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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『半島を出よ』 村上龍

2009-05-09 20:50:02 | 小説(国内男性作家)

二〇一一年春、九人の北朝鮮の武装コマンドが、開幕ゲーム中の福岡ドームを占拠した。さらに二時間後に、約五百名の特殊部隊が来襲し、市中心部を制圧。彼らは北朝鮮の「反乱軍」を名乗った。慌てる日本政府を尻目に、福岡に潜伏する若者たちが動き出す。国際的孤立を深める日本に起こった奇蹟!
各紙誌で絶賛を浴びた、野間文芸賞、毎日出版文化賞受賞作品。
出版社:幻冬舎(幻冬舎文庫)


本書で個人的にもっとも注目したのは、作者のイマジネーションだ。
北朝鮮のゲリラ兵が九州に上陸し、侵略統治するという突飛としか言いようのない物語を、作者は実に緻密に、想像力豊かに描き上げている。
そう感じたのは、あらゆる人物の行動や状況を、多面的にシミュレートして、徹底的に描写しているからだろう。実際、この物語に出てくる人物は、北朝鮮兵や、官僚、政治家、九州に住む人間等、実に様々だ。
それらの描写を積み重ねることで、北朝鮮のコマンドにより九州が支配され、統治されていくという、突拍子もない設定に確かな説得力が生まれている。

もちろんそのシミュレーションの中には、それはどうよ、と言いたくなるものもある。
たとえば日本政府が九州を封鎖するという状況には、いささかの疑問を持ってしまう。
もしもここで描かれたような状況になったとき、日本政府は九州を封鎖するというような、要領の悪い方法を取るのだろうか。そこまで政府は愚かなのだろうか。そう懐疑的にならざるをえない。
もちろんそれ以外の面でも、問題点はある。
しかし緻密な細部描写もあり、それも力技で納得させられるものがあった。そしてそのように、強引にでも読み手を納得させるところこそ、村上龍のすごさなのだろう。

また人間の心理を描く際の作者の筆も、あくまで緻密である。
作者がこの作品で描きたいことを大雑把にまとめるなら、目標及び目的を自分の中で明確にし、主体的に動いていけ、といったところかな、と思う。違うかもしれないけど。

だがそのような主張を声高に訴えるだけではなく、その対立意見の側も丁寧に描いているところがすばらしい。
特に恐怖心に脅かされて動けなくなる心理や、体制側につくしか仕様のない人物の感情も、しっかり追っていて繊細である。
そして日本人だけでなく、北朝鮮の人物の視点も交えることで、物語に深みが生まれているのが印象的だ。
そんな作者の想像力と丁寧な筆致に、感心するほかない。


そして、本書はそのようなディテールにのみあるのではない。物語の核であるプロットもすばらしいのだ。
一言で言うなら、べらぼうにおもしろい。物語世界に一気に引き込まれ、読んでいる間、完全に心を奪われてしまった。エンタテイメントとしてはまちがいなく一級品だろう。

ただ個人的に残念だと思ったのは、各人の視点で描かれたエピソードがまったく完結せずに終わっていることだ。
個人的にもっとも気になるのは尾上知加子の子どもたちはどうなったのか、ということ。彼女の息子は地行浜の会話を一生忘れないと思うのだが、その後何かしらのトラウマとか抱えていないだろうか、と無駄な心配をしてしまう。
ほかにも黒田はどうなったのか、横川もどうなったか、イシハラは詩を一行でも書いたのか、内閣はどうなったか、そして死んでいったものは何を思ったか、などなど、いろんなことが気にかかる。

あるいは、そのようにエピソードを放り出したのは、このような状況になったら、一人の人間の死や思いは、情報としてしか扱われないということを示唆しているのかもしれない。
だがいかように解釈しても、読後にいくらかのもどかしさは残ることは否定できない。


まあ、いろいろ言いたいことはあるわけだが、総じて見れば、優れた作品ということは確かだろう。
読んでいて、僕はいくつかの点で自分の甘さを痛感したし、ほかにもいろいろなことを考えた。そして人によっては、様々な印象を抱き、考え、ときに反発もするのだろう。
村上龍の最高傑作ではないが、佳作の一つであり、問題作であると僕は思う。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの村上龍作品感想
 『盾 シールド』

『夜市』 恒川光太郎

2009-04-26 22:03:29 | 小説(国内男性作家)

妖怪たちが様々な品物を売る不思議な市場「夜市」。ここでは望むものが何でも手に入る。
小学生の時に夜市に迷い込んだ裕司は、自分の弟と引き換えに「野球の才能」を買った。野球部のヒーローとして成長した裕司だったが、弟を売ったことに罪悪感を抱き続けてきた。そして今夜、弟を買い戻すため、裕司は再び夜市を訪れた―。
奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!魂を揺さぶる、日本ホラー小説大賞受賞作。
出版社:角川書店(角川文庫)


やはり特筆すべきは、その文体だろう。
非常に淡々としたタッチでつづられている文章は、静謐な雰囲気が感じられて、物語世界に静かな味わいを生み出している。決して凝った文章ではないのだが、そこから生まれる情感はひとつの魅力だ。

その文章はファンタジー的な異世界を描き上げるのに、良い効果をあげている。異形の者が存在する世界は、文章の力のおかげもあり、不気味さ以上に叙情性を感じさせてくれるのだ。
その文章の雰囲気が、たとえば表題作の『夜市』のように切ないラストが待っている物語に、更なる余韻を与えていて興味深い。

舞台設定の妙も魅力だろう。
個人的には表題作より、併録の『風の古道』の方が好みなのだが、古道のアイデアと世界観は、表題作よりも深みがあって味がある。
また両方の作品とも、物語運びが丁寧だ。ご都合主義的な面は見られるものの、構成は巧みで、おもしろく読むことができる点は感心させられる。

だが、おもしろいことは事実だけど、これはすごいと思わせるほどの引っかかるものが少ない点は否定できないのである。

この作品の美点を僕はいくつか挙げた。その良さは素直に認めるものの、しかし心に訴えるほどの強さはそこにはない。一言で終わらせるならば、個人的な好みではないのだ。
いい作品であることがわかる。それだけに、そんな結論にならざるをえないところが、ちょっと残念な限りである。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹

