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日記。

齋教と食菜人の焚死 1913年5月20日

2016年03月13日 | 臺法月報
齋教と食菜人

△開臺以来の大珍事 大正二年四月十三日の夜、開臺以来未曽有の大珍事こそ起こりたれ、處は台南廳下六甲なる赤山岩(一名火山岩、岩は山寺の意)の住職陳淪外七名の僧及び鹽水港付近に住する齋教信教の婦人施氏品外六名の十五人、赤山岩の廟前に於いて薪を積み油を灌ぎ、又各自身の體に綿花を纏ひ油を灌ぎ、十五名一時に焚死成佛せんとて先づ其旨を書したる二通の遺書を留め、身體に火を點じて積み置ける炎々たる薪火の中に飛入り遂に焚死を遂げたる一大珍事あり。


△赤山岩 抑々彼の赤岩山は鄭氏、擄臺の當時建立せしものなりと云ひ傳え、該地方最古の寺廟なるを以て従て信徒も尠からず、且つ該寺は臨済宗にして、雲水の僧及び食菜人等常に寄食し居りしと云ふ。


△食菜人 食菜人は即吃齋人にして齋教の信徒を云ふ、齋教とは俗人にして佛戒を守持し葷肉を食わず髪を剃らず法衣を著けず佛を信仰し朝夕佛前に誦經し信徒相互の為冥福を祈るものを云ふ、又信徒に二あり、一は常に寺廟に寄食し僧侶と同棲妻帯せず、夫に嫁せず、朝夕佛前に經を讀誦して供養するものと、一は自家にありて妻帯し、普通の業務に従事し、朝夕佛前に禮拝讀經するものと是なり。

△齋堂 信徒か佛像を安置禮拝する所を齋堂と稱ふ、台南にあるものを西華堂、愼徳堂(金幢派)徳化堂、徳善堂(龍華派此派目下旺盛ナリ)報恩堂(先天派)と云ひ、鹽水港にあるものを善徳堂(龍華派)と云ひ、其他臺中の尼寺乃至は新竹樹林頭の鄭家の尼姑庵、及西門外の周家の齋堂、又苗栗街の齋堂等は出名なるものにして、其外到る所に小齋堂あり。


△信徒 昔時上流者に信徒多かりしが、中古衰微し、下流社會に移りしに現今再び中流以上に皈依(きえ)するもの多き傾向にあり、又閔人、粤人を問はず皈依するもの甚だ多し。


△皈依者多き理由 なぜに斯く皈依者多きかを問ふに、僧尼は法衣を著し頭を剃り居るも、往々糊口の為に出来したるものありて、能く佛祖の戒法を守るもの少し、故に教理を究め世を濟度する等は思束なく、僧尼は徒に寺廟に住し生産に務めず、又た假令法服を著けず頭髪を剃らざるも能く佛道の教義に通じ戒律を守らば佛徒たるに恥ぢず、又生産を務め國用を空費せざるは國民の務めなリとの意より斯く皈依者多きを致すと云ふ


△信徒の名稱 
信徒相互に相呼んで齋友と云ひ、男を齋公と呼び、女を齋姑と稱ふ、信徒中死者あるときは
齋友行て經を讀誦し葬祭をなす、異教人と雖依頼者あるときは之に應じて讀經す、依頼者は普通僧侶に禮する如く金銭を以てせず、物品を贈つて禮となす、又た齋堂の費用は信徒の寄附に依り、亦齋堂に主教なるものありて之を監理す。


△信徒の階級 信徒に九階級あり、曰く空々、大空、清(せい)煕(き)、四偈、大引、小引、三乗、大乗、小乗之なり、入堂後修行を積むに従て階級漸次に進む、一堂の主教は大空にして、全島の主教は空空を以て之れに充つと云ふ。


△教派 齋教に三派あり、曰く龍華、先天、金幢是なり、龍華派の開祖は明の時、山東省莱州の人羅因なるもの二十八歳にして臨済宗に皈依し、五十二歳にして成道し、諸國を遍歴し諸民を教化し、嘉靖六年露靈山に在て示寂したり、後ち師弟相継ぎ清の雍正年中、陳晋月なるもの福州福寧縣観音埔に於て齋堂を開く、之を一是堂と稱す、今の福建及び臺灣に於ける總主教の所在地即之なり。喜慶年間其十五代の祖、蘆晋耀興の第晋濤渡臺して教義を弘め、其弟子晋爵始めて臺南に今の徳善寺を創建せり。


