久しぶりに電車で長時間移動だったので
読書をすることができました。
奥田英朗さんの『我が家の問題』
借りて日にちが経っていたのですが
ようやく読むことができました。
奥田英朗さん,なんだかほっこりする世界を展開してくれている作家さんです。
清水義範さんと似たものを感じます。
ちょっとユーモラスの方向性は違うのですが,ユーモラスですし。
登場人物へのまなざしが暖かいところなど,やはり似ている感じがします。
この本は短編集ですが,いずれも家族に起こった問題をモチーフに書かれています。
実は,このクール,「家族狩り」を2話からではありますが,すべて観ました。
そこではかなり深刻な,修復不可能な
それでも家族という枠組みにとらわれてしまうがゆえに
閉塞感から抜け出せず破滅的な状態に至ってしまっている家族が描かれていました。
それを観ながら漠然と思ったのは,
近代家族の在り方それ自体が問い直される時期になっているのかなあということ。
最近,母親が重いといったことを告白する本が散見されるようになっていますが
これは結構大きなことだと感じています。
というのも,それって,気づいてはいても,仕方のないものとして議論せずにいたことが
議論され始めたということで,
そうなると,これまで議論してはいけないものとして,無意識になきものにされてきた
家族をめぐる諸問題が,いよいよ様々な形をなして現れるのではないか,
しかもそれは,家族という制度それ自体の限界をも対象化するものなのではないか,
そんなことを思って眺めているのです。
そんな中で,「家族狩り」を観たものですから,
いよいよ多くの人が,近代家族の限界に気づき始めるのではないか,と
そんなことを思っていたわけです。
家族はこれまでも色々な問題を抱えていたわけだけれども,
そのシステム自体を揺るがすような議論にはなっていなかった,
(少なくとも生活者レベルにおいては)
でもそれが,そういった枠組みを問い直すところまで
来ているのかも知れないなーと…。
さてさて,『我が家の問題』は,
色んな家族の色んな問題に,家族の一員として,
家族というシステムの価値を疑うことなく,
一生懸命向き合う人たちの姿が書かれています。
実際には,近代家族のシステムをきちんと生きている人たちの方が大半です。
そして,その枠組みを足場としながら,家族の問題に向き合っている。
鹿児島弁に,
「三味線のない家はあるが,琴のない家はない」
という意味の言葉があります。
「琴」を「事(=問題)」とかけているわけですね。
近代家族の限界とか,そういったことはやはり漠然と思っているのですが,
それでなくても,やはり,家族は色々な問題を抱えながら
それでも家族という現象が多くの場合,成立している。
そんな当たり前のことを,改めて感じました。
そしてなんだかほっこりとしました。
読書をすることができました。
奥田英朗さんの『我が家の問題』
借りて日にちが経っていたのですが
ようやく読むことができました。
奥田英朗さん,なんだかほっこりする世界を展開してくれている作家さんです。
清水義範さんと似たものを感じます。
ちょっとユーモラスの方向性は違うのですが,ユーモラスですし。
登場人物へのまなざしが暖かいところなど,やはり似ている感じがします。
この本は短編集ですが,いずれも家族に起こった問題をモチーフに書かれています。
実は,このクール,「家族狩り」を2話からではありますが,すべて観ました。
そこではかなり深刻な,修復不可能な
それでも家族という枠組みにとらわれてしまうがゆえに
閉塞感から抜け出せず破滅的な状態に至ってしまっている家族が描かれていました。
それを観ながら漠然と思ったのは,
近代家族の在り方それ自体が問い直される時期になっているのかなあということ。
最近,母親が重いといったことを告白する本が散見されるようになっていますが
これは結構大きなことだと感じています。
というのも,それって,気づいてはいても,仕方のないものとして議論せずにいたことが
議論され始めたということで,
そうなると,これまで議論してはいけないものとして,無意識になきものにされてきた
家族をめぐる諸問題が,いよいよ様々な形をなして現れるのではないか,
しかもそれは,家族という制度それ自体の限界をも対象化するものなのではないか,
そんなことを思って眺めているのです。
そんな中で,「家族狩り」を観たものですから,
いよいよ多くの人が,近代家族の限界に気づき始めるのではないか,と
そんなことを思っていたわけです。
家族はこれまでも色々な問題を抱えていたわけだけれども,
そのシステム自体を揺るがすような議論にはなっていなかった,
(少なくとも生活者レベルにおいては)
でもそれが,そういった枠組みを問い直すところまで
来ているのかも知れないなーと…。
さてさて,『我が家の問題』は,
色んな家族の色んな問題に,家族の一員として,
家族というシステムの価値を疑うことなく,
一生懸命向き合う人たちの姿が書かれています。
実際には,近代家族のシステムをきちんと生きている人たちの方が大半です。
そして,その枠組みを足場としながら,家族の問題に向き合っている。
鹿児島弁に,
「三味線のない家はあるが,琴のない家はない」
という意味の言葉があります。
「琴」を「事(=問題)」とかけているわけですね。
近代家族の限界とか,そういったことはやはり漠然と思っているのですが,
それでなくても,やはり,家族は色々な問題を抱えながら
それでも家族という現象が多くの場合,成立している。
そんな当たり前のことを,改めて感じました。
そしてなんだかほっこりとしました。