2009-04-17 22:54:45 | 小説(国内男性作家)

僕とクミコの家から猫が消え、世界は闇にのみ込まれてゆく。――長い年代記の始まり。
出版社:新潮社(新潮文庫)




基本的にこの作品に対する感想は、おもしろい、の一語で充分と言えば充分なのだ。

溢れんばかりの奔放なイマジネーションには圧倒されるばかりだし、物語展開の予測もつかない。おもしろすぎて、ページをめくる手も本当に止まらないのだ。
加えて、たとえば笠原メイの手紙のように、笑える内容なくせして、実に深いことを語るところなど、センスは抜群である。

『ねじまき鳥クロニクル』を読むのは今回で3回目だが、それでもまるで初めて読んだときのように、いくつも新しい発見があって、飽きるということはなかった。


個人的な好みで言うなら、一番好きな春樹作品ではないのだが、作品世界が持つ広がり、深み、重み等、質の観点で言うなら、まちがいなく現時点で、村上春樹全作品の中でもトップの出来だろう。
『ねじまき鳥クロニクル』はまちがいなく、すばらしいまでの傑作である。僕は心から思う次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの村上春樹作品感想
 『アフターダーク』
 『海辺のカフカ』
 『東京奇譚集』

 『走ることについて語るときに僕の語ること』
 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』
 『若い読者のための短編小説案内』
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 (河合隼雄との共著)




◎蛇足すぎる上、無駄に長い追記

以下に、僕がこの作品から受け取った印象と、物語の意味の解釈と、僕が理解したことを書いてみる。
はっきり言って、物語を解釈するなんて、野暮ったいことこの上ない。
それでもこんな文章を書くのは、基本的に僕個人の自己満足でしかないことだけは先に述べておく。



この作品は表層的な物語と、裏側で進行する物語の二種類があると僕個人は感じた。

表層的な物語は読めばわかるとして、裏側で進行する物語とは、抽象的に語るなら、「具体的な事実」でなく「ボーイではなくボーイの振りをした何か」を捕らえることである。
要は、作中にあるメタファーを通して語られること。それが、僕が感じる裏側で進行する物語だ。

そしてそれらを通して見たところ、僕は『ねじまき鳥クロニクル』という作品を次のように解釈した。
それは――

個人同士の人間関係による要因、社会的な要因、時代背景による要因、事件や理不尽な事故等の要因で、人の心が傷ついてしまうということ。
そして傷ついた個人が(そして傷ついた個人と関わる人々が)その心の傷をどのように受け入れていくかということ。
それを象徴的に描いた作品だということである。

非常に乱暴な要約ではあるけれど、それが僕が得た結論だ。



実際、この作品では、多くの人が心に傷を負っている。
間宮中尉は、ノモンハンで悪夢のような光景に出くわし、その後の人生を無感覚のように生きることになるし、クミコも加納クレタも(二人はどう見ても象徴的な意味で分身だ)、抽象的に語られているが綿谷ノボルによって傷つけられている。
そして傷ついているという点では、具体的にはまったく語られないけれど、妻に逃げられた主人公の僕だって同じなのである(あるいは彼のあざは心に負った傷のメタファーかもしれない)。


だがそのような暴力は誰にだって「起こりうる」ことなのである。

自分とは違う他人に、何か悲惨なことが起きたとする。たいていの人はそんな暴力を、文字通り他人事のようにながめるだけだ。
けれど、それは必ずしも他人事とは限らない。

その場、そのとき、その状況下、無意味にしか見えかねない行為によって、自分も同じように誰かの手により傷つけられることもありうる。
自分が傷ついていないのは、たまたまそこに自分がいなかったというだけのことでしかないのだ。

それは、女の子の家に泊まって妻を怒らせるような事態から、戦争下の生き死に関わる問題まで、傍目で見る分の程度の大小はちがうけれど、様々な形で襲い来るものだ。


だが言い換えるならば、人に傷つけられる可能性があるということは、逆に人を傷つけてしまうこともあるということでもある。
そして、それもやっぱり誰にでも起こりうることなのだろう。


人に傷つけられること、人を傷つけてしまうこと、どちらも避けられるのなら、避けていたい行為だ。
けれど、そう願ったとしても、ときには「自由意志などというものは無力」なときもありうるのである。
「みんながいつでもやっていることなのだ」と言い訳しながら、何かや誰かを傷つけざるをえない状況だって起こりうるのだ。

代表的なのは戦争だ。命令されれば、殺すしかない。
そして傷つけてしまったという行為に、傷つけた側の人間も、心に傷を負ってしまうこともあるのだ。

物語では、そのような傷つけられる、あるいは傷つけてしまうという状況を、メタファーを駆使して執拗なくらい、綿密に描いている。



だが『ねじまき鳥クロニクル』は、そのような状況を描くだけに終始しているわけではないのだ。
傷つけるものが近くに迫っているとき、あるいはすでに何ものかに傷ついてしまったときに、人はどうすればいいのか。
それに対するある程度の指針が示されているように、僕には見えた。


心を傷つけてしまうような暴力的なことが自分の身にせまっているとき、人はどうすればいいのだろう。

まずはその点について見てみよう。
それに対する本作での答えは実にシンプルである。
それは、ときとして「叩かれれば叩きかえ」すことも必要だ、ということだ。

だがシンプルな答えの割に、それが成功する可能性は必ずしも高くない。
実際、間宮中尉はボリスに勝てなかったし、どう見ても、それが彼個人の心の傷を大きくしている。

だがそれでも、人はバットを手にして立ち向かい、「それ(要は世の理不尽で無意味な暴力)に勝たなくてはならない」ときもある。
ナイフが「ただのナイフ」であるのと同じように、暴力はただの暴力だ。
その暴力に対して、しっかりノーと言わなければいけない瞬間だってあるのだ。

もちろん暴力に対してノーと言う行為も、必要悪と言え、ひとつの暴力である。
だからこそ、暴力を受ける側は、暴力を与える側の状況に対して、「想像してはいけない」のかもしれない。

