臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(16:絹・其のⅠ・人絹も近江絹糸も死語なれど)

2011年09月07日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  人絹も近江絹糸も死語なれど日々に新し貧乏の二字

 『ウィキペディア』に記載されている、「近江絹糸」の“人権争議”に関する記事を転載させていただきます。
 
 近江絹糸争議は、1954年6月2日から9月16日までの105日間にわたり、近江絹糸紡績において発生した大規模な労働争議。
同社は自社経営の近江高校生徒を工員のように使い、滋賀労基局から摘発されたのを始め、工員が彦根高校に入学したところ近江高校への転校を強制したり、女子は結婚すると退社、男子も結婚すると転勤で、結婚すると退社か別居しかなく、本社200人中家族と同居している者は専務1人だけであった。
また自宅通勤者もほとんどなく寮生活を強制していた。
6月2日、近江絹糸紡績労働組合(5月25日結成)が会社側に対して組合の承認、宗教行事への強制参加の中止、信書の開封・私物検査の停止、結婚・外出の自由、賃金体系の確立など囚人のような22項目の要求を行った。
これに対して会社側が拒否したことから6月4日より従業員1万3千人が工場にピケを張ってストライキに突入した。
6月14日、彦根工場では米国から帰国の夏川社長を迎え“工場防衛隊”と称する日雇人夫300人が正門前にピケを張り、新組合員の出入りを妨害。
6月15日、富士宮工場の第2組合(全繊加盟)と第3組合(会社派)が乱闘。
大垣工場では2度の乱闘で重傷12人。会社側は大阪市内の浮浪者を多数雇い入れ、各工場へ送り込んだ。夏川社長は「大体今度の争議は労働争議とは思わない。全繊はじめ外部団体の暴力行為である。それなのに警察は見て見ぬ振りをしている」と発言。
 6月18日、近江絹糸の争議を重視した法務省は人権蹂躙の疑いで調査に乗り出し、労働省では労使双方に対し早期解決を勧告。
 6月23日、岸和田工場を閉鎖、全員600人を解雇。
 7月3日、第2組合東京支部執行委員中村五郎氏(19)が夏川一族へ抗議の遺書を残し、熱海で列車に飛び込み自殺。
 7月4日、夏川社長は視察のため岸和田工場に大型キャデラックで乗りつけ、見廻って帰ろうとしたところを第2組合員に囲まれ頭を2度殴られ、6日の団交に「重傷のため」出席出来ぬと伝えた。
 7月13日、富士宮工場で原料製品搬入をめぐって警官隊と第2組合とで2度の乱闘。重軽傷者37人。
 7月16日、労働省は近江絹糸に対し職員募集認可の停止など強制措置を取ることに決定。
 7月17日、中労委会長職権による斡旋決定。富士宮の第3組合は第2組合(全繊)に合流。
 7月18日、労働省は労働基準法違反の疑いで近江絹糸の本社、各工場など一斉捜索し、証拠書類多数を押収。
 8月4日、前日中労委が提示した“争議の停止”を目標とする斡旋案に「人権など組合要求を無視したまま武装解除するものだ」と大阪本店支部などが拒否表明したが、全繊側は“受諾”の方向で説得、労使が解決案に調印、62日間のストに終止符。今後は全繊を除く団交となる。
 8月9日、就労問題で労使対立、団交決裂。
 8月13日、中労委の斡旋案は組合側が全面拒否を回答、会社側は全面受諾に難色を見せ、中労委は斡旋を打ち切り、組合は第2次ストに突入。7工場で職場放棄。富士宮では市民多数が警官と工場に投石。食料、燃料を全部大阪から買って地元に金を落とさない、機械の重油が田に流れても善処しないなど工場への市民の不満が表面化。
 8月22日、先に24人の解雇を通告した会社側は、渡辺第2組合長以下執行部幹部ら45人を解雇。
 8月23日、夏川社長以下各工場長など32人を一斉に書類送検。
 9月16日、中央労働委員会斡旋案を労使双方が受諾、労働組合側の要求が全面的に認められた。
 円満調印、一斉に操業再開した。
 革新政党や全繊同盟の全面的支援という要素が大きかったものの、“人権争議”と呼ばれたように、経営側の労働三権をはじめとした基本的人権を無視した戦前以来の前近代的な労務管理の継続に対しては、従来から不当労働行為として当局の警告を受けていたのを経営側が無視していたことに加え、更に多数の未成年女子紡績工を含む労働者が「格子なき牢獄」に置かれているという実情が明らかとされたことや会社側の弾圧に対する抗議の自殺事件まで発生するに至り、世論の同情を強く集めたことが労働組合側の勝利の背景にあったとされている。              以上、転載終わり。
 
