中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

祝・お百度達成&休筆宣言

2010-07-26 08:33:44 | 生活日記
昨日、「ゴールが見えることによるマイナス」について書きましたが、
実は、昨日、つまり、「100日」ということを
ゴールに決めていました。
それを定めた経緯について。

3ヶ月記念というのは記念というほどではありません。
3という数字はなんとなく記念にするにはいいような気がしますが、
「3日坊主」ならぬ「3ヶ月坊主」のような言葉が頭に浮かんでしまいます。

そもそもブログ更新のきっかけはというと。
仕事で文章を書くことが多い私ですから、
仕事の原稿も、ブログを書く勢いでそのまますらすら書けていれば…
という思いも当然あるわけで。
お百度参りをしていることにしようと思い立ち、
100日目を待っていたのです。

*別にブログを書きながら何かお参りをしていたわけではありません。
 「お百度参り」というのは、単なる言葉のあやです。

そして昨日、無事に、100日目を迎えました!
お百度参り達成です!
今後はきっと原稿がガンガン書けることでしょう。
とはいえ、その効果は、お祈りの力によるものではありません。
言うまでもなく、ガンガンブログを書いてきたからです。
「1000本ノック」の超・短縮版を成し遂げたのだと、
勝手に解釈しようと思っています。

さて、これを機に、弟子と同様、
毎日更新に関しては、休筆宣言をしようと思います。
趣旨も彼に乗っかることにします。

「できるかぎり書き続けていこうとはあいかわらず思っていますが、
 そうできない場合にはこれからは大手を振って休もうと思うのです。
 というわけで 「断筆宣言」 ではなく 「休筆宣言」 です。
 それも今日からしばらく休みますよという意味の 「休筆宣言」 ではなく、
 今後は更新をお休みする日があるかもしれませんよという意味での
「休筆宣言」 です。」

というわけで、このブログも休筆宣言をするほどのものではないのですが、
「毎日書きます」と公言したのにいつの間にやらそれが崩れているというのは
なんとなく気持ちが収まらないので、
とりあえず、その公言の撤回も兼ねて、
また、今後の自分の決意を込めて、
休筆宣言させていただくことにしました。

今後の自分の決意は、言うまでもなく、「原稿ガンガン書く!」です。
何かお仕事が陽の目を見た際にはまたこちらでお知らせしますね。
もちろん、ブログを書くことも、それにブラスに働いていることもありますので
書きたいことが出てきたら自由に書いていこうと思います。
でも、「書かねばならない」とは思わないようにやっていこうと思います。

*ちなみに、「書きたいな」と「書かねばならない」とでは
 その仕事が心理的に与える影響はかなり異なってきます。
 言うまでもなく、「書きたいな」の方がgoodです。

では、暑さ厳しき折ですが、こう書いてきたら心も燃えてきました。
皆さん、暑さに負けずに、毎日元気にがんばっていきましょう!

ゴールが見えることによるマイナス効果

2010-07-25 08:04:29 | 生き方
今年度4月17日から、このブログを毎日更新してきました。
ここに書いたように、まずはとにかく文章を書き続けようと
思ったからです。

とはいえ、毎日更新というのは、正直かなり大変でした。
しかし、宣言した手前、休むとなんだか…みたいな感じで
自分に縛りがかかってしまい、
アップの時間をごまかしたりしながら、
なんとか続けてきたのでした。
この辺、妙にまじめですね。

私のブログの弟子小野原雅夫さんは1年間以上毎日更新していて
それも「やればきっとできる!」と思わせてくれていたのでした。

ところが、彼が祝・1周年記念日&休筆宣言という記事を書いているのに気づきました。
それから、すでに毎日更新が苦しくなっていた私は
「私も何かのきっかけに休筆宣言をしよう」と
考えるようになってしまいました。

彼に倣って1年間ということに決めてもいいのですが、
それをやっていける自信がありません。
つまり、自分がそれをやれるという「効力期待」が持てないのです。

加えて、意欲の面でも、如実な変化が現れてきてしまいました。
「いつ終わろうか」と考えることが、
明らかにマイナスの作用を及ぼすようになってきたのです。

これを「ゴールが見えることによるマイナス効果」と呼ぼうと思います。

それまで「終わり」を考えることなく
「とにかくしんどいけど続けよう」と思っていたわけですが、
「終わり」を考え始めると、それは、「書かない」方向への思考ですから
「書く」方向への思考と矛盾してきます。

実際、「もう少しで終わりだ」と思うこと、
すなわちゴールが見えることは、
パフォーマンスにマイナスに働くことが最近指摘されています。
「ゴール」は、脳にとって「否定語」なのだそうです。

この観点は、北京オリンピックの水泳選手への指導にも
取り入れられたそうです。

あの北島康介選手も、最後の50mターンを切った後、
つまり、200mならば、150mから200mのところで
どうしても失速してしまっていたのだそうです。

これは、ゴールが見えることによって、
脳内で、活動停止への指令が出されるためだと考えられるそうです。
その脳の働きのため、一流選手であっても、ゴールを意識したら
普通の人程度のパフォーマンスレベルに落ちてしまうと考えられるのだと。

