中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

記憶違い

2009-07-27 20:55:48 | 心理学こぼれ話
友達に勧められて読んでいるエッセイが最高級に面白い。
その中で、記憶の中での言葉のすり替えに関するの話があった。
ちょっとそこから思い当たる話を書いてみようと思います。

記憶をする時、私たちは大抵「意味」をきちんと把握して
自分の記憶しやすいように頭の中に整理していきます。
情報を要約することで、記憶に定着させやすく、
しかもあとで検索しやすくするのです。

ところが、このメカニズムが時に間違いを引き起こします。

昨日、京都大学で研究会がありました。
お昼をどこで食べようかと頭をめぐらせていたのですが、
「折り紙」という単語がしつこく頭にへばりつく。
こういう名前の定食屋さんが京大の近くにあったのです。

しかし、この「折り紙」という店名は、学生時代から
しつこく私にまとわりついている記憶違いなのです。
本当の店の名前は「あやとり」。
子どもの遊びが店の名前になっている、という感じで
意味をとらえて、なぜか「折り紙」という単語が
いつも浮かんでくるのです。

その他に、以前、友達に大笑いされたのは「年金」のpension。
年金でペンションを建てるというイメージを勝手に連想させ
そこからそのイメージだけで記憶が進み、
私の中の年金ワードは、mansionに変貌を遂げていました。
ペンションというと老後のほのぼのとした余生が浮かびますが
マンションとなると、なんだか成金っぽいまだ欲の果てない老後に思えます。
(勝手に貸しマンションのイメージになっています。
 都心にあり、家賃は当然高いのだ。)

しかも、この手の記憶違いワードは、タチの悪い事に、
何度間違ってもその都度、正しいワードよりも真っ先に浮かんできます。
何度も間違ううちに、頭でチェックするのですが、
なぜか間違った方を「正しい」と判断してしまうのですね。
無理矢理後から「そうじゃなくて」というステップを踏んでも、
そういう覚え方での記憶は、検索の時に混乱を起こすみたいですね。

正常と異常についての考察とそこからの解放への志向

2009-07-17 08:17:32 | 心理学こぼれ話
昨日、「異常」という語を用いて話を書いた。
では、「異常」ってなんだろう。そして「正常」ってなんだろう。

その定義は実に曖昧だ。
まず、昨日書いたように、その境界が曖昧だということがある。
だが、「境界が曖昧だ」という問題の背後には、
それは、同一次元で議論される内容だという前提がある。
ところが、「正常」と「異常」には、いくつもの次元がある。
そして立場が違えば、あるいは時代や文化が違えば、
その正常と異常はまったく逆転することもある。
その観点からすると、「正常」と「異常」の概念それ自体が曖昧である。

たとえば、女性社員がせっせと男性社員にお茶くみをする場面。
それは日本では(特に一昔前の日本では)実に正常なふるまいとされた。
ところがたとえばオーストラリアなどでは異常に受け取られるらしい。
逆に、男性が女性にお茶をくむ場面はオーストラリアでは正常とされ、
日本では異常とされた。

食事の仕方にしても、
食事するときには無駄な会話をせず黙って食べるというのが正常で、
そこでわいわいと話をしながら食べるというのが異常だとする考え方もあれば
逆に、わいわいと話をしながら食べるのが正常で
そこに会話がないのは異常だとする考え方もある。

そこで、正常と異常について、その枠組みは一体なんなのか、
考えてみようと思った次第である。

『精神・心理症状学ハンドブック』(日本評論社)によると、
「正常」とは、①価値的正常value norm、②統計的正常statistical norm、
③個体的正常individual normがあるとされる。
この観点がとても整理に役立つので、この枠組みに則って、考えてみることとする。

価値的正常・異常の定義に従えば、
社会の構成員の多くが望ましいと考えられる状態が正常であり、
望ましくないと考えられる状態が異常である。

統計的正常・異常の定義に従えば、
その集団内の当該変数分布の平均値(あるいは中央値)の周囲の値をとるものが正常で、
それよりも低い値やそれよりも高い値をとるものが異常である。