 なお、作中に「人絹も近江絹糸も死語なれど」とありますが、「近江絹糸」は、社名こそ“オーミケンシ株式会社(英称:Omikenshi Co., Ltd.)と替えてはおりますが、大阪府大阪市中央区瓦町に本社を置き、“レーヨン綿・糸、各種ニット”などの製造販売を行う企業として、未だに存続しております。
 それにしても、「日々に新し貧乏の二字」という下句の表現は、皮肉たっぷりと言いましょうか、批評精神の表れと言いましょうか?
 〔返〕  貧乏は死語になったと思ってた益々元気にご活躍とは    鳥羽省三
      近江絹糸はカタカナ名前に名を変えてまだ大阪で存続してる
      人権を奪いながらも人絹を作っていたとは驚きました


(天国ななお)
○  アイロンの温度を絹に設定し待ってると鳴る三時の時報

 「『アイロンの温度を絹に設定し待ってる』時間は、ほんの二分程度に過ぎません」とは、連れ合いの翔子の言葉である。
 ということになると、「アイロンの温度を絹に設定」したのは、午後二時五十八分ということになりましょうか?
 で、「三時の時報」が鳴ったからといっても、天国ななおさんはお茶するわけでも、お買い物にお出掛けになるわけでもありませんから、「おお、三時か!」と呟くだけのことでありましょう。
 念のため申し上げますが、お買い物にお出掛けになる場合は、「アイロン」の電源を抜いてからお出掛け下さい。
 本作を評して「ただごと歌」と仰る向きもありましょうが、それはそうとしても、作者としては、ただ単に出来事を報告しようとしたのではなく、ある日ある時の、ご自身の心の動きを歌にしたのでありましょう。
 〔返〕  「三時か!」とテレビ点けたら“鬼兵”が始まる前のCMでした。   鳥羽省三


(みずき)
○  ほらほらと生絹(すずし)のころも纏ひゐし乙女ぞ青き恋に堕ちたる

 「ほらほらと生絹(すずし)のころも纏ひゐし乙女」とは、清楚にして純朴な性格の少女を指して言うのでありましょうか?
 その少女が、それから間も無く「青き恋に堕ちたる」ということですが、「青き」と「堕ちたる」との表現の矛盾に着目しなければなりません。
 「青き」とは、「彼女の年齢が『恋』の相手に相応しくない」ことを言い、「堕ちたる」とは、「妻子ある中年の男性の姦計に嵌って、道ならぬ道を歩むようになった」ことを惜しんで言うのでありましょうか?
 評者は、彼の「乙女」が、妻子ある中年男の手によって、無理矢理、身に纏っていた「生絹のころも」を剥れる場面を想像して、つい、うっかり、興奮してしまいました。
 それはそれとして、詠い出しの副詞「ほらほらと」が、姦計に嵌る前の彼女の清純さを想像させて、非常に興味深い表現であり、卓抜した表現でもある。
 〔返〕  「ほらほら」と白きもの手にかざしたる「これが中原中也のお骨」   鳥羽省三


(tafots)
○  絹に似た化繊で良いし君に似た誰か愛してくれる人で良い

 つまるところは、「外形さえ似ていれば、紛い物で宜しい」と仰っているのである。
 女日照りの昨今でありますから、其処まで安売りする気になれば、引く手あまたでありましょう。
 〔返〕  金魚で無く泥鰌でいいし小沢派を味方にすれば当分安泰   鳥羽省三