なので、水泳チームが行ったことは、
「ゴールを先まで伸ばすこと」
北島選手に関して言えば、200m泳ぎ切ることではなく、
泳ぎ切って、タッチして、電光掲示板のタイムを見るところまでを
ゴールとしたのだそうです。
すると、最後の50mでも失速せずに泳ぎ切ることができたのだそうです。

というわけで、まったくレベルは異なるのですが、
このブログの毎日更新もいつか終わると思うと
それまでにやっていた「毎日書く」ということが
なんだかとてつもなく大変に思えてきました。
もちろん、上記・水泳の例になぞらえていいのかどうかについては、
疑問が大いにあります。

結構書き続けてきたので、
ネタ探しに困るようになったということもあるでしょう。
前にも増して、本当に忙しくなってきたので、書く時間をとることが
大変になってきたというのもあるでしょう。
それらが大きい要因になっているとは思うのですが、
それでも、ゴールを意識した瞬間、それらだけがあった状態よりも
「それまでのように書けない」状態が増していったのも事実なのです。


やや拡大解釈の感を免れ得ませんが、
「志」といったようなものにつながる話かもしれません。
それが低下すると、それ以上に行動は低下するように思います。

以前、大河ドラマの「毛利元就」で、今でもはっきりと覚えている
印象深いシーンがありました。

松寿丸(毛利元就の幼名)と杉(母親代わりの女性)が
厳島神社に出向きます。
そこで、松寿丸は何やら一心に願いを託しています。

本殿を出た時、杉は言います。
「私は、『松寿丸様が一国の主になれますように』とお願いいたしました」
松寿丸は言います。
「杉殿。『天下の主に』と考えて初めて、やっと、
 一国の主になれるものじゃ。
 始めから、一国の主になろうと考えておっては何にもなれぬ。
 何にも、なれぬ。」

実にいいシーンです。
今書いていても感動がよみがえってきました。

これは真実だと言えるでしょう。
これが真か偽か、また、いかなる場合に特に真とされるかなどについて、
今後、検討していきたいものです。

話を元に戻すと、そのように、
「とにかく(いつまでと期限を決めずに)毎日書く」と
思っていれば、よかったのかもしれません。

とはいえ、志はもっと別のところで高く抱いていますので、
ブログについては現在のこの状況程度で十分でしょう。


元就の話を書きたかったので、志の話まで広げてしまいましたが、
「ゴールが見えることによるマイナス効果」としては、
やはりちょっと範囲を超えるもののような気がしてきました。

いずれにしても、ゴールを意識することによって
パフォーマンスがさらに低下してしまったのだというお話でした。


とはいえ。

これはレースとは異なり、日課のようなものです。
今まで言っていたことと矛盾するようですが、
その日課が苦しい場合、それが「いつか終わる」と
ゴールを意識することで、
なんとかそれまでやり遂げられるということもあります。
これは「時間的展望」と呼ばれるものです。

人は何かの苦しい経験をしている際、
それが永遠に続くものだと思うととても耐えられないが、
しかしそれに終わりがあると思うことで
現在を耐える力になるというものです。

・・・そんなに苦しかったのか?

というわけで、
ゴールを意識したことでパフォーマンスは低下したけれど、
低下したパフォーマンスを続けるという苦しみには、
ゴールを意識することで何とか耐えることができたのでした。

そして、めでたく100日目を迎えることが出来たのでした。

生まれ星座と性格の関係

2010-07-24 23:59:59 | 心理学こぼれ話
女性雑誌には大抵、星占いが載っています。
週刊誌や月刊誌には、今後の運勢などが載っているわけですが、
星占いの本には、「その人の基本的性格」というものが
載っています。

星占い、つまり占星術とは、生まれた時の惑星の位置が、
その人の性格や運命に神秘的な影響をもたらすと考えるものです。

昔からの占星術の言い伝えによると、大まかには、
十二星座のうち、
牡羊座、双子座、獅子座、天秤座、射手座、水瓶座は外向的、
残りの牡牛座、蟹座、乙女座、蠍座、山羊座、魚座は内向的、
また、「土」の星座(牡牛座、乙女座、山羊座)の人は、
情緒が安定して実際的であり、
「水」の星座(蟹座、蠍座、魚座)の人は、
神経症の傾向が強いとされるそうです。

この「外向-内向」および「情緒安定-神経質傾向」という分類は、
イギリスの性格心理学者・アイゼンクが膨大なデータをもとに因子分析によって見だした
性格の基本的因子と合致するものです。

「外向-内向」の因子は、個人の基本的な方向性が
自分自身に向いているか外の世界に向いているかの程度を表すもので、
「神経症傾向(不安定性-安定性)」は、
情緒の安定(不安定)に関わるものです。

占星術の言い伝えが本当ならば、アイゼンクの性格検査への回答は、
星座ごとに異なるものになるでしょう。

実際にそういう研究をアイゼンクはしているそうです。

アイゼンクは、イギリスで名高い占星学者のシェフ・メイヨーに協力を頼み、
占星術の学校に通う生徒やそこを訪れる相談者などについて、
2000人以上の人々の、アイゼンク性格検査と生年月日のデータをもらい、
両者の関連を検討したのだそうです。

結果はどうなったと思いますか…?

