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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『蜘蛛の糸・杜子春』 芥川龍之介

2010-01-13 22:49:21 | 小説(国内男性作家)

地獄に落ちた男が、やっとのことでつかんだ一条の救いの糸。ところが自分だけが助かりたいというエゴイズムのために、またもや地獄に落っこちる『蜘蛛の糸』。
大金持ちになることに愛想がつき、平凡な人間として自然のなかで生きる幸福をみつけた『杜子春』。
魔法使いが悪魔の裁きを受ける神秘的な『アグニの神』。
健康で明るく、人間性豊かな少年少女のために書かれた作品集。
出版社:新潮社(新潮文庫)



ここに収録されている作品は、すべて一度は読んだことがある作品ばかりだ。
だがどの作品も、再読にもかかわらず、楽しんで読むことができる。

年少者向けに書かれたということもあり、たとえば『犬と笛』『アグニの神』『仙人』『白』などは物足りなさはあるものの、基本的にエンタテイメント性があって、退屈するということはなかった。
芥川龍之介という作家の上手さを体感することができる。


しかし、ずいぶん久しぶりに読む作品ばかりなので、作品から受ける印象が変わっているものも多い。

特に表題作の『蜘蛛の糸』などはそうだ。
正直こんなに偽善的な作品だったのか、と読み終えた後では驚いている。

『蜘蛛の糸』と言うと、カンダタのエゴイズムについて触れられる場合が多い。
けれど、本当に言及すべきは、御釈迦様の行動にあるのではないだろうか、と今回は思った。

苦しんでいるやつがいる⇒かわいそうだな⇒じゃあ支援をしてあげよう⇒でもそれが原因で何かが起きても当人たちの問題だよね、俺には関係ないよ。
この話の中の御釈迦様の行動は、そう言っているのと同じと僕には見える。

確かに極楽に登れるか否かは、カンダタの自己責任と言われればそれまでだ。
だが最後まで面倒を見、責任を取る気がないのに、希望を少しでも見せようとした、御釈迦様の行動は残酷でもあるのだ。
それは御釈迦様の偽善めいた、ただの自己満足ではないか。強者が強者であることを利用して、弱者を手のひらで弄んでいるだけではないか。
俗っぽい僕はそう思わなくもない。

僕は偽善のすべてを否定するつもりはない。そもそもすべての善には偽善の匂いがつきまとう。
だがこの御釈迦様の行動は、仏教の最高位にいる存在のわりには、ずいぶん身勝手な偽善である。
そういう意味、この世には完璧な存在などいない、という教訓を本作は含んでいるのかもしれない。
もちろん深読みだ。


『蜜柑』も以前読んだときとは印象が違っていて驚いた。
だがこちらは『蜘蛛の糸』のようにネガティブな変化ではない。
こんなにも美しい作品だったのか、というさわやかでポジティブな印象である。

以前読んだときも、それなりに良いと思ったものの、ただの小品だなという以上の印象を受けなかった。
だが、今回再読し、ラストまで読んだとき、ただの小品という印象は吹き飛んでしまった。

そう思った理由の一つは、少女が蜜柑を投げ上げるシーンの美しさにあるのだ。
そのシーンは描写も鮮やかで、余韻も美しい。そしてそれゆえに、むちゃくちゃ心に沁みるのである。
まさに名シーンだ。

そしてもう一つは、「私」の心の変化にある。
それまで倦怠感を漂わせ、ある種の意地の悪い気持ちで少女を眺めていたのに、少女の行動を見て、マイナスに沈んでいた感情は、プラスへと変化する。
その心象のダイナミズムが小気味よくて、読みながら深く感動してしまう。

紙数は少ないけれど、芥川の作品では、まちがいなく上位に入る一品と、確信した。


そのほかにもおもしろい作品はある。
皮肉の利いたラストが心に残る『魔術』。
説教臭い話なのに、それを感じさせず、楽しく読ませてくれる『杜子春』。
昂揚感から不安へと変化していく少年の心理を、短くも的確に描写していて印象的な『トロッコ』。
芥川らしいアイロニカルな視点が楽しい『猿蟹合戦』、など。


物足りない部分こそあるものの、芥川龍之介の才気を味わうことができる。納得の小品集である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの芥川龍之介作品感想
 『河童・或阿呆の一生』
 『戯作三昧・一塊の土』
 『奉教人の死』
 『羅生門・鼻』

『草枕』 夏目漱石

2009-10-08 21:15:42 | 小説(国内男性作家)

智に働けば角がたつ、情に棹させば流される―春の山路を登りつめた青年画家は、やがてとある温泉場で才気あふれる女、那美と出会う。俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然主義や西欧文学の現実主義への批判を込めて、その対極に位置する東洋趣味を高唱。
『吾輩は猫である』『坊っちゃん』とならぶ初期の代表作。
出版社:新潮社(新潮文庫)



『草枕』は十代のころに一度読んだことがあるが、はっきり言って何がおもしろいのか、さっぱりわからなかった。
率直に語るなら、つまらないとさえ感じたものである。

今回、十数年ぶりに『草枕』を読み返したのだが、思っていた以上におもしろかったので驚いている。
だがそのおもしろさは、楽しいという意味合いでのおもしろさとは少し違う。
どちらかと言うと、興味深い、といった方が適切なおもしろさなのだ。


楽しいと違う、と感じた点は、やはり筋書きがあってないようなものだからだろう。
「俳句的小説」という形容がされているみたいだが、言い得て妙である。
解説にもあったが、小説中で、主人公は、小説の筋なんかどうでもいい、ぱっと開いて漫然と読むのがおもしろい、って感じのことを書いている。
そのことからしても、作者は筋書きのことをそこまで意識してはいなかったのだろう。

この小説で問題になるのは、俳句のように、一瞬の情景を切り取ることにあるのだと思う。
画家を主人公に据えているため、そこら辺りの考えは徹底されている。
主人公は己の境地を離れ、情景だけをただ客観で見ることこそ、雅であると思っているらしい。自我というものにこだわり、主観的に見ることを、生々しく俗っぽいと考えているようにも見える。
あるいはそれは、俳句の用語を使うなら、「軽み」ってやつを追求しているのかもしれない。
そういう点、いかにも高等遊民的で偏屈な考え方なのだが、それを小説や人間社会への考え方にまで応用しようとする発想は実に鮮やかだ。


そんな高等遊民というインテリを主人公にしているだけあり、文中に出てくる学識はかなりのものがある。

たとえば文学に対する知識で言うなら、漢詩や俳句、英語の詩まで登場して博学だし、主人公がつくる俳句もいくつかはおもしろい。
また画家が主人公だけあり、絵に関する理論も興味深い。特に裸体画に関する考えなどはそういう視線もあるのだな、と気づかされて、刺激的だ。
それにミレイのオフェリヤのような絵を描くにはどうすればいいのか、考えているところも個人的には好きである。

