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中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

「ジーサンズ はじめての強盗」

2017-08-31 04:22:46 | 映画日記
突然年金を打ち切られた3人のじいさんたちが,
銀行強盗を企てる話。

1979年の映画「お達者コメディ シルバー・ギャング」のリメイク版ということで,
愉快そうなので見てみました。

結果,なかなか(かなり)愉快でした。おすすめです!

冒頭の方は,シルバー川柳的なネタがちりばめられていたのがおもしろかったのですが,
銀行強盗するとなってからは,結構,ドキドキハラハラです。
これ以上書いたらネタバレになってしまいそうなので,書きません。

ただ,ちょっとだけ書くと,最後の最後は,
再びシルバーネタ的なサプライズで終わります。

結構最後までドキドキさせてくれました。

補遺)
解説の入ったwebサイトを見つけました。→こちら
これ見たら,多くの人が見たくなるのではないでしょうか!?

「湯を沸かすほどの熱い愛」

2017-08-30 04:07:56 | 映画日記
宮沢りえさん演じる双葉さんと,その娘の安澄ちゃん(杉崎花さん)との関係を中心にしながら,
夫,夫の連れ子(?あゆこちゃん),先妻,実母との関係などが描かれます。

前半,安澄ちゃんが学校でいじめにあっている場面があります。
絵の具を制服にたくさんつけられて
唇をかみしめている安澄ちゃんを迎えに行った双葉さん。
安澄ちゃんも強がって「11色つけられた」と言います。その姿を見て,
「何色が一番好きなの?」と声をかける双葉さん。そしてぎゅっと抱きしめて,
笑顔で「服着替えて一緒に帰ろう」。
その後も安澄ちゃんは学校でつらい目に遭うのですが,厳しく向き合う母。
でも,ものすごく心配で学校から帰るのをずっとずっと待っています。
それを不思議そうに見るあゆこちゃん。
娘を心配する母親を「ふーん」と不思議そうに眺めます。
あゆこちゃんは,お母さんが迎えに来てくれないのです…。
「誕生日に迎えにくる」というお母さんの言葉を信じて,
誕生日の日,前すんでいた家に一人で出かけたあゆこちゃん。
双葉さんと安澄ちゃんがようやく探し当てたとき,
暗い家の前でぽつんとうずくまっていました。
「帰ろう」というと,おしっこをしてしまったあゆこちゃん。
双葉さんはそれを見守り,「全部出た?」と抱きしめます。

そんな感じで,双葉さんの愛情たっぷりの姿が描かれるのですが,
でも,それぞれの登場人物がそれぞれ背負っていることがあって,
見ていてかなりつらいです。
双葉さんは最後,末期ガンであることが分かって,余命いくばくもなく,
それ故に,強い気持ちで現実に向き合っていくのですが,
その過程で知らされる事実が,もう,あまりにつらかったです。
もちろん,それでも,それを受け止めて,乗り越えるだけの愛情が描かれるのですが…。

でも,それ以上に,安澄ちゃんやあゆこちゃんの健気な一生懸命な心,
それが,本人たちにはどうしようもない事情のために強いられたものであること,が,
見ていてつらかったです。

双葉さんの深い愛情がテーマの映画だとしたら,
愛情って,そんなにつらいことをてんこ盛りにしないと描けないの?と疑問でした。
双葉さんの愛情よりも,亜澄ちゃん・あゆこちゃんの心の悲しみの方に
私は気持ちをもっていかれてしまいました。

それに,「余命いくばくもない」という要素,好きじゃないんです。。。
そんな事情がなくても,現実に向き合わないといけないこともある。
それだけのことをしながらも生き続ける人の難しさも,描いてほしい。


ただ,そういった厳しい現実をつらいつらいと思っていては,人を支えることはできないし,
ましてや育てることはできないんだろうなあということをつくづく思いました。

また,上記に書いたように,すっごくつらくて気持ちが張り裂けそうな時に,
ふっと気持ちがほぐれるような,
ちょっとしたユーモアを含んだ言葉を言える心の余裕っていいなあと思いました。

『Wild』

2017-08-29 02:58:18 | 映画日記
一人の女性が「トレイル」と呼ばれる山の道を延々と歩く旅をしている。
最初の場面は,彼女の足の指が傷ついたところから。
足を痛めた彼女は,岩場のところで休憩をする。
靴を脱いで靴下を脱いで,足を眺めて,「痛い…」と顔をゆがめる。
そのとき,靴がなんと岩場に落ちてしまう。
焦るも,なすすべなく,呆然とそれを眺める彼女。
そして,「くそ-!」と言って,もう1つの靴も投げ捨てる。