占星術の言い伝え通りだったのだそうです。

つまり、外向的な星座の人は外向性の数値が高く、
水の星座の人は、土の星座の人よりも神経症の傾向が強かったのだそうです。

占星術の雑誌では、「ことによると、今世紀最大の占星学の進歩か?」と
大々的に取り上げられたそうです。

しかし。

それをそのまま結論とするのは早急です。

この調査の協力者たちは、占星術の学校に通う生徒や相談者です。
おそらく彼らは、
自分が星占いでどういう性格の持ち主と言われているか知っていたはずで、
しかも、それを信じている人たちだろうと推測されます。

となると、この結果は、生まれたときの惑星の配置によるものではなく、
協力者が自分の星座の性格をあらかじめ知っていたためかもしれません。

アイゼンクはさらに2回、調査をしました。

まず、星座による性格の違いをあまり聞いたことのない
子ども1000人を対象にしました。
すると、結果は大きく異なり、星占いで言われている特徴は出ませんでした。
外向性や神経症的傾向のレベルは、
生まれたときの天体の配置とはまったく関係がなかったのです。

さらに、大人を対象として「生年月日と性格の調査」を行い、
その際、占星術の知識がどれぐらいあるかを考慮して分析しました。
すると、星座が性格に関係あると考えている人は、
占星術にあるとおりの特徴を示し、
占星術について何も知らない人には
そのような特徴は表れなかったのだそうです。

ここから、
「生まれたときの惑星の位置が、
その人の性格に神秘的な影響を及ぼすことはなく、
 自分の星座の性格をよく知っている人だけが、
占星術者が言うとおりの性格になる」
と結論することができるでしょう。

つまり、
「人は自分かこうなるはずだと思うとおりの人間になる」わけですね。
これは、占星術が当たる・当たらないという結果を越えた、
興味深い結果です。

私の研究でも、「こうありたい」と強く思うことが、
その方向への自己の変化を促すと結論されています。

もちろん、「今の自分」を「こうなるはずだと思っていたイメージ」で
100%説明できるかというと、そんなことはありません。
色々な要因が絡んでいますし、要因をいくらとりあげても
説明しきれないところもおそらく残るでしょう。

しかし、幾ばくかの大きな影響を与える要因の1つにはなるでしょう。
私は「自己形成過程」に興味をもって研究していますので、
人が、日常の中で自分についての情報を
どんなところから集めようとしているのか、
そのリソースの個人差にも興味をもっているところです。

血液型と性格の関係

2010-07-23 12:06:05 | 研究日記
昨日、一昨日に関して、まとめのような記事です。

以前、中部大学の小塩真司さん『あなたとわたしはどう違う?』という本を書きました。

書評にもあるように、
それぞれの章に、Qコーナーを設け、巻末に、その答えの1つを示しています。

小塩さんの担当した部分に、
「血液型とパーソナリティについて考える」という章がありました。

そこでは、それらが関係あるかないかについてではなく、
なぜ、「それらを関係があると考えてしまうのか」ということをとりあげ、
その要因としての人間の思考のパターンについて説明されています。
この辺りは、以前書いた、クリティカル・シンキングの問題に
関わるところです。

そしてその章末のQに、こんなのがとりあげられました。

「私はB型ですが、たかが血液型を大まじめに信じている人がいるのでしょうか。
 私は会ったことがありません。」


それに対する答えの1つとして、小塩さんが出しているのは、以下。

「あなたも「個人的な経験のみを信じる」という思考に陥っています。
 それは、「私には当てはまるから信じる」という思考と同じです。
 「血液型と性格には絶対に関係がある」と頭から信じ込むことも、
 「血液型と性格の関係なんてない」と頭から否定してしまうことも、
 十分に考えていないという点では同じ事なのです。」


学生達は、研究を批判的に読むということが難しいと言います。
書かれてある研究を正しいものだと信じてしまうからです。
でもそれじゃダメだ、と思った学生は、一生懸命批判的に読もうとして、
その研究の「これがダメ」「あれがダメ」と、
一生懸命その研究を否定しようと頑張ってしまうことがあります。

でも批判的に読むっていうのは、否定とは違うんですよね。
たとえば上記のような点を、
その違いを考える1つのポイントとして
あげることができるかもしれません。
だからこそ、批判的に読むのは難しいのだと思います。
「反論したい!」という気持ちに凌駕されてしまったら、
頭から否定してかかってその論文を読むという姿勢に
陥ってしまうんですよねえ…

