恐ろしいが、しかし時には利益をもたらす神々、ふしぎな能力を持つ山男、空飛ぶ天狗、川にひそむ川童……わたしたちの忘れかけた怪異な世界の物語を、簡潔な美しい文章でつづった「遠野物語」ほか、「雪国の春」、「清光館哀史」など、日本人の文化を考える柳田民俗学のエッセンスを収録。
出版社:集英社(集英社文庫)
一度だけだが、むかし観光で遠野に行ったことがある。
そこで一番印象に残っている場所は、オシラサマと呼ばれる人形が壁一面に飾られた部屋である。
その人形はいかにも素朴で、見るからに民俗信仰といった感があったけれど、その素朴さがふしぎと心に沁み入り、じっと見ていると、がらにもなく敬虔な気分になったことを覚えている。
その場所では、オシラサマに関する伝承も紹介されていた。
その原典こそ、本作『遠野物語』の69話である。概略を記すならば、以下の通りだ。
昔貧しい百姓の家に、美しい娘がいた。娘は飼っていた馬を愛し、厩舎に行って関係を持つようになる。それを知った父親は娘に内緒で、桑の木に馬をつるして殺してしまう。娘は馬の死を知り、死んだ馬の首にすがり付いて歎き悲しんでいたが、父親はそれを見て、馬を憎み、馬の首を切り落としてしまう。すると、娘は切り落とされた馬の首に飛び乗って、一緒に天へと昇っていく。そのとき、馬をつるした桑の木でつくったものが、オシラサマの始まりである、
とのことであるらしい。
遠野で読んだときも思ったが、実に奇妙な話である。
だが本作には、上記のような、不可思議な話がたくさん語られているのだ。
ここには119話が収録されているが、どれも民話というにしても突飛なものばかりである。
まるで幻想譚のように読める話もあるし、ホラーや怪談じみた話もあれば、謎めいた展開のお話もある。
また、山男に山女、川童や天狗や、ザシキワラシなど、ふしぎなキャラクターが登場する話もある。
どれも現実に起きたことのように書かれているけれど、ふしぎすぎて、とてもじゃないが現実的な話とは思えない。
しかしそれゆえに、どの話にも目を引かれるのだ。
そしてその点こそ、『遠野物語』のおもしろみでもあるのだろう。
本作は読みようによっては異常な状況の話を、異常とも感じさせず、ありのままの形で、語っている。
川童や山男がいたという話を、語り手はすなおに受け入れ語り、人間が魔法を使えたという点に対してもつっこみも入れずに、無条件で信頼し、話をする。
そういった語りを読み続けていると、ふしぎなものをありのままの形で受け入れられるのだ。
川童がこの世にいても、おかしくないよな、と感じられるし、殺したはずの女や山男がその場から消えてしまっても、ありだよな、と思えてしまう。その読み味がすてきだ。
さて本作にはいろんな話があるが、個人的には90話の天狗とけんかした男の話が好きだ。
天狗とけんかしたという点自体がまずふしぎに思うし、その後、その男が手足を抜き取られるという異常な形で死んでいた点を不気味に感じる。
たぶん、天狗とのケンカと、異常な死の間には相関性などないのだろう。
だがむかしの人は、天狗の存在(おそらく幻)と、その当人の異常な死を、結びつけざるをえなかった。
それは、たぶんむかしの人が、未知なるものに対して激しい畏怖を持っていたからだと思う。
むかしの人は、自分たちの周りを囲む、山や森を恐れていた。
その理由は、自然が人間の手では到底制御できるものではなかったからだと思う。
そしてその象徴こそ、天狗だったのではないだろうか。そしてその畏怖心が、このような話を生み出したのでは、そんなことを思ったりする。
そういう風に考えると、『遠野物語』というのは、遠野地方に住んでいた昔の人たちの、世界の捉え方の記録なのかもしれない。
『遠野物語』は、昔の人の心性を追体験できる、短いながらも構えの大きな作品ではないか、と思った次第だ。
そのほかの併録作品もおもしろい。
基本的にどの作品も、一つの事象から日本人の行動形式を解き明かすスタイルだ。
たとえば、『女の咲顔』は笑顔から、『涕泣史談』は泣くという感情表現から、『雪国の春』は北国と都の暦から、『木綿以前の事』は木綿から、『酒の飲みようの変遷』は酒の一点から、日本人の姿をあぶりだしている。
そんな作品群の中で気に入ったのは、『清光館哀史』だ。
高校の教科書にも載っていた作品だが、いま読むと、当時の僕にはわからなかった、この作品の良さに気づかされる。
ここでキーワードになるのは、盆踊りの文句だ。
その短い文句は性的な意味合いにも取れるけれど、作者はそれを、生活の苦しみのからの解放を望んで生まれたものと捉えている。その観点がとても鮮やかだ。
そしてその生活苦を、むかし泊まった清光館の没落と結びつけるところは、巧妙だな、とつくづく感心させられる。そして哀愁漂うラストに、しみじみとした感慨を覚える。
高校生が理解するにはちょっと早いかもしれない、渋い一品であった。
評価:★★★★(満点は★★★★★)