衒学的な部分以外でも、主人公独自のおもしろい意見があり、いくつかは感心させられる。
「人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる」という文章が個人的には気に入っている。
そこからは主人公の偏屈さがうかがえるようで笑ってしまうのだが、同時に、押し付けがましい社会に対する反発心と批判を訴えているようで、なかなか勇ましい。


なかなかどこが良いかを伝えにくい作品ではあるが、上述のように主人公の視点や思考が目を引く作品である。
もちろんそれらを伝える文章のリズムが良い点は言うまでもない。
「智に働けば角がたつ」で有名な冒頭部はもちろん、どの文章もリズミカルで読んでいても心地よい。

『草枕』は漱石のベストではないだろう。だが一読忘れがたい作品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)


そのほかの夏目漱石作品感想
 『門』

『パンドラの匣』 太宰治

2009-09-15 21:49:54 | 小説(国内男性作家)

「健康道場」という風変りな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた表題作。社会への門出に当って揺れ動く中学生の内面を、日記形式で巧みに表現した「正義と微笑」。いずれも、著者の年少の友の、実際の日記を素材とした作品で、太宰文学に珍しい明るく希望にみちた青春小説。
出版社:新潮社(新潮文庫)



『パンドラの匣』は、明るさが前面に出ている作品である。
作者である太宰はこの数年後に自殺するわけだが、この作品を書いた人間がそんな風に人生を終えるとは思えないほど(そういう読み方は正しくないだろうけど)、作品全体に漂う雰囲気はポジティブだ。
その理由は、以下のものであろう、と僕は思う。
一つは結核療養所に入所している主人公のひばりが若いという点、そしてもう一つは、彼の周りにまっとうな大人がいるという点だ。

ひばりは、若者であるがゆえに、ときとしてとことん青臭いところがある。
だが彼が青ければ青いほど、ビルドゥングスロマンめいた味わいを感じることができるのだ。それが個人的には清新な印象を受ける。

さて、主人公であるひばりの生活で中心になってくるのは恋だ。
実際、彼は結核療養所の助手に恋をしている。
その真実が明らかになるのは、最後の方になってからだが、そこに至るまでにも、恋をほのめかすような雰囲気があって、それが読んでいておもしろい。
特に、マア坊と竹さんとのやりとりは良かったと思う。そこにある微妙なとしか、言いようのない空気感がなかなかいい感じだ。
つくしからもらった手紙を巡るマア坊との会話は(特にカアテンのところの下りは)心に残るし、竹さんのことで嘘をついていたことを手紙で吐露する部分は切なく、同時にちょっとした若さも感じられて、胸に迫ってならない。
彼が最後の手紙で告白した嘘も、ある意味、彼のいい意味での未熟さの表れなのだろう。
だがそれはとっても純粋で、まっすぐなものであり、心に響いてくる。その辺りの描き方は見事だ。

また花宵先生のラストの言葉もなかなか美しい。
その言葉からは、戦争が終わり、新しい時代に向けて生きていこうという希望のようなものが感じられ、読んでいて清々しい気持ちにさせられる。
『パンドラの匣』というタイトルが示すように、その中には希望を信じようという力強い意思が見えてくるようだ。
そして、そのポジティブで、明るいラストゆえに、『パンドラの匣』は青春小説らしい輝きを備えていると、僕個人は思う次第である。


併録の『正義と微笑』も若者を主人公にしているため、どこか青臭い面のある作品だ。
ただし、『正義と微笑』は『パンドラの匣』と違い、若者を主人公にしていると言っても、清々しいわけではない。

実際、『正義と微笑』の主人公は、『パンドラの匣』の主人公と違って、ちょっとイヤな奴だ。
世間知らずなくせに、生意気で、相手の事情を忖度せず他人を軽蔑する傾向があるし、物事の見方が単純な面もある。読んでいてイラっとしてしまうところもなくはない。
だがそれもまた、若者らしいと言えば若者らしい。
そういう性格の人物ということもあってか、幾分危なっかしいところがある。だが読んでいる分には、その危なっかしさこそひとつの魅力だろう。
若者らしさが最終的に失われる過程も含め、それなりにすてきな作品に仕上がっているという印象を受けた。


『パンドラの匣』、『正義の微笑』共に、太宰のベストではないかもしれない。
だが、太宰の違った魅力を示す作品ではないか、と僕は思う。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの太宰治作品感想
 『ヴィヨンの妻』
 『お伽草紙』
 『斜陽』
 『惜別』

『終の住処』 磯憲一郎

2009-09-07 21:25:25 | 小説(国内男性作家)

30を過ぎて結婚した男女の遠く隔たったままの歳月。ガルシア=マルケスを思わせる感覚で、日常の細部に宿る不可思議をあくまでリアルに描きだす。過ぎ去った時間の侵しがたい磐石さ。その恵み。人生とは、流れてゆく時間そのものなのだ――。小説にしかできない方法でこの世界をあるがままに肯定する、日本発の世界文学!
第141回芥川賞受賞作。
出版社:新潮社



『終の住処』という小説は、リアルな部分もあるけれど、どこかが変にゆがんでいる。

リアルだと感じた理由は、夫婦の細かな描かれ方に尽きる。
結婚してないから、細かいことは知らんが、不機嫌になった妻との微妙な距離感と関係性や、結婚してから自分の周りに生れる変化、子どもに対する愛着や、子ども中心に生活が回っていく描写などは、何となくそう感じさせてくれる。

だがそのリアルの合間に、変な展開が並列されていて、それがおもしろい。
たとえばこの夫婦、妻の方がときどき夫にはよくわからない理由で不機嫌になり、それが原因で互いに口を利かなくなることがあるのだが、だからとはいえ、
翌朝、妻は彼と口を聞かなかった。
次に妻が彼と話したのは、それから十一年後だった。
って部分には読んでいて、ちょっとびっくりしてしまった。
いやいやどんな夫婦だよ、と思うのだけど、その奇妙な飛躍の仕方がなかなか興味深い。
ほかにもちょっと考えたら変な部分がいくつか見られ、そういった不可思議な点が目を引く。


だが本当に変なのは、そんな状況に巻き込まれる主人公の方かもしれないなとも思えてくる。
彼は結婚後、しばらくしてから不倫をすることになるのだが、その一つ一つの現象に対して、いちいちもったいぶった理屈を付け加えて、くそマジメに思考したりしている。