旅の間のシーンに,彼女の過去が織り交ぜて描かれる。
でも,この映画のおもしろかったところは,「歩く」ことが描かれていることだ。
差し挟まれる回想シーンや彼女にかかわりある人との連絡内容から,
彼女の過去が推測され,どうやら,それらがトレイルを歩くことにつながっていることはわかる。
でも,なぜ,トレイルを歩こう,と決意に至ったのかはよくわからないし,
自分探しみたいな自意識も過剰には描かれない。
また,トレイル歩きという過酷な選択を賛美する感じもない。
それがよかった。

とはいえ,劇中を貫く回想と最後に出てくる独白からは,
彼女もまた,母と娘の重たい絆につぶされていたことが分かるのですが…。

でも,歩いている間は,「歩いている」ということこそが大いなる現実。
なんでトレイル歩いているのだろう?
歩いている本人さえ,なぜ歩いているのか,そのことに対して自分自身ツッコミ続けている。
「いやになることない?」と聞かれれば「2,3分に1回くらいなるわ」という感じだし,
自問自答の場面でも「いつでもやめていいんだ」と自分に言う。
もちろん,若い女性であるため,はっきり言って色々危険がいっぱい。
冒険譚にもならない。それでも歩くし,映画の最後に,華々しいゴールが待っているわけでもない。

でも,彼女の歩く姿,自分で決めたけど投げ出したくなるし,
目的もよくわからないし,いつだってやめていいし,
何かいいことがあるわけでもないけど,
なぜか,歩き続ける姿,は,とても親和性があるし,
そうやって,意味ないじゃん,と思いながらも,歩き続けていることで,
やっぱり何か変わっている。
たとえそれを求めていなくても。

そういう意味で,なんだか励まされた映画でした。
熊倉伸宏先生の『あそび遍路』を思い出しました。

それにしても,一人でのトレイル歩きは本当につらそうです。
途中,彼女は何度もキレます。
キレて,キレた勢いで状況を打破したり,悪化させたりしています。
いいと思う。そんな感じで。

オーケストラ!

2017-05-07 06:02:57 | 映画日記
今日はピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの誕生日です。

あまり詳しくない中でのチョイスです,という限定付きではありますが
チャイコフスキーは,間違いなく私の中でのベスト3に入る,
かなりかなり,好きな作曲家です。

交響曲5番を大学時代に初めて聴いたとき,
その旋律の美しさ・優しさに感動して大泣きした記憶があるほどです。

そして,「ヴァイオリン協奏曲二長調」も大好きです。


というわけで,以前観た「オーケストラ!」のお話。

今は清掃員として働く元交響楽団の指揮者アンドレイ・フィリポフが
元の団員達とボリショイ交響楽団になりすまして演奏会をしてしまおうと
思いつくことから,この物語は始まります。

なぜ元指揮者,元団員かというと,当時のマネージャーが
熱心な共産党員で,
ソ連でも起こったユダヤ人追放の指令にもかかわらず
ユダヤ人の団員を追放しなかった楽団を解散させてしまうのです。
演奏会の途中で壇上に上り,指揮棒を折る,というショッキングなやり方で…。

そんな彼らが,どうしても演奏したいと願うのが
チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲二長調」なのです。

30年前に上記事件を起こしたイワン・ガヴリーロフも,
その実現のために中心的な役割を果たします。

ただ,30年前にそんな事件があって,元団員たちもそれぞれ別の人生を送っています。
メンバーを集めるのは容易ではないし,集まったところで
おそらく以前のように演奏することはできないでしょう。


そんな中での「間に合うのか!?」「演奏できるのか!?」という
ハラハラドキドキがありつつ,

しかし,この映画ではやはり30年前の事件が扇子の要のように
それぞれの人生を一つの物語として束ねる役割を果たしており,
そして,
「ヴァイオリン協奏曲二長調」,それを演奏するということが,
その事件後,あたかもそれまでの人生はなかったかのように
その後の人生を送ることを余儀なくされた元団員達にとって特別な意味をもつ
彼らが団員である(あった)ことの証の象徴のようなものとして
位置づけられています。

事件およびその後の出来事,それらをめぐる様々な思いが語られ
あるいは回想されるシーンにおいて,
その曲は効果的に劇中に流れてくるのですが,
(それが情感を高めます)
最後にやってくるクライマックスではその音楽によって
緊張からの解放による大笑い&感動の涙があふれます。

物語の流れだけでも十分興奮するのに,それをさらに盛り上げるチャイコフスキー。
チャイフスキー好きにはたまらない映画です。
ソ連・ロシアの人にとってのチャイコフスキーということを
想像することもまた楽しく。


・・・と,ここまで書いてある思いに至りました。
チャイコフスキーって,演歌かしら???
あの情感にガツンと訴えてくる感じ,
悲哀の中からふつふつとエネルギーが立ち上がり,高らかに歌い上げる躍動感。
演歌かもしれない。


ソ連時代の政治的事情,そこに生きた芸術家達の現実についても
垣間見ることができます。

『あん』

2015-07-18 07:35:04 | 映画日記
以前,『あん』について書きましたが,
昨日,ようやく映画を観に行きました。

台風の中,最終日にすべりこむことができました。

永瀬正敏さん演じる「どら春」の店長・仙太郎,
そこに現れる「あん」作りの名人・徳江(樹木希林さん)

