◆論理を超えたところにあるレトリック
レトリックというと、修辞学です。修辞学というと、一般には、単なる言葉の遊びに
すぎないという誤解がありますが、実は人と人との関係を知的に構築する方法なの
です。
なぜ修辞学があるかというと、世の中には真理かどうかわからないこと、正しいとか
間違っているとか客観的にはっきりしないことがあって、それを相手に対して説得
する時には論理ではない修辞を使って納得させるしか方法がないからです。
例えば、平面上の直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しいという
ピタゴラスの定理は、議論の余地がありません。なぜなら、万人が認めざるを得ない
形で証明できるからです。
しかし、例えばトルストイとドストエフスキーはどちらが偉大であるかというようなものに
対しては、論じれば切がありません。このような時に修辞学が必要になってくるのです。
また、女性に向かって、男性が自分の長所を並べあげて、これこれしかじかであるから、
あなたは私を好きに成るべきだと言っても始まりません。好きにならせることができるか
どうかは、論理の問題ではなく、説得=修辞の問題なのです。
ところが得てして人は、説得が必要な時に、いたずらに論理の方法によろうとするのです。
北風と太陽の話ではないですが、相手の心を開かせるのは、北風で剥ぎ取るか太陽の
ポカポカでいくかですが、太陽のポカポカが修辞学なのです。
真理を主張するのであれば、証明してみせるだけでいいのですが、証明で白黒がつかぬ
ものは、修辞学の分野の説得によるしかないのです。
ローマ時代も、論理学の本の表紙には「げんこつ」が描いてあり、修辞学の表紙には
「開いた手のひら」が描いてありました。論理学は「げんこつ」のように相手を有無を
言わせず屈服させるハードな方法であり、修辞学は手のひらで相手をさすりながら
納得させるソフトな方法であったようです。もちろん学問である以上、ともに暴力に
よるものではなく、知的な技術によるものです。
◆レトリックにおける三つの原則
この説得に関して、まず基本的な三つの原則があります。
第一の原則は、自分が説こうと思っていることに確信を持つことです。自分の方が正しい
と思っていなければ、何をどうやっても、説得に迫力が欠けてしまいます。
第二の原則は、客観的に証明できるものは争わずに利用し、客観的に証明できないことに
ついては、相手を納得させようとしているのだという自覚をたえず抱き続けることです。
第三の原則は、比喩を使うことです。これはイメージの伝達には欠かせぬ有効な手段で、
相手に伝えるのは、言葉ではなく、あくまでもイメージでなくてはなりません。太陽の
ポカポカなのです。
こういった原則を守りながら相手を説得していくことが、知的生活の場だけに限らず、世の
中においてもっと求められていくようになるでしょう。
というのは、近代思考や論理の世界が弱まってきていますので、げんこつによる説得
では人は信用しなくなりつつあるからです。それに代わって台頭するのが、このレトリック
による説得だと思うのです。逆に言えば、レトリックによってダマされないことも、私たち
現代人には必要になってくると言えるでしょう。
─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)より
■なんでも論理でいかなくてはだめだ、というのが現代の社会かもしれない。
ニュースをみていてもキャスターが論理的であろうとしているように見える。
自分の職場でも論理的になんでも処理しようとする人がいた。たしかに説得力はあるが
論理的であれば、現実的に正しいとはならない・・・現実を見失って論理的に
はめ込もうとすることもある。現実は知っているのだが、それを瞬時にレトリックで
表現できたら、説得することは楽かもしれない・・・
修辞とは:言葉を有効に使って、うまく美しく表現すること。レトリック。「―法」
レトリックというと、修辞学です。修辞学というと、一般には、単なる言葉の遊びに
すぎないという誤解がありますが、実は人と人との関係を知的に構築する方法なの
です。
なぜ修辞学があるかというと、世の中には真理かどうかわからないこと、正しいとか
間違っているとか客観的にはっきりしないことがあって、それを相手に対して説得
する時には論理ではない修辞を使って納得させるしか方法がないからです。
例えば、平面上の直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しいという
ピタゴラスの定理は、議論の余地がありません。なぜなら、万人が認めざるを得ない
形で証明できるからです。
しかし、例えばトルストイとドストエフスキーはどちらが偉大であるかというようなものに
対しては、論じれば切がありません。このような時に修辞学が必要になってくるのです。
また、女性に向かって、男性が自分の長所を並べあげて、これこれしかじかであるから、
あなたは私を好きに成るべきだと言っても始まりません。好きにならせることができるか
どうかは、論理の問題ではなく、説得=修辞の問題なのです。
ところが得てして人は、説得が必要な時に、いたずらに論理の方法によろうとするのです。
北風と太陽の話ではないですが、相手の心を開かせるのは、北風で剥ぎ取るか太陽の
ポカポカでいくかですが、太陽のポカポカが修辞学なのです。
真理を主張するのであれば、証明してみせるだけでいいのですが、証明で白黒がつかぬ
ものは、修辞学の分野の説得によるしかないのです。
ローマ時代も、論理学の本の表紙には「げんこつ」が描いてあり、修辞学の表紙には
「開いた手のひら」が描いてありました。論理学は「げんこつ」のように相手を有無を
言わせず屈服させるハードな方法であり、修辞学は手のひらで相手をさすりながら
納得させるソフトな方法であったようです。もちろん学問である以上、ともに暴力に
よるものではなく、知的な技術によるものです。
◆レトリックにおける三つの原則
この説得に関して、まず基本的な三つの原則があります。
第一の原則は、自分が説こうと思っていることに確信を持つことです。自分の方が正しい
と思っていなければ、何をどうやっても、説得に迫力が欠けてしまいます。
第二の原則は、客観的に証明できるものは争わずに利用し、客観的に証明できないことに
ついては、相手を納得させようとしているのだという自覚をたえず抱き続けることです。
第三の原則は、比喩を使うことです。これはイメージの伝達には欠かせぬ有効な手段で、
相手に伝えるのは、言葉ではなく、あくまでもイメージでなくてはなりません。太陽の
ポカポカなのです。
こういった原則を守りながら相手を説得していくことが、知的生活の場だけに限らず、世の
中においてもっと求められていくようになるでしょう。
というのは、近代思考や論理の世界が弱まってきていますので、げんこつによる説得
では人は信用しなくなりつつあるからです。それに代わって台頭するのが、このレトリック
による説得だと思うのです。逆に言えば、レトリックによってダマされないことも、私たち
現代人には必要になってくると言えるでしょう。
─『渡部昇一の 人生観・歴史観を高める事典』(PHP研究所)より
■なんでも論理でいかなくてはだめだ、というのが現代の社会かもしれない。
ニュースをみていてもキャスターが論理的であろうとしているように見える。
自分の職場でも論理的になんでも処理しようとする人がいた。たしかに説得力はあるが
論理的であれば、現実的に正しいとはならない・・・現実を見失って論理的に
はめ込もうとすることもある。現実は知っているのだが、それを瞬時にレトリックで
表現できたら、説得することは楽かもしれない・・・
修辞とは:言葉を有効に使って、うまく美しく表現すること。レトリック。「―法」
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