たとえば、妻が不機嫌なのは、自分が将来浮気することをわかっていたためだ。彼女はそれを予見して、復讐するため、自分と結婚したんだ。って考えるところには、ちょっと笑ってしまう。
どういう風に考えれば、そうなるのだろう、とは思うのだけど、その変人っぷりはおかしい。


だがこの人はやたらいろんなことを思考するけれど、それだけなんだよな、という風に僕には感じられる。
基本的に、彼は運命論者のようなところがある。
そのためか、彼はその場の状況に合わせ、自分の役割を適当に当てはめているだけでしかないのだ。少なくとも僕にはそう見える。

ならばそんな風に、場の空気に適応していくうちに、つくり上げ、維持していくこととなった夫婦関係と家族関係というものは一体何なのであろう。そんな問いが読んでいる間、ふと浮かんでくる。
その問いに対して、この小説はあまり答えてくれているようには見えない。
だが本作を読み終えた後、結婚とか家族を持つという行為に対し、ある種の冷たさというのか、若干の虚しさを僕は感じる。


共感に乏しいということもあってか、全体的に見ると、いまひとつパンチの弱い作品だけど、奇妙な展開や、読後の虚しさも含め、独特の味わいある作品に仕上がっている。
好き嫌いはあるが、興味深い作品と言えるだろう。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかの芥川賞受賞作品感想
 第128回 大道珠貴『しょっぱいドライブ』
 第134回 絲山秋子『沖で待つ』
 第135回 伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』
 第136回 青山七恵『ひとり日和』
 第137回 諏訪哲史『アサッテの人』
 第138回 川上未映子『乳と卵』
 第139回 楊逸『時が滲む朝』
 第140回 津村記久子『ポトスライムの舟』

『きつねのはなし』 森見登美彦

2009-08-20 22:33:45 | 小説(国内男性作家)

「知り合いから妙なケモノをもらってね」籠の中で何かが身じろぎする気配がした。古道具店の主から風呂敷包みを託された青年が訪れた、奇妙な屋敷。彼はそこで魔に魅入られたのか(表題作)。
通夜の後、男たちの酒宴が始まった。やがて先代より預かったという“家宝”を持った女が現れて(「水神」)。
闇に蟠るもの、おまえの名は? 底知れぬ謎を秘めた古都を舞台に描く、漆黒の作品集。
出版社:新潮社(新潮文庫)



この作品集でもっとも目を引いたのは文体だ。
その語り口は、淡々としており、静謐さすら感じられる。加えてどこか詩的でもあり、非常に印象的だ。
この作品集で描かれる京都は、少し妖しげな雰囲気があるのだが、その空気を描くにあたり、この文体が見事なくらいにマッチしている。
森見登美彦と言えば、饒舌体の一人称が得意というイメージが強いけれど、こういう内田百を想起させるような文章も、使いこなせるらしい。才筆である。

その文章で描かれる世界は、先に触れたが、どこか妖しく、不穏なものすら感じられる。
文中から不気味さがにじみ出ており、その様が読んでいてぞくぞくする。
くわしく語りすぎていないため、物語中には余白があり、その余白が空恐ろしい空想をかき立てる力にもあふれている。その技術は洗練されていると言っても言い過ぎではあるまい。。
また収録された四作品に、強固ではないものの、ゆるやかな連関性があるのも趣向としてはおもしろい。


個人的には『魔』が一番気に入っている。
一番目を引いたのは、「私」が魔に魅入られる状況だ。魔に関する描写はどこか薄気味悪く、そのため読んでいてひやりとした感触を覚える。
その魔が結局何なのか、くわしいことはわからないのだけど、語りすぎず、しかし決して言葉足らずになることなく、言葉をつむいでいる点は上手い。そのため、読み手の想像力をあおるものがあり、いろいろなことを想像せずにはいられないのだ。
最後にきれいなオチをつけなかったのも、個人的には好印象である。

そのほか収録の三作品も、『魔』と同じく世界観の造形がすばらしい。
『きつねのはなし』は天城の存在感が、『果実の中の龍』は先輩の悲しみが、『水神』は何者か判別できないからこその恐ろしさがある水神の存在が、それぞれ心に残っている。


ややもったいぶりすぎたところがあり、それが全体の印象を大きく損ねているけれど、ちょっと恐ろしい世界をしっとりと叙情的に描き上げている点は一読忘れがたい。何とも達者な作品集である。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかの森見登美彦作品感想
 『新釈 走れメロス 他四篇』
 『太陽の塔』
 『夜は短し歩けよ乙女』

『しろばんば』 井上靖

2009-07-27 22:02:31 | 小説(国内男性作家)

洪作少年は、五歳の時から父や母のもとを離れ、曽祖父の妾であったおぬい婆さんとふたり、土蔵で暮らしていた。村人たちの白眼視に耐えるおぬい婆さんは、洪作だけには異常なまでの愛情を注いだ。――野の草の匂いと陽光のみなぎる伊豆湯ヶ島の自然のなかで、幼い魂はいかに成長していったか。
著者自身の幼少年時代を描き、なつかしい郷愁とおおらかなユーモアの横溢する名作。
出版社:新潮社(新潮文庫)



本作は明確な筋と呼べるものがあるわけではない。
そのため散漫な印象を受けてしまうし、結局何が言いたいんだろう、と読んでいる間、思うこともある。
だがそんな印象にもかかわらず、本書は非常におもしろい小説である。
その理由はいくつもあるけど、やはり個性的な人物たちの存在が大きい。


特におぬい婆さんがおもしろい。
この人は基本的に偏見まみれで、好き嫌いはかなり激しく、そのため人とぶつかることもしょっちゅうだ。
上の家の娘たちに対する毒舌は激しく、しかもその毒舌の内容も、あまり筋は通っていない。
だからこそ、彼女の言動はすごくおもしろい。

それに、主人公への偏愛っぷりにも笑ってしまう。
主人公が成績で一番が取れなかったのは、先生が悪いのだ、と思い込み、乗り込もうとするなど行動はいちいち過激だ。
とにかく、非常にキャラが立っているのである。そのあくどいまでの個性こそ、おぬい婆さんの魅力だろう。


そのほかにも個性的な人間が多く、それを丁寧に描き取る作者の筆は冴えている。
気が強く、理路整然としていて、融通の利かない母の七重や、気位が高くおしゃまな少女の蘭子、主人公にとって姉のような存在だった叔母のさき子、自分が悪いといつも思い込んでいる祖母、常にむっつりした顔をして、主人公にまったく伝わらないような形でしか親愛の情を示せない校長の伯父などなど。

それらの人間に対する、作者の描き方が丁寧なのである。
それだけにそれぞれの人物がどう考え、動いているのかが、何となく伝わってくる。
その繊細さが読んでいても心地よい。