マーガレット・ミード

2010-07-22 11:59:48 | 研究日記
昨日の記事の続編のような記事になりますが…

先月、授業で文化人類学者のマーガレット・ミードによる
文化人類学初期の研究、
『Sex and the Temperament』での報告を紹介しました。

日本とは全く異なる男性性・女性性の社会があるという内容であり、
Arapesh族、Mundugumor族、Tchambuli族における
男性・女性の姿が報告されています。
かなり有名な研究で、「男性らしさ」「女性らしさ」が
普遍的なものではないことを示す事例として
心理学においてもよくとりあげられるものです。

ところが、学生からのコメントで、
この研究に対する否定的見解があるということを知りました。

確かにミードの研究は1935年とかなり古いので、
その後に様々な議論があってもおかしくないですが、
文化人類学での議論の展開にはこれまでまったく無関心でいました。

それは大変!!ということで、
関連図書である、
『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』を読んでみました。

確かに、ミードが出した見解について、
いくつかの反論やその反論の根拠などが書かれており、
「なぜミードがそのような解釈をしてしまったのか?」というところなどは
読んでいてとても面白かったです。

その反論の要点は、
Tchambuli族に関していえば、
「男性を女性が支配している」という
男性・女性の社会的地位についての解釈です。
また、男性はおとなしく臆病とされているが
「けっこう暴力沙汰はあった」など、
性別とパーソナリティとの関連についての
否定的見解も呈示されていました。
いずれも、論拠がしっかりしており、納得できるものでした。

とはいえ、ミードの研究がすべて間違いというのも言い過ぎでしょう。
男性と女性の姿が日本とは異なる姿を呈していたという観察自体は
否定されるものではないのではないように思いました。

そこから、男性の仕事・女性の仕事は、
どうやら固定的で決まったものではなく
それぞれの文化によって様々だということは
やはり示唆されるように思います。

何かの研究知見を否定する場合であっても、
その研究の何がどのように否定されるのか、
文脈や議論の焦点を見極めながら読んでいく必要がありますね。
(データ自体が偽物だったとか「やらせ」だったとかいう場合は
 もう論外ですが)

オオカミに育てられた少女

2010-07-21 23:40:19 | 研究日記
「人間が人間として育つためには人間との関わりが不可欠である」
ということを示す好例として、
しばしば「オオカミに育てられた少女」の話がとりあげられます。

 インドの森の奥で、1歳と8歳の少女が発見され、
 牧師によって人間として育て直られた。
 下の子は病気で早くに死んでしまったが、
 上の子はその後8年間を牧師の家で過ごす。
 その歳月の中で、彼女の精神や人間性はずいぶん成長したが
 その進歩は非常にゆっくりでしかなかったこと、
 死の間際、推定16才ほどであったその子は、
 人間の成長としては、3才ほどの幼児でしかなかったことが報告されている。

この話に関しては、写真をはじめ、
実に詳細な記録が残っていることでも有名です。

ですがだいぶ昔、授業でこの話をしたら、こんなコメントをもらいました。

 狼に育てられた少女は,あれはウソやと思います。
 母乳って赤ちゃんにあげる一番大事な栄養だと思います!
 狼には,狼の赤ちゃんを育てる為に大切な栄養があるのが母乳だから,
 狼が人間の赤ん坊を育てられる訳がないと思うから。


言われてみれば確かに。
それに人間の赤ちゃんの授乳シーンは、たいがい、
養育者に抱きかかえられているものです。
ウマやシカのように、自力で乳を飲んでいるわけではありません。

また、身近なところに「あれは嘘だ!」と主張する先生もおられました。
その方は、色々な根拠を指摘する前に
「人間の赤ちゃんが森におきざりにされているの見たら、
 ふつう、オオカミはそれを食べるぞ。」
と主張されていました。

いちいちごもっともな気がします。
でもこんなに広まっているのはなぜだろう。
そこから色々調べてみました。

当時買ったのは戸川幸夫著『どうぶつ白話』(毎日新聞社)というものです。
まだネットがそんなに普及していなかった頃で、
たまたまその本に上記コメントに関連する話が載っていることを
知ったからです。

いまは、Wikipediaですぐ出てくるんですね…
それとも、オオカミに育てられた少女についての信憑性の議論が
かなり浸透しているということなのでしょうか。

現在、「オオカミに育てられた」という点については
かなり否定的な見解が出されているようです。
上記本でもやんわりと、否定される可能性が指摘されていました。

その話を嘘だという人は、
著者である牧師のでっちあげだ、詐欺だ、と主張しているようです。
写真もねつ造だとか、記録の時期が合わないとか。
そこでのコンセンサスは、その子たちはオオカミに育てられたのではなく、
親に見放されて野生に捨てられた精神薄弱か自閉症の子どもだったと
考える方が現実的だということだそうです。

ただ、牧師にはそう思えたという解釈がなりたつ可能性はあります。
こちらには
牧師の詳細な記録の紹介と共に、支持する見解が提示されています。

そのように、その信憑性の点で大きく揺らいでいるこの話ですが、
オオカミに育てられていようがいまいが、
それまでに人間らしい養育を受けていなかったという推測は
支持されてもよいのではないかと思います。
少なくとも、森の中に捨てられていたわけですから。

