超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

律法学生イェントル 2/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:52:44 | 超芸術と摩損
 イェントル、いやアンシェルがベヘフに着いてすぐ、週に一度のまかないを割り当てられたのは、偶然にもあのお金持ち、アヴィグドルが娘から婚約を破棄されたというアルテル・ヴィシュコヴェルの家だった。
 学院では学生は二人一組で勉強する。アヴィグドルはアンシェルを相手に選び、アンシェルの勉強を手助けしてくれた。アヴィグドルは泳ぎも達者で、アンシェルに平泳ぎと立ち泳ぎを教えてやると言ったが、アンシェルはいつも口実をみつけて川に降りようとはしなかった。アヴィグドルは同じ下宿に住もうと言ってくれたが、アンシェルは目のよく見えない老寡婦の家に寝泊りする部屋を見つけた。毎週火曜日、アンシェルはアルテル・ヴィシュコヴェルの家で食事をごちそうになった。給仕はハダスだった。いつもアヴィグドルから質問攻めにされた。「ハダスの様子は。つらそうか。楽しそうか。嫁に行く話はあるか。僕のこと何か言ってくるか」。アンシェルはいちいち報告した。ハダスが卓布の上に料理をひっくり返したこと。塩を持ってくるのを忘れたこと。指を突っ込んだままかゆ皿を持ってきたこと。下女をこき使っていること。小説の本にずっと夢中なこと。毎週髪型を変えること。それに自分では美人と思っているらしく、しょっちゅう鏡の前に立っているけど実はそれほどでもないこと。
「あれじゃ結婚して二年もすればばばあだな」
「興味ないか」
「あんまりな」
「でも迫ってきたら断れないだろう」
「大丈夫だよ」
「欲にかられることはないのか」