そういう個性派に囲まれているせいか、キャラクターという観点だけで言うなら、主人公の洪作の存在は地味だ。
だが彼もまた読んでいて、愛すべき存在だと幾度も思うことができる。

それは主人公洪作の心理が、非常に丁寧に描かれているからだろう。
それだけに、彼の心理を追って読んでいると、ときどきある種のなつかしさに襲われるのである。
なぜなら彼と同じような心理を、僕も少年期に経験しているからだ。

たとえば、肉親の行動を恥ずかしいと思ったりする点や、妙なプライドから気恥ずかしさを覚える部分、変な意地から人に対して、ことさら反発するようなことを言ってみたりするところなどは、僕にも非常によくわかる。

個人的には豊橋に向かう汽車の中で、不必要によその女を疑うシーンが気に入っている。
それは子供なりの責任感から来る短絡的な思考だ。
だが僕もガキの頃、そういうプロセスで物事を考えたことがあった。
そんなこと、いまのいままで完全に忘れていたことなのだが、それだけに非常になつかしい気分に襲われ、ぐっと胸に迫ってならない。


そうして心理プロセスを、順々に追っているということもあってか、主人公が成長していっているんだな、ということが何となく手応えをもって伝わってくる。

特におぬい婆さんが死んだと聞かされたときのシーンがすばらしい。
そのとき洪作は「自分がこの世にひとり取り残されてしまったような気持ち」になっているが、同時に「これでひとりになれたといった解放感」も感じている。

洪作は本当におぬい婆さんを思って生きていたのだろう、と逆説的だが、そのシーンを読むと思うのだ。
おぬい婆さんが好きだから、彼女を傷つけないようにと、彼はいつもふるまってきた。
それゆえに、おぬい婆さんが死んだとき、もう気兼ねもなく、縛られるように生きていかなくてもいいと思うことができたのだろう。
その心理描写が、細緻でリアルですばらしい。
そしてこの先も彼はしっかり生きていくのだろう、という何とはない雰囲気を感じ取れる点も良かったと思う。


全体的な印象で言うと、本作は何ともつかみどころのない作品だろう。
だが、繊細な雰囲気を、丁寧に描いたなかなかの佳品であると思う。
少年期のなつかしさも呼び起こす、とてもすてきな一品だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『流星ワゴン』 重松清

2009-07-14 21:44:10 | 小説(国内男性作家)

死んじゃってもいいかなあ、もう…。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして―自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか―?
「本の雑誌」年間ベスト1に輝いた傑作。
出版社:講談社(講談社文庫)



主人公の「僕」は、リストラに合い、家庭崩壊の現実に直面する中年男性である。
そんな主人公の状況を、僕は身につまされながら読んでしまった。別に結婚をしているわけではないのだが、基本、男目線の物語だというのが大きいのかもしれない。
そのため、特に前半部などは読んで結構へこんでしまう。

彼は自分の家庭はうまくいっていたと思っていた。だが、妻には離婚を求められ、受験に失敗した息子は家庭内暴力をふるうという現実を迎えることになる。
その原因のすべてを主人公だけに帰するのは酷だが、彼自身、自分の家族に対して、あまり良い対応をしていたとは言い難い。
妻の不審な行動に気付きながら、それを知ろうと積極的に動くこともなかったし、自分でも知らないうちに子供に対して無神経な言葉を吐いていた。そのことを過去を旅するワゴンの力を通して知ることになる。
その描写はどこか残酷で、にじみ出るような後悔が、読んでいてひしひしと胸に迫る。


しかし本作は、暗いままで終わっているわけではないのである。
この作品において、主人公を取り囲む環境は、最初から最後まで、基本的には何も変わらず、未来は無条件に明るいとは言い難い。

しかし主人公はそういった明るくはない状況を受け入れようとしている。
それを一見すると、主人公のあきらめのようにも見えるが、あきらめというには少しポジティブだ。
正確に言うなら、それは現状に対する理解だろう、と僕には見える。

妻がほかの男に抱かれ、子が受験に破れ、親である自分のことを憎むことがある。それでも、主人公の「僕」はそれを理解し、受け入れようとしているのだ。
裁くようなことはしないし、自分の望む方向へ、何とかして相手の意思をねじ曲げようとはしない。だが自分なりに状況を良くしようと、彼なりに努力を試みている。
その態度は非常に好ましい。
それはつまり、自分の現状に対してやさぐれたり、自分のことをかわいそうだと思って被害者づらするのをやめたことを意味しているから、そう感じるのだろう。
その前向きな態度は、確かな一歩と言え、明るいのが印象的だ。


そして「僕」がそういう心境に至ったのは、チュウさん、こと「僕」の父の存在も大きいと思う。
「僕」は若いころの父親に会うことで、自分の親を一人の人間として受け入れていくことになる。
そしてそういう心情に至ったことで、近すぎて見えなかった自分の家族との距離も見直すことができたのかもしれない。
それは、妻や子といった役割を通してではなく、一人の人間として相手を眺めたものなんじゃないかと僕個人は思う。


もちろんそういう心境に至ったところで、どうにかなるわけではない。
彼なりに何かをしようと試みても、意地悪に言うなら、同じような失敗をくり返す可能性もある。
だがその心境に至ることができたからこそ、「僕」はこの先、失敗や後悔のようなネガティブなものに襲われても、それらを受け止め、何とか乗り切れるだろうと思うのだ。

その読後の爽やかさが心地よい。
そしてそのポジティブな雰囲気ゆえに、本作は胸に響く一品になりえているのである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『ヴィヨンの妻』 太宰治

2009-07-13 21:08:19 | 小説(国内男性作家)

新生への希望と、戦争を経験しても毫も変らぬ現実への絶望感との間を揺れ動きながら、命がけで新しい倫理を求めようとした晩年の文学的総決算ともいえる代表的短編集。家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、新しい家庭への夢を文学へと完璧に昇華させた表題作、ほか『親友交歓』『トカトントン』『父』『母』『おさん』『家庭の幸福』絶筆『桜桃』、いずれも死の予感に彩られた作品である。
出版社:新潮社(新潮文庫)



太宰の作品は暗い、とよく言われる。
太宰だって明るい作品も書いていたんだという反論はあるけれど、暗い作品が多いこともまた事実である。
本短篇集収録の作品は、自殺前ということもあってか、明るいと言い切れない作品が多い。

『父』とか、『おさん』とか、『家庭の幸福』などは、暗い作品の代表格と、僕個人は思う。
そこに描かれていることすべてが、作者個人に実際起きたことではないだろう。
だがそのように自分の戯画のようなものをを描くことで、自分の行動に対し、あらかじめ言い訳を用意しているように見える。それは打算的で、自意識過剰で、逃げ道を用意しておく、いくらか卑怯な姿だ。
その描写は、読んでいてにやりとさせられる面はある。
だが少しいらっとしてしまう自分もまた否定できない。