つまり、もしもオオカミに育てられたのでなくても、
子どもにとっては、他者との関わりの中に存在していることそれ自体が
非常に意味のあることなんだということには
やはり変わりなく指摘できるのではないかと考えます。

できる子・できない子

2010-07-20 23:59:59 | 自己理解
いつものピアノの先生の話。

昔、ある女の子がお母さんに連れられてやってきた。
その子の2つ上のお兄ちゃんがすでにピアノを習っていて、
いつもその子はお母さんについてきていた。
その子が自分もやりたいと言っているし、
3歳になったので、始めさせたいとのことだった。

ピアノの前に座らせる。
楽しそうに鍵盤を叩く。
だが、いざ、教本になるとまったく弾けない。
最初の曲はきらきら星。
ドのところに先生が指を置く。
だが、どうしてもソにいかないのだそうだ。
鍵盤を叩くが弾けない。そんな時間が延々続く。

お母さんはこう言った。
「この子は能力が悪いんじゃないだろうか。ピアノは無理かもしれない。」
お兄ちゃんは上手に弾けていたのにこの子はどうもうまくできない。
日常の色々な出来事が、この子はお兄ちゃんと比べてうまくやれていない。
無理してさせるのもかわいそうなのではないか。お母さんはそう考えた。

先生は言った。
「そんなことはないと思う。私にはそうは思えない。
 ちょっと待ってみよう。」

それからおよそ2ヶ月間の間、
先生はその女の子と歌ったり踊ったりして過ごした。
ただただ、そのような時間を過ごした。

そしてある日、ピアノの前に座らせてみた。
すると、きらきら星が弾けた。
そして次の曲、次の曲・・・と驚くような早さで
その子は教本を進めていった。

その先生は言う。
あのときは、「弾く」というところまで発達していなかったんだろうね、と。
能力があるないではなく、
その能力が出せるところまで発達していなかったんだと。

この子の場合、先生が待ったのはたった2ヶ月。
親は、でも、その2ヶ月が待てずに、結論を出そうとしていた。

先生は待ってくれたんだなあ。

私は全然覚えていませんが、
これが、私とピアノの先生との出会いのお話だそうです。

出るクイ採用

2010-07-19 23:59:59 | 生き方
過日、ミネルヴァ書房の雑誌『発達』123号を読みました。
その号の特集は、

「障害」とは何か:日常の文脈から「障害」をとらえ直す

ということになっており
奈良女子大学を卒業された山本智子さんが
精力的に編集・執筆をされていました。
特集のタイトル通り、「障害」って何だろう
自分はそれをどうとらえ、知らないうちにどのようなものと
見なしているんだろう、と改めて考えさせてくれるものでした。

その中に、現在奈良女子大学で学んでおられる、
小学校教諭の福村もえこさんという方の
「子どもたちから教えてもらったこと:小学校の現場から」
という文章がありました。
そこでは、障害をもつ子どもとの関わりについての考察が
私が日頃から関心をもっている青年期の自己形成にも
関わる話題として展開されていました。

彼女によると、2010年4月5日の朝日新聞に、
企業が学生を採用する際に重視するポイントが書かれていたそうです。

1位「コミュニケーション能力」
2位「協調性」
3位「主体性」

福村さんは、
「協調性と主体性というのが並んでいるのは不思議な気がします」
としたうえで、ここでいうコミュニケーション能力という言葉も、
「誰とでもうまくやっていける力があり、
 周りに十分配慮した言動をとることができ、
 必要に応じて求められたときにだけ自分の意見を言える人」

として解釈されるのではないかと意見を述べています。

そして、その記事の後半には、大手企業が「出るクイ採用」という
「別枠」を設けたことが書かれていたのだそうです。
その理由は
「優秀でまじめな人材が増え、とがった人材が減った。
 これまでの手法では採用しにくかった、挑戦心や個性豊かな人材を確保したい」
ということだそうです。

まあ、いわんとするところは分からないでもないのですが、
福村さんはこれについて、
(「これまでの手法」は見直さないのでしょうか?)と
ツッコミを入れた上で、

 これは、会社を運営管理する上で、
 無難で扱いやすい「優秀でまじめ」な人をたくさん集めておき、
 必要なアイデアや発想を提供してくれる人は、
 必要だけれど多くいると会社がまとまらない、
 トラブルの元になるので少しだけ集めるという考えなのでしょうか。
 「出るクイ採用」は10人の枠とあります。


と意見を述べ、このような発想は学校現場でも見られ、
「扱いやすい優秀でまじめな子を育てようとしていないか、
 それは何のため、誰のためなのか、よく考えてみる必要があるように思います。」
とその節は結ばれていました。

“出るクイ採用”
わざわざそれを別枠として設けた時点で、
そういう人材は基本的には採らないことを明言しているようです。

個性的であることを求めながらも、
でもその個性の表現は幾重もの条件つきであり、
それが理解されない限りは許されないというのは、
非常にダブルバインドな状態に相手を置くことになるのではないでしょうか。
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私はいつも危惧しています。