個体的正常・異常の定義に従えば、個人のある時点の状態が
その個人の通常の値より偏っていれば異常といえる。

たとえば身長で考えた場合、ある程度の平均的な身長の範囲にあれば、
正常であるとされる。
(たとえば正規分布している場合、
平均身長±1標準偏差の範囲であれば68.2%の人が、
平均身長±2標準偏差の範囲であれば95.4%の人が入る。)
それより背の高い者も低い者も異常とされる。
これは統計的正常・異常による判断である。

それに対して、肌年齢などを考えた場合、その人の年齢の人が属する
平均的な肌年齢の周囲の範囲にあれば、それは身長の場合と同様、
正常とされる。これは統計的正常・異常による判断である。
ところが、その範囲を超えて若い肌年齢のところに位置づいていても、
それは異常とはされない。
これは、価値的正常・異常による判断である。
肌年齢は若いほどいいとされている価値が共有されているからである。
この場合、「“異常に”若い」と表現されたりするが、
ここでの“異常”という言葉は、その価値的正常を強調するために用いられる。

ところが、その、肌年齢が異常に若かった人、
考えやすくするために、たとえば実年齢より12歳くらい若かった人が、
ストレスか何かで急に肌が10歳も年をとってしまったとする。
つまり、実年齢より2歳若いくらいになったとする。

2歳くらい若い人というのは、おそらく、
その年齢集団の中で、平均的な範囲におさまるだろう。
なので、かえって、統計的には正常になったということになる。
また、2歳若いというのは、なお、価値的にも正常とされる。
しかし、その人にとっては大事件であり、異常事態である。
明らかに、その人の平生の状態とは異なっているからである。
これが、個体的正常・異常による判断である。

体温なども同様で、その人の平生の体温に比べて明らかに上昇があったとき、
たとえば平熱が34度くらいの低体温の人であれば
35.5度くらいでも発熱という。
これも、個体的正常・異常による判断である。

このように、どの軸をあてはめるかによって、正常か異常かの判断は異なる。
だが、どの変数にどの軸をあてはめるかに規則はない。

たとえば虫歯を考えてみる。
虫歯は放っておくとよくない。なので虫歯があるということは
価値的正常の観点からとらえると異常である。
しかし、成人人口中の半分以上は虫歯がある。
なので、統計的には虫歯がある方が正常であり、
虫歯がない人は異常だということになるのである。
また、それまで虫歯がなかった人に新たに虫歯ができてしまったというような場合は、
やはり虫歯があるということが、個体的正常・異常においても異常と判断される。

スピード違反にしてもそうである。
スピード違反は法律違反であり価値的には異常である。
しかし、多くの人がスピード違反をしている。
よって統計的にはスピード違反をしている方が正常である。
実際、速度制限を遵守して走っていると、
後ろからひどい攻撃を受けたりするものだ。
それが怖くて頑張っていつになく速度を上げて運転した場合、
そのスピード違反は個体的正常・異常においても異常とされる。

別の組み合わせも考えられる。
たとえば、オリンピックで優勝するとか、主役を射止めるなどは、
明らかに統計的には異常である。
しかしながら価値的には正常であり、多くの支持を集めることができる。
そしてそれは、個体的に正常か異常かは、その人によって異なる。
何連覇も更新していた人が優勝した場合は、そのことは個体的に正常であり、
シンデレラ的に主役に抜擢された場合は、そのことは個体的に異常である。
芸術家などもそうだろう。

個体的正常・異常というのは、そもそも、
それぞれの人の状態を考慮する必要があるものであるため、
その判断が個人によって異なるのは当たり前である。
だが、価値的正常・異常というのも、個人によって異なることがある。

たとえばティーカッププードルという犬がいるが、
あれは犬という種からみると異常な小ささに思われるのだが、
そのサイズが「小さくてかわいい」とされると価値的には正常とされる。
だが、自然ということに価値を置く人には、やはり価値的に異常とされるだろう。

冒頭で書いた食事の例も、価値的に正常か異常かという判断は、
文化によって異なると思われる。

さらに、日常においては、統計的正常・異常と、価値的正常・異常の軸は
そこまで独立しておらず、容易に入れ替わったり
相互依存的であったりするように思う。

たとえば冒頭のお茶くみの例。
昔の女性であれば、ほとんど誰もが(統計的正常)男性社員にお茶を淹れただろうし、
それは、価値的に正常な行為とされた。
そして、それは価値的に正常な行為とされたから、誰もがお茶を淹れ、
結果として統計的にも正常な行為とされるという状態が維持され続け、
そして多くの人がその価値を支持するということによって、
その価値的正常がさらに維持されるということもあるだろう。