ある日,徳江(76歳)が突然「アルバイトさせてほしいの」といって仙太郎の前に現れます。
どう見ても変なおばあさん。
仙太郎は,いぶかしく思って「無理だと思う」ととりあわないのですが
徳江は「時給300円でいいわ」「200円でいいのよ」と粘ります。
とりあえずどら焼きを渡して帰ってもらうのですが
その後,再度徳江は現れ,「よかったら食べてみて」とタッパーを渡します。
タッパーを開いた仙太郎は「粒あんか…」とつぶやき,ゴミ箱に捨てます。
ですが,気になって,一口食べてみる。「…うん」。

その後季節が変わって徳江が再び現れたとき,仙太郎は徳江に
あんがすばらしかったこと,できればあん作りを手伝って欲しいことを頼みます。
徳江は大喜び。「私,働けるのね…」と涙をぬぐいます。

仙太郎はそれまで業務用のあんを使っていました。
そのことを知って徳江は驚きます。「どら焼きは,あんが命でしょう…」

翌日,「お天道様の上る前」に集合して,あん作りが始まりました。
時間をかけて小豆の声を聞き,小豆があんになるのを待ちながらのあん作り。
仙太郎にとっては気の遠くなるような行程でした。

ですが,できあがったあんでどら焼きを作った仙太郎はそれを食べて
「やっと自分が食べられるどら焼きができた」と言います。
甘党ではないので,どら焼き1つ食べるのはしんどかったんだそうです。
それを聞いてまたまた徳江はびっくり。
「好きじゃないって,どうして店長さん,好きでもないのにどら焼き屋やってるの?」

その理由には仙太郎の過去があり,仙太郎はそのために現在も苦しさの中を生きていました。
そして徳江もまた,悲しい過去から引き続く悲しい現在があり,その中を生きている人でした。

---------

永瀬正敏さん演じる仙太郎は,寡黙で無表情なのですが,
しかし,何か思い詰めたもの,そして絶望のようなものを抱えているような,
そういう印象を与える人でした。
ちょっとした表情の変化はもちろんですが,身体全身から
気持ちの様子や内に抱えているものが伝わってくるような。
見ているこちらが心を動かされてしまうような。

徳江が仙太郎に残していたメッセージに,
「悲しみの中を生きているようなもがいているような,そんな目をしていた」(←ちょっと不正確)と
いった内容があるのですが,
そう,そういったことを感じさせるような人物でした。


そして徳江は,色々なことをあきらめて,あきらめざるをえなくて,
たくさん泣いて,それでも今も泣きたくなるような仕打ちを受けてしまう人。
「こちらに非がなくても世間の無理解のために傷つけられてしまうことがあります」と言います。
徳江は,若い頃の夢も,願った人生もすべてかなえることが出来ず,
自分で何かをするという機会をもつことを許されず,
でも,身の回りにあるすべてのものの声に耳を傾け,聞いてあげる,見てあげる,
それを自分の役目として,それらに対して応える。
「何にもなれなくても,それができれば,生まれてきた意味があると思うの」と言います。
月がある日,徳江に言ったそうです。
「お前が見てくれるのを待っていたんだよ,そのために光っているんだよ」と…。


映画は,経営者の勝手な都合に巻き込まれた仙太郎が,
結局「どら春」をやめて公園で屋台としてのどら焼き屋を始めたシーンで終わります。
相変わらずの寡黙なたたずまい,でも,苦悩とともに,覚悟のようなものをも
内に秘めたそういったたたずまいで。

そして意を決したように,公園にいる人たちに大きな声で呼びかけます。
「どら焼き,いかがですか」
「どら焼き,いかがですか」



深く心に浸みる,いい映画でした。

Let it goの衝撃…

2015-06-03 13:56:46 | 映画日記
先月,アメリカに学会出張してました。

その機内で,ようやく観ました,『アナと雪の女王』

歌などは何度も聞いていました。



これまで私はもっぱら日本語で
「ありのままの姿見せるのよ」
という歌詞を耳にしていたわけですが,


その歌が実際に流れたシーンには
かなりの衝撃を受けました。


だって,

物語のラスト,大団円で流れるものかと思いきや



中盤かそれより前の方で出てきてびっくり
(最後の歌だと思い込んでいたので,え?この話短いの?と思ってしまいました…)