たとえば、ボリスの薬指に指輪が光っている意味を考えたりしてはいけない(個人的にはノモンハンでのその一文が印象に残っている)。
または想像することで、暴力を振るうという行為に恐怖を持ってもいけないのである。
自分、他人、社会を守るため、暴力を排除するときは、機械的なまでに、「やるべきこととしてそれをやらなくてはならない」。

そのような力強いメッセージを、僕個人は本作から受け取った。



では、すでに何かによって傷つけられてしまった場合は、どうすればいいのだろうか。

それは自分個人の場合と、他人の場合では対応が異なってくる。

まず自分個人単品の場合。
そのときは、時間をかけて克服していくしかない、と言っているように僕には見えた。
そしてそれこそ、傷つけたものに対する、ある意味では「洗練されたかたちでの復讐」なのだろう。
そして時間が来たら、井戸に降りるように、自分の意識の核の中に降りて、傷を与えたものや、傷を与えた人と向き合って対峙するしかない。


では自分ではなく、誰か他人が、何かに傷ついてしまった場合はどうだろう。

誰でもいいから助けてほしいと願う相手の場合。
それならば、「意識の娼婦」のような形で、手助けはできる。
特に自身も傷を負った人間だったら、誰かに対して優しくなれるものだ。
それ相応の適性と言うか、資格は必要だが、誰でもいいから人と触れ合いたいという相手には、ただ手を差し伸べればいいのだろう、と思う。


でも本当に近しい人間の場合は、そういうわけにもいかない。

近しい人間だと、相互に意志を通わせない限り、傷ついた相手とは正確な意味では向き合えないからだ。
それでも。自分の傷を、心を開いてすんなりと教えてくれたら、まだ対処のしようもある。
だが傷ついた相手が、その傷を秘密として抱えてしまったときは、対処のしようがない。

「十分間でお互いの気持ちがよくわかりあえる」ことも、現実にはあるのだろう。
だが、それは心の傷も含めた秘密をさらけ出さなければ、お互いの気持ちもわかりあえないのだ。


では、そういう、相手が自分の傷をさらけ出せない場合はどうすればいいのだろう。

結論としては辛抱強く待つしかない、ということなのだろう。
「まちがった時間」のときに、強引にわかり合おうとしても、物事をよけいひどく混乱させるだけなのだ。

それは考えようによっては悲惨なことだろう。
待つという行為は、自分が傷を負う側になったとき以上にしんどいのかもしれない。

けれど、もっとひどいことにだってなりえたのだ、そう思って、耐えるしかないのかもしれない。
最後は結局時間が解決するしかないのだ。


まとまりはない上に、無駄に長いけれど、僕は大体以上のように、この作品を理解した。
はっきり言って、ここまで来たら妄想の域である。
あと、何となく読んでいる最中、『夜と霧』を思い出した。別に訴えていることの内容は似ても似つかないけれど、何となく。

もちろん人によって、上記以外の受け取り方があっても、全然ありなのだろう。それだけの懐を併せ持った深い作品だ。
とにもかくにも、『ねじまき鳥クロニクル』はまちがいなく傑作だと僕は信じる次第である。

『新版 古事記物語』 鈴木三重吉

2009-04-04 10:10:59 | 小説(国内男性作家)

大正8年童話誌「赤い鳥」に発表して以来、長年愛され続けてきた歴史童話。
愛する妻イザナミを追って黄泉の国を探すイザナギの物語「女神の死」。知恵と勇気にあふれたヤマトタケルの冒険「白い鳥」など、力強く美しい神話世界がここに蘇る。日本を代表するもっとも分かりやすく美しい古事記入門の書である。
出版社:角川書店(角川文庫)


戦前に、子供向けに書かれた作品である。そういうこともあり、天皇家に配慮された言葉遣いがなされているし、子供を意識した物語描写となっていて、それが個人的にはまず目を引く。
僕の知っている範囲で言うなら、国産みの最初の方の場面や、木梨軽皇子と軽大娘の部分はぼかした表現がされるなど、性的描写には配慮がされている。

だがそれでいて、たとえば倭建尊の部分では、出雲建をだましてぶっ殺しておきながら、その姿を笑い飛ばすという残酷な描写がされている。七歳にして継父の安康天皇を殺す、目弱王のことも、どう見ても少年犯罪なのに、ぼかさずに書いている。
それが実にアンバランスで、非常におもしろい。

内容自体は有名無名を問わず、どのエピソードも読んでいて興味深い。
神代で言うならば、イザナギとイザナミの話、天岩戸、八俣の大蛇、因幡の白兎などの有名エピソードは中身を知ってはいるものの、改めて読むと印象も変わり、それだけでも楽しめる。
もちろんマイナーな部分でも、大気都比売命が料理をつくる部分や、木色咲耶媛の出産シーンなどが個人的にはおもしろいと思った。グロテスクさや、イメージの楽しさ、神話らしい定型的な物語構成などは味わいがあって、なかなかいい。

神武以降になると、天皇家の跡目争いに関わる部分が多く描かれていて、権力抗争の系譜としても楽しめるのが特徴だ。
雄略天皇を始めとして、いかに多くの天皇たちが地位を得る、あるいは守るために、ライバルを殺してきたかがうかがえる。人間は神話の時代からどうやら愚かであったらしい。だがそれもまた、人間臭いと言えるだろう。
ほのぼの(?)できる人間臭さとしては、仁徳天皇と妻の岩野媛のエピソードがおもしろい。妻の嫉妬を何とか交わそうとする夫の姿は、いまの時代にもいそうで笑ってしまう。

ともかくにもいくつもの興味深いエピソードが描かれていて、一個一個が目を引く。
この国でもっとも古い本について、そのエッセンスを味わう程度なら、この作品でも充分なのではないか。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『空中ブランコ』 奥田英朗

2009-03-22 09:06:50 | 小説(国内男性作家)

伊良部総合病院地下の神経科には、跳べなくなったサーカスの空中ブランコ乗り、尖端恐怖症のやくざなど、今日も悩める患者たちが訪れる。だが色白でデブの担当医・伊良部一郎には妙な性癖が…。この男、泣く子も黙るトンデモ精神科医か、はたまた病める者は癒やされる名医か!?
直木賞受賞、絶好調の大人気シリーズ第2弾。
出版社:文藝春秋(文春文庫)