(砂乃)
○  絹糸で縫い閉じましょう母さんのお腹に石は残したままで

 「母さん」ではなく、お腹を空かした“狼婆さん”と知っているのに、「絹糸で縫い閉じましょう母さんのお腹に石は残したままで」と言っているところが、赤頭巾ちゃんの優しいところとバランス感覚に優れたところである。
 いかにも砂乃さんらしい、優れた作品である。
 〔返〕  ホッチキスで閉じときましょう狼のお腹に瓦礫沢山詰めて   鳥羽省三   

(紫苑)    「横浜スカーフ」を詠む
○  生糸積みし港の名残り横濱(はま)の名を今に伝ふる絹のスカーフ
(七十路ばば)
○  開国の横浜港より船出した絹糸の故郷富岡製糸所

 “七十路ばば”さんの作品中の「富岡製糸所」は、官製の製糸工場として、明治5年10月4日(1872・11・4)に操業を開始した。
 開港当初の「横濱」から船積みされた「生糸」の主産地は、我が国最初の器械製糸工場たる富岡製糸場であったが、時代の推移と共に、やがて全国各地に器械式製糸工場が設置され、神奈川県に於いても、愛甲郡半原地区などで小規模ながらも生糸の器械式生産が始った。
 かくして、当初、原糸だけを輸出していた我が国の製糸業界が加工品にも手を染めるようになり、絹製品の輸出も行うようになったのであるが、“紫苑”さんの作品中の「絹のスカーフ」は、その時代の名残りとも申せましょう。
 〔返〕  七彩に帷子川に影映す横浜スカーフ淑女のたしなみ   鳥羽省三   


(アンタレス)
○  絹ざやのすじを取りつつテレビ見るあの頃の吾の嬉し息抜き

 “絹莢”を「きぬさや」と読むか、「きぬざや」と読むかについては、作者の言語感覚が試される場面と思われる。
 あの透けるように柔らかな“莢”に入った、若々しい莢入り豌豆を、わざわざどうして「絹ざや」などと濁音化して読む必要がありましょうか?
 その点について、本作の作者・アンタレスさんは猛省しなければなりません。
 また、「あの頃の吾の嬉し息抜き」という下句の表現についても、推敲不足が指摘されましょう。
 嬉しくない「息抜き」が在りましょうか?
 感情表現は、極力避けるべきでありましょう。
 〔返〕  絹さやのすじを取りつつショパン聴く若き母なる汝が安らぎに   鳥羽省三


(原田 町)
○  オマーン産絹さやなるが売られをりオマーンはいづこ聞かれ分からず

 同じ野菜・絹莢を、原田町さんは正しく「絹さや」と仰っているのである。
 しかも、原田町さんの作品に登場する「絹さや」は「オマーン産」であり、アンタレスさんの作品に登場する「絹ざや」は、おそらくは“国産”でありましょう。
 一体、どちらが新鮮で、どちらが香り豊かで美味しい「絹莢」でありましょうか?
 「オマーン産」の「絹さや」は、原油の匂いがするかも知れませんよ。
 〔返〕  オマーン産絹莢なるを買ひしとふオマーンは中東マスカットが首都だ   鳥羽省三


(足知)
○  背中からあなたにゆっくり抱かれたら絹ごし豆腐のように崩れる

 語感覚の問題ではあるが、「ゆっくり抱かれたら」ということは無いかと思われますが、いかがでありましょうか?
 〔返〕  背中からあなたにそろりと抱かれたらティラミスのごと崩れてしまう   鳥羽省三


(青野ことり)
○  絹糸のようなやさしい雨に濡れ 泣いていないよ泣いていないよ

 「泣いていないよ泣いていないよ」なんて仰ってますけど、「泣いていない」のに、どうして「泣いていないよ泣いていないよ」なんて仰る必要がありましょうか?
 そんなことを仰っていること事態が、現に貴女は「泣いて」いる証拠ではありませんか。
 うそ言ってはいけません。
 「泣いて」る女には愛される資格がありますが、うそを言う女には愛される資格がありませんから。
 〔返〕  雨に濡れ泣きじゃくる子が愛しくて傘差し掛けた相合傘を   鳥羽省三 


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