臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

古雑誌を読む(角川「短歌」1016年11月号)

2016年12月16日 | 古雑誌を読む
 「大学短歌会が行く!山梨学生短歌会」より


○ 一昨日の雪は春まで残るから知らないふりができると思う  入江結比

 作者の入江結比さんは、東京の渋谷界隈を歩いていると、世の男性の全てが振り向くような美貌の女子大生であろうと拝察されます。
 その彼女は、とある晩秋の一日に、「在籍している大学の敷地内の人影も無い某所に青春の形見の血塗れのランジェリーを埋めたのでありましたが、その夕方から雪が降ったので、『一昨日の雪は春まで残るから知らないふりができると思う」と、その二日後の黄昏時に思っているのかも知れませんし、また、「埋めたのはランジェリーでは無くて、片思いの恋人への手紙であるが、『一昨日の雪は春まで残るから知らないふりができると思う』」と、その二日後の早朝に思っているのかも知れません。
 斯くして、美貌の女子大生らしからぬ作者・入江結比さんの手管に依って、私たち本作の読者は、あれこれとあらぬ妄想に耽る事を強いられ、いつの間にか一首の世界にどっぷりと浸かってしまうのでありましょう。
 青春の真っ只中に身を置いて、時に喜び、時に哀しんでいるに違いない、作者のロマンティズムが十二分に発揮された傑作である。
 「知らないふりができると思う」の対象を明示していない点が魅力の一首である。
 

○ 何にでも終わりはあった清泉に花をひたして濡れる墓守   池川貴基

 今どき「墓守」を題材にした抒情歌を詠むとは、本作の作者・池川貴基さんこそは、大正浪漫の挿絵の奥から突如として現代社会に闖入した歌詠みでありましょう。
 歌い出しの二句「何にでも終わりはあった」とは、作中人物の「墓守」の口からふと漏れ出た遣る瀬無い感慨であると同時に、作者・池川貴基さんご本人のそれでもありましょう。
 と言う事は、作中の「墓守」は、本作の作者の池川貴基さんご本人であり、作者の池川貴基さんは、「清泉に花をひたして濡れる墓守」の如くにも、実り少ないご自身の青春を省みて、涙して居られるのでありましょう。
 就きましては、本作の作者・池川貴基さんに、この際、私から一言申し上げますが、池川貴基さんよ、貴方はこんなにもご立派な短歌をお詠みになられるのですから、決して、決して捨てたものではありません。
 貴方の周りには、素敵な素敵な女性が沢山居られます。
 貴方がお世話なさって居られる、山梨学生短歌会所属の入江結比さんだって、本山まりのさんだって、寺本百花さんだって、とてもとても素敵で素敵な女性なんですよ。
 そんなそんな素敵な女性たちに囲まれて居ての貴方の青春こそは、私たち後期高齢者にとっては、どんなに手を伸ばしても永久に届かない素晴らしい青春なんです。


○ 夜半くらき書庫に数多の息がありあなたは本になりつつ眠る 本山まりの

 本作の作者の本山まりのさんは、齢いまだうら若い文学少女である。
 彼女が文学少女である所以は、彼女が今日訪れた大学図書館の書庫に儚い夢を馳せている事に依っても説明されるのである。
 斯くして、齢いまだうら若い文学少女の本山まりのさんは、とある小説の頁を捲りつつも次の如き思いに浸るのである。
 即ち、「この小説は、今、斯くして私の情熱ほとばしる指によって捲られているのであるが、いずれ夜になると、この大学図書館の書庫深く蔵われるに違いない。とすると、この小説の作者であるあなたは、書庫の奥に蔵われている一冊の本となって、数多の本たちと共に、夜半に息づくに違いない」と。


○ 水滴がまだらな影をおとす膝終点のないバスがあるなら   寺本百花

 「終点のないバスがあるなら」という、作者・寺本百花さんの青春の願望を込めた下の句の表現は月並みであるが、「水滴がまだらな影をおとす膝」という、場面設定をした上の句がなかなか宜しい。
 作者の寺本百花さんは、校舎の裏の物陰に隠れて、彼から別れ話を語り掛けられているのでありましょうか?
 だとしたら、お腹の中に既に彼の子を宿している寺本百花さんにとっては、その別れ話には到底同意出来るはずはありません。
 彼女の履いたパンストには、校舎の屋根から滑り落ちる「水滴」の「影」が「まだら」状に映るのであるが、その影は、彼女の目から落ちる涙の「影」なのかも知れません。
 斯くして、本作の作者の寺本百花さんは、「『終点のないバスがあるなら』ば、彼といつまでも一緒に乗って居られるのに!」などとの、遣る瀬無い思いに浸るのである。


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