超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

律法学生イェントル 3/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:51:49 | 超芸術と摩損
 学院長はアンシェルに新しい勉強相手を見つけるようにと言ったが、何週間たってもアンシェルは一人きりだった。学院にアヴィグドルのかわりになる者はいなかった。みな体も心も幼かった。話は中身がなく、つまらないことを自慢し、笑いかたは馬鹿同然で、やることはけちくさい。アヴィグドルがいない学校はぽっかり穴が開いたようだった。夜、下宿の寝椅子に横になっても眠れなかった。上着とズボンを脱ぐと、そこにいるのはいつ結婚してもいい齢の女、別の女と婚約した男を好きになった女、イェントルだった。本当のことを言えばよかったかも、とアンシェルは思った。でももう遅すぎる。アンシェルは女には戻れない、本と学校なしの生活なんてもうできない。寝転がったままおかしなことばかり考えて、気が変になりそうだった。うつらうつらしたかと思うと、ぎょっとして目が覚めた。夢の中では、男でありながら女であり、婦人用の胴着と紳士用の房つきの服を着ていた。月のものが遅れていた。急に怖くなった…ひょっとして。昔読んだメドラーシュ・タルピオトに、男を思っただけで身ごもってしてしまった女の話があった。イェントルは、異性の服を着てはならないという律法の禁令の意味がいまやっと分かった。それは人の目だけでなく自分自身をもあざむくことだ。魂さえもが混乱し、まちがった体に受肉してしまったのだ。
 夜は横になっても寝付かれず、昼はまぶたが重かった。食事をいただきに行っても、何一つ食べてくれないと嘆かれた。教師の目にもアンシェルは、講義に身が入らず、窓の外ばかり眺めて物思いにふけっていた。火曜日になると、アンシェルはヴィシュコワー家の晩餐にあらわれた。ハダスがスープ皿を置いて給仕しても、別のことに気をとられ礼さえ言わない。手を伸ばしたスプーンも落としてしまった。
 ハダスが見かねて声をかけた。「アヴィグドルに捨てられたんですって」
 アンシェルははっと我に返った。「どういう意味だ」
「もう相棒じゃないんでしょ」
「学院を去ったからね」
「会うことはあるの」
「しばらく姿を消したみたいだな」
「結婚式には行くんでしょ」
 アンシェルは、言葉の意味がよく分からなかったかのように黙った。しばらくして言った。「あいつは大馬鹿だよ」
「なんでそんなこと言うの」
「こんな美人がいるのに、なんであんなサルみたいなのと」
 ハダスは髪の生えぎわまで赤くなった。「全部父が悪いのよ」
「大丈夫。きっといい相手が見つかるよ」
「結婚したい人なんていないから」
「でもみんなが君のこと…」
 沈黙が続いた。いつもより大きく見えるハダスの目は、何も慰めにはならない悲しみとやるせなさをたたえていた。
「スープが冷めるわよ」
「僕も、君のこと…」
 アンシェルは自分の言葉に驚いた。立ったままハダスは、うしろに顔を向けて自分を見つめるアンシェルを、まじまじと見かえした。
「何を言ってるの」
「本当だよ」
「誰かに聞かれたら」
「それでもかまわない」
「スープ飲んでて。すぐ肉団子持ってくるから」
 ハダスは背を向けると部屋を出た。ハイヒールの靴音が高く響いた。アンシェルはスープをかきまぜ、底にしずんでいる豆をひとつすくっては、またスープの中に落とした。まったく食欲がわかなかった。のどの奥が苦しかった。罪深いことに足を踏み入れつつあることは十分にわかっていたが、えたいの知れない力に突き動かされてしまう。大皿に肉団子を二つ載せてハダスが戻ってきた。
「どうして食べないの」
「君のことばかり考えてしまって」
「なに考えてるのよ」
「結婚したいんだ」
 ハダスは気持ちを無理に抑えこんだような顔をした。
「そういうことは、父に言うものよ」
「わかってる」
「仲人をよこすのがきまりよ」
 ハダスは小走りに部屋を出ていき、たたきつけるように戸を閉めた。アンシェルは心の中で笑っていた。「自分は女の子をからかうことだってできるんだ」。アンシェルはスープに塩を、コショウをおもいきり振った。ずっと座ったままでいた。頭がくらくらした。何てことを、気が狂ってしまったのか、そうとしか考えられない…。食事を無理に口に押し込んだ。何の味もしなかった。アヴィグドルがハダスと結婚してほしいと言ったことを、アンシェルはいま急に思い出した。混乱する頭の奥から、あるたくらみが浮かびあがった。アヴィグドルの仇をうってやろう、そして同時に、ハダスを利用して、アヴィグドルともっともっと近づいてやろう。ハダスは生娘だ。男のことは何も知らないはずだ。そんな子ならいつまでもかんちがいしたままにしておける。アンシェルももちろん処女だったが、ゲマーラーを読み、男どうしの会話を聞いて、その方面の知識は豊富だった。アンシェルは、世の中すべてをあざむいてやろうと考え、恐怖と愉快にうちふるえた。「烏合の衆」という言葉が頭に浮かんだ。アンシェルは立ち上がると声に出して言った。「本当のはじまりはこれからだ」
 その夜、アンシェルは一睡もできなかった。数分おきに起き上がっては水を飲んだ。のどがからからでひたいは焼けるように熱かった。頭は熱に浮かされ、自分の意思とは無関係に回転し続ける。心の中で口論が続いているような感じだった。胃がずきずきし、ひざが痛んだ。人間たちをだまし、道々につまずきの石とわなを仕掛ける悪魔と契約を結んだ気分だった。アンシェルが眠りに落ちたのは明け方だった。目を覚ますと、これまで以上に疲労感があった。しかしこのまま寝椅子で眠り続けるわけにはいかない。無理をして起き上がり、聖句箱の入ったかばんを持って、学校に出かけた。学校へ行く途中、前から歩いてくるのは、なんとハダスの父アルテル氏だった。アンシェルがうやうやしく朝の挨拶をすると、アルテル氏も親しげに挨拶を返してきた。アルテル氏がひげを触りながら話しかけてきた。
「ずいぶんやせこけてるが、ハダスがへんなものでも出してるんじゃないのかね」
「ハダスさんは素敵なお嬢さんでとても親切にしていただいています」
「でもほんとに顔色が悪いぞ」
アンシェルはしばらくの間黙っていた。「アルテル様、申し上げたいことがございます」
「何かな。言ってみなさい」
「アルテル様、お嬢様が気に入りました」
 アルテル・ヴィシュコヴェルは立ち止まった。「そうか。学院の生徒はそういう話はしないのかと思ってたよ」
 目は笑っていた。
「でも本当のことです」
「こういう話は相手方の男性一人だけとするものではないのだが」
「しかし私には親がありません」
「うむ。その場合には世話人をよこすことだ」
「そうですが…」
「娘をどう思う」
「美人で…、素敵で…、賢くて…」
「わかったわかった…。じゃあ家系について聞かせてほしい」
 アルテル・ヴィシュコヴェルはアンシェルの肩に腕を回した。二人はそのまま会堂の中庭まで並んで歩いていった。
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