中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

リジリエンシー

2008-10-30 16:02:26 | 研究日記
去る10月28日(火)、東北大学仁平義明先生の講演会がありました。
タイトルは「リジリエンシー研究の最前線」。
リジリエンシーとは、心の回復力、みたいなものです。
その前身となる概念に「ハーディネス」というのがあります。
以下、仁平先生の解説をもとに、紹介します。

ハーディネスが、
ストレスが特に多いとされる管理職についた人間の中に、
その重職のために病気になる人とそうでない人がいる、
ということに着眼した研究であるのに対し、
リジリエンシーは、
虐待など、本来なら精神的に問題を生じるような
状況にあっても、精神的に健康に成長できた子ども達がいる、
ということに着眼した研究である点で、質が異なります。

どちらも、「強いストレスに耐えられる心の強さ」を検討するものですが、
社会的に成功し、かつ、
そこに伴う重圧にも耐えられる力とは何か?
という問いをハーディネス研究はもっていたのに対し、
どれだけひどい状況でも、
それでもある程度の健康を維持できる力とは何か?
という問いをリジリエンシー研究はもっています。

仁平先生流に言うならば、
ハーディネス研究は「勝ち組の中の勝ち組となる」
条件についての研究であり、
リジリエンシー研究は「負け組を負け組にしない」
条件についての研究である
とまとめることができます。

この発想の違いは、実は大きな違いです。
私は自己形成研究をする中で、自尊感情や自己評価にも
大きな興味関心を払ってきました。

ですが、もともと自己嫌悪感から研究を始めていますので、
「自尊感情を高く保てているか否か」ということではなく
「自分を否定しているか受容しているか」あるいは
「自分を否定していても見捨てていないか否か」という点に
特に関心を寄せてきました。

自己嫌悪感に陥っても、自分を切り捨ててしまわずに
「嫌いな自分」への、
それでも捨てられない愛や諦めきれない気持ちを
保つことができる人とそうでない人がいるのはなぜか。
あるいは、理想に満たない自分であっても、
そこで見限らずに自分に希望を持ち続けることができるのか。

つまり、「自分は素晴らしい」と積極的に言えなくても
「それでも私は私であるのだ」と存在を肯定できるかどうか、
そして漠とでいいから
「私もそれほど捨てたもんじゃない」と感じて、
自分のあり方を、引き受けることができるか否か、
そこを特に考えたいと思っています。
これは「自己受容」の本来の意味に集約されるのかもしれません。
また、「自尊感情」も、本来は、そういう意味合いを
もって議論がなされ始めたのです。
最も用いられている自尊感情尺度の基本コンセプトは
「とてもよい(very good)」ではなく
「これでよい(good enough)」です。

このような状態が、その人が自分として
生きる大きな基盤となると考えられます。
そしてその状態から、
さらに自分を強く高めていくことができるかもしれません。
ですが、その前提として、自己受容は必要だし、
そのこと自体が人生の大きな課題となる人々もいるわけです。

しかし、「自己」を強くもつことが
急速に求められている現代日本においては、
むしろ、アメリカで研究がすたれつつある
「ハーディネス」ばかりに
焦点が当たっているように思えます。

私は、『あなたと私はどう違う?』の本の中で、
人間の強さや素晴らしさの側面に焦点を当てた分野である
人間性心理学とポジティブ心理学について書いた
章の結びにおいて、こう書きました。

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人間性心理学もポジティブ心理学も、「人間はポジティブであるべき」という選抜思想的なものであるわけではない。(中略)より幸せで、より充実し、より自己実現する生き方には、「ポジティブな循環」が存在することが示されつつあるが、それは決して、人間の二極化を促すものであってはならない。あくまでも、「どんなにネガティブな状況にあっても、我々にはポジティブな側面がある」というメッセージなのだ。その循環にのれない人たちに対して、ポジティブな循環への梯子をどう架けるか、また、そもそもその人たちにとってその梯子は必要なのか、そこへの問いを忘れてはならない。
(中略)
あまりに強すぎる光は、暗闇にいた人にはまぶしすぎる。そして、暗闇にいる人に、自身をとりまく暗闇の深さをかえって自覚させてしまうことがある。本章で挙げた健康なパーソナリティを探求する研究が、そのような副作用をもたらさない形で、発展し、実践されていくことが望まれる。
-------------

リジリエンシーや、また、自己受容的意味合いを含む
オーセンティシティといった概念も、
ポジティブ心理学に含まれます。
自己形成研究における、私の究極的な問いは、

・自分という存在をどのようにその生において引き受けることができるのか
・そしてその自分として、人がどのように幸せに生きることができるのか、

というところにあります。
そのために、自己嫌悪感に人がどう向きあうのか、
理想自己に満たない自分を
どう引き受けるのか、などをコツコツやってきました。
でも常に、上記引用のようなことを強く心がけてきました。
私はそのような心がけの中で、
人間の強さやたくましさについての研究を続けていきたい。

ここのところ、自分の研究はとんと停滞していますが
(もうこの言葉もいい飽きるほど停滞が長く続いていますが)
リジリエンシー概念について体系的に聞けたことは、
大きな励みになりました。

また、私は自己認知の問題から
主にアプローチをしてきたのですが、
その認知の変容や、新たな様式の形成プロセスを考えるとき、
どうしても「他者」が必要になります。
実証研究が頓挫している一つの要因に、
この「他者」をどうとらえるかというところがあったのですが、
リジリエンシー概念ではその形成における
「メンター」の存在が注目されているそうです。
恥ずかしながら、そのことさえ知らなかったので
それについても大変興味深く、また、勉強になりました。

ああ、勉強が足りませんねー。
ですがまたここから、がんばることにしましょう。

オロナミンC

2008-10-23 09:55:08 | 生活日記
今朝、おどろきのコマーシャルを見た。
おそらく青山テルマと思われる女性が
エステかマッサージを受けていて、
何の宣伝かと思えばオロナミンC。

栄養ドリンクではないか。
オロナミンCといえば今まで肉体派筋肉系が主流だったのに…
黒光りする肌にほとばしる汗。体力の限界まで挑む男の世界。
ゴールに達成し、互いをたたえ合いドリンクを握りしめる男たち。
ファイトー、いっぱーつ!!

とここまで書いて、気づいた。
あ、それ、リポビタンDだ

そこで結論が変わりました。

★当初の結論
(リポビタンDのCMと比較していることを念頭においてね):
栄養ドリンク剤も、もはや癒しの時代になったのでしょうか。
エナジーみなぎらせて働くためのものではなく、
疲れをいやすために飲むものへと変わったのでしょうか。
エナジーギンギンだけでは確かに疲れますが、
なんだか極端から極端へと変わった印象です、オロナミンC。
疲れを癒すのはとても大事、疲れていては動けない。
でも癒されたら、そこから前に進まなきゃ。
癒し自体は目的ではなく、前に進むために必要な前提。

★変更後の結論:
栄養ドリンク剤も差別化の時代になりましたね。
エナジービンビン系はリポビタンDにまかせて
オロナミンCは癒しを担う方向へと方針転換したのでしょうか。
「まずは疲れをとる」「元気を育てる」「元気を使って何かをする」
それぞれの役割分担を始めたのでしょうか。
これを機に、私たちには「モーレツ(もはや死語)」だけではなく
「癒し」も必要であること、
でも「モーレツから癒しへ」なんて一面的に変化するわけではなく、
どの時代でも、どの人でも、色んな相をもっていることに
気づいてもらえたらいいなと思います。