しかもその後,


なんと
雪と氷の城に閉じこもってしまう…


という展開でまたまたびっくり



「ありのままの姿見せるのよ」というサビの歌詞と
力強いメロディーから勝手に抱いていたイメージがあって,

すなわち


ありのままの自分として素直に生きよう
それでいいんだよ,きっと大丈夫だよ

というような前向きなメッセージ


しかし,


実際に歌われた映画のシチュエーション,
そしてその前後の物語


それがかなりイメージを覆すもので衝撃を受けました。


なかなか考えさせられるものがあります。


私が抱いていた上記イメージは,それにプラス,
暗黙のものとして

そういう自分として皆に素直に向き合うことができる
大丈夫だよ,皆受け入れてくれるよ


という感じのニュアンスも伴っていたのです。


つまり,関係を断ち切るという想定はなかったのです。
もしかしたら,そのような自分を皆が受け入れてくれるという
あたたかい関係を前提に
その関係に「ありのままの私として向き合う」なんてことを
想定していたかもしれません。



でも,エルサが決意した「Let it go」には
そんな甘っちょろいものではなく,
かなりの厳しさが伴う,まさに「決意」なわけですね。


英語の歌詞にはその厳しさがきちんと表現されているようですね:
Yahoo知恵袋に直訳がありました。


上記イメージを抱いていたのは私だけじゃないんじゃないかな。

「ありのまま」という言葉が暗黙に含んでいるニュアンスも
そういうイメージ形成に寄与してるんじゃないかな。

加えて,日本人らしいかもと思いました。
こんなところに,「個」に対する意識の文化差があるように思います。

カミーユ・クローデル

2014-08-04 17:06:55 | 映画日記
昨日少し触れました,『カミーユ・クローデル』

以前,映画を観たときあまりに衝撃で,
mixiに感想を書いていたので転載します。

(このために数年ぶりにmixiにログインしました。
 2年前の友だちリクエストに,今気づきました・・・)


★2006年06月25日(ってもう8年前!?)

一週間前、カミーユ・クローデル展に行きました。

 19世紀後半に生きた女性彫刻家です。ロダンの愛弟子兼助手兼愛人であり、その愛に疲れて、最終的には精神を病んでしまい、30年間精神病院に幽閉され死んでしまう…という、悲しい末路をたどった女性です。
その生涯が非常に劇的なので、もともと彫刻に何の造形もない私は、その時期と照らし合わせながらしか作品を見ることができなかったんですが、むしろ、彼女の作品の見方としてはそれでいいのかも、とも思う。
 特に、ロダンとの愛を疑い始めた頃、ロダンと決別し、一人で生きることを決意した頃、など、その心象風景がそのまま作品になっている感じ。筋肉、しわはもちろん、手の筋までもが表情となっているような。情念を感じずにいられなかった。(その人生を知っているからかもしれないのですが)

 その後、イザベル・アジャーニ主演の映画「カミーユ・クローデル」も観ました。彼女の気性の激しさがありありと映されていて(さすがイザベル・アジャーニ…)、観た後、どうしたらよいのかわからなくなりました。おかげで先週前半、ずっと調子悪かったわ…。
 映画の骨子は、彼女が、たぐいまれなる才能をもって生まれてきたが故に、悲しい人生をたどらざるを得なかったという点にあったように思う。ずば抜けた才能がなければ、ロダンにも愛されず、よって、愛憎泥沼の苦悩もなく、また、社会と戦いながら出展していく(当時はやはり女性差別の時代だったので)なんて目にも遭わなかったのに…。でも、実際そうやって生まれてきて、そうしか生きられなかったんだもんね。

 その後、再度展示を観に行くと、そういうお話のような想像の中の彼女が実在していたことを再度確認させられて、なんだか、夢と現実が符合するような不思議な現実感を味わいました。

なんか中途半端だけど、終わり。

-----------

ってこんな終わり方をしていたようですが
(mixiなので内輪向けですしね…)

終わり・・・


『レ・ミゼラブル』

2013-05-16 21:53:57 | 映画日記
GW中に観に行く予定だったのですが、
結局時間が作れず観ることができませんでした、『レ・ミゼラブル』。
このたび、出張先に向かう飛行機の個人モニターで
ようやく観ることができました。

『レ・ミゼラブル』は、小学校6年の時に、
担任の先生が毎日少しずつ読み聞かせをしてくれた作品です。
とはいえ、内容は覚えておらず、その後原作を読むこともないままでした。
このたび、どんな話だったのか、ようやく理解することができました。

最初、服役中のシーンからはじまるのですが
そこで歌われている歌のインパクトがすごくて、
しょっぱなから衝撃を受けました。

服役から仮釈放、そして仮釈放中のジャン・バルジャンが身分証明書を破り捨てる
ここは映画全体としてはプロローグ的なところなのですが、
もう心をわしづかみにされました。

  余談:
  なぜ、私はこんな小さなモニターで見ているんだ!?
  と映画館に行かなかったことが悔やまれて仕方ありません。
  続きは映画館で…と、観るのをやめようかと思いましたが、
  公開期間がまだ残っているのか気になったので
  そのまま見続けてしまいました。

  結論から言うと、やはり映画館で、
  できることならガラガラの映画館で貸し切り状態で観るべきでした。
  でも、今、公開情報をチェックしたら、
  やはり公開期間はもうすぐ終わるみたいなので
  個人モニターだけれども、観られたことは幸運だったと思います。