前作との比較で言うなら、第2弾のこちらの方が格段におもしろかった。

なぜかの理由はわからないけれど、笑いの要素がこちらの方が光っていて、文章や物語のテンポもよかったのが大きいのかもしれない。それに、読後も爽やかな作品がそろっており、作品によっては感動できるものもある。プラスして、こちらの方が伊良部のハチャメチャさがより一層光っていたのも大きいのだろうか。
分析するのも野暮な話なのだけど、一言で言えば、優れた出来栄えだということだ。

個人的にもっともおもしろかったのは『義父のヅラ』だ。
伊良部は相変わらず自由な男で、その行動はねらってやっているのか、天然なのかわからず、喰えない部分が多い。一応医者らしいことは言っているのに、やっていることはむちゃくちゃである。
ハリセンを取り出すところは、笑う以外にどんなリアクションを取れと言うのだろう。そりゃこっちだって大笑いしてしまう。
こういう人がいれば、楽しいし、いまの時代、必要なんだろうけど、やっぱり離れたところから見ているのが一番いいらしい。

もちろんほかの作品もどれもおもしろい。
『空中ブランコ』はオチの部分で大いに笑った。伊良部のキャラクターが存分に出ていて楽しめる。
『ハリネズミ』では、ラストのヤクザとの会話がいい。少し感動的だ。
『ホットコーナー』では、伊良部の運動神経に、ある意味笑ってしまう。ラスト付近の清新さは見事で忘れがたい。
『女流作家』では、映画について語る場面が、映画好きとしては無視できなかった。ラストも少し感動してしまう。

どの作品も水準以上の出来だ。しかもどの作品も個人的な好みで言えば、前作のすべての作品の質を上回っている。これは本当にすごい。
笑えて、ジーンと来て、心の病についても何かと考えることができる。文句なしの作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの奥田英朗作品感想
 『イン・ザ・プール』

『イン・ザ・プール』 奥田英朗

2009-03-03 22:59:49 | 小説(国内男性作家)

「いらっしゃーい」。伊良部総合病院地下にある神経科を訪ねた患者たちは、甲高い声に迎えられる。色白で太ったその精神科医の名は伊良部一郎。そしてそこで待ち受ける前代未聞の体験。プール依存症、陰茎強直症、妄想癖…訪れる人々も変だが、治療する医者のほうがもっと変。こいつは利口か、馬鹿か?名医か、ヤブ医者か。
出版社:文藝春秋(文春文庫)


キャラって重要だよね、ということを、こういう小説を読むと思ってしまう。
とにかく伊良部という医者が非常におもしろいのだ。
色白で太っていて、注射フェチで、マザコンで、どうやらナルシストで、結婚した相手にメイド服を着せる。だれがどう見たって変人だ。そしてそれゆえに非常におもしろい。
「ぐふふ」という笑いや、いくつかのセリフは本当に笑えて困ってしまう。「えへへ、来ちゃった」とか「さあ注射、いってみようかー」とかのセリフは特に好きだ。
現実にいるなら、絶対に関わりたくはないけれど、ちょっと離れたところからなら、ながめていたい。そんな楽しい人物なんである。

その伊良部だが、一応精神科医なので、ちゃんと治療を行なっている。
そこに登場する人物は、精神的なバランスの強弱はあれど、どれも近くにいそうなメンツばかりだ。『勃ちっ放し』と『いてもたっても』の人物の性格には、自分と似たような部分があるので、必要以上にシンパシーを抱いてしまう。
というよりも、程度の強弱はあれど、読み手はこの五篇の作品のうち、一つくらい自分と当てはまるキャラクターはいるんじゃないのか、って思ってしまう。他人の言葉を借りるなら、一億総うつの時代であるらしいし。

そういうときに、伊良部みたいなキャラクターは重要なのかもしれないな、と思えてくる。
伊良部の治療はねらってやっているのか、天然なのか、まったくわからないのだが、こういう何も考えていなさそうな人が相手の方が、向き合う方も楽なんだろうな、と思えてくる。動物ヒーリングに近い、って言葉が出てくるが、納得だ。
伊良部みたいな人といたら、くよくよ悩んでいることがちっぽけなことに思えてくる。
もっとも現実、それが簡単にできないから、病んでいる時代とか言われるわけだけど、一つの考え方としてはそういうことも重要だ。

基本的には(僕の場合だと)、自分自身を、型や、枠組みや、決まった行動形態や、定められた立ち位置に当てはめておいた方が、いくらか気楽な部分もある。逆説的かもしれないが、そうした方が何も考える必要がないからだ。
けれど、それで自縄自縛になったら元も子もないという風に、この作品を読むと思えてくる。
肩の力を抜くことも重要だよな、と笑いながら再確認できる。そんな楽しい小説だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『冥途・旅順入城式』 内田百

2009-02-05 20:01:45 | 小説(国内男性作家)

いまかいまかと怯えながら、来るべきものがいつまでも現われないために、気配のみが極度に濃密に先鋭化してゆく――生の不安と不気味な幻想におおわれた夢幻の世界を描きだした珠玉の短篇集。漱石の「夢十夜」にも似た百文学の粋。
出版社:岩波書店(岩波文庫)


内田百の文章を主観的に語るならば、極めて静か、といったところだ。
文章のセンテンスは短く、感情をこってりと塗り込むようなことはしない。淡々としていて、非常に端正。それが静かという印象を与えるのかもしれない。
本書収録の短篇はそんな静かな文章に見合った世界が展開されている。
どの作品もしっとりとした落ち着いたトーンで進むにもかかわらず、物語の奥底にぬぐい去りようのない不気味さが流れている。その雰囲気が、文章の淡々としたテンポの中で、さらに如実に立ち上がってくるのが印象的だ。
文章が小説世界に及ぼす効果は非常に大きいのだけど、この作品集こそ、そんな文章の力を再認識させられる思いだ。

