分について考えるのは難しいと思っていたけど楽しかった」「少し自分について分かった気がする」「過去とのつながりの中で自分をとらえることができた」など、積極的に作業に取り組んでくれた感想が多く見られて、あのやり方できっとよかったんだ~(とりあえず今は)とホッと胸をなでおろしています。
さらに、「この方法はいろんなことに使える」「今後も必要な時にはやってみたい」など、今後使える自分のツールとして認識してくれた人もいて、嬉しい限りです。
「自分についてわかっていなくてダメだと思った」「自分についてもっと考えないとダメだと思った」といったコメントも見られましたが、それに対して補足。
今回の授業では、「自分のことを理解する」ということを目的にしていたわけではありません。「自分のことを理解する1つの方法・視点」を学び、その結果、何か見えてきたらいいねー、くらいのスタンスでやっています。
なので、「絶対に自分を見つけろ」とか「自分のことが書けないなんてダメだ」という気はさらさらありません。でも、自分について分かっていた方が何かと足場を得やすいし、強く生きていけるとは思っています。また、どうしても自分について何らかの理解をしていなければ進めなくなる状況というのに出会うこともあります。
なので、自分について理解する必要が出てきた時のために、今回、こんな方法でやってみましょう、という提案でした。
自分について考えろ、自分について書け、などと突然いわれても、なかなか難しいもので、しかも、
「そんなことしなくてもこれまで生きて来れたのにー」
「そんなこと言われなくても自分でやってるー」などと思う人にとっては「自己理解」をテーマとする課題はなかなかめんどくさかったりイマイチのれなかったりするものでしょう。
かくいう私もそうでした。やれと言われるとやりたくなくなる…。
しかも、「自分に向きあいましょう」とか「自分を見つめましょう」などという、あたかもそれが至上の価値のようなメッセージを伴って課題を呈示されるととたんにしらけてしまいます。
しかし、今になって、あのときあのワークにもっとちゃんと取り組んでおけば良かった…とか、あのワークの意味はなんだったんだろう(きっと取り組んでいればわかったはず…)とか考えることが実に多い。自分のしらけた気分のために、「食わずぎらい」だったのではないか、とりあえずもっと柔軟に取り組んでおけばそれなりに何かあったのではないか、どんなものにも意外と学ぶ点はあるものだ…。
などと考えることもあり、それで今になってあれやこれやと勉強したりしているわけです。ですが、やはりその時の感覚はその時にしか得られないわけで、できることなら、当時の私に「もっとしっかりやれよ」と言いたい。そして当時と今の変化を楽しみたい。
でものれなかった私も確かにいるわけで。それはそれでその時の感覚であり率直な気持ちです。それ自体が当時の私。
まあ、でも、できるなら、同じく嫌うにしても、「食わず嫌い」ではなく食べた後で「嫌い」と言ってほしいなあ。一生懸命やっている人もいるわけだし…。
ということをやはり授業者としては考えるわけで、当時の私でものれる課題にするにはどうしたらよいのか??ということを基準に、あれやこれやと考えた結果の課題たちでした。
こういう作業は、特に必要のない時(余裕をもってとりくめる時)に一度実践しておけば、きっと後で役に立つ!と私は思っているわけです。必要な時にやると仕事になってしまいますが、今は遊びとしてとりくめるはず。でも子どもは一生懸命遊びますよね。遊びはけっして手抜きという意味ではない。自由度が高い、義務ではない、ということです。一生懸命、遊んでください。
そして、コメントを読む限り、皆さんの多くが一生懸命遊んでくれたんだなーと思って、とても嬉しかったです。
「自分について考えるのは難しいと思っていたけど楽しかった」「少し自分について分かった気がする」「過去とのつながりの中で自分をとらえることができた」など、積極的に作業に取り組んでくれた感想が多く見られて、あのやり方できっとよかったんだ~(とりあえず今は)とホッと胸をなでおろしています。
さらに、「この方法はいろんなことに使える」「今後も必要な時にはやってみたい」など、今後使える自分のツールとして認識してくれた人もいて、嬉しい限りです。
「自分についてわかっていなくてダメだと思った」「自分についてもっと考えないとダメだと思った」といったコメントも見られましたが、それに対して補足。
今回の授業では、「自分のことを理解する」ということを目的にしていたわけではありません。「自分のことを理解する1つの方法・視点」を学び、その結果、何か見えてきたらいいねー、くらいのスタンスでやっています。
なので、「絶対に自分を見つけろ」とか「自分のことが書けないなんてダメだ」という気はさらさらありません。でも、自分について分かっていた方が何かと足場を得やすいし、強く生きていけるとは思っています。また、どうしても自分について何らかの理解をしていなければ進めなくなる状況というのに出会うこともあります。
なので、自分について理解する必要が出てきた時のために、今回、こんな方法でやってみましょう、という提案でした。
自分について考えろ、自分について書け、などと突然いわれても、なかなか難しいもので、しかも、
「そんなことしなくてもこれまで生きて来れたのにー」
「そんなこと言われなくても自分でやってるー」などと思う人にとっては「自己理解」をテーマとする課題はなかなかめんどくさかったりイマイチのれなかったりするものでしょう。
かくいう私もそうでした。やれと言われるとやりたくなくなる…。
しかも、「自分に向きあいましょう」とか「自分を見つめましょう」などという、あたかもそれが至上の価値のようなメッセージを伴って課題を呈示されるととたんにしらけてしまいます。
しかし、今になって、あのときあのワークにもっとちゃんと取り組んでおけば良かった…とか、あのワークの意味はなんだったんだろう(きっと取り組んでいればわかったはず…)とか考えることが実に多い。自分のしらけた気分のために、「食わずぎらい」だったのではないか、とりあえずもっと柔軟に取り組んでおけばそれなりに何かあったのではないか、どんなものにも意外と学ぶ点はあるものだ…。
などと考えることもあり、それで今になってあれやこれやと勉強したりしているわけです。ですが、やはりその時の感覚はその時にしか得られないわけで、できることなら、当時の私に「もっとしっかりやれよ」と言いたい。そして当時と今の変化を楽しみたい。
でものれなかった私も確かにいるわけで。それはそれでその時の感覚であり率直な気持ちです。それ自体が当時の私。
まあ、でも、できるなら、同じく嫌うにしても、「食わず嫌い」ではなく食べた後で「嫌い」と言ってほしいなあ。一生懸命やっている人もいるわけだし…。
ということをやはり授業者としては考えるわけで、当時の私でものれる課題にするにはどうしたらよいのか??ということを基準に、あれやこれやと考えた結果の課題たちでした。
こういう作業は、特に必要のない時(余裕をもってとりくめる時)に一度実践しておけば、きっと後で役に立つ!と私は思っているわけです。必要な時にやると仕事になってしまいますが、今は遊びとしてとりくめるはず。でも子どもは一生懸命遊びますよね。遊びはけっして手抜きという意味ではない。自由度が高い、義務ではない、ということです。一生懸命、遊んでください。
そして、コメントを読む限り、皆さんの多くが一生懸命遊んでくれたんだなーと思って、とても嬉しかったです。