平和な町

2010-07-18 23:59:59 | 生活日記
関西地区でJR以外の電車に乗る際には、
「スルッとKANSAI」というプリペイドカードを使うことが出来ます。
このカード、残額が運賃に満たない場合は
新しいカードを一緒に改札に入れることができるため、
残額が1000円を切ったら、私は乗り越しにそなえて
新しいカードを買うようにしています。

今は、「PiTaPa」というICカードを使う人も増えていますが、
私はずっと「スルッとKANSAI」をせっせと使っています。

しかし、PiTaPaが普及するにつれて、
「スルッとKANSAI」を回収する小箱を置いてある駅が
以前と比べて少なくなってしまいました。
そのため、使用済みのカードをいつまでもカードケースに
入れておくということが最近は増えています。
なので、「使用済みカード入れ」を偶然見つけることができたらその時に、
やっと、使用済みカードを手放すことができるという状況になっているのです。

ある日のこと。
私は5000円分の「スルッとKANSAI」カードを買いました。
上記にあるように、現在のカードの残額が不足した時のための
ストックです。

電車を乗り換えて別の私鉄の駅に着いた際、
「使用済みカード入れ」があることに気づきました。
使用済みカードはカードケースに入っていたので、
「ようやく見つけた」とばかりに、それを回収箱に入れました。

そして電車に乗って目的地の駅に着いた時、
気づいたのです。

ストックのカードが…ない!

代わりに、使用済みのカードがカードケースにいまだ
存在しているではありませんか。

どういうこと!?と考えてみるのですが、答えは1つしか浮かびません。

きっと、未使用のカードの方を、回収箱に入れちゃったんだ…
アホです

問題はどこの駅だったかということです。
その日はいくつかの電車を乗り継いでいたので、
記憶をたどり、心もとなくなってきます。
ようやくそれが、最後に乗った駅であることに思い至ります。
しかし、思いだしたとはいえ、
そんな誰もが手を伸ばせるところにポイと置いてきたもの、
もうすでに誰かに取られてしまっているだろうと思われます。

半ばあきらめ気味で、むしろ気が済むからという理由で
元の駅に引き返してみました。
やはり、入れた場所にもうカードはありませんでした。

もう無理ですね
仕方ないなあ…と思いながら、あきらめるための最後のステップとして、
落とし物で届けられていないか、駅員さんに尋ねてみました。

すると、「どうかなあ…」と言いながら、
ご自身が回収された使用済みカードの束を出してきてくれて
「どんな柄?」とか聞き、私の目の前でカードをめくっていかれます。
私は説明しながら、カードを見ていると…

あったありました

カードの金額や買ったところとかを確認された後、
無事、そのカードをもらうことができました

こんなアホな失敗のために手を煩わせてしまって申し訳なく、
「すみませんすみません」と言っていると、
駅員さん、頭をかき、にこにこしながら、
「ごめんねー、確認しないまま回収しちゃってたからー」
なんて言ってくださるではないですか
「いえ、私が間違ってしまって。すみません。ありがとうございます」
「ごめんねー」
「いえ、本当にありがとうございました」
とやりとりをして、その駅を後にしたのでした。

カードが戻ってきただけでも、平和なところだ…と思ったのですが、
その駅員さんの態度、いやー、実に平和を作っているなあと思いました。
こっちの単なる間違いに、手を煩わせてしまったにもかかわらず、
にこにこしながら対応してくれて
「ごめんねー」とその一部を自分のこととして引き受けてくれて、
こっちの感謝は大きくなる一方です。

平和な駅に乾杯

かびるんるんの襲来

2010-07-17 23:12:45 | 生活日記
先日、
家の窓をふさがれた話
を書きましたが、
あれ以降も、外壁塗り替えのための足場はそのままで
いつ人が家のベランダに入ってもおかしくない状態になっていたので
結局部屋の窓をおおっぴらに開けることはできないままでした。
自分の家が、金属棒に囲まれているのは
格子を張り巡らされたようで、やはり気が滅入るものです。

数日前にようやく、すべての足場が撤去されました。
昨日・今日は、いい天気でした。
ひさしぶりに窓全体から青空を見ることができて幸せでした。

ところが、梅雨の時期に窓を開けることが出来なかった弊害は大きく、
我が家の畳の一部には、なんと、カビが発生してしまっていました。

これは…

かびるんるん
しわざです。
アンパンマンもかびるんるんは苦手としているようです。
カレーパンマンのカレー攻撃に弱いそうなので、
私も今日はカレーパンマン気取りで
かびるんるんと戦っていました。

退散してくれたと思っていますが…

再びかびるんるんに襲来されないように、これからも気をつけようと思います。

心理学のイメージ

2010-07-16 20:31:14 | 心理学こぼれ話
先日、だいぶ以前の授業ファイルを見ていたら、
当時の授業に関してもらった多くの素朴な質問に出会いました。