絶望の中でファンテーヌが歌う「夢やぶれて」
あ、これは、スーザン・ボイルが歌って有名になった曲!
こんなシーンでこんな風に歌われる歌だったのか…
涙が止まりません。
この曲は、こんなシーンでこんな風に歌われるべき歌だったのだ…

そして、ジャン・バルジャンが繰り返す「私は誰だ」の問い。
その葛藤自体、そして、その葛藤をもたらす様々な精神のありようが、
いずれも心の奥深くに迫ってきます。
どれだけ生き直しても追いかけてくる過去の私
それでも、善く生きようと、新しい私を作ろうとする私
その中で生じてくるいろんな葛藤、その中での選択に現れる彼の生き方
それでも追いかけてくる過去…
そんな孤独な我との戦いの中で、愛する対象を得ることの意味。
私たちは、一人で希望を紡ぐことはできないのかもしれません。

また、ジャン・バルジャンに「私は誰だ」の問いをつきつけるジャベール
「信念への傾倒」の意味を考えさせられます
彼も「善く生きる」を実践しているのだと思う
そして「信念が揺らぐ」ということが
私たちの人生においてどれほど大きな意味をもってしまうのか…

どの登場人物についてもあてはまるのですが、
ファンテーヌの絶望と希望、
革命に燃える学生たちの姿などを通してわかりやすく見えてくるのが
生き方を大きく規定する力をもつ社会というものの存在。
その中に私たちの存在はポイと投げ出されているにすぎないということを
思い知らされます。
その社会さえもどうやって作られてきたのか、と考えると
果てしない無力さを思い知らされます。
それでも生きるしかないですね。

とまあ、今、冷静に振り返っても、あまりきちんとまとめることができないのですが、
とにかく、私の思考のツボや感動のツボを刺激しまくるものすごい話でした。
神(説明のために仮におかないと難しい存在があるので、仮に神としておきます)との関係においては
絶対的に無力な立場におかれていることを確認するたびに、私はいつも深い感動を覚えます。
人間が、それでも能動的に生きようとすることをやめないことに、感動するからです。

音楽もものすごくよいです。
ただでさえ感動のツボが刺激されまくってしまうというのに、
そこにすばらしい音楽が加わると、もう… 
理性を維持することなんかできません。

飛行機のエコノミークラスの狭小スペースであることをかまっている余裕なんかなく
ほとんど号泣状態で見続けました。しゃくりあげるほど泣きました。
前の子どもはドラえもんを観てました。きっと笑顔だったことでしょう。
そんな空間、客観的にみたら結構気持ち悪い光景かもしれません。

そして、こんなことを教えようとしてくれていたのかと
小学校の時の先生に、改めて感謝です。
できることなら今すぐにでもお礼を言いたいところですが、
若くして還らぬ人となってしまっています。
その先生のことを思って、また泣けてきました。

もう、心が、大変でした。

『幸せの隠れ場所』

2012-05-28 23:51:35 | 映画日記
久しぶりにDVD を見ました。
アメリカの貧しい地域で生まれ、
親にも教育にも恵まれなかった青年が、
ある家族に引きとられ、受け入れられていきます。
その彼と家族のお話。あ、でも
学校の話でもあるし、彼の育った町や彼を生んだ母親の話でもある。

彼は現在、アメリカンフットボールのプロ選手として
活躍しているそうです。

マイケル・オアー選手。


へえ~~と思って調べてみると、
今日が誕生日のようで。ビックリ!!

1986年生まれのようですから、26歳になったんですね。
おめでとうございます!!

映画は、心の繊細な感じがよかったです。
劇的に感動をあおるというより
小さなエピソード一つ一つがじわりじわりと
感動を摘み重ねていく感じで…

彼の面倒を見る夫婦はかなり金持ちなんだけど、
それでも凡人であるというか…
いや、決して普通ではないのですが、
人間くさいというか、迷いや葛藤が
いい感じで描かれていて、
すごく共感しながらこちらも心をいっぱい揺らしながら
見ました。

なんか、じわじわと色んな理由での感動が来て、
長持ちしてます。

マイケルオアー選手、お誕生日おめでとう!!

