今日は3月11日ですね。
あれから6年経ちました。
実は昨年3月6日,福島の小野原先生・渡辺先生の主宰する哲学カフェに呼ばれて
はじめて,福島の方々と震災について公に語り合う機会を得ました。
当時,ブログには書けませんでしたが,1年経ったので書きます。
震災当時,私はすでに兵庫に移っており,
「福島にいた私」だけど「福島にいない私」という事実と
そこから突きつけられる隔たりに,
言いようのない無力感を感じていたのです。
罪悪感もすごかったですが,今思えば,それは自分が楽になりたかっただけかもしれません…。
そんな最中に,震災(もともとのコンセプトは阪神淡路大震災)関連で
原稿を書かねばならず,
誰の目にも触れないことを願って(?編者の先生には失礼…)書いた原稿が
主宰者の目に止まってしまって,拙稿をたたき台に,
震災を「色んな立場」から振り返る,という時間がもたれました。
当時のこと,その後のこと,加えて,昨年のその日のことも,
「こうでした」と,整理した形では今なお書けないのですが
昨年,福島の人たちと語る場をもらえたという,そのことに,
5年経ったんだな,ということをかみしめていました。
でも,そこでの自分の存在の仕方は(もちろんそれ以前も含め),
やはり色々疑問です…。
昨日あたりから何を書こうか悩んでいたときに
震災当時,大変お世話になったほぼ日刊イトイ新聞もウロウロしていたところ,
谷川俊太郎さんの「生きる」に出会いました。
ほぼ日刊イトイ新聞-担当編集者は知っている
言い訳のようですが,これが生きるということなのだと
迷いをそのまま受け止めようと思います。
あれから6年経ちました。
実は昨年3月6日,福島の小野原先生・渡辺先生の主宰する哲学カフェに呼ばれて
はじめて,福島の方々と震災について公に語り合う機会を得ました。
当時,ブログには書けませんでしたが,1年経ったので書きます。
震災当時,私はすでに兵庫に移っており,
「福島にいた私」だけど「福島にいない私」という事実と
そこから突きつけられる隔たりに,
言いようのない無力感を感じていたのです。
罪悪感もすごかったですが,今思えば,それは自分が楽になりたかっただけかもしれません…。
そんな最中に,震災(もともとのコンセプトは阪神淡路大震災)関連で
原稿を書かねばならず,
誰の目にも触れないことを願って(?編者の先生には失礼…)書いた原稿が
主宰者の目に止まってしまって,拙稿をたたき台に,
震災を「色んな立場」から振り返る,という時間がもたれました。
当時のこと,その後のこと,加えて,昨年のその日のことも,
「こうでした」と,整理した形では今なお書けないのですが
昨年,福島の人たちと語る場をもらえたという,そのことに,
5年経ったんだな,ということをかみしめていました。
でも,そこでの自分の存在の仕方は(もちろんそれ以前も含め),
やはり色々疑問です…。
昨日あたりから何を書こうか悩んでいたときに
震災当時,大変お世話になったほぼ日刊イトイ新聞もウロウロしていたところ,
谷川俊太郎さんの「生きる」に出会いました。
ほぼ日刊イトイ新聞-担当編集者は知っている
言い訳のようですが,これが生きるということなのだと
迷いをそのまま受け止めようと思います。