超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

律法学生イェントル 5/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:49:27 | 超芸術と摩損
 アンシェルと縁を結んだのはとてもよくできた人たちだった。ハダスは妻として尽くしてくれた。両親も義息のあらゆる願いを聞いてくれ、義息の教養を誇りにした。幾月たってもハダスにおめでたはなかったが、気にとめる者はいなかった。一方アヴィグドルの結婚生活は着実にひどくなっていた。ペシェはアヴィグドルにきつくあたり、とうとう食事も満足に出さず、洗濯さえ嫌がるようになった。アヴィグドルはいつもお金に困るようになり、アンシェルはまた毎日ソバ粉のパンケーキを買ってやるようになった。ペシェは忙しいと言って料理をせず、けちで下女も雇わないので、アンシェルはアヴィグドルを自宅に食事に呼ぶことにした。アルテル・ヴィシュコヴェル氏夫妻は、元婚約者の家に求婚を断った者を招くのは間違っていると言って反対した。街じゅうがこの話題で持ちきりになった。しかしアンシェルは前例を引いて、律法によって禁じられてはいないことを示した。街の人々はほとんどがアヴィグドルの味方で、なにもかもペシェが悪いと言った。アヴィグドルはすぐペシェに離婚してほしいと言うようになり、こんな猛女と子供を作るわけにはいかないと、オナンにならい、ゲマーラーの語句を借りれば「中で振って外に種をまく」ようになった。アヴィグドルはアンシェルにそっとこぼした。ペシェは汚れたまま床に入り、のこぎりのようないびきをかく。店と金のことばかり考えて寝言でも金の話が出る。
「アンシェルがほんとにうらやましいよ」。アヴィグドルは言った。
「うらやましがることなんかないよ」
「すべてを手に入れたじゃないか。あれだけの財産が自分のものだったら…。もちろんアンシェルから奪うというんじゃなくて」
「人みなおのおのの苦しみがある」
「どんな苦しみがあるっていうんだよ。神を騙るな」
 アヴィグドルにはまったく想像もつかなかったことだろう。実はアンシェルは夜も眠れず、逃げ出すことばかり考えていた。ハダスと床をともにし偽りを続けることが日に日に苦しくなっていた。ハダスの愛情のこまやかさを前に自己嫌悪に陥った。義父母によくしてもらい孫を所望されるたびに心が重くなった。金曜の午後は街じゅうが公衆浴場に出かける日だ。毎週毎週違う口実を作って逃げたが、それが疑いを呼び、さまざまに噂が流れた。体に醜いあざがあるんだろう、脱腸だ、ちゃんと割礼してないのかも。この歳なら当然ひげが生えてもいいころなのにほおを見たらつるつるだ、ということはあっちのほうも。籤の祭の季節になり、過ぎ越しの祭も近づいていた。夏はもうすぐだ。べへフから遠くないところに川があり、暖かくなると律法学生や街じゅうの若者がそこへ泳ぎに出かける。うそは腫れ物のように膨らみ、いつか必ず破裂する。うそをつかなくてすむ方法を考えなければならなかった。
 妻の実家に住む若者は、過ぎ越しの祭の週のあいだの半休日に近くの街に旅に出る習慣があった。気晴らしを楽しみ、心身を休め、儲け口を探し、本や若い男が買うようなものを買って帰る。ルブリンはべへフからもそう遠くない街だ。アンシェルはアヴィグドルを誘って、費用は持つから旅に出ないかと持ちかけた。アヴィグドルは、しばらくのあいだ家で口やかましい女の相手をしなくてすむと思い大喜びした。馬車の旅は楽しかった。野山は緑になり、暖かい国から戻ってきたコウノトリが、大きな弧を描いて空を舞いおりる。谷には水がほとばしり、鳥がさえずり、風車が回る。春の花が野にほころびはじめ、あちこちで牛がもう草をはむ。旅の二人は、ルブリンに着くまでおしゃべりし、ハダスが詰めてくれた果物と茶菓子を食べ、冗談を言いあいきずなを深めた。ルブリンで宿に入ると二人部屋を取った。旅の途中アンシェルは、ルブリンで驚きの事実を告げるからとアヴィグドルに約束していた。アヴィグドルはふざけて言った。驚きの事実って何だ。伝説の秘宝でも見つけたか。論文でも書いたのか。秘教を研究してハトでも作り出したか。
 二人は部屋に入った。アンシェルは念のため戸に鍵をかけた。アヴィグドルはまだおどけていた。「さあ言え。驚きの事実って何だ」
「これまで聞いた中で一番信じられない話だから覚悟してほしい」
「何でも覚悟はできてるよ」
「自分は男じゃない。女だ。名前もアンシェルじゃない。イェントルだ」
 アヴィグドルは吹き出した。「冗談も休み休み言え」
「でも本当の話だから」
「どんな馬鹿でも信じるやつはいないよ」
「証拠を見せようか」
「おう」
「じゃあ服を脱ぐ」
 アヴィグドルはぎょっとした。ひょっとしてアンシェルは男色を迫るつもりかと思った。上着を取り、房つきの服を脱ぎ、下着を脱ぎ捨てた。アヴィグドルは一目見て顔面蒼白になり、すぐ火が出るほど紅潮した。アンシェルは急いで服で体を隠した。
「わざわざこんなことをしたのは役所で証言してほしいからなんだ。でないとハダスは未通の妻のままになる」
 アヴィグドルは二の句がつげなかった。がたがた震えはじめ、しゃべろうと唇を動かしても、声が出ない。立っていられなくなり、へたりこんでしまった。
 やっとの思いでつぶやいた。「どうしてこんなことが。信じられない」
「もう一回見せようか」
「いい」
 イェントルはすべてを打ち明けた。病床の父とともに律法を学んだこと。女たちにもくだらないおしゃべりにも我慢がならなかったこと。家と家財道具を売って街を出て、男のふりをしてルブリンまで出てきて、道すがらアヴィグドルと出会ったこと。アヴィグドルは無言で、ただ目はじっと離さず話を聞いていた。すでにイェントルは服を着なおしていた。さっきと同じ男の服だ。
 アヴィグドルが言った。「夢だ。夢に決まってる」
 頬をつねった。
「夢なんかじゃないよ」
「こんなことが自分の身にふりかかるなんて」
「全部本当のことだ」
「どうしてこんなことを。いや僕は黙っていよう」
「パンをこねたり焼いたりして人生を無駄に過ごしたくなかったから」
「ハダスは。どうしてあんなことをした」
「アヴィグドルのためになると思って。ペシェにひどい目にあわされていたから、うちでなら一息つけるだろうって」
 アヴィグドルは長い間黙っていた。うなだれ、両手をこめかみに当て、首を振った。「これからどうするつもりだ」
「別の律法学院に行くよ」
「何だって。もっと早く言ってくれてたら、僕たちは…」
「いや、それはよくないと思う」
「どうして」
「自分は男でもない、女でもない」
「どうしたらいいんだ」
「あんなひどいのとは別れて、ハダスと結婚して」
「あいつは絶対に離婚する気はないし、ハダスも僕とは結婚しないだろう」
「ハダスは今でもアヴィグドルのことが好きだから。もうお父さんの言いなりにはならないよ」
 アヴィグドルはふと立ち上がったがまた座り込んだ。「アンシェルのこと、忘れられそうにない。ずっと…」
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