その中で、こんなコメントがありました。
これは、授業ガイダンスをした際にもらったコメントです。

 心理学は,人の心を読むという感じのイメージがあるので興味があります。

確かにこういうことを思う人は多いように思います。
たぶん、ネットでも「心理テスト」とかが沢山あって、
「あなたはこんなタイプです!」とか、
「あなたの心にはこういう部分が隠されています!」とか書かれています。

以前、「それいけ!ココロジー」という番組があり、
心理学というものが何か分からない私も、
心理学っていうのは、心を「あてる」ものなんだと素朴に思ったものです。

「心理学をやっている」というと、
「じゃあ今私が何考えてるか分かる?」と言われることがあります。
まあ、この質問には答えることができるでしょう。
「「この人は、私の考えていることを当てられるだろうか?」と考えている」が
答えでしょうから。
しかしそう答えられるのは、私が心理学者だからではなく、
相手の言ったことをちゃんと聴いているからです。

心理学に対するこのような反応は、洋の東西問わず見られるようです。
あるアメリカの心理学のテキストには、次のように書いてあるそうです。
(参考文献『心理学を学ぼう』ナカニシヤ出版, p.7)

「私は心理学者です」と答えると、相手はたいてい次の反応のうちどれか1つをする。

(1)あわてふためいて急いで弁解し、姿を隠してしまう。
(2)誰かを連れてきて「この人の精神分析をしてくれませんか」と頼む。
(3)「あなたが私を正しく見抜けるかどうか賭けましょう、どうです?」と
 落ち着きをなくして言う。

またその本には、心理学者が「心を読み取ることはできない」と言っても
多分信じてもらえないのだ、とも書かれているそうです。

うーん、どうして分かってもらえないんだろう…?

そういう、心の動きについて、わからないなあと思いながら、
もしかしたらこうかもしれない、ああかもしれない、と、
仮説を立てて、いや、こうでもない、ああでもないと、
あれこれ考えていくのが心理学なのです。

十七歳の地図

2010-07-15 21:55:06 | 自己理解
以前、「D5の夜」なんていうふざけた記事を書きました。
あれは、尾崎豊の「15の夜」の替え歌でした。

そんな私ですが、ここのところ、真剣に、
尾崎豊のデビューアルバム
『十七歳の地図』を聞き続けています。
1985年ものです。今さらです。
当時、熱烈なファンが周りにいたため当時も耳にしてはいましたが、
こんなに聞き続けているのは初めてかもしれません。

当時の私は、尾崎豊について、「なんだかすごいなー」と思うものの、
「男の世界」として理解していました。
「盗んだバイクで走り出す」とか「窓ガラス壊してまわる」なんて
「男の領域」の気がしていたのです。
なので支持はするけど共感はできない、という感想をもってました。
また、声と歌い方も、なんとなく乱暴な感じがしていました。

ということで、曲はよく知っていたけど、
進んで聴くことはあまりありませんでした。

しかし。
何か特定の音楽を聴きたくて仕方がないというときは
心の何かがそれを求めているのでしょうか。
最近、妙に、尾崎豊が聴きたくなって、ふと聴いてみたら
ぴったりと心にはまって入ってきました。
で、1ヶ月ほど聞き続けているわけです。

中でも、表題作である「十七歳の地図」は、
歌詞を聞いてて涙が出てきてしまいます。

たとえばこんな歌詞です。

 街角では少女が自分を売りながら あぶく銭のために何でもやってるけど
 夢を失い 愛をもて遊ぶ あの子忘れちまった
 心をいつでも輝かしていなくちゃならないってことを


「心をいつでも輝かしていなくちゃならない」
…なんてまっすぐな歌詞なんでしょう。
尾崎豊については大人への反抗ということがクローズアップされがちですが、
こんな心のうちも歌っていたんですね。

こんな気持ちをまっすぐ言葉にできるのってすごい!
と思うのは、
私が幾分(多分に?)やさぐれた心になってしまったからでしょう。
中学生の頃はともかく、高校生の頃は、やっぱり、
自分がどういう人間であるべきか、どうありたいのか、
真剣に考え、友だちと語り合い、日々を生きていたように思います。
その頃に聴いていたら、こんな言葉にハッとするというよりは
「そうそう!」と自分たちの気持ちを代弁する歌詞として
受け止めていたかも知れません。

それがいまや…
「言われてみれば本当にその通りだよなあ…忘れてた!」
って感じです。

まあ、当時を理想化しているのかもしれませんが、
いずれにせよ、この言葉をとてもまぶしく受け止め、
改めて「本当にそうだなあ」と感じたのでした。

そして、こんな歌詞が続きます。

 電車の中 押し合う人の背中にいくつものドラマを感じて
 親の背中にひたむきさを感じて このごろふと涙こぼした
 半分大人のSeventeen's map


うう、そう感じる17歳こそにひたむきさを感じて、
涙こぼしちゃいました。

この年になって、「10代の教祖・尾崎豊」の気持ちに
いたく感動していることはややイタイ気がするのですが、
なぜか、今、心にそれがフィットするのだから仕方ありません。