だがどんな暗い作品でも、終始一貫、暗いだけで終わっているわけでもない。
暗いがゆえに浮かび上がってくる、人間のもろさが読み取れる作品もあるのだ。

たとえば『桜桃』という作品。この作品も、系統としては暗い作品だ。
「子供より親が大事、と思いたい」なんて、まったくまちがいではないけど、作者の言い訳に見える。
だがそれはあくまで、「思いたい」でしかないのだ。本当は子供を大事にしたい、と思っているけれど、その感情を、「私」はごまかしているという感が、何となく読み取れる。
基本的に、人に喜んでもらいたいという願望があるからこそ、主人公は自分を追いつめている感じがする。
それは、自意識過剰ゆえに生まれた、人としての弱さだろう。
そういった心の弱さが、暗いトーンの中から立ち上がっており、何となく胸にしみるものがある。
僕個人は、結構好きな作品だ。


また、暗い感情を抱えていた時期でも、人間の強さを信じていた瞬間だってあったのだろう。
そう感じさせられる作品こそ、表題作の『ヴィヨンの妻』だ。

『ヴィヨンの妻』のラストははっきり言って、悲劇的だ。
だけど、悲劇の一語で終わらせることのできない魅力が、この作品にはある。
それは前半部の語りのおもしろさが理由かもしれないし、ダメ人間だけど、なんだかんだで多くの人に愛される夫のキャラクターに笑ってしまったこともあるかもしれない。
だがそれ以上に、妻の大らかな雰囲気が大きいように思える。

妻は、夫と会うため、飲み屋で働いたりして、なかなか健気だ。
彼女の行動からは、夫に対する愛情が感じられて微笑ましい。
多分あのダメ人間には、このくらいの度量がない人でないと、受け止めてあげられないのだろう。
そんな風に、読み手に思わせるところが魅力だ。

しかしラストで、健気な彼女は残酷な仕打ちに合うことになる。
だが彼女はそれでも前を見据え、生きていこうしている。
そこからは力強い意志が感じられる。まさに生に対する賛歌とも読み取れ、なかなか心に残った。


ほかにも『トカトントン』がいい。
何ものにも打ち込むことのできない冷めた感情が何とも皮肉だ。
ラストの文章は、頭で考えるより、行動に移せと、太宰なりに言い聞かせているようでどこか力強く見える。


太宰治という作家は、暗い作風しか書けない時期があった。それを嫌いだと思うのは特にふしぎじゃない。
だがそんな時期でも、作者は暗い感情以外のものを信じたいと思っていた。そんな気がするのである。
本短篇集は、そんな作家の相克がうかがえる作品集なのかもしれない。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの太宰治作品感想
 『お伽草紙』
 『斜陽』
 『惜別』

『黒革の手帖』 松本清張

2009-07-08 21:55:05 | 小説(国内男性作家)

7500万円の横領金を資本に、銀座のママに転身したベテラン女子行員、原口元子。店のホステス波子のパトロンである産婦人科病院長楢林に目をつけた元子は、元愛人の婦長を抱きこんで隠し預金を調べあげ、5000万円を出させるのに成功する。次に彼女は、医大専門予備校の理事長橋田を利用するため、その誘いに応じるが……。夜の紳士たちを獲物に、彼女の欲望はさらにひろがってゆく。
出版社:新潮社(新潮文庫)



結論から先に書くが、本書は非常におもしろい作品である。
その理由はいくつもあるけれど、一番の理由は、やはり主人公元子の存在感が大きいだろう。

銀行の金を横領し、銀座にバーを開いた主人公元子の行動は、なかなかえぐい。
体面を気にする銀行や、脱税をしている医師の心理を見透かし、恐喝を行なう様は本当に性質が悪い。
だが、その行動は読んでいる分は非常におもしろいのである。さながらピカレスクロマンとも言うべき味わいがあって、ページをめくる手も止まらない。
ドラマの方は見てなかったが、確かに、米倉涼子にはまりそうな役柄と言えるかもしれない。

そんな元子が社会的弱者で、鬱屈を持った人間だったというのも、彼女の存在を魅力あるものにしている。
銀行にいたときの彼女は、女性であるがゆえに出世もできず、恋人がいるわけでも、親しい友人がいるわけでもなかった。そんな彼女が知恵一つで、銀行や金持ちの人間を出し抜き、大金を手に入れていく。
その行動は当然だが誉められたものじゃない。
だけど、読んでいるうちに、少しずつ彼女に共感してしまう部分もないわけではないのだ。
それは彼女の行動の根底に、妄念とも言うべき、強い感情がうかがえるからかもしれない。
そんな人物像をつくり上げただけでも、見事なものである。


だがそんな元子の前途に何が待ち受けているかは、大抵の人には想像がつく。
実際彼女はラスト1/4くらいから、見事なくらいに転落していく。
それは怒涛のしっぺ返しというべき状況で、急転直下っぷりは鮮やかなほど。
特に最後のシーンは本当に恐ろしかった。
そんな転落を見ていると、悪いことはしちゃいけないよね、とかそういう安い教訓で終わらせることができない、一種の凄みさえ感じられてくる。
そしてその凄みゆえに、本作はただのエンタテイメントではとどまらない、強烈なインパクトを残すことに成功しているのだ。


松本清張は『点と線』しか読んだことがなかったが、本作の方がよっぽど好みである。
いい機会だし(生誕100年だし)、別の松本清張作品も触れてみたい。そう思わせる作品だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『瓶詰の地獄』 夢野久作

2009-07-02 22:02:03 | 小説(国内男性作家)

極楽鳥が舞い、ヤシやパイナップルが生い繁る、南国の離れ小島。だが、海難事故により流れ着いた可愛らしい二人の兄妹が、この楽園で、世にも戦慄すべき地獄に出会ったことは誰が想像したであろう。それは、今となっては、彼らが海に流した三つの瓶に納められていたこの紙片からしかうかがい知ることは出来ない……(「瓶詰めの地獄」)。
読者を幻魔鏡へと誘う夢野久作の世界。「死後の恋」など表題作6編を収録。
出版社:角川書店(角川文庫)



本書の表題作「瓶詰の地獄」の存在感は圧倒的である。
十数ページ足らずの短い作品なのだが、そこに込められた世界観は、非常に豊かだ。
兄妹の罪の感覚に怯える思いと、衝動のままに動きたいという感覚の相克が非常に印象的。
またエロティックな雰囲気や、心理小説のような文章から浮かび上がってくる狂気じみた雰囲気もすばらしい。
その鬼気迫る切羽詰った文章が、何とも言えない迫力を生み出している。
短い作品ではあるが、この強いインパクトが一読忘れがたいものがあった。