一番分かりやすいのが流行である。
バブル時代、女性の眉毛は太かった。
そういう人が多くて(統計的正常)、かわいいとされた(価値的正常)。
かわいいとされたから、皆がそうしたとも考えられるし、
皆がそうしたからかわいいような気がしたのかもしれない。

だが今、バブル時代のような眉毛をしていたらただの手抜きとされる。
統計的にも異常であるし、価値的にも異常である。

ここから考えられることは、
絶対的な価値をおくことが難しい場合、統計的基準が
価値的基準を作り上げていくところがあるのではないかということである。

もちろん、新しい価値が統計的正常をもたらすこともある。
たとえばエコ。
エコという行為は、価値的に正常とされ、以前は少数の人しか意識していなかったが、
その価値が広く行き渡って、多くの人が価値的に正常とされる行為をするようになる。
それによって、エコにつながる行為をする人が、価値的にも統計的にも正常となる。

だが、この「価値が広まる」という過程では、
やはり、人に支持されるという、統計的正常に近づく過程が存在し、
それを支持する人が少数派である間は、やはりあまり普及せず、
少数派ながらもある分岐点にまで達すると、その後は爆発的に拡大するという
そういう流れがあるように思う。
その意味では、統計的正常というものは、
価値的正常を形成する力があるように思うのだ。

さらにいうと、以前から価値基準があったとはいえ、
それは正常・異常の判断を伴うものではなかったのに、
統計的正常・異常によって価値的正常・異常も判断されるようになるような
ケースもある。

現在、95%以上の人が高校に進学する。
よって、高校に進学することは統計的に正常であり、
また社会にも受け入れられるという点からみると、
価値的に正常でもあるわけである。
だが、社会が求めるからこそ高校進学が増え、
結果として統計的正常がもたらされたとも考えられる。
そしてその統計的正常がもたらされたことによって、
「高校に行かない」という決断が、
以前はさほど価値的異常としての意味をもたなかったのに
明確に価値的に異常であるとして否定されるということが
起こりうるのではないかと思う。

つまり、少数派であるということが、それ自体は、
価値的には正常でも異常でもないかもしれないのに、
少数派であるというそれだけで、価値的にも異常であるかのように
思われるということがあるように思うのだ。
判断基準がよく分からないとき、
「皆がいいと言っているならきっといいことなんだろう」と
統計的正常の判断をそのまま価値的正常の判断としてしまっているからだろう。

つまり、正常・異常を判断する次元は複数考えられるのであるが
それは明確に使い分けられてはいない。
そのことが、正常・異常の意味を余計に混沌とさせているようなのだが、
ひいては、自分のものの見方も偏らせているように思う。
よって、このこと、すなわち、価値的正常・異常の判断は、
統計的正常・異常の判断によって形成される可能性があるかもしれないということは、
自覚されるべきである。
それは、無意味な正常・異常のラベル付けを抑制してくれるかもしれないし、
さらに、自分がとらわれていることからの解放を促す副効用があるようにも思う。

自分がいいと思っていること、価値を感じていること、
でもそれは本当は、皆がそう思っているからそう思っているだけかも…。
そう思うことは、自分の価値を疑うことにつながるので、
自分を不安にさせてしまうことかもしれない。

だが、自分を苦しめている価値のいくつかからは解放してくれることかもしれない。
そこで求めているものは、本当に価値とされるべきものなのか、
統計的基準の正常に入りたいというだけであって
価値的にどうであるかどうかとはまったく別の話なのではないか、
その観点から見直すと、少し楽になるかもしれない。

それでも、社会で生きていると、統計的正常の呪縛から
解放されることは難しいことがある。
ここから先は、仲間のアイディアの借用であるが、
その場合は、最低限、「多数派を善」とする統計的正常の呪縛から解放されると、
楽になれるかもしれないということを指摘することが出来る。