『主人公は僕だった』

2011-06-15 13:44:32 | 映画日記
ハーマンスの『対話的自己論』では、
思想はもちろん、小説のあり方や美術の変遷など、
多様なジャンルにおける“対話”の出現と、
それによる形式の変化がまとめられています。

小説については、登場人物のことを全知する著者がいて
その視点から語る「全知の神」の様式と、
登場人物が自由に動き回るようになる形態、
登場人物が勝手に対話を初めてそこから物語が展開される様式とが
区別されます。

つまり、“対話”の出現によって、大きく世界の構造が変わることを、
いろんな例を出して説明してくれています。

さて、『主人公は僕だった』という映画では、
その2つの様式の妙を味わうことができます。
さらに、ハーマンスが指摘した以上の対話のあり方が見てとれます。

ある小説家が物語を書いているのですが、
実は、実在する男の物語であり、
(書き手もそれを知らず、全知の著者としてそれを書いている)
その男の現実に、書き手のナレーションが聞こえ始め、
日常がそれまでとは違ったものになってくる。
男はなんとか小説家を見つけ出し、対話を始めます。

登場人物が勝手に対話を始めるだけではなくて、
登場人物がその小説の世界を越えて、書き手と対話する。

そんな話になっています。

意識改革の時代

2011-06-12 23:12:24 | 映画日記
1950-60代、世界的に学生運動が盛り上がっていました。
また、ウッドストック音楽祭という伝説のイベントも開かれ、
新しい若者の姿が注目されました。

ということを最近授業でやっていたため、それ以降の時代のいろんな動向を知りたく、
映画三昧に過ごしてみました。

『イージーライダー』自由を志向する若者文化と大人との対立
『スタンドアップ』世界初のセクハラ裁判
『遠い夜明け』南アフリカ、アパルトヘイト政策への反対運動

イージーライダーだけちょっと異色ですが、
後二者は、現状を変える難しさ、戦うことには勇気が必要であること
などを考えさせられました。

『スタンドアップ』は3回目くらいだったのですが、
『遠い夜明け』はまともに見たのは初めてで。
かなり強烈な印象を受けました。

命がけの戦い。
見ていて苦しかった…

しかも、まだ続いてるといった印象のエピローグ。

また、演説で語られていた内容も、ずっしりひびきました。
一番の問題は、自分の意識だと…

理不尽さや無力感、その中でも戦い続ける人たち・・・
そして、壮絶な脱出劇。

かなり印象に残った映画でした。

悲しみの原型?:『シザー・ハンズ』

2010-05-29 20:54:42 | 映画日記
久しぶりにDVDで『シザー・ハンズ』を観ました。
だいぶ昔に大泣きしながら観た記憶だけが残っていて、
どんな話か覚えておらず(もちろん設定は覚えていましたが)
それでその話をすると「あれでそんなに?」という反応が多かったので、
どんな映画だっただろうかと観てみました。

で、結果ですが、
やはり大泣きしてしまいました

ざっと内容を書きますと…
(映画の詳しい内容はこちら

シザー・ハンズの主人公・エドワードは、人造人間。
完成する前に博士が亡くなってしまい、手だけがハサミなんです。

町外れの丘にある古城でひっそり暮らしていましたが、
そこを尋ねた女性・ペグが彼を家に連れて面倒を見ます。
手がハサミなので、最初はトラブルも絶えないのですが、
次第に町の人たちにも受け入れられ、幸せな日々を送るようになります。

しかし、ふとした事件に巻き込まれ、
その事件を機に、彼への誤解は一気に広がり、
町には彼を排除しようとする空気が流れ、
これまでの行為も別の悪意ある解釈によって意味を変えられていきます。

ペグ一家は何とか彼を守ろうとし、
彼もできることをやろうと努力しますが、
最終的に町を追われる事になります。

うーん。。。

ストーリー自体は、古代から紡がれ続けてきたおとぎ話に
つながるものを感じます。
1.異端の者が新しい世界に踏み出す
2.新たな世界でのつかの間の幸せ
3.ささいなきっかけが大きな誤解となり、世界が急変する
4.少数の理解者と大勢の迫害者の中での苦悩
5.それまでの世界との決別
#迫害される主人公の心は美しい、というのが基本

冷静に書いてみると、このようなプロットだと思うのですが、
なぜか分からないのですが、それでもこの手の話には、
どうしても泣かされてしまうのです。
私の悲しみ感情のツボを押されまくってしまい、
主人公の悲しみを、もしかしたら主人公以上に勝手に感じてしまって、
ただただ、悲しみがこみ上げて仕方なくなってしまうのです。
そういえば『グリーンマイル』も、大泣きしながら見ていました。

以前書いたフランダースの犬も、概ねこんな感じです。
あの話、本当に悲しくて仕方ありませんでした。
どうしてあんな悲しいことが起こるのか、
自分の理解を超えたレベルで、とっても悲しかったように思います。
違うでしょ?と思っても、現実があの結末を突きつけてくるのです。

その後の古い記憶で覚えているのは、
小学校1年生の時に読んだ『ひさの星』や『泣いた赤鬼』。
これまた、上記プロットの悲しいお話です。
何度も泣きながら読みました。
なぜ何度も読んだかというと、話が変わるのではないかという
期待をもっていたからです。
でも、何度読んでも悲しい結末は同じ。
そして、「今回も変わっていない」という新たな悲しみを加えつつ、
もとの話の悲しさを泣いてしまうのです。

今になってさえも、この手の話には、理屈ではない悲しみ感情が
怒濤のように押し寄せてくることを考えると、
幼い頃にそうやって悲しい現実にくり返し向き合ったことで、
もしかしたら、
悲しみを感じるチャンネルが開く基本パターンみたいなものを
形成してしまったのではないか?
なんてことを考えたりします。
幼い頃にくり返し経験した悲しみが、
悲しみ方の原型みたいなものを作っていったのではないか?
普段の生活では、そんなことは忘れて楽しく幸せに暮らしているけど
そのパターンの物語に出会うとそのチャンネルが開いてしまう…
そういうことなのではないか…?