ほかにも良い作品が多いのだが、個人的には「支那米の袋」と「鉄槌」が好きだ。

「支那米の袋」は冒頭の女の言葉からドキッとさせられるし、それ以降の展開にも心を惹きつけられる。
個人的にもっとも良かったのは、袋の中に詰められてからの描写だ。
その描写からは、何も見えないことから生れる恐怖心、そして言い知れぬ不気味さが感じ取れ、心に残る。

「鉄槌」の方は、単純に物語としておもしろい。
妖婦めいた伊那子や、山師風の叔父、そして「私」の各人の思惑が生み出す人間ドラマがなかなか読み応えがある。

そのほかにも、「一足お先に」や「冗談に殺す」など、独特の味わいのある作品が多い。


夢野久作は「ドグラ・マグラ」しか読んだことはなかったが、そのほかにも優れた作品を書いていたようだ。その強烈な個性を見せつけられた次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『悪人』 吉田修一

2009-07-01 21:47:12 | 小説(国内男性作家)

保険外交員の女が殺害された。捜査線上に浮かぶ男。彼と出会ったもう一人の女。加害者と被害者、それぞれの家族たち。群像劇は、逃亡劇から純愛劇へ。なぜ、事件は起きたのか?なぜ、二人は逃げ続けるのか?そして、悪人とはいったい誰なのか。
出版社:朝日新聞社



保険外交員の女性が出会い系で知り合った男に殺される。それだけ抜き出せば平凡なストーリーだ。
だがこの作品を読んで、平凡だという印象を持つことは最後までなかった。
その理由は、この作品が、事件に関わる多くの登場人物たちの心理や状況を緻密にあぶり出して、描きあげているからだと思う。
その描写のおかげで、本作は重層的な世界をつくり出すことに成功している。

その心理描写で心に残る人物は何人かいるが、個人的には被害者女性の父親佳男と、加害者の祖母房枝、そして容疑者を助ける女性光代と、容疑者の祐一が特に印象に残った。
意識的ではないが、すべて「大切な人がおる」人間ばかりになった。だがそれも必然なのだろう。


そのうち佳男と房枝はそれぞれ被害者と加害者の家族である。
二人とも事件の後、一つの試練にさらされ、その試練に立ち向かうことになる。
佳男は娘が殺される遠因をつくった人物に会いに行き、房枝は自分からお金を恐喝しようとする男たちと向き合うことを決意する。
二人の行動はどちらも意思的で、その力強さが読んでいて胸を打つ。

その行動を通して、被害者の家族佳男は、被害者家族としての悲しみと世間の認識との間に大きなギャップがあることに気付いていく。その事実は、事件の当事者である佳男には当然理解できず、悲しみだけが深くなる。
一方の加害者の家族、房枝は、怖いことから逃げるだけでは何も変わらないことを悟ることとなる。そして「正しかこと」をするために、彼女は怖いことに向き合うことを決める。

二人の行動が向かう方向性は、それぞれ異なっている。
だが、二人が向き合い、味わった感情こそ、被害者家族と加害者家族とがそれぞれ通り抜けなければならない、心理や決意なのではないだろうか。
その描き方はさすがに上手く、同時にどこか悲しいのが印象的であった。


一方の若い光代と祐一は、上の世代の人間たちと比べると、何かに立ち向かうことではなく、何かから逃げることに躍起になっているように見える。

その二人の逃亡を描く上で、舞台が地方都市であるという点が重要だろう。多分東京近郊だったら、もっと違う話になっていたはずだ。
なぜなら、二人が逃げていると思しきものは、事件であると同時に、自分を取り囲む閉塞感だと思うからだ。

地方都市は実際問題、どこか閉塞感に満ちている。
地方は遊ぶ場所も少ないし、選択肢も少なく、人間関係は近く狭い。
本作でも、その地方特有の空気を丁寧にすくい上げており、極めてリアルだ。


個人的に本作でもっとも印象に残ったのは、容疑者の逃亡を幇助することになる女性、光代である。
彼女の奥底にあるのはさびしさだろう。
彼女が欲しているのは、自分というただ一人の人間を求め、愛してくれる、特定の人間である。
二十九歳というかなりリアルな年齢も相まって、その切実さが如実に伝わってくる。

その結果、彼女がとる行動は誰がどう見ても愚かなものだ。
読みながら、そんな風に動いちゃダメだよ、と僕は幾度も思った。
だがそう思いながら、彼女を愚かだと切り捨てることなど、僕にはできなかった。
切って捨てるには、あまりに彼女の思いは強く、あまりに純粋でありすぎる。そしてあまりに悲しすぎるからだ。
彼女の祐一に対する思いの激しさと、悲しみがいちいち胸に突き刺さってならなかった。


容疑者である祐一も、光代と多くの面で似通っている。
だが彼の場合、人間関係にがんじがらめになっているし、不器用さもあって、生きていくのは、光代以上にしんどそうだと思う。

だが彼が本当は優しい人間だというのは、読んでいてもわかる。
たとえば、母に対する態度や、光代に起こした最後の行動などは、祐一なりの優しさなのだろう。
ただ彼の友人も言っているように、祐一の行動には、起と結だけがあり、承と転がない。
そのため多くの人間に、彼の行動の意味は伝わらないし、そう感じ行動したプロセスを語らないために、相手は彼のことを誤解してしまう。
自分が招いたものとはいえ、その不器用さがどこか悲しい。

確かに祐一は人を殺した。殺した経緯も含めて、誉められたものではない。
だが彼を単純に悪人と切って捨てるのも、その優しさと不器用さを知ると難しい気がするのだ。
何より光代のことを本気で思いやっていることが伝わり、読んでいて切なくなる。


本書を読みながらいろいろなことを考えた。
悲しさやさびしさ、怖れなどの人間の弱い部分、そしてそれに伴う愛情について思いを致さずにいられない。
重層的な構造で、丁寧に語られた、一級の群像ドラマである。
個人的にはかなり好きな作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『羅生門・鼻』 芥川龍之介

2009-06-17 22:01:10 | 小説(国内男性作家)

京の都が、天災や飢饉でさびれすさんでいた頃の話。荒れはてた羅生門に運びこまれた死人の髪の毛を、一本一本とひきぬいている老婆を目撃した男が、生きのびる道を見つける『羅生門』。あごの下までぶらさがる、見苦しいほど立派な鼻をもつ僧侶が、何とか短くしようと悪戦苦闘する『鼻』。ほかに、怖い怖い『芋粥』など、ブラック・ユーモアあふれる作品6編を収録。