たとえば個人的に一番好きな「鳥」という作品。
物語自体は何てこともない作品である。だがそこにある雰囲気はともかく見事。静かな世界の中にあって、そこここに漂う、不安を感じさせる描写は心に残る。
冒頭の山の情景からして、落ち着かない感じがするのだが、部屋に入ってからの鳥の苦しそうな鳴き声は特に震える。生きているうちに羽根をむしらないと、という隣室の男のセリフも落ち着かない気持ちにさせられるし、ラストの犬の声も余韻があって、なかなか味わい深い。

また冒頭の「花火」も大好きだ。
怪談らしい不気味さがあるのだが、そこに幻想味が加わっているのがすばらしいではないか。それでいて、花火の情景の叙情性などは、胸に染みるようで忘れがたい味わいがある。

表題作の「冥途」には、不気味さだけでなく、切なさも持ってくるからかなりにくい。
その中には失われた存在に対する郷愁が強くにじみ出ているように見え、じーんと響いてくるものがある。

そのほかにも「尽頭子」「件」「蜥蜴」「短夜」「疱瘡神」「波止場」「豹」「山高帽子」「遊就館」「映像」「猫」「矮人」「水鳥」「雪」「波頭」「先行者」など、粒揃いの作品が多い。
どれも不気味さ、不安、悲しさ、腹立たしさ、嫉妬、気弱さ、存在に対する手応えのなさ、笑いなどが抑えたトーンで語られ、そこから独特の、ふしぎで美しい世界観が立ち上がっている。

日本語の美しさと、ちょっとずれた幻想世界を堪能できるなかなかの小品集だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『戯作三昧・一塊の土』 芥川龍之介

2009-01-24 22:05:51 | 小説(国内男性作家)

江戸末期の市井の風俗の中で、芸術至上主義の境地を生きた馬琴に、自己の思想や問題を託した『戯作三昧』、仇討ちを果した赤穂浪士の心理に新しい照明をあてて話題を呼んだ『或日の大石内蔵助』などの”江戸期もの”。闇空に突然きらめいて、たちまち消えてゆく花火のような人生を描いた『舞踏会』などの”明治開化期もの”。ほかに本格的な写実小説『秋』など、現代に材料をとった佳作を網羅した。
出版社:新潮社(新潮文庫)


さすが文豪芥川だけあり、質に差こそあれ、どの作品も基本的に楽しんで読むことができる。再読の作品もいくつかあるが、その楽しさが損なわれることがない。
皮肉な視点や、知的で気の利いた展開、にやりとさせられるようなオチなど、どれも芥川らしくて、彼の個性を存分に楽しむことができる。

たとえば表題作の「戯作三昧」。
解説にも書かれているが、曲亭馬琴が芥川の分身であることは疑いえないだろう。
戯作の世界に陶酔したいのに、世間という俗情に左右される部分はおもしろいし、馬琴の胸に湧き上がる俗な世間と大差のない自尊感情も読んでいて楽しめる。
だがそんな皮肉以上に、特に胸に響いたのはラストのシーンだ。「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ」と思いながら馬琴が筆を走らせる場面には、芥川の若々しい気負いと熱い魂を見るような思いがして、非常に印象的だ。
それでいてラストに皮肉を持ってくることで、クールな視線を保とうとしているあたりはさすがと言ったところではないだろうか。

個人的には「雛」と「あばばばば」も良かった。

「雛」では、家族間に起こる感情的なもめごとが印象的である。
その中で、兄がいいキャラをしている。彼は古いものを否定していればいいと考えているような短絡的で、いやな人物だが、母の前で泣くというシーンで見せるもろさや、意外に思いやりのあるツンデレな部分が個人的にはツボであった。
また父親のラストシーンで見せた感傷も、古いものに対する郷愁を見る思いでなかなか胸に迫るものがある。

「あばばばば」はシンプルな話ながら、芥川の(?)萌え要素が仄見えるようで非常に興味深い。
ラストの感慨などは、男のエゴだよそれは、と言いたくなるのだが、失われるものに対する郷愁とも見えておもしろい。

そのほかとしては、
皮肉な視点が特に冴えており印象深い「枯野抄」、
ラストの一語が気の利いている「舞踏会」、
古典的な三角関係の中に、緻密な心理描写を織り上げている点が鮮やかな「秋」、
互いのプライドのようなものが仄見えるような点がおもしろい「お富の貞操」、
わびしさに満ちたラストの悲しみが一際目を引く「一塊の土」、
などなどがすばらしかったと思う。

ともかくも芥川龍之介のセンスが存分に味わえる一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの芥川龍之介作品感想
 『河童・或阿呆の一生』
 『奉教人の死』

『少将滋幹の母』 谷崎潤一郎

2008-12-16 19:59:52 | 小説(国内男性作家)

八十歳になろうとする老大納言は、若い妻を甥の左大臣に奪われるが、妻への恋情が立ちきれず、死んでしまう。残された一人息子の胸にも幼くして別れた母の面影がいつも秘められていた――。
平安朝の古典に材をとり、母への永遠の慕情、老人の美女への執着を描き、さらに、肉体の妄執が理性を超えて、人間を愛欲の悩みに陥れるという谷崎文学の主要なテーマを深化させた作品。
出版社:新潮社(新潮文庫)


おもしろいかどうかで聞かれるなら、僕は迷わずこの作品はおもしろいと答える。

冒頭の平中の話からして充分におもしろいし、その後に続く、時平の話や国経の話なども、文献を基に知的に進めてくれるため、飽きずに読むことができる。
加えてキャラ造形も優れているのがすばらしい。平中のどこか滑稽な姿や、時平のやんちゃな風情すらある野心家の造形など、古典を題材にしているとは言え、現代にも通じる人間像がそこにはあった。

そんな本作で個人的に特に良かったと思ったのは、北の方を拉致るシーンだ。
そのシーンにある国経の狂気の姿にはぞくりとさせられるし、この事件の背後にある各人の心理の様には心底震えるものがある。そして切ないのは国経が、妻を与えたことを後悔するところであろう。
そのように各人の状況や心理に迫り、おもしろく読ませる谷崎の上手さはさすがだ。

また母性への憧憬という、本作のテーマも良かったと思う。
滋幹が母を恋い慕う姿や、父がいつまでも妻を思っている姿に子どもながら恐れを抱いているあたりは印象的だし、滋幹の心理のゆれも心に残る。そこで母に対する僻みや、母への理想化された憧憬が記されているからこそ、ラストでの母との邂逅に、静かな余韻をはらんでいたように思われた。