△先天派 は明の代に徐物なるもの四川省に於て先天堂を建立し、盛んに吃齋の教義を宣傳してるより始まり、其孫徒黄昌成、咸豊年間臺南に渡りて教義を弘め、徒弟鄭良謨なるもの今の報恩堂を建立せり。


△金幢派 は明の嘉慶年中王太虚なるもの直轄省永平府より出で齋教に皈依し、其弟子薫應亮萬歴年間興化府蕭田に来り樹徳堂を建立し、其徒弟蔡權なるもの台南に来り今の慎徳堂を建立せり。故に以上の三派は何れも臨済宗の一派にして、就中龍華派は開祖なるを以て現今尚優勢なる一宗派をなし、全島至る所に齋堂ありて且つ歸依者頗る多きを致せり。

△今回焚死したる施氏品 等が常に禮拝せしは鹽水港近くの善徳堂及該赤山岩なりしと云へば、前述の如く善徳堂は龍華派に属するを以て、殆んど同宗に近かく且つ各安置せる佛像も、釈迦、阿弥陀、観世音、達磨、尊者等大同小異にして、經も亦金剛、大悲、靈王、阿弥陀、観音、法華經等を讀誦し居り、其信仰心の歸する所亦同一なるにより陳淪等が迷信に附和するに至りたるものなるべしと云ふ。


△赤山岩の僧陳淪 は支那の禅寺より受戒し來りし僧に非らず、臺灣に於いて出家したるものにして唯一囘、福州皷山湧泉禅寺の靈場に詣で、現今の總監古月師が悟道正定して神通玄妙なるを聞き来り、自己の未だ修行の足らざるをも悟らず、自ら己に悟道入定したるものと迷信し、信徒にも斯の如く説教し信徒も之れを信じ居りたるものなりと云ふ。


△焚死の動機 とも云ふべきは同廟寄寓の僧、張献なるもの法華經に「身に布を纏ひ油を灌ぎ焚死するときは成佛す云々」とあり、吾人も速かに焚死して成佛するに若かず、と云ひ出したるに、陳淪等は大ひに之に賛同し、各信徒に説き勧め、𦾔四月八日の佛祖祭日を期して焚死成佛と定めたりと云ふ、然るに何故か其期に先き立て焚死したるものなりと、彼等が誤信したりと云ふ法華經中の句は即ち左の如し。


法華經第六巻二十三品録。時佛告其子徒、宿王華菩薩、往昔過數劫、時有佛號日月浄明徳、有得大菩薩、弟子八十億七十二、恒河聲聞、聴其説法華經具得三昧、得三昧己卽入定以供養於佛、復起自念言、不知以身供養、随舎身卽天寶衣纏身塗香油用三昧火焚化

と然して又迷信の熱を高めたりと見るべき一事は曾て(かつて)福州皷山湧泉寺に詣てたる際、古月師が座禅數十日、更らに食を取らず、后醒めて徒弟に云て曰く、吾心魂神に通ず故に食せざるも飢えず、之卽禅那也、故に若し全身を猛火森水中に投ずるも何等苦痛なく成佛すべし、と云ひしことありしを以て、陳淪は深かく之を信じ、己れの未だ正定に達し至らざるを悟らず、自ら大悟徹底せるものと迷信し遂に焚死したるものなりと云ふ、兎に角開臺以来の一大珍事と云ふべし。



臺法月報第七巻第五號 1913年5月20日




以下;曾孫注 
一大珍事と書いているが、焚死した僧及び在家信者にとってはそこまでに至るなにかの理由があっての事だと思うのです。それこそ僧の焚死はその後、宗教宗派、國は違えど政治への非暴力の抵抗として行われたのは数知れず、また引用された法華経以外でも記載されているであろうと思われます。宗教指導者は自らも、また信徒にも死を負わせることのないように、実践的祈りで平和に導くことを願い、ご冥福をお祈りいたします。