そんなことも思いながらも、
でもきっと多くの人が泣いてしまう
普遍的な悲劇のパターンでもあるような気もしたり。
→こう書くと、ユングの「普遍的無意識」概念を思い出します。
 それはまた別の機会に…。

とどのつまり、シザーハンズが悲しかった、というお話でした。

余談ですが、私がジョニー・デップを初めて見たのはこの『シザー・ハンズ』。
そして彼主演の映画で他に観たものはというと『チャーリーとチョコレート工場』。
なので、前者でのジョニー・デップさん後者でのジョニー・デップさんしか知らないので、
彼がなぜあんなにキャーキャー言われるのか、
特に、セクシーだという点について、私には分かりません。
しかし、その2作品からだけで判断するのは
きっと間違っているのだろうと、思ってはいます。

価値観の転換:『ハゲタカ』

2010-05-15 23:54:22 | 映画日記
(画像はハゲタカホームページ「第5回」からいただきました)

「ハゲタカ」は、数年前にNHKで放送されたドラマです。
映画化もされましたが、それは見てないのでドラマの方の話を書きます。
 なので今日のは正確には「テレビ日記」ですね)

このドラマは、バブル崩壊後の日本に対する
外資系金融会社の参入劇を描いたものです。
主人公は、外資系金融会社のやり手バイヤー・鷲津政彦。
世界経済の視点からいうとまだ経済観念の甘い日本の企業を、
鷲津は次々と「買い叩く」。

その過程で、彼は、ターゲットとなる企業と
その社員の惨状に向き合わねばならないわけですが、
「世の中は金だ、金こそすべてだ」という信念をよりどころに、
あくまでも利益(お金)を得るために仕事を進めていきます。

ドラマは、そんな彼が、ある転機を迎え、それまでとは違ったやり方で
自分なりの新しい解決を見出していくという形で終幕となります。

その転機とは:
赤字を抱えた大企業の買収事業において、
その企業の赤字の元凶となっている一部門を
何とか救いたいという思いから逃れられなくなるのです。
それによって、彼は一時的に成功街道からのドロップアウトを余儀なくされます。

その経験の中で、彼は、それまでとは異なる価値観を確かにつかみ、
新しいやり方で仕事に向き合う方法を実現させようと立ち上がるのです。

では、なぜ彼はそのように変わったのでしょうか。
それまで拝金主義と言っていいほど、迷い無く生きてきた彼。
彼を変えた「価値観の転換」とは、どのようなものだったのでしょうか。

彼と、件の企業の社員(技術職人)との会話にそれが現れています。
「所詮あんたら金だろう。何も生み出さない。俺はモノを作っている。
 あんたら、何を作った。金なんて所詮紙っきれじゃないか。」

それに対して鷲津は答えます。

「紙切れですか。僕にはそうは思えない。」

彼は、その金によって命を奪われる人も見てきたからです。
その人たちの事を思うと、金はただの紙切れとは言えないと、そう答えるのです。
彼が拝金主義に陥り「ハゲタカ」と呼ばれるような信念を形成したのも、
銀行勤務時代にそういう事件に遭遇したのがきっかけでした。

そして続けてこうも言います。
「確かに世の中は金だ。99.9%は金で何とかなる。
 だが、0.1%がどうにもならないことがある。」

鷲津は、変わったとはいえ、「金なんてなんでもない」という意味での
価値観の転換をしているわけではありません。
金をただの紙切れとは思えない、そこは変わらない。
やはり金は重要だと思い続けています。
その中で、しかし自分が見逃していた0.1%の重要性に気づいている。

人の価値観が本当に変わるというのは、このような、
「0.1%」に気付くときなのではないでしょうか。

それまで何よりも重要だと価値を置いていたものに対して、
短期間で価値を感じなくなるほど、人は柔軟にはできていません。
もちろんそういう経験がある人も少なくないでしょうが、
多くの場合、それは、その価値を認める心を「抑圧」するという
働きの助けを借りていると考えられます。

それに対して、鷲津は、それまでの価値を一切抑圧していません。
鷲津が得た新しい価値観とは、
これまでの自分の価値観と何ら矛盾することはなく、
そこに新たな気づきを刻みつけたというようなものでした。
その気づきが、大きな行動の変化をもたらしていました。

