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平気で生きて居る事──正岡子規が悟ったこと

2016-05-15 18:19:47 | 知恵の情報

「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる
場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合
にも平気で生きて居る事であった。」(『病床六尺』)

『古典の知恵 生き方の知恵』(古今東西珠玉のことば2)PHPで谷沢永一氏がこの
一節をとりあげて、解説している・・・
彼は、禅宗で言う「悟り」は嘘っぱちであり、無邪気な信徒をおどかして、騙すための
虚勢であり、その証拠に、悟りを開いたと称したり囃し立てられたりして、すまし顔
のはったり屋はいたが、悟りとはどういう心境かを説明した人はいないし、悟りを開いた
後の態度が、それ以前とはどう異なるのかを、われわれにも理解できるよう判然と示した
者もない。そういう証明が不可能であるがゆえ、悟りとはついに悟った希有な傑物にしか
わからないのだと、誤魔化しのいいのがれを用意しているだけなのだ。──と語る。
そうして、正岡子規の痛切な述懐こそ、人間の究極の境地なのではなかろうか、と述べている。
若死にすることが目に見えている難病にとりつかれ、それでも気が萎えず弱気に沈まず、
志す仕事にますます精励し、平常心を持して着実に進みゆく、病臥に横たわりながら俳句の
新風を起こし、達意の散文をもって後世に範を垂れたのである。──と続けた。

読んでいて、納得させられる感じだった。苦悩の中から正岡子規が生きる意味をみつけた至言
だろう。
私は、「悟り」とは、「迷わなくなること」と理解していて、「平気で死ねる」という境地は、
多分、正岡子規のあきらめとその残された時間をどう生きるかという迷いがなくなったから
だろうと理解している・・・
自分の生き方を決めるのは難しい、一生それを探す人もいるし、早くから気づいてその役目に
徹する人もいる。早くから気づいている人は、私から、見ると、生き方に迷いがなく、
人生がなにをわれわれに期待しているかを理解した人だろう。

どちらが良いということは言えないと思う。それぞれに段階があり生まれてきているのだから。
ただし、『夜と霧』のV・E・フランクルのおっしゃるように「人生から何をわれわれは
まだ、期待できるかが問題なのではなくて、むしろ、人生が何をわれわれから期待しているかが
問題なのである。われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として
体験されるのである」これを観点変更というが、これをとらえることによって、迷わなくなるの
ではないかと考えている。

つまり、問われたものとして何をすべきなのか、それをとらえなければならないが、
彼は、「人生から、意味実現の機会がまったく失われることなどない」つまり、もう
遅いとか、時間がないということはなく、死ぬ直前までその機会は存在すると
いうこと、そして使命中心の生き方をすすめている。



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