たとえばプレミア商品などの例。
あれは、「数が少ないから価値がある」とされるものである。
これも、価値的正常・異常という判断が、
統計的正常・異常の判断によって左右されているという点では同様である。
しかしながら、統計的に異常であるということが、価値を形成している点では
逆の現象である。

もともと価値的正常・異常の判断のしようがなかったところに、
統計的正常・異常の判断によって価値的判断がなされるようになることは
日常では少なくない。
つまり、その価値基準自体に大した価値がないことも少なくないのだ。
それに気づくと、統計的正常から自由になれる。
だが、統計的正常は大きな力をもっているように思われるため、
そこから逃れきることは案外難しいかもしれない。
その場合は、もう1つの統計的正常からの解放、
統計的に異常だからこそ価値とされることもある、という発想の転換によって、
やはり私たちは自由になれるようである。

「ゾクッ」の正体

2009-07-16 11:05:03 | 読書日記
先日、ある短編集を読んだ。
小説である。
読後にゾクッとする感じがあった。
この感覚は、幾度か経験したことがあるが、考察してみた事がなかったので、
この感覚の正体は一体なんだろうと考えてみた。

その短編集にちりばめられていたのは
「普通では考えられない」事態である。
しかし、その事態を引き起こすあるいは遂行する登場人物は、
異常な人物としては描かれない。
その人は、ごく冷静に、ごく自然に、
世界においていかなるほころびも生じさせずに、
日常を重ねている。
つまり、一貫して普通の人物として描かれる。

だが最後には、その人物の生きる世界の「普通」が
他の登場人物の生きる「普通」を凌駕する。

つまり、知らないうちに「普通でないもの」が日常に忍び込んでいて、
それが私たちの日常の中でどんどん増殖し、気づけば、
そちらが取って代わっていたという話である。

ここからゾクッとする感じが生まれていた。
その感覚がとても残ってしまった。
何が私をゾクッとさせたのか、説明して、スッキリしたいものである。

1つは、よりどころとしている「普通」という基準が
曖昧になることからくる世界の揺らぎであると考える。

私たちは、何となく「普通」(つまりは正常)という基準を
色々なことに対して有しているのであり、
それを皆で共有して、安定した世界を生きる事が出来ている。
もしも、自分たちの予測や理解を超えた不思議な事柄に出会うと、
「例外」あるいは「異常」というラベルで整理しようとする。

「異常」とは、英語でいうとabnormalである。
abnormalのnormalとは、norm(規格、標準)を語源とした言葉である。
それに、「離れて」「外側の」「反対側の」の意味の接頭辞ab-がついている。
同時に、uncommonもunusualも「異常」である。
これらは、「普通ならばだいたいこれくらい」という事についての基準があって、
それを逸脱しているという意味である。
「異常」あるいは「普通じゃない」といった言葉を用いる時、
私たちは何らかの基準によって、
その不思議な事柄は、自分たちの慣れ親しんだ事柄とは「違う」
ということを共有し、やはり「普通」という基準を維持し続けている。

だが、実際には、「普通」vs「普通じゃない、あるいは異常」の基準は
そんなに厳密ではない。
特に、その境目は非常に曖昧であり、自分が「普通」と思っている世界は
さほど確固とした境界を持っているわけではない。

この事に改めて気付くと、「普通」だと見なしていたものが、
本当に「普通であるかどうか」、実に怪しくなってきて、
安定していた世界が揺らぐのである。


もう1つは、こちらがむしろ大きな要因だと思うのだが、
自分がコントロールの主体であるという
信念が崩れることから来る世界の揺らぎである。
コントロールの主体とは、直接的に支配できるという意味でなくてもいい。
出来事の進展をある程度予測できたり、調整できたりしているという感覚である。
これは誰もが持っていると思う。
それが崩れるのである。
しかも、知らない間にその侵食はじわじわと進んでおり、
気づいたときにはもう取り返しのつかないレベルにまで無力化されており、
主体の剥奪がかなり進んでいたという状況に陥っていたわけである。