久しぶりに芥川の初期作品を読み返したが、やはり彼のセンスは抜群である。
たとえば、「羅生門」や「鼻」などのように、どこにでもいそうな小人物を、気の利いた皮肉を交えて語る感性などは卓越している。

その系列で個人的に一番好きなのは、「芋粥」だ。
主人公の五位は、風采が上がらず、人に軽蔑されている平凡な人物だ。何となく僕に似てて親近感が湧く。
そんなどこにでもいそうな小人物が持つ、ささやかな夢が見ていても悲しい。
この作品を見ていると、夢ってやつは、叶えた瞬間よりも、見ているときの方が幸せなのではないかと思えてくる。叶ってしまうと、それはそれで味気ないのかもしれない。
この後の彼は、どんなささやかな願いを夢見て、それを励みに生きていくのだろう。
そう考えると、この作品は平凡な人物が、平凡な、しかし大事な願いを奪われた、残酷な物語と見えてならなかった。


本書には平凡な人物以外の物語も収録されている。
しかし扱う人物の器の大小は違えど、芥川だけあり、物語の切れに変わりはない。

その系列で言うなら、僕は「俊寛」が好きだ。
この作品を読んでいると、人は思った以上に強い存在なのだと気づかされる。
なんだかんだ言っても、人間はあらゆる環境に適応可能なのだ。
個人的には、「何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ」と成経を揶揄して語る言葉が気に入った。一度その環境に入った以上、人間はそこであるもので勝負するしかないのだろう。
人間の可能性と、たくましさを見る思いで、胸のすく一品だ。


ほかの作品としては、
若者のゆれ動く感情のダイナミズムがすばらしい「羅生門」。
他人の目にのみ振り回されてしまう滑稽さと悲しさが切ない「鼻」。
物質的なものか、精神的なものを重視するかについて考えてしまう「運」。
矛盾に満ちた男女それぞれの心理描写が鮮やかさな「袈裟と盛遠」。
ラストシーンにある軽い皮肉がいい味を出している「好色」など。

どの作品も芥川龍之介のすばらしさを再確認できる。
文豪のあふれんばかりのセンスが堪能できる、すばらしい短篇集だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの芥川龍之介作品感想
 『河童・或阿呆の一生』
 『戯作三昧・一塊の土』
 『奉教人の死』

『1Q84』 村上春樹

2009-06-05 21:19:08 | 小説(国内男性作家)

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうでなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
出版社:新潮社



春樹ファンというひいき目もあろうが、相変わらず春樹の小説はおもしろいなと心から思う。
上下巻のちょっと長めの作品だが、最後まで物語世界に惹きつけられた。作中の言葉を使うなら「最後までぐいぐいと読者を牽引していく」力がある。

しかし内容は例によってわかりにくい。
だがわかりにくいなりに、この作品は村上春樹にとって、一つの転換点になっている作品じゃないか、という印象を受けた。

その理由は上手く言えない部分があるのだけど、端的に言うならば、愛についてをまっすぐに語っているからではないかと思う。
そのまっすぐさが胸に響く作品に仕上がっている。
とにもかくにもすばらしい作品ということはまちがいない。一読の価値ある作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



◎以下、自己満足な蛇足

さて、上記で触れた愛とは言うまでもなく、二人の主人公、青豆と天吾の間にある愛に他ならない。
そしてそれは「リトル・ピープル」に対抗する手段になっている。


その「リトル・ピープル」だが、具体的にそれが何かは言及されていない。
『空気さなぎ』の書評を通して、意味を求めるのは重要でないとエクスキューズはあるけれど、やはり僕は、それが何であるかが、どうしても気になるし、性格的に意味を求めたくなる。

そして「リトル・ピープル」について意味を求めるとき、ふかえりの存在が大きなキーになっていることは確かだろう。
ふかえりは、親の思想のため、共同生活を送るという少女時代を送った。
言い方を換えるなら、親の強制によって、ふかえりはそのような少女時代を送らざるをえなかったのだ。そこでふかえりは「リトル・ピープル」に出会っている。


さて、親が子に強制して何かをさせるという構図は、言うまでもなく、青豆や天吾にも共通する環境である。
つまり三人が同じ構図の中に生きているわけだ。

そういうことから判断して僕は、「リトル・ピープル」的なるもののは、二つのエピソードを通して説明されていると解釈した。それは、具体的なエピソードを通してと、メタファーに満ち溢れたエピソードを通してである。
そして具体的なエピソードを青豆と天吾が、メタファーに満ちたエピソードをふかえりが、引き受けているものと僕は判断した。

つっこんで言うなら、「リトル・ピープル」とは、レイプや夫婦間のDVのような、具体的な暴力ではなく、こういうことをおまえはしなければいけないのだ、というような強制力を含んだ空気ではないかと僕は思う。
そういった目に見えない、小市民的で(Little Peopleで凡人という意味もあるようだし)、無自覚なる静かな暴力が「リトル・ピープル」ではないだろうか。


さて、そのような静かな暴力に、敏感に反応してしまい、傷つく者がいるのである。
それこそ知覚者、「パシヴァ」だ。
そして本来的には、その知覚を認識し、受け入れる者、「レシヴァ」が癒しを与えるべきなのだろう。
だが正しい癒しを常に「レシヴァ」が与えられるという保証はない。

ふかえりの存在は「リトル・ピープル」のメタファー部を引き受けていると言ったが、同時に「リトル・ピープル」からの解放の、誤った事例をも引き受けていると思った。
だからこそ、マザ(つまりはmotherだろう)であるふかえりが生み出したドウタ(要はdaughter)は大きく歪んで感じられたのだ。彼女が生み出したドウタは、ふかえりの心の傷のメタファー、言うなれば鬼子なのだろう、という気がする。

ふかえりは後の方で、天吾とセックスをすることになるわけだが、レシヴァ、自分を受け止める人間と、ふかえりはそういう風にしか向き合えないということをも示しているのではないだろうか。
僕はそのシーンを負の連鎖の始まりと見たがどうだろう。


では「リトル・ピープル」に対抗するにはどうすればいいのだろう。
その正しい解決法は、青豆と天吾のエピソードにあるのではないだろうか。
そしてその解決法こそ、最初に戻るが愛なのである。


だが、まず静かな暴力にすでに傷ついてしまったときにどうすればいいかに触れよう。
その答えは、天吾と父の関係に見出すことができるのではないか。
つまりは赦しと和解なのだ。

もっとも、そのように赦しの心境にたどり着くのは容易ではないだろう。
だが、そのようにして人は受け入れ、生きていくしかないのかもしれない。
人間はそのように前に進むしかないことを示してはいないだろうか。


