臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

岩田正作『ケアセンター・木曜日』特別作品二十首(角川「短歌・十月号」掲載)

2016年10月27日 | 古雑誌を読む
○  さてここはいづくぞわれはなになるや目覚めてまづはわが思ふこと

 この連作を鑑賞せんとする、私たち読者に対しての作者・岩田正翁からご挨拶で以て、本連作は始まるのである。
 本作の作者・岩田正翁は、かねてから毎週一度、木曜日にご自身が通われているデイケアセンターで義務付けられている小一時間の昼寝から、今しも目覚めたばかりなのである。
 そして、起き抜けの岩田正翁の口から発せられたご挨拶の内容は以下の通りである。
 即ち、「私はたった今、当センター定例の午後の昼寝から目覚めたばかりではありますが、この際、本作の読者諸氏を肇とした、この広い宇宙空間に棲息している全ての生き物の方々に親しくご挨拶申し上げます。とは申しましたが、扨て、そもそも、私が斯くしている此処は、一体全体、何処の地であり、私は如何なる存在として此処にこうして居るのでありましょうかと、今の私は、斯く思っている次第であります」という訳なのである。
 この広い宇宙空間に棲息している生き物仲間に対してのご挨拶としては、少々惚けたような内容ではあるが、今年九十二歳になる後期高齢者の彼の起き抜けのご挨拶の言葉としては、なかなかに味のある言葉としなければなりません。  


○  こけさうな杖の男がよぎりたり支へんとしてわれはよろめく

 斯くして、我が国を代表する素っ惚けた味わいのある歌風を特質とする歌人・岩田正翁のデイケアセンターでの活動振りを見学する事を、私たち本作の鑑賞者は、作者の岩田正翁ご本人、及び、当センターの誇り高いセンター長様からご許可いただいた次第なのでありますが、なにせ作者はご承知の通りのご高齢でありますので、その語り口が朦朧としていたり、その内容が、時計回りに進行しなかったりするのであるが、其処の辺りの事情に就いては、私たち読者側が適当に斟酌した上で事に当たらなければなりません。
 扨て、岩田翁がこれから語られる一件は、彼ご自身が当センター差し回しの送迎車に乗せられて当センターに辿り着いてから約二時間後の事と思われる。
 今しも杖を突いた一人の老人が、彼・岩田翁の前を過ぎ行こうとしているのであるが、何せ、この老人は、岩田正翁と同年輩なので、辺りの人の目からすると、いかにもこけそうな感じなのである。
 それを見かねた男こそは私たちのヒーロー・岩田正翁なのであるが、止せばいいのに、人の好い彼は、彼の歳の頃は、彼と同年輩と思しき、件の「こけさうな杖の男」の身体を受け止め「支へん」としたのでありましたが、如何せん、皆様ご承知の通りの高齢者でありますので、彼の「こけさうな杖の男」の身体を「支へんとして」、逆にご自身がよろめいてしまったのである。 
 世に謂う「年寄りの冷水」とは、こうした事態を指して言う言葉でありましょうか?


○  センター長の朝のあいさつ重重と今日のお昼の献立つぐる

 二十首連作の三首目なのにも関わらず、彼・岩田正翁の話す内容は、時間の流れを益々無視しようとする傾向が見えて来るのである。
 さて、これから話す内容は、彼・岩田正翁が、当センター差し回しの送迎車を下車して、当センターの集会室に到着してから間もない時刻に発生した一件に就いてのものである。
 時は午前九時、今しも、当センターの誇り高きセンター長様が、私たちのヒーロー・岩田正翁を肇とした、後期高齢者の男女諸氏を前にして、持ち前の美声を発して「朝のあいさつ」に言葉を語り掛けているのである。
 彼の言葉は如何にも誇り高い彼に相応しく、「重重」とした調子で後期高齢者の男女諸氏に向かって発せられてはいるものの、その内容たるや何と驚いたことに、いつもの何ら変わり映えしない、「お昼の献立」に就いてであったのである。


○  左手にて杖たにぎればむかしわが竹刀とびて横面をうつ

○  右に寄り左にそれてまた戻るケアセンターの老いの歩行は

○  思ふでも考へるでもなく足とまる恍惚はきぬ数秒の間

○  駱駝には王子と王女月の砂漠老いとうたへば涙はにじむ

○  「帰ろかな」うたふ気ままな老いのこゑしはがれだみごゑ迫力がある

○  ちまたには戦争法案通りたりケアセンターでひとり焦れり

○  のうてんきまだらぼけなど老婦人十人寄ると圧力である

○  職員が子をつれくればしみじみと可愛いと泣く老いもありけれ

○  センターの窓に空見え鳥がゆくこころ遊ばす若き日のごと

○  マンションのベランダのシーツが雨に濡れいらだちてをりセンターのわれ

○  役立たずおのれを笑ひ飯くらふここセンターのお昼絶品

○  飯終へて飯はまだかとつぶやけり痴呆の老いの定番せりふ

○  とろとろと眠りはきたる午後一時ケアセンターはいのちの眠り

○  馬鹿正直ひとは笑へど自を守り戦中戦後たのしかりしよ

○  センターのボールにかはる紙風船撞きあふうちに真剣となる

○  七十超え八十超えいま九十二歳死神にわれ見放されたり


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