彼の世界というか彼の心の持ちようがまぶしく響き、
それに対して今更ながらに憧れを抱く自分に気づいた時、
ああ、いつの間にか大人の階段昇ってしまってたんだなあと
なんだか若干ものがなしい気持ちにもなったのでした。

でもいいんです(←大人だ)

ボーズくん

2010-07-14 15:32:22 | お仕事ウラ話
上記イラストを御覧ください。

彼は、「ボーズくん」と言います。

今日は、兵庫県のある高校で
「幸せに生きるための心理学」という講演の予定でした。
ボーズ君は、その準備の過程で生まれた新キャラクター。

イラストは、何かを説明する際に非常に役に立つのですが、
私がイラストを描くと、大抵の場合、
このブログの自己紹介に描かれているような女の人になることが多いです。
なんだかそれにも飽きてきたなあと思っていたら、
今回、思いがけず新キャラクターが誕生したのです

それが「ボーズくん」

チャームポイントはこの無表情な感じです
いつものイラストに加え、ボーズくんもこれから
ここぞという時に説明アイコンとして登場してもらおうと思います

そして今日は、
ボーズ君が公の場で華々しくデビューする日となるはずでした。

なのに、今日は、兵庫教育大学も、その出張先の高校も、
大雨警報発令地域に入ってしまい、
兵庫教育大学もその高校も終日休講、
講演を行えなくなってしまったのです

とはいえ、大雨警報の中、皆が身の危険を感じている中で
「幸せに生きるための心理学」という講演を強いるのは
とっても不幸せな事態を作り出すことだといえるでしょう。
そんな矛盾をあえて実践する必要はありません。
まずは安全の確保、それをこそ、
幸せに生きる第一歩としたいものです
ああ、今日もまた、「幸せに生きるための心理学」を実践してしまった

ただ、ボーズくんのデビューが遅れてしまったことが残念です
なので、本番より一足お先に、ここでデビューさせてあげることにしました

皆様、ボーズくんを今後ともよろしくお願いいたします。

サッカーおんち

2010-07-13 21:53:43 | 生活日記
私はほとんどサッカーを見ないので、サッカーはほとんど分かりません。
昨日、決勝戦について書きましたが、
実はリアルタイムを見たのは昨日が初めてです。
日本の試合含め、すべてハイライトやニュースでしか見ていません。
しかしそれでも十分泣き、感動し、
そのたびに、「リアルタイムで見ればよかった!!」と思いながらも
なかなかリアルタイムでゲームを見ることはできませんでした。

しかし、このW杯をきっかけに、
サッカーを見始めた人も少なくないのではないでしょうか。

ラジオでそんな人からのお便りが流れていました。

「私は普段サッカーを見ないのですが、
 今年のワールドサッカーを見て、興味を持ち始めました」

「ワールドサッカー」…

サッカーおんちの私、やや違和感を抱いたものの聞き流していましたら、
すかさずラジオのパーソナリティーの方が、
 正しくは「FIFA ワールドカップ」、
 譲ったとしても「ワールドカップサッカー」ですよね。
 確かにこの表現が、サッカーに詳しくないことを物語ってますね。

と言ってられました。
う、確かに…

私だって、これに似た類の言葉を製造していないとも限りません。
ということを自覚した瞬間でした。

サッカーのルール

2010-07-12 21:28:04 | トリヴィア
W杯にとうとう決着がつきましたね。
早めに目が覚めたら、延長戦に突入しているということだったので
じゃあ見なきゃ!と、そのままテレビを見ることにしました。

イエローカードが飛び交う激しい試合だったようです。
熾烈な闘いが繰り広げられる延長戦、
オランダ選手のイエローカードが2枚になりレッドカードになって
1人退場してしまうなんていう事態も展開されていました。
→試合の模様

そして、延長戦後半、116分時点で、
スペイン・イニエスタ選手が劇的なゴールを決めました。
何とも劇的な瞬間です。

しかし、そのイニエスタ、
118分時点でイエローカードをもらってしまっています。
これは…

喜びのあまり、ユニフォームを脱いでしまっていたのです。
「この時点でユニフォームを脱ぐとイエローカードになります!」と
解説が流れました。

へえ~~
サッカーのルールを1つ学びました

さて、その後の両チームの表情、
歴然たる違いがありました。
当然、オランダは、絶対に負けてなるものかと
ものすごい険しい表情です。
スペインはというと、ゴールキーパーのカシージャスは、
もう感極まって涙ぐんでいます。
どちらを応援するわけでもなくただ見ていたのですが、
そんなことで大丈夫なのかしら…と心配になります。

でもそのまま試合終了。
長い闘いはPKではなく決着がつきました。
カシージャスはスペインのキャプテンだったんですね。
もう号泣していました。
彼は、2002年日韓大会の準々決勝に韓国戦ではPK戦で敗退含め、
3度目のW杯出場だったそうです。
さぞかし、うれしかったことでしょう。
リアルタイムで試合を見たのは初めてのくせに
もらい泣きしてしまいました。

というわけで今日でW杯終了!
学生諸君、明日からは、「サッカー見てたんで眠いんですー」という言葉は
もう言えなくなりますなー。