古代の宗教家ツァラトゥストラに託し、超人、力への意思、永劫回帰の思想が展開される。ニヒリズムなどの思想で知られるフリードリヒ・ニーチェが根本的思想を体系的に記した代表作。
氷上英廣 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)
『ツァラトゥストラ』はきわめてかっこいい書物だ。
気の利いた警句に富み、文章は散文詩のような陶酔に満ちた味わいがある。
たとえば、
「愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある」
「大きな恩恵は、感謝を膿みださない。むしろ相手の心に復讐の念を萌させる」
「結局彼らがひたすら望んでいることは、一つである。誰からも苦痛を与えられないということだ。そこで先廻りして、だれにも親切をつくすというわけだ。これは、臆病というものだ。たとえ「美徳」と呼ばれようと」
「おのおのの魂には、それぞれ別の世界が属している。おのおのの魂にとって、すべてのほかの魂は、ひとつの及びがたい彼岸の世界なのだ」
といった文章は実にカッコいい。
再読だったが、それでも読んでいる最中、はっとする文章に出会うことは多かった。
しかし書かれている内容は象徴や暗喩を駆使しているためにわかりにくく、ゆっくり読まないと、結局何を言っているのかは読み取りにくい。
展開されている論もくりかえし同じことを語っているものが多く、構成はそこまで緻密なものとも思えなかった。僕のニーチェに対する知識が、そこまで多くないのが原因かもしれないが。
正直なところ、この本をしっかり読み取れたか、僕には自信がない。だから的外れかもしれないが、僕なりの意見と感想を述べてみよう。
世界の常識を解体する、そういう点において、ニーチェの思想には大変大きな意味があるだろう。
既存の価値観を疑い、それに疑問を投げかける点には感心するものが多い。
苦悩が神を想像したという「世界の背後を説く者」の論は正論だと思うし、平等の説教者が、復讐の念からそれを行なっているという意見もおもしろい。「市場の蝿」の中のポピュリズムを否定するような文章も現代を見抜いていて、感嘆とする。
そのほかにも、世間が認める善なるものを否定する文章は刺激に満ちている。
偽善の虚飾を剥ぎ取り、既成の価値観を否定する逆説的なニーチェの筆は明らかに冴えわたっている。
しかしそれを踏まえての「超人」の思想になると、はっきり言って僕の趣味には合わない。
「人間は克服されなければならない或る物である」というマッチョな思想は確かに魅力的であり、共感できる部分もないわけではない。
意志の力で自分自身を高めようとする思いは、言うなれば向上心に近いものがあり、安寧をむさぼることなく、生を獲得していこう、という姿勢が重要であることは否定できない。
しかし人間は果たしてそこまで強いものだろうか、という気がしなくはない。
第4部の後半で「ましな人間」たちですら憂鬱の歌に捕らわれているが、それこそまさに人間の真実ではないだろうか。
どれだけ高みを目指す意志を持とうとも、人間は必ずその状況を最後まで保つことはできない。「この身があらゆる真理からいっそ追放されてしまえばいい」という言葉の中には、ニーチェ自身もその真実に気付いていたことを示すだろう。
それに超人の思想を語るために出てくる畜群という言葉にも僕は居心地の悪さを感じる。
安寧の方向へと流されて、価値を疑おうとしない人間を一方的に断罪し、卑しい者と決め付けることが果たして正しいことなのだろうか。
残念ながら僕はそうとまでは思えなかった。僕の目から見ると、それは自尊感情から他人を蔑視するだけの傲慢という気もしなくはない。
一言で言えば、『ツァラトゥストラ』には、弱者に対する愛がないのである。
それを否定しているから、当たり前と言えば当たり前なのだが、人間の弱い部分に思いをいたさない点は問題だと思う。
超人を目指しながらも、憂鬱にとらわれるのは人間なら自然なことだ。それが畜群を生むとしても、どうしてそれを責めることができるのか。
弱い人間を慈しまないで、それでも超人を目指せという考えを僕は好きになれないし、全面的に受け入れる気にはなれない。これは個人の趣味の問題だ。
ニーチェの思想は既存の価値観を疑うという点では意義があるのかもしれない。確かにその視点の鋭さはすばらしいし、読んでいてもきわめておもしろい。
本として、思想として見るなら、この作品が際立った作品ということを否定するつもりはない。一度は読んでみる価値はあると思う。
しかしそこにある論理を僕は好きにはなれない。僕は弱い人間の弱さをこそ愛する思想をこそ、受け入れたいと思う。
何かイタイ子のイタイ文章みたいになってしまったが、僕なりの意見である。
PS
挿入すべき場所が見つからなかったので、述べなかったが、永劫回帰の思想はおもしろかった。すべて同じように戻ってきて、何も改善されることはない、という点は虚無と恐怖と絶望が感じられ、思考法としてはきわめてユニークなものであろう。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)