ただ本作はあまりにいろいろな事象が語られすぎている、という印象も強く覚えた。そのために、おもしろいエピソードは多いものの、テーマの焦点がぼやけて散漫になってしまったような気がする。作品の味わいも印象も、余韻も、そのせいでいくらか薄まってしまったように感じられた。
おもしろい作品だと思うだけに、何かもったいない。いささか残念な作品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)


そのほかの谷崎潤一郎作品感想
 『蓼喰う虫』

『猫町 他十七篇』 萩原朔太郎

2008-12-15 20:12:44 | 小説(国内男性作家)

東京から北越の温泉に出かけた「私」は、ふとしたことから、「繁華な美しい町」に足を踏みいれる。すると、そこに突如人間の姿をした猫の大集団が……。詩集『青猫』の感覚と詩情をもって書かれたこの「猫町」をはじめ、幻想風の短篇、散文詩、随筆十八篇を収録。
前衛詩人としての朔太郎の面目が遺憾なく発揮された小品集。
出版社:岩波書店(岩波文庫)


小品集と表紙には書いてあるが、確かに良くも悪くも小品集という印象を受けた。
ここには小説、散文詩、随筆が収録されているが、どれも短いために、いまひとつ食い足りない、という印象が残るからだ。

とは言え、その小品集の中にも、レベルの高い作品や、心に残る作品はある。
個人的には散文詩の「大井町」が良かった。
そこでは生活のにおいが強烈に伝わってきており、薄汚れた貧困の情景が非常にリアリスティックに描写されていて目を引く。そこからはある種の明るさと同時に、「悲しい思ひやあこがれ」が明確に立ち上がっていたように思う。その雰囲気が心に響いた。
また、解説を読み、朔太郎の人生を知ってから再読すると、また違った味わいがあるからおもしろいものである。

ほかにも表題作の「猫町」も良い。幻想めいた風景の中に、不穏な空気をはらんでいる様は妖しくも不気味だ。
「田舎の時計」は田舎に暮らしている人間としては、共感する部分も多いし、文章の底には憎悪が漂っているようにも感じられるあたりが個人的にはツボである。
「坂」では、幻想味すら漂う前半から、憧れが覚める後半に至る流れが、どこか切なくてならなかった。

だがそういった誉めるべき作品はあるものの、中にはパッとしないものも存在し、個人的には手放しに賞賛できそうにはない。この作品集はあくまで小品集であり、それこそが小品集の限界なのだろう。
ユニークな作品もあるが、トータル的に見れば、いくらか残念な印象の方が強くなってしまった。惜しいものである。

評価:★★(満点は★★★★★)

『機械・春は馬車に乗って』 横光利一

2008-12-05 20:52:52 | 小説(国内男性作家)

ネームプレート工場の4人の男の心理が、歯車のように絡みあいつつ、一つの詩的宇宙を形成する名作『機械』、著者の文壇進出を飾った新感覚派のめざましい成果を物語る『春は馬車に乗って』『ナポレオンと田虫』、ブダペストを舞台にした『罌粟の中』ほか、『御身』『時間』『比叡』『厨房日記』『睡蓮』『微笑』。独創的な形容詞句、縦横に観念の飛躍する文体で、意識の流れをたどってゆく短編10編。
出版社:新潮社(新潮文庫)


僕の文学史に関する知識は高校の国語レベルしかないので、表題作の「機械」は新心理主義小説です、と言われてもぴんと来ないし、「春は馬車に乗って」は新感覚派の小説です、と言われても、どの表現が優れているのかがよくわからない。
文学を研究する人たちの、横光を評価するポイントがすべてを読んだ後でも、僕にはよくわからなかった。

だがそのようなことがわからなくても、本書は楽しく読むことができる。僕にとっての横光利一の良さは、表現や手法ではなく物語そのものにあったからだ。
そして僕の主観によると、物語を通して見える横光作品の美点は二つあると思った。それはスラップスティックの要素と、人間に対する温かい視点である。


たとえばスラップスティックの要素。
それをよく示すのが表題作の「機械」ではないだろうか。
この作品は、心理主義の趣向をこらしたと評価されている作品だが、どちらかと言うと僕はその思考の連続が生む、疑心暗鬼の喜劇的な状況の方にこそ心を引かれた。
あれこれと考えをめぐらせる意識の流れの手法により、主人公が一人相撲をくりかえしている様子が前面に立ち上がってきている。その状況が(シリアスというのはわかっているけれど)どうしようもないくらいにバカバカしく、妙なおかしみを誘ってならないのだ。それでいて、最後の狂気を感じさせる描写にぞくりとさせられるからたまらない。

そのほかにも「御身」の溺愛ぶりは気持ち悪くて笑ってしまうし、「時間」の悲壮感の欠片もない逃亡劇には滑稽さがにじみ出ている。
てっきり横光は堅い作品を書いていると思っていたので、こんなくだらない作品(作者がどの程度狙って書いたかは知らないが)を書いていたのかと驚くばかりだ。最高である。


また人間に対する温かい視点もすばらしい。
それを端的に示すのは「春は馬車に乗って」ではないだろうか。
愛する者が死ぬというベタなモチーフながら、病気によって巻き起こる心理的な衝突は切ないし、なんだかんだで互いを思いやろうとする夫婦の姿勢はあまりに麗しい。
特に「事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った」の部分は心を打つし、「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」のセリフには何とも言えない美しい余韻が流れている。その美しさは相手に対する愛情に満ちた視線があるからだろう。

そのほかにも「比叡」の両親の間をふり回される少年の姿が印象に残るし、「睡蓮」の短歌からにじみ出る看守の温かさは麗しく、「罌粟の中」の人間同士のささやかな触れ合いはさわやかな印象を残す。
横光利一の人間的優しさが感じさせる作品ばかりだ。


横光利一は、現在となっては忘れられた作家と言ってもいいだろう。僕の高校時代は教科書に「蝿」が載っていたが(いまはどうだろう)、そういう堅苦しい場で取り上げられるだけの作家でしかない。
しかし横光作品は単純に無視できないすばらしい側面が多い。もう少し幅広く読まれるに足る作家だと、僕個人は強く思った次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『古都』 川端康成