幼い頃、ドラえもんで読んだ話が比喩になると思う。
暑い夏のある日。
のび太がいつものごとく宿題や家の手伝いやジャイアンにつき合うための
野球やらを嫌がって、ドラえもんに泣きつく。
そして、ドラえもんは道具を出して、のび太の「影」からのび太の人形を作る。
そしてその「影」はのび太の代わりに宿題や草むしりや野球をやってくれる。
のび太は喜んで影に色んなことをやらせて王様気分になっているのだが、
次第に影がのび太の言うことを聞かなくなり、自分勝手な行動をし始める。
ドラえもんがあわててやってくる。
あの影は、30分(だったかな?)以内に影に戻さないと大変なことになる、と。
もうすでに30分経っていた。
いつしか影は、のび太にはコントロールできなくなっていた。

そして、気づくと、実際ののび太の姿が少し影を帯びており、
このままでは、影と自分との立場が入れ替わることを知らされる。

そういった話であった。
この話を読んだときのいいようのない恐ろしさ。
その類のものである。
いうなれば、「主体性の所在」の揺らぎが、「ゾクッ」とさせていたのだと思う。


私たちは、日常、ごく当たり前に持っている感覚というものがあって、
それが私たちの当たり前の日常を支えている。
当たり前の日常は、ジグソーパズルにたとえることができるかもしれない。
それを構成しているピースはいっぱいあって、
そのうちいくつかはパズルにおさまることができなかったり、
違うところにはまっていたり、裏返しになっていたりと、
おかしなところがあるかもしれない。
だがおそらく、ある程度パズルの形を維持できる程度には、
ある程度以上のピースが然るべきところにおさまっている。
だから、私たちは、その「当たり前の日常」というジグソーパズルを、
いくつかいびつなところがあるにせよ、
細かく検証せずに、その中に住むことが出来ている。
だがふとした時に、そのパズルの中のピースの歪みを見つけ、違和感を抱き、
改めて自分がそのパズルを眺めてみたとする。
すると、そのパズルは、自分が仮定していたものとは全く違う、
全体像を維持できていない混沌としたものであることに気づき、
愕然とするのである。

自分の生きている現実が虚構であったと気づく驚きとはまた違う。
その場合ならば、生きていた世界を失うが、別の世界へ飛躍することが出来る。
それとは違い、世界が絶対的に存在しなかったという驚きであり、
「世界がない世界」を自分が生きるという事を自覚することからくる衝撃だと思う。
世界は揺らぐが、真実を覗き見たような興奮を覚える。

だがそれでもなお、何かしら秩序を持った世界が存在しているように感じ、
そしてその中で自分が主体として生きることができるという感覚を保持しながら
日常を変わらず進めている自分がいる。
何とも理屈を越えたたくましさであり、しぶとさである。
私のどこに、上記の混沌はおさまっていったのだろう。
それともその混沌は、実は驚くべき事ではなく、
すんなりと私の中に取り込まれていったのだろうか。

なんだか、説明しても説明しても、分からないことは尽きず、
結局、スッキリするのは難しいようであった。

ちょっと違うでしょ。。。反省もこめて。

2009-07-12 09:41:34 | 授業日記
ある人の話をネットラジオで聞いていて、
ちょっと違うでしょ。。。と思う事がありました。

話の趣旨は、コミュニケーションにおける非言語情報の
重要性という事でした。
もちろん、それは事実で、私も授業でそれに触れたりします。
先日も、私たちがやりとりにおいて、言語以外の情報を
いかにやりとりしているかという話をしました。
http://blog.goo.ne.jp/rayray-cocco/e/f963856aacd156bd2bc155c12043d623
なので、うん、うん、と首肯したり、
参考事例の勉強したりしながら聞いていたのですが、
そのメッセージは危険じゃないの?と思う事がありました。
まったく間違っているわけではないのですが誤解されそうな。

1つは、オバマ大統領の演説について、
その演説における自信の程度や落ち着き方などが
高く評価され、アメリカ人の支持を得たという話。
それはもっともなのですが、その際、
オバマ氏の原稿はスピーチライターが書いていたことを
他の候補者と比べて特に言及するわけです。
ヒラリー氏やマケイン氏もおそらくスピーチライターが
書いた原稿だったのでしょうが、それについては
その内容のすばらしさに言及するわけです。
それでも、アメリカ人の支持をえなかった、と
話がこう流れていくわけです。

