超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

律法学生イェントル 4/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:50:24 | 超芸術と摩損
 動きだしたらもうとまらない。思いは言葉になり、言葉は形になる。アルテル・ヴィシュコヴェル氏は結婚に同意してくれた。ハダスの母フレイダ・レアフははじめ渋っていた。ベヘフの律法学生はもういい、ルブリンかザモシチから誰かを迎えたいと言った。しかしハダスは、アヴィグドルのときのように、またみんなの前で恥をかかされるくらいなら井戸に身を投げると言った。障害のある結婚にはよくあることだが、律法学者も、親戚も、ハダスの友人たちも、みんなが強力に後押ししてくれた。しばらくの間、アンシェルが街を通ると、ベヘフ中の娘たちが窓際からアンシェルを熱のこもったまなざしで見つめた。アンシェルはいつもきれいに磨いたブーツをはき、女性の面前でも目を伏せない。クッキーを買いに立ち寄ったパン屋でも、女たちと、みんなが驚くほど気さくに冗談を交わす。女たちは口をそろえて、アンシェルには何か特別なところがあると言った。もみあげのカールのしかたは誰とも違い、スカーフの巻きかたも個性的だった。笑っていても涼やかな目は、いつもどこか遠くをみつめているかのようだった。それにアヴィグドルがフェイトルの娘ペシェと婚約しアンシェルを捨てたことで、街の人々はなおさらアンシェルに同情を寄せていた。アルテル・ヴィシュコヴェルが作成した婚約の予備契約書では、アヴィグドルとのときよりも持参金も贈答品も多く、生計費支給も長期だった。ベヘフの娘たちはハダスと抱きあって婚約を祝福した。ハダスはすぐにアンシェルの聖句箱を入れる袋と、パンを包む布と、クラッカーを入れる袋を編みはじめた。アヴィグドルはアンシェルの婚約の話を聞くと、学校に来て祝いの言葉を告げた。アヴィグドルは、ほんの数週間でめっきり老け込んでいた。ひげは荒れ、目は血走っていた。
 アンシェルに言った。「こうなるような気はしてたよ。はじめから、宿で最初に会ったときから」
「ハダスと結婚してほしいって言ったのはアヴィグドルだよ」
「わかってる」
「どうして僕を見捨てたんだよ。挨拶もなしに去って行くなんて」
「未練を残したくなかった」
 アヴィグドルはアンシェルを散歩に誘った。仮庵の祭が過ぎていたが、まだまだ日は高かった。アヴィグドルは以前にもまして打ちとけた態度で、心のうちをアンシェルに打ち明けた。そのとおり、兄の一人が憂鬱に押しつぶされて首をつったというのは本当の話だ。自分もいま同じ闇の近くにいる。ペシェは金持ちで義父も裕福だが、それでも眠れない夜が続く。店の経営なんかしたくない。ハダスのことが忘れられない。ハダスが夢に出てくる。安息日の夜は、ハヴダラの祈りで使うハダスという名の香箱を見るだけで倒れそうだ。でも結婚するのがほかの男じゃなくてアンシェルでよかった…。ハダスと縁を結ぶのは少なくともそれ相応の人物ということになる。アヴィグドルはしゃがみこむと意味もなくそこらのしなびた草を引きむしった。とりつかれた人間のように、アヴィグドルの話は支離滅裂だった。
 急にアヴィグドルが言った。「兄と同じことを考えたこともあった」
「そこまでハダスのことを」
「心に刻みつけられてしまってる」
 二人は友情を誓い、二度と離れ離れにならないことを約束しあった。二人とも結婚したら、すぐ近くに住むか、できれば同じ一軒家に住んではどうだろうとアンシェルは言った。毎日一緒に勉強したいし、店を共同経営するのもいい。
「本当のことを言うとな」。アヴィグドルは言った。「僕にとってはヤコブとベニヤミンみたいなもんだ。僕の人生はアンシェルなしでは考えられない」
「ならどうしていなくなったりしたんだ」
「だからこそだよ、たぶん」
 肌寒くなり、風が吹き始めたが、二人は歩き続け松林まで来た。日が落ちて夕べの祈りの時間になるまで戻ろうとはしなかった。二人が肩を組み話に夢中になり、水たまりもごみの山もかまわず歩き続ける姿を、ベヘフの娘たちは窓際からながめていた。アヴィグドルは顔色が悪く、髪もぼさぼさで、吹きつける風にもみあげがゆれていた。アンシェルはつめを噛んでいた。ハダスも窓際に駆け寄り、二人を一目見て、目に涙を浮かべた。
 ことはめまぐるしく進んだ。アヴィグドルがまず結婚した。新婦は未亡人だったので、結婚式は地味で、楽団も道化も呼ばず、新婦のヴェールもなかった。ペシェは結婚祭壇の前に立った翌日には店に戻り、汚れた手で炭を扱った。アヴィグドルは敬虔派の会堂で新しいショールを着けて祈りを捧げた。昼過ぎ、アンシェルはアヴィグドルのところに行き、夕暮れまで二人で話しこんだ。ハダスの父はできるだけ早い結婚を望んだ。ハダスはこれで二回目の婚約で、新郎には親がない。妻も家も手に入るのにいつまでも老婦の下宿の寝椅子の上で寝返りを打つこともないだろう。しかし結局アンシェルとハダスの結婚は、宮清めの祭の週の安息日と決まった。
