夏目漱石の名作「坊ちゃん」の中で、イギリスの風景画の巨匠ターナーが紹介されて
以来、ターナーの名前はわが国では早くからおなじみである。そのターナーが晩年の
ある展覧会へ、すばらしい夕焼けの絵を出品したことがある。そのとき会場にいた
ターナーの傍らに知人の天文学者が来て、
「ターナー君、私は永年天文学者として、空の観察をしているが、こんな夕焼けは見た
ことがない。それに気象学上このような夕焼けはできるはずがない」
ときめつけた。するとターナーは微笑を浮かべながら、
「博士、あなたはこのような夕焼けを、ご覧になりたいとはお思いにないませんか」
とやりかえした。博士は芸術を実物の模写と思ったのだろうが、すべて芸術は自然の
ままでは成り立たない。風景画は実景をそのまま写すのではなく、そこに画家の
幾分かのフィクション(創意)が加わって素晴らしい風景画となる。そのフィクションと
いうのは、実際は自動車が通っているのに、人力車にしたり、何もないのに塔が描き
加えられたりもする。
フィクションは、絵画ばかりではなく、文学にもある。しかもありのままをつたえるところに
値打ちのある「紀行」や「日記」にさえフィクションが加味される。有名な芭蕉の紀行文
集「奥の細道」にしても、その正確さにおいて資料的価値ありとされる「永井荷風日記」
にしても、フィクションされた部分がある。
女の化粧も素顔に対してはフィクションといえる。このフィクションに男は異性美を感じ
恋心を発して結婚にゴールする。結婚後このフィクションが除かれるところに悲劇が
生ずる。やはり化粧も、永久にはげない名画のフィクションであってほしいものである。
─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院より
時代劇の衣装など、現代のドラマでは、実に色が鮮やかできれいに表現できるはずである。
しかし、時代考証を考えて、その時代のものに忠実にするとなんともおかしなものになる。
地味で、ドラマの華やかさがなくなる。ところが、その忠実さが正しいと誤解している。
そして、最近、不満なのは、NHKの大河ドラマである。時代考証のせいだとわかるのだが
ライトの当て方が妙に暗い。その時代の部屋では昔の時代劇のように明るいはずが
ないというところから、来ているように思えるが、私は、がっかりしてしまう。
そんな時代考証は、社会科のドラマ仕立ての教育映画でやればよい。ストーリーの
展開が息をつかせぬときにその部屋の中で薄暗く役者の演技など見えない。
着ている着物のあでやかさなど、見えない。なんとも薄気味悪いのである。
貧乏くさい、よれよれのリアリズムを追及するドラマなど見たくない。
このごろのNHKの時代劇は万事が万事こんな具合のように思える。昔のドラマのほうが
見せたいところがはっきりしていた。最近は愚かな監督が増えたものである。
時代絵巻のようなドラマは、心象的な光をあてるべきだ。そして、昔の時代の様子
を忠実に表現する必要はない。学校の授業ではない。昔の博物館に残っている
絵巻物だって輝かしく描かれている。描く人のフィクションが入っているのだ。
NHKのドラマでは、現代の染色技術や、背景、光の心理的な当て方など、現代の最高の技術で
豪華にできるところが面白いと思われないか・・・昔の草木染自体はいいものだろうが、その色は
テレビなどでは、地味なものである。やはり、鮮やかに染色した現代の技術で
フィクションの絵巻物を見たいものだ。現代こそ時代絵巻の豪華さが楽しめるはずだ。
テレビドラマも大衆芸術と言ってよいと思う。もっと芸術を意識すべきである。リアリズムの追求
ではない。
時代劇の華やかさでは、韓流の時代劇に負けている。
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