これって、
「ヒラリー氏やマケイン氏はいい原稿を持っていたが
 その表情や自信のなさなどから支持されなかった。
 オバマ氏は人の原稿を読んでいたが
 その伝え方によって支持された。」
とも聞こえかねませんか。
となると、「内容はどうでもいい、提示の仕方だ」と
なりかねませんか。

昨今、特に政治的行為については、
雰囲気だけで行動する、ということが批判されてきています。
このような論調は、内容を軽視した雰囲気重視のコミュニケーションを
助長することにもなりかねないのではないか、と危惧します。

非言語情報の話は、言語情報が全てだと思っているところに
それ以外の情報の重要性を指摘する点で非常に有益です。
実際の対人場面の場合は、言語内容はともかく、表情などから
「察する」といったことが行われ、
そこからはたらきかけがなされ、
言語情報のやりとりへと展開していき、その人についての
重要な理解を得る事ができることがあります。
非言語情報を無視していては、そのような展開は起こりません。
ですがそれは、言語情報を無視していいということではありません。
むしろ、言語情報と非言語情報とのギャップや違和感それ自体も
重要な情報として送られ、私たちをそのコミュニケーションへと
かき立てていると考えられます。
そして多くの場合、その違和感やギャップは、対話によって
言語化がなされるということによって解決されるのではないでしょうか。
(もちろん、絵画や音楽など、別の形態による表現もあるでしょうが
 多くの場合、ということです)
つまり、非言語情報は大事だけれども、
人を理解するという観点から見た時には、
非言語情報だけでは不可能ではないかと考えられるのです。

話をもとに戻すと、自分が意図的に何かを伝えようとする場合でも、
その伝えたい内容があってこそ、非言語情報の演出効果は
最大になるのではないでしょうか。

非言語情報は非常に大事です。
確かにどんなにいい言語情報であっても
伝え方でどう伝わるかが全く異なってきます。
また、言語だけでは伝えきれない内面を吐露するチャンネルにもなっています。
でもそれは、繰り返しになりますが、
言語情報の内容がどうでもいいということではないのです。

非言語情報の重要性の話がこういう方向に展開することが
あるのかとむしろ驚き、
この話を授業で扱う時には次から十分気をつけようと
自戒した次第です。

もう1つ。
第一印象についての話がありました。
第一印象というのは非常に重要です。
非常に限られた情報しか与えられていないのに、
そこから私たちはその人についての色々な仮説を立て
今後のつきあい方の方針を瞬時に判断するからです。

なので、どういう印象を相手に与える事ができるか
もっと考えて日頃から努力しましょうという話でした。

これも確かにその通りなのですが、
重要な観点が抜けています。
第一印象を形成する際、私たちはその相手からのみ
情報を得ているわけではないということです。
私たちはこれまでに出会ってきた色々な他者の情報も付加しながら
その人についての限られた印象から、全体の印象というものを
形成していきます。
つまり、第一印象が悪かったといっても、
それはその印象を与えた本人のみのせいとは限らないのです。

これは、対教師への印象などにおいてよく起こります。
生徒は、新しい先生に出会った時に「値踏み」をします。
それはその先生を理解してのことではなく、
これまでの先生や大人へのイメージが多く付与されての
勝手な値踏みであることが多いです。
教師が対生徒に対して行っていることもあると思います。
それを理解していないと、たとえば悪いイメージを相手に
もたれた場合に、「自分のどこが悪かったんだろう」と
延々落ち込むことになりかねません。
印象についての努力をした人ほど
落ち込んではい上がれなくなるのではないでしょうか。

もちろん、第一印象がよくないと、
その後、その人と会うチャンスさえなくなり、
その印象を覆すことさえできなくなることがあります。
また、第一印象が悪いため、相手がこちらに対して
否定的な態度で接して、こちらも否定的な態度で応じて
結果として、本当に印象の悪い人になってしまうかもしれません。

その話者も、こういうことが言いたかったわけで、
その点は十分理解できます。
なので、第一印象をよいものにする努力をしましょうという
メッセージを否定する気はありません。
ましてや、印象が悪くてもそれは相手の偏見のせいだから
あなたのせいではないのですよ、という気も毛頭ありません。