人は、自分の価値観と矛盾するものは得てして受け入れがたいし、
自分の今の在り方を維持したいという動機が、我々の中にはあります。
だから、急に対極の価値観に移行しようとしたり、
あるいは、それまで価値を置いていたものを
価値のないものにしようとしたりすると、
かなりの心的作業を強いられるのです。

傍から見ると「お金なんかよりもっと大事なものがある!」と
言ってる方が価値観が変わったように思われるかもしれませんが、
自らの基盤を変えることなく、小さな、しかし大切な気づきを得た場合こそ、
その小さな気づきが大きな変化をもたらす「価値観の変化」と
なるのかもしれません。

人は見たいように見る:『愛しのローズマリー』

2010-05-09 23:10:53 | 映画日記
私たちは、世界を見たいように見ています。
同じ情報に触れても、
そのどこに注意を向け、情報としてキャッチするか
それをどの程度記憶し、思い出すか、
また、その情報をどのようなものとして解釈するか、
は、人それぞれです。

つまり、私たちが知覚している(見たり聞いたりしている)事象は、
客観的な物理世界の反映ではなく、
主観的な知覚現象なのです。
そして、主観的とはいえ、その世界こそが
その人にとって最も現実的な世界なのです。

ということで、『愛しのローズマリー』の紹介をしましょう。

女性に対して、外見でしかその価値を認めることができない男・ハル。
そのおかげで恋がいつもうまくいかないのに
本人はその原因が分かっていません。

ある日、偶然カウンセラー(というより催眠術師)に出会い、
「出会った女性の内面を見るんだ。魂を感じるんだ。
 きっと美女が大勢やってくる」と言われます。

その直後から、ハルはモテモテになります。

が、実は、ハルの知覚世界が変わっていたのです。
それまでのハルなら相手にしなかった(外見はパッとしない)女性、
でも内面は美しい女性たちの姿が、
ハルには抜群の美女に見えるようになっていたのです。

そしてローズマリーというキュートでスリムな美女と出会います。
ですが、彼だけがそのように見ているのであって、
他の人には、ローズマリーは、ものすごく太った女性に見えます。
ローズマリー自身も自分の外見にまったく自信を持っておらず、
ハルの褒め言葉「やせてる」「美人」「そんなにきれいなのに」も
すべて皮肉としか受け取りません。

でも、ハルが繰り返し、彼女を肯定し、愛することで
ローズマリーも少しずつ自信を取り戻していきます。

ところが、ハルの変化についていけない友人・マウリシオが、
彼に催眠術をかけたカウンセラーを見つけ出し、
催眠術を解いてしまいます・・・

スリムでキュートな美人のローズマリーの姿はもう見えません。

ハルは催眠術を解いたマウリシオに怒りをぶちまけます。

ハル「お前が抜群のいい女だと思っている女を
   他の人が最低な女だと思ったらどう思う?」
マウリシオ「そんなの関係ない」
ハル「俺だって同じだ!あれで幸せだったのに!」

・・・コメディチックなのに、色々考えさせられます。
最終的にどのような結末になるのか?
それは各自でご確認ください。

チャーリーとチョコレート工場

2010-04-23 10:25:30 | 映画日記
ジョニー・デップ主演、『チャーリーとチョコレート工場』の
映画を見た事がありますか?

舞台は、Wonkaという大人気チョコレートを作っている工場。
この工場、とても巨大な白い建物なのですが、
常に固く門が閉ざされ、数年の間、誰も入った事がありません。
あの中はどうなっているんだろう?と皆が噂し合います。

そんな時、5人の子ども(+その親)だけを工場内に招待するという
企画が発表されました。
工場長ウィリー・ウォンカ直々に、当選者の親子を率いて
工場内を案内するのです。
世界中からラッキーな子ども5人が選ばれるのですが、
それはWonkaのチョコにあるゴールド・カードを引き当てた子ども。
その子どもたちが、工場内に入り、色々な風景に出会い
色々な目に遭うのです。
そういうのを描いた映画です。

詳しく知りたい方はwikipediaへ。

そこにあるように、このお話は児童文学を映画化したものだそうです。
最近ジョニー・デップ主演で話題になりましたが、
1971年版を見て育ったというアメリカ人は、そっちの方が、
ウィリー・ウォンカの描かれ方が魅力的でいい、と言ってました。
DVDがないからチェックできずにいたのですが、
今回wikipediaにより、「夢のチョコレート工場」という
別タイトルの映画だった事が判明しました。
さっそくこちらも借りて観ようと思います。

さて。
それを見た事がある人ならば、絶対、「おお」と
心躍るチョコレートに出会いました。

そう、Wonkaのチョコレートです。
これってネスレから販売されている、実在するチョコレートだったんですね

中身を開けると…こんな感じ。
ウィリー・ウォンカのシルクハットを彷彿させる形です。

そして味は…むちゃくちゃ甘くて濃厚でgood
疲れた時なんかはこれをポイと口に入れたら結構元気になるんじゃないかな。

と濃厚なチョコレートが好きな私は思ったのでした。