昨日の記事の続編のような記事になりますが…
先月、授業で文化人類学者のマーガレット・ミードによる
文化人類学初期の研究、
『Sex and the Temperament』での報告を紹介しました。
日本とは全く異なる男性性・女性性の社会があるという内容であり、
Arapesh族、Mundugumor族、Tchambuli族における
男性・女性の姿が報告されています。
かなり有名な研究で、「男性らしさ」「女性らしさ」が
普遍的なものではないことを示す事例として
心理学においてもよくとりあげられるものです。
ところが、学生からのコメントで、
この研究に対する否定的見解があるということを知りました。
確かにミードの研究は1935年とかなり古いので、
その後に様々な議論があってもおかしくないですが、
文化人類学での議論の展開にはこれまでまったく無関心でいました。
それは大変!!ということで、
関連図書である、
『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』を読んでみました。
確かに、ミードが出した見解について、
いくつかの反論やその反論の根拠などが書かれており、
「なぜミードがそのような解釈をしてしまったのか?」というところなどは
読んでいてとても面白かったです。
その反論の要点は、
Tchambuli族に関していえば、
「男性を女性が支配している」という
男性・女性の社会的地位についての解釈です。
また、男性はおとなしく臆病とされているが
「けっこう暴力沙汰はあった」など、
性別とパーソナリティとの関連についての
否定的見解も呈示されていました。
いずれも、論拠がしっかりしており、納得できるものでした。
とはいえ、ミードの研究がすべて間違いというのも言い過ぎでしょう。
男性と女性の姿が日本とは異なる姿を呈していたという観察自体は
否定されるものではないのではないように思いました。
そこから、男性の仕事・女性の仕事は、
どうやら固定的で決まったものではなく
それぞれの文化によって様々だということは
やはり示唆されるように思います。
何かの研究知見を否定する場合であっても、
その研究の何がどのように否定されるのか、
文脈や議論の焦点を見極めながら読んでいく必要がありますね。
(データ自体が偽物だったとか「やらせ」だったとかいう場合は
もう論外ですが)
先月、授業で文化人類学者のマーガレット・ミードによる
文化人類学初期の研究、
『Sex and the Temperament』での報告を紹介しました。
日本とは全く異なる男性性・女性性の社会があるという内容であり、
Arapesh族、Mundugumor族、Tchambuli族における
男性・女性の姿が報告されています。
かなり有名な研究で、「男性らしさ」「女性らしさ」が
普遍的なものではないことを示す事例として
心理学においてもよくとりあげられるものです。
ところが、学生からのコメントで、
この研究に対する否定的見解があるということを知りました。
確かにミードの研究は1935年とかなり古いので、
その後に様々な議論があってもおかしくないですが、
文化人類学での議論の展開にはこれまでまったく無関心でいました。
それは大変!!ということで、
関連図書である、
『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』を読んでみました。
確かに、ミードが出した見解について、
いくつかの反論やその反論の根拠などが書かれており、
「なぜミードがそのような解釈をしてしまったのか?」というところなどは
読んでいてとても面白かったです。
その反論の要点は、
Tchambuli族に関していえば、
「男性を女性が支配している」という
男性・女性の社会的地位についての解釈です。
また、男性はおとなしく臆病とされているが
「けっこう暴力沙汰はあった」など、
性別とパーソナリティとの関連についての
否定的見解も呈示されていました。
いずれも、論拠がしっかりしており、納得できるものでした。
とはいえ、ミードの研究がすべて間違いというのも言い過ぎでしょう。
男性と女性の姿が日本とは異なる姿を呈していたという観察自体は
否定されるものではないのではないように思いました。
そこから、男性の仕事・女性の仕事は、
どうやら固定的で決まったものではなく
それぞれの文化によって様々だということは
やはり示唆されるように思います。
何かの研究知見を否定する場合であっても、
その研究の何がどのように否定されるのか、
文脈や議論の焦点を見極めながら読んでいく必要がありますね。
(データ自体が偽物だったとか「やらせ」だったとかいう場合は
もう論外ですが)