茶の湯の大成功者千利休には多くの逸話がある。
ひととおり茶の湯の課程を卒業した弟子の家で、新たに作った茶室開きに利休と
弟子数名を招いた。その茶事の手前で、主人は利休を前にしていささか上がってしまい、
ぎこちない手前となって、ひしゃくを持つ手はふるえ、湯をこぼすやら、小失敗をくりかえした。
これを傍らでみた弟子たちはくすくす忍び笑いをもらしたが、利休は真剣な目付きでじっと
その一挙一動をみまもり、やがて手前が終わると、
「今日は近頃にない、心のこもったお茶をちょうだいして、こんな嬉しいことはない」
と大変ほめて帰った。
そしてあとで同行の弟子たちを強くいましめて、
「お前たちは、今日の主人の不手際を笑ったがとんでもない心得違いだ。真剣さが
高まっての不手際は真心の現われだ。その茶をたてるのに一生懸命だったことに
感心しなければならない。あの気持ちの尊さは、何ものにもかえられぬ、あれが本当の
茶というものだ」と諭した。
あるとき、利休は大阪から京都へ帰る途中、淀川べりの守口の茶人を訪ねたことが
ある。このときは早朝であったが、主人はかねてから利休の来訪を望んでいたこと
でもあり、喜んで利休を茶室へ通した。そして、茶室の傍らの柚子の木から柚子を
二、三個主人自らもいだ。
利休は不時の来客に柚子味噌でカユでもふるまうのか、と感心した。
事実その通りであったが、その後、到来ものと称してカマボコ等の美味が次々に
出されたので、利休はさっさと帰ってしまった。
主人は、来訪を予知し、ひそかに用意していた。
手料理の柚子味噌だけなら臨機の誠意であるが、真心らしく見せる、買った美味に
利休は我慢ならなかった。
─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院 参照
演出をする見せかけの誠意や真心というものは、巷にあふれている・・・
ひととおり茶の湯の課程を卒業した弟子の家で、新たに作った茶室開きに利休と
弟子数名を招いた。その茶事の手前で、主人は利休を前にしていささか上がってしまい、
ぎこちない手前となって、ひしゃくを持つ手はふるえ、湯をこぼすやら、小失敗をくりかえした。
これを傍らでみた弟子たちはくすくす忍び笑いをもらしたが、利休は真剣な目付きでじっと
その一挙一動をみまもり、やがて手前が終わると、
「今日は近頃にない、心のこもったお茶をちょうだいして、こんな嬉しいことはない」
と大変ほめて帰った。
そしてあとで同行の弟子たちを強くいましめて、
「お前たちは、今日の主人の不手際を笑ったがとんでもない心得違いだ。真剣さが
高まっての不手際は真心の現われだ。その茶をたてるのに一生懸命だったことに
感心しなければならない。あの気持ちの尊さは、何ものにもかえられぬ、あれが本当の
茶というものだ」と諭した。
あるとき、利休は大阪から京都へ帰る途中、淀川べりの守口の茶人を訪ねたことが
ある。このときは早朝であったが、主人はかねてから利休の来訪を望んでいたこと
でもあり、喜んで利休を茶室へ通した。そして、茶室の傍らの柚子の木から柚子を
二、三個主人自らもいだ。
利休は不時の来客に柚子味噌でカユでもふるまうのか、と感心した。
事実その通りであったが、その後、到来ものと称してカマボコ等の美味が次々に
出されたので、利休はさっさと帰ってしまった。
主人は、来訪を予知し、ひそかに用意していた。
手料理の柚子味噌だけなら臨機の誠意であるが、真心らしく見せる、買った美味に
利休は我慢ならなかった。
─『一日一言 人生日記』古谷綱武編 光文書院 参照
演出をする見せかけの誠意や真心というものは、巷にあふれている・・・
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