2008-11-14 20:12:02 | 小説(国内男性作家)

捨子ではあったが、京の商家の一人娘として美しく成長した千重子は、祇園祭の夜、自分に瓜二つの村娘・苗子に出逢い、胸が騒いだ。二人はふたごだったのだ。互いにひかれあい、懐かしみあう二人だったが、永すぎた環境の違いから、一緒には暮すことができない……。
古都の深い面影、移ろう四季の景物の中に、由緒ある史蹟のかずかずを織り込み、流麗な筆致で描く美しい長編小説。
出版社:新潮社(新潮文庫)


日本的なるものを描くのが上手な作家を上げろ、と言われれば僕は川端康成と三島由紀夫の二人を上げる。
川端作品は『雪国』と『伊豆の踊子』の二作品しか読んだことはないが、それでも理性的な三島と違い、その叙情性でもって、日本的なるものにアプローチしていく作者の手腕には、強い感銘を受けたことを覚えている。

『古都』はそんな川端の作風に非常にマッチした題材と言えるだろう。
京都を舞台に、四季折々の祭りを交えて、千恵子とその周辺の人物像を描いていく姿は川端らしくいかにも繊細だ。特に京都の行事の描写が情緒に満ちている。彼の筆により、京都でくりひろげられる四季の風物や、高山寺近くのの杉の情景の風情を追体験できるのがすてきだ。
解説でも少し触れられているが、この作品はそういう意味、明らかに京都という街を主人公にした小説と言えるだろう。

もちろんそこに出てくる人間模様も興味深い。
ふた子に出会った際の微妙な心のゆれや、恋もからんだ千恵子の心理、そして育ててもらった養父母との心模様などが淡々と積み重ねられているのが印象的だ。その様相はナイーブな空気をはらんでおり、一読忘れがたい。

だが個人的にはその繊細さゆえに物足りない印象を受けたことも事実だ。これはこれで充分にいいし、読んでいてもそれなりに楽しめたのだけど、いまひとつ僕の心に強く訴えてこない。
感受性が足りないと言われればそれまでだが、僕はこの、何かから一歩踏みとどまっているような空気が肌に合わない。

要は趣味の問題なのだろう。そうとしか言えないのがなんとも残念な限りだ。

評価:★★(満点は★★★★★)

『楢山節考』 深沢七郎

2008-11-09 15:26:24 | 小説(国内男性作家)

「お姥(んば)捨てるか裏山へ 裏じゃ蟹でも這って来る」雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しいの掟なのだ――因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた『楢山節考』。ほかに『月のアペニン山』『東京のプリンスたち』『白鳥の死』の3編を収める。
出版社:新潮社(新潮文庫)


表題作の「楢山節考」は、口減らしのために姥捨てが行なわれる山の村での話だ。
その姥捨ての描写がともかく恐ろしいのである。
その村では、ほかの者が生き残っていくため、弱者は殺されていく。それだけなら別に何てこともないのだが、その弱者である老人たちが、自分たちが殺されるという事実を平気で受け入れている点に、僕は驚嘆をした。
それは言うまでもなく異常な光景だ。しかし、本作では、その異常性を異常とも感じさせないほど、淡々と描写していく。その筆致には舌を巻くほかない。

「いつ山へ行くでえ?」と平気で祖母に聞く孫の描写には、人間の倫理というものが生活の保障抜きには成り立たないということを示して不気味ですらある。祖母もそのような世界で育ったため、殺されることを当然と考え、その準備をする。
その一連の流れは、すさまじいとしか言いようがない。

からすが住まう谷に突き落とされた(この場面の描写は戦慄もの)又やんの姿こそが人間の本来の姿であるはずだ。
だが、この村ではそんな人間性など否定されてしまう。その状況は、不条理以外の何物でもないだろう。

もちろんそこに住む人間だって、親には楽に死んでほしいと願っている。たとえば、辰平が掟を破って、母親に声をかける場面には親子の情愛を見ることができる。そしてそれこそ普遍的な人間の姿だろう。
しかし、貧しいという現実はそんな情愛さえも押しのけざるを得ない。それはあまりに悲しいことだ。

そこにある運命は理不尽以外の何物でもないだろう。
だがそれこそが生きていく者の業なのだ。この作品にはそんな人間の業が鮮やかに活写されていると思う。

短い作品だが、恐ろしいまでの凄みと、深い余韻をはらんだ作品である。
きっとこのような作品をこそ傑作というのだろう。

本文庫には、ほかに三本の作品が併録されている。
「東京のプリンスたち」が当時の若者の風俗と、刹那的な雰囲気をうまく描いている点が、おもしろい。けれど残念ながら、それも「楢山節考」には及ばない。
だが正宗白鳥が言うように、「この作者は、この一作だけで足れり」と言えるのかもしれない。
少なくとも、深沢七郎はこの短い「楢山節考」という作品一本で存在は永遠である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『河童・或阿呆の一生』 芥川龍之介

2008-09-30 13:26:12 | 小説(国内男性作家)

芥川最晩年の諸作は死を覚悟し、予感しつつ書かれた病的な精神の風景画であり、芸術的完成への欲求と人を戦慄させる鬼気が漲っている。出産、恋愛、芸術、宗教など、自らの最も痛切な問題を珍しく饒舌に語る『河童』、自己の生涯の事件と心情を印象的に綴る『或阿呆の一生』、人生の暗澹さを描いて憂鬱な気魄に満ちた『玄鶴山房』、激しい強迫観念と神経の戦慄に満ちた『歯車』など6編。
出版社:新潮社(新潮文庫)


この短篇集に載っている作品は、「大導寺信輔の半生」を除けば、すべて十代のころに読んだ作品ばかりだ。
今回新潮文庫版でこれら芥川の後期作品群を再読し、もっとも驚いたのは、何と言っても「歯車」の存在感だろう。
高校生のころ、この作品を読んだときは、なぜ「歯車」が後期の芥川の傑作のひとつと見なされているか、いまひとつ理解できなかったきらいがある。しかし30になって読み返してみると、その評価が妥当であるとうなずかざるをえない。