 毎日幾度となくアンシェルは、自分がしようとしていることは罪深く異常で邪悪な行為なのだと自らに言い聞かせた。ハダスと自分を偽りの絆で結び合わせ、決して償うことができないほどの数々の罪を犯すことになるのだ。うそはうそを呼ぶ。アンシェルは結婚式の前にベヘフを抜け出し、人知を越え悪魔の所業とでも呼ぶべきこのおかしな喜劇に、何度も終止符を打とうと考えた。しかし抵抗できない力につかまれてしまっていた。アンシェルの心はアヴィグドルにますます惹きよせられていく。それにハダスのかりそめの幸せを打ち砕くなど到底できることではなかった。結婚のあと、アヴィグドルの向学心はこれまで以上に高まり、親友アンシェルと一日に二度顔を合わせ、午前中はゲマーラーと注解を、午後は法典とその注釈を読んだ。アルテル・ヴィシュコヴェルと革商人フェイトルは、そんなアヴィグドルとアンシェルを見て、ダヴィデとヨナタンのようだと喜んだ。事態はいっそう手に負えなくなり、アンシェルはやぶれかぶれになっていった。新しい衣装のために仕立て屋で採寸をしたときは、男でないことがばれないようあの手この手で必死になってごまかした。これまで何週間も成りすましおおせてはいたが、それでもアンシェルには信じられなかった。なんでこんなにうまくいくんだ。世間を騙すこのゲームはいったいいつまで続くのか。もしも真実が露見するとしたらそれはどんな形になるだろう。アンシェルは心の中で笑い、心の中で泣いた。これではまるで人々をペテンにかけ悪戯するために世に送られた小悪魔じゃないか。アンシェルは一人つぶやいた。自分は悪人だ、罪びとだ、ナバトの子エロボアムだ。魂が律法を求めている、だからこそここまでの苦しみを背負ったのだ。アンシェルにできる弁明はそれだけだった。
 結婚してすぐアヴィグドルは、ペシェが自分に冷たいと愚痴をこぼし始めた。愚図、のろま、ただ飯食らいとわめかれ、店に縛りつけられ、これっぽっちもやる気の起きない仕事をおしつけられ、こづかい銭もけちってくる。アンシェルはそんなアヴィグドルを励ますどころか、逆に不満をあおりたてた。ペシェは見るだけで目が腐る、うざいしせこいし、最初のだんなもきっといじめ殺したんだろう、アヴィグドルもあぶないぞ。その一方でアンシェルは、背が高くて男らしい、頭もよくて学もあるとアヴィグドルをほめちぎった。
「もし自分が女でアヴィグドルと結婚できたら、毎日ほめ続けてあげるのに」。アンシェルは言った。
「でもお前は女じゃない…」
 アヴィグドルはため息をついた。
 そうこうする間に、アンシェルの結婚式は近づいた。
 宮清めの祭の前の安息日に、アンシェルは教壇に上げられ律法の一節を朗読した。そして女たちから干しブドウとアーモンドを振りかけられた。結婚式の日には、アルテル・ヴィシュコヴェルが若い二人に祝宴を催してくれた。アヴィグドルはアンシェルの右隣に座った。新郎がタルムードを講釈し、参列者みなで議論しながら、タバコを吸い、ワインやリキュールやレモンティー、ラズベリージャムティーを飲んだ。続いて新婦にヴェールをかぶせる儀式が行われ、そのあと新郎が会堂の横に用意した結婚天蓋に連れて行かれた。しだいに夜は更けて冷え込み、よく晴れて満天の星空が浮かんだ。楽団が演奏を始めた。二列に並んだ娘たちが火をともした小ロウソクと飾りひも付きの大ロウソクを掲げた。結婚式が終わり、新郎新婦はこの日初めての食事となる黄金色の鶏のスープを口にした。そして舞踏が始まり引き出物が紹介された。すべて慣習どおりだった。高価な引き出物が山と積まれた。道化が、新婦を待ち受ける悲喜こもごもをおどけて演じた。ペシェも参列者の一人だったが、宝石でごてごてと飾り立ててもなお醜く、ずれたかつらがひたいを隠し、毛皮のケープはばかでかく、手には何度洗っても消えない炭のしみが残っていた。貞淑の踊りのあと、新郎と新婦はそれぞれ別々に閨へ連れて行かれた。付き添い人は二人に行為のしかたを教え、「子孫繁栄」を申し渡した。
 夜が明けると、義母とその一行が閨に降りてきて、ハダスの下からシーツをひきはがし結婚が成就したか確かめた。血のあとを見つけると、みな大いに喜び新婦にくちづけをして祝った。そしてシーツを高く掲げ、外に出て、降りはじめた雪のなかで成就の踊りを踊った。アンシェルは新婦の花を散らす方法を思いついていた。何も知らないハダスは、それが本来のやり方と違うことに気がつかなかった。ハダスはもうアンシェルを心の底から愛してしまっていた。新郎と新婦は、最初の交わりから七日間は離れて過ごさなければならないという掟がある。次の日アンシェルとアヴィグドルは、女の月経に関する論文を読んだ。会堂からほかの男がいなくなり二人きりになると、アヴィグドルはアンシェルに、ハダスとの夜はどうだった、と恥ずかしそうに聞いてきた。アンシェルの話にアヴィグドルは満足した。二人は日暮れまでひそひそと語らいつづけた。
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