でも、その印象形成の要因は自分だけにあるわけではない、とことも
同時に知っておく事で、うまくいかなかった場合にも、
ひどく自分を責めて悩んで、不安が募って
結果として否定的なコミュニケーションを展開する、
というスパイラルからは逃れられるのではないかと思うのです。

自分のはたらきかけによってコミュニケーションの過程を
変える事はできるでしょう。
でも、コミュニケーションがどちらか一方によって
操作されているかのように考えるのは、ちょっと違う気がします。
この手の話で怖いのは、「こう努力しましょう、そしたらこうなる」と
こちらの働きかけで結果が変わる事を強調しすぎている点です。
はたらきかけと結果との間には、実に多くの要因が介在しています。

その辺もうまく理解してもらいながら、
それでもはたらきかけていくことの意義を
考えながら問いながら伝えていきたいなあと、
また、自戒した事でした。

アメリカン・ジョークからの徒然

2009-07-07 10:25:03 | 生活日記
数週間前、pod castのプログラムで、
「アメリカン・ジョーク」という番組を見つけまして、
興味本位でダウンロードしました。
 
アメリカン・ジョークというと、ダンディ坂野の「ゲッツ!」のイメージが強く、
どちらかというとその“ゆるさ”に期待していたところが大きかったのですが、
連続して聞いていくと、そのゆるさは期待以上のものがあって、
じわじわと、妙にはまってしまいました。

たとえば、「白髪」
娘「ねえ、ママ、どうしてママの髪の毛には白髪が混じっているの?」
母「あなたがママを悲しませる度に、髪の毛が一本ずつ白くなっていくのよ」
娘「じゃあどうしておばあちゃんの髪の毛はあんなに真っ白なの…」

とか…。

あるいは、「求人広告」
宝石店を営む店主は、張り紙の威力にびっくりしていた。
宝石店主「いやー、スタッフ募集の張り紙って即効性があるんだねぇ。
      先週、うちの警備員がやめてしまったので
      警備員募集って張り紙を出したよ。そしたらすぐ…」
宝石店主「その晩に強盗に入られたよ」

とか…。

この話はどうオチるんだろう?と思いながら聞くとなかなか楽しいのです。
これなんかは予測がつくのではないでしょうか。
A「お前、テスト0点ってひどいじゃないか」
B「テストの日、休んでたんだよ…」
A「お前、テスト休んだのか?」
B「違うよ、隣のヤツが休んだんだよ」

構造はまったく違いますが、
どういうオチが来るのかな、と思って聞いていくパターン、
日本の「謎かけ」に似ていませんか?

「○○とかけて、△△と解く。その心は~~。」というパターンの、あれです。
たとえば、
「“いろはにほへと”とかけて、“花盛り”と解く。
 その心は、“ちりぬるの前”。」などです。
 (↑阿刀田高『ことば遊びの楽しみ』より引用しました)
思わず「うまいっ」と合いの手を入れたくなる感じです。

そういえば、以前、落語家の楽太郎さんが、
「若手芸人が、芸を磨く間もなく消費されてしまうのではないか」と
若手お笑いブームに対する危惧を
新聞のコラムに載せていたことがあります。
そのコラムが謎かけから始まっていました。
「“若手お笑い芸人”とかけて、“美人の幽霊”と解く。
その心は、“消えないでほしい”。」
「うまいっ!!」と思いました。
謎かけとしてもうまいですが、
単なるブーム批判とかではなく、芸人のことを心配している心も
盛り込まれて、コラムの趣旨が集約されている感じがあって
うまいなあと思いました。
さらに、ここで謎かけから始める、というところは、
楽太郎さん、つまりここでのコラムニストの自己紹介も兼ねていますよね。
スマートだなあと思いました。

しかし、日本語の謎かけって、
言葉を巧みに操る能力が要るものが多いですね。
洒落(駄洒落?)がキイになっているものも多いし。
また、先ほどの「いろはに」の謎かけなんかは、
「いろはにほへとちりぬるを」のくだりを知っていないと楽しめません。
楽太郎さんの謎かけも、「若手お笑い芸人」と「美人の幽霊」に共通して
抱く思いということを推測しないと理解できない。
ユーモアや洒落を楽しむって、結構聞き手の能力もいるのかも。

大学時代、ドイツ哲学の先生が授業中にギャグを言っていましたが、
私にはさっぱり何が面白いのか分からなかった。
ギリシャ神話になぞらえたギャグだったんです。
ギリシャ神話を漫画で読破した今なら、そのおもしろみが分かるかな?