とにかく「歯車」という作品はは恐ろしい作品だ。
内容は、心を病んでいる一人の人間の心理を追っているといったところで、そこに大きな事件があるわけではない。だが、そこでは平凡さを感じさせないほど、濃密な心理ドラマが展開されている。
芥川を思わせる作家「僕」にも少なからぬ明るい感情のあることが最初のほうで示されている。神経質な部分はあるが、女学生に対する微笑ましい視線はそれを感じさせるだろう。それが姉の夫が自殺してからはトーンは決定的なまでに暗鬱になっていく。
そこにある狂人の子だから狂ってしまうのではないか、という濃密な恐怖、神経症めいた言語や観察に関する描写、数多くの符号に関する恐怖、すべての方向は主人公の心を追い詰めていくようで、その鬼気迫る描写や、底に漂う不気味さは心底ぞっとするものがある。それに構成もあくまで緻密であり、その精緻さには舌を巻くほかにない。
ここには虚飾もあるだろうが、芥川の真実も確実に描かれているだろう。最終的に自殺を選択するのもむべなるかな、と思わせる切羽詰ったものが漂っている。だがそれでもその感情を芸術的に仕上げていこうという姿勢には、芥川の執念をも見る思いがするから、驚くほかにない。
芥川龍之介という作家はとんでもない作家だ、とこういう天才的な作品を読むと思わずにはいられない。芥川のベストは「地獄変」「藪の中」「羅生門」と思っていたが、確実にこの「歯車」こそが、彼の最高傑作だ。

個人的には「或阿呆の一生」も好きだ。
そこにあるメタファーを通して描かれた芥川の自伝は美しく、断章形式ということもあってか、切れがある。
前半部は明るいトーンの作品が多い。「画」「火花」には明るさと、気負いの中にある種の危うさを感じさせるようで特に興味深い。それが後半になるにつれ、トーンが暗鬱になるのが印象的だ。明るさが暗さに転じ、死への憧憬と追い詰められた感情が徐々に立ち上がってくる過程には何とも言えないパワーを感じることができ、胸に響くものがある。

「河童」には芥川らしい皮肉な視線が光っており、おもしろい。
河童社会も人間社会も概ね似たようなものだが、河童社会には人間社会のような偽善がなく、あけすけであるところが特におもしろい、と思った。それゆえにうかがうことができるシニカルな描写が印象的である。

ほかにも「玄鶴山房」も僕は好きだ。
特に甲野というキャラの造形は見事だろう。彼女の意地悪な視点があるからこそ、この家庭内悲劇に、ある種のおぞましさと冷ややかな印象を呼び起こしているように思う。

ともかくこの後期作品集は優れた作品が多い。芥川龍之介という作家の天才性は、後期作品群の中にこそいかんなく発揮されていると僕は思う。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)


そのほかの芥川龍之介作品感想
 『奉教人の死』

『蓼喰う虫』 谷崎潤一郎

2008-09-29 21:40:27 | 小説(国内男性作家)

性的不調和が原因で夫婦了解のもとに妻は新しい恋人と交際し、夫は売笑婦のもとに行きながら”蓼喰う虫も好きずき”の諦念に達して、互いにいたわりあいつつ別れる時期を待つ――。耽美的、悪魔的とまでいわれた従来の作品傾向から一転し、日本的女性美や趣味生活に目を向けはじめた時期の特異作。発表当時「海草が妖しく交錯する海底の世界を覗く思い」と評された。
出版社:新潮社(新潮文庫)


結論から先に書くと、この小説は僕にとっては難解であった。

とは言え真ん中くらいまでは非常におもしろいのである。
妻との関係がぎくしゃくしてしまった夫の心理が丹念に描いており、地味な展開ながら細部描写で読ませていく力はさすがは谷崎と言ったところ。
恋人と会いに行く妻との微妙な距離と心理は丁寧にあぶりだされており、子どもに対して、自分たち夫婦の状況をどう説明するかといった部分は興味を引かれるし、高夏のおせっかいな論説もいくらかもっともな面があり、楽しんで読むことができる。

そこには、いくらかの滑稽さと悲しさが入り混じっている点がいい。
中盤に夫と妻の過去が語られる場面があるのだが、そこにある箇条書きの条件などにはいくらか苦笑してしまうものがあった。そのような中途半端な条件を出すことしかできず、ちゃんとした形を明示できない、二人の心理は奇妙である。だがそれがシリアスなだけに、微妙な滑稽さがあるように見えてならない。
そしてそうなってしまったのは、夫婦であるにもかかわらず、腹を割った会話ができないという点にあるところが、同時に何とも悲しい限りではないか。

と個人的に良いと思った面はあったが、後半になるとその印象は変わってしまう。
そう感じた理由は、この作品が一体どこに向かいたいのか、読んでもわからなくなってしまったからだ。

後半になり、主人公は義父と義父の妾と淡路島に行くのだが、そのシーンがなぜこうも長々と描かれているのかよくわからない。
前半の義太夫のシーンは、義太夫の印象から主人公が妻に対して心が離れるに至った理由が書いてあるのだけど、この島での浄瑠璃のシーンは何を意味しているのだろう。

あるいはそれは義父と妾の関係と、主人公と妻との関係とを対比させる意味があったのかもしれない。実際妻をほぼ放任状態の主人公と、自分の趣味に妾を染め上げようとしている義父とは対照的だ。結果的に、妾はその義父の行為に馴染みきれていない面もあるが、いい関係ができている。そこが主人公と興味深い対比になっていることは確かだ。だけどそれがどうしたというのだ、という気もしなくはない。
もちろんそれらの淡路島のシーンから谷崎の趣味志向が読み取れて興味深くはあるのだけど、どうも僕には小説としての有機的なつながりがわからず、もどかしい気分になってしまった。

高夏からの手紙を見つけ読むシーンなど、後半にもおもしろい部分はあるのだが、淡路島を始めとするシーンの印象を引きずって難解だという印象だけが強くなってしまった。
『細雪』『春琴抄』『吉野葛』など、谷崎には好きな作品も多いが、この作品は僕にとっては敷居が高かったかもしれない。

評価:★★★(満点は★★★★★)