ではいままさに傷つこうとしている場合はどうすればいいのか。
それこそまちがいなく愛にあるのである。

手を握ったという記憶が、青豆の心をずっと支え、天吾の心をずっと温めていたように、人に愛を向けるという作業が、恐ろしくつらい環境の中でも、人の心に温かい火を点すことがあるということなのだ。
苦しいときに助けられたという記憶があるからこそ、癒しが生まれ、愛が芽生え、何者かのために死んでもかまわないという意志が生じ、人を静かで無自覚な暴力から実際に救うこととなる。

天吾のドウタは10歳の青豆だった。そう、すべてのドウタが鬼子であるわけではない。
つらい環境だからこそ、自分から生まれるものが温かい記憶であることがありうる。
その温かい記憶こそ、人が前に進むためのヒントなのかもしれない。

その温かさが読後に淡い感動を生んでいたと僕は思う。
ちょっとまとまりのない感想になってしまった。だがそれだけ何かを語りたい作品ではあることは確かだ。



そのほかの村上春樹作品感想
 『アフターダーク』
 『海辺のカフカ』
 『東京奇譚集』
 『ねじまき鳥クロニクル』

 『走ることについて語るときに僕の語ること』
 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』
 『若い読者のための短編小説案内』
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 (河合隼雄との共著)

『安徳天皇漂海記』 宇月原晴明 

2009-05-29 20:57:38 | 小説(国内男性作家)

壇ノ浦の合戦で入水した安徳天皇。伝説の幼帝が、鎌倉の若き詩人王・源実朝の前に、神器とともにその姿を現した。空前の繁栄を誇る大元帝国の都で、巡遣使マルコ・ポーロは、ジパングの驚くべき物語をクビライに語り始める。時を超え、海を越えて紡がれる幻想の一大叙事詩。
第19回山本周五郎賞受賞作。
出版社:中央公論新社(中公文庫)


注目すべきは、何と言ってもそのイマジネーションだ。
壇ノ浦の合戦で海に没した安徳天皇という史実上の人物を、こんなにも幻想味たっぷりに描くセンスはさすがとしか言いようがない。

琥珀に封じられたという設定の安徳天皇はもちろんのこと、不可思議な夢の使い方、安徳天皇のために死んでいった者が水晶の髑髏になるという点、江ノ島に現われた緋水晶の美しい描写など、そのいくつかの想像力は本当に見事だ。読みながらほとほと感心してしまう。

作者のイマジネーションは物語の構成においても光っている。
繊細で温厚な詩人とも言うべき源実朝が、唐船をつくった理由や、宋の最後の皇帝の死を、安徳天皇と絡めるなどのセンスは本当に鮮やか。よくもまあ、ここまで大ぼらを吹けるものだといい意味で驚いてしまう。


この話は前半と後半で分かれているが、個人的には後半のマルコ・ポーロが登場する話の方が好きだ。
特に一番良かったのは、宋の幼い皇帝と安徳天皇が、浜辺の砂で筆談をするエピソードだ。その場面は幻想と不可思議さの入り混じった場面だが、幻想性と同時に普遍的な友情が底辺に流れているようで、心に響く。

また山の海戦の場面も忘れがたい。
平家の滅亡をなぞるかのようなその戦闘シーンからは、滅びる者の諦観じみた悲しみが感じられ、胸に迫るものがあった。


物語が広がりすぎて、小説全体の印象が散漫になっている面もあるが、このイマジネーションの豊かさはすばらしい。美しくも悲しい、すてきな大ぼら話である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『高熱隧道』 吉村昭

2009-05-21 22:32:22 | 小説(国内男性作家)

黒部第三発電所――昭和11年8月着工、昭和15年11月完工。人間の侵入を拒み続けた嶮岨な峡谷の、岩盤最高温度165度という高熱地帯に、隧道を掘鑿する難工事であった。犠牲者は300余名を数えた。トンネル貫通への情熱にとり憑かれた男たちの執念と、予測もつかぬ大自然の猛威とが対決する異様な時空を、綿密な取材と調査で再現して、極限状況における人間の姿を描破した記録文学。


大自然の前では、人間など小さな存在でしかない。っていうのはベタな言い方すぎていやなのだけど、この作品に関しては、そのベタな言葉が一番しっくりくる。
この黒部第三発電所を建設を描いた物語は、そんな大自然の怖さと、人間の無力さを痛切に教えてくれるからだ。

実際この作品に出てくる現象はどいつもこいつも異常そのものだ。
隧道を掘り進めれば掘り進むほど、高熱地帯にぶち当たることになり、切端に近付くだけで失神者まで出る。やがて岩盤温度はダイナマイトの発火点をオーバーし、爆破事故まで起きてしまう。加えて泡雪崩という厄介な現象まで発生し、死者は増えるばかり。
人間が切り拓いて、突き進んでいくには、どれも苛酷な環境ばかりだ。すべての状況は死と隣り合わせで、ひどいとしか言いようがない。

加えて、そんな状況ゆえに、人間同士、いくつか感情のもつれが生まれてしまう。
特に、技師の根津が遺体を抱くという演技をしたシーンが強く印象に残る。それは現場で実際に苛酷な作業をしているのは自分たちではないという事実を、人夫たちに忘れさせるための行為なのだ。そのようなことをしなければならない状況もまた異常である。
技師たちは自然だけでなく、人間の感情をも相手にしなければいけなかったのだろう。

しかしそんな苛酷な状況にありながら、隧道を完成させるため、それぞれの人間はそれぞれの理由で動いている。
大局的には軍事的な意味合いもあるが、技師にとっては隧道を完成させることに誇りを持っているからであり、人夫たちにとっては大金が得られる仕事だからだ。

そういったことを、人間のたくましさということも可能だろう。あるいは上手くエピソードを拾い、その意志がダムをつくり上げたと美談に仕立てることもできなくはない。
だが、僕はできればそういう言い方はしたくないのだ。そういう風に片付けるには、あまりに人が死にすぎている。
わざときつい言い方をするが、誰も彼も目先の目的のために、人の命と、自分の心を犠牲にしているようにしか僕には見えなかった。そしてそのことに対して、感情的に麻痺し、思考を停止してしまっているように見える。

犠牲は犠牲として悼むべきだし、この黒部第三ダムが日本に果した功績は大きいことは確かだ。
けれど残念ながら、この本を読むと、そんなものはこれっぽちも崇高ではないような気がしてならない。

こういうことが実際にあったことを僕はこの本で初めて知った。
黒部第四ダムの犠牲のことばかりが有名になっているが、こちらのエピソードももっと多くの人に知られるべきである。

評価:★★★★(満点は★★★★★)