でも、お笑いやユーモアは、そんな風に自己評価しながら聞いても
まったく楽しくないと思うので、
これからも、好き勝手に楽しんでいこうと思います。

さて。今日は七夕ですね。
私もここで謎かけをしてみましょう。

「七夕」とかけて「ピノキオ」と解く。

その心は…

「星に願いを

floccinaucinihilipilification

2009-07-02 09:15:30 | トリヴィア
先日、論文を読んでいたら
floccinaucinihilipilification
という語に出会いました。
なんだなんだ!この長ったらしい単語は!?
単語の意味は、「無価値化する」ということらしいですが、
その後に、「この単語は、オックスフォード英語辞典で最も長い」
と書かれてありました。

私は今まで、
supercalifragilisticexpialidocious
が最も長い単語だと思っていました。
メリー・ポピンズの映画に出てくるおまじないの言葉で
いやなことを忘れるために使う呪文です。

ところが、これは、英和辞典には載っていますが
英英辞典には載っていないのですね。
ちゃんとした言葉ではないからでしょう。

広辞苑に
「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ(ず)、
 海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、
 食う寝る処に住む処、
 やぶら小路ぶら小路(藪柑子とも)、
 パイポパイポ、パイポのシューリンガン、
 シューリンガンのグーリンダイ、
 グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
 長久命の長助」
が載っていないのと同じでしょう。
(「寿限無」の説明の中に記載されてはいます。)

さて。
本当にこれが英語辞典に載っている最長の単語なのかな?と思って、
ネットで調べてみましたところ、
長い単語自体は他にも色々あるようでした。
http://www.akatsukinishisu.net/kanji/longword.html

専門用語や造語も含めて、紹介されています。
しかし、専門用語や造語は、普通の英英辞典には載っていません。

それらを除くと、
「教会への国家的援助撤廃に対する偽りの反対」を意味する
pseudoantidisestablishmentarianism (34字)
が最も長い単語のようです。

ですが、これは、
antidisestablishmentarianism に
pseud-(偽の)をつけた派生語であり、
さらにantidisestablishmentarianismは、
disestablishmentarianismに
「反」を意味するanti-という接頭辞がついた単語です。
disestablishmentarianismは
establishmentarian「(イングランド)国教会の」に
「主義」を意味する-ismという接尾辞と
「不、非、無」を意味するdis-という接頭辞がついたものでしょう。

英英辞典には、
disestablishmentarian(21文字)および
establishmentarianism(21文字)は載っていました。

となると、やはり、
floccinaucinihilipilification
が純粋な単語としては一番長いといっていいのでしょう。
これは、ラテン語のflocci, nauci, nihili, pili
(「ほとんど価値のない」を意味する)を語源とし、
「~化する」を意味する-ficationという接尾辞が
ついた言葉のようです。

#英英辞典にはこのことが書いてあったのですが、
 私のもっている語源辞典には、この単語は載っていませんでした。

…あれ?接尾辞つくの?と思って、それを省いた
floccinaucinihilipilify(23文字)をひいてみましたが、
そのような単語は載っていません。
floccinaucinihilipilificationについては、
-ficationも加えたこの29文字で一単語として
認識されるようです。

ちなみに、広辞苑に載っている一番長い日本語は、
リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切り外し)
という単語だそうです。
http://albertus.exblog.jp/6961350/

そういえば、昔、誰か作曲家か何かで
本名がやたらと長い人がいたなあ…なんて思い
記憶をめぐらせています。
モーツァルトだったかな?と思って調べたのですが
彼の本名は言わずと知れた
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
(Wolfgang Amadeus Mozart)
彼は確かに長い名前ももっていますが洗礼名で
ヨハンネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・
テオフィールス・モーツァルト
(Johannes Chrysostomus Wolfgangs Theophilus Mozart)
だそうです。

私の記憶では、確か、本名だったと思うのです。
代々のファミリーネームがやたらと連ねられていた…
本の3行くらいにわたって書かれていた気がします。
誰か分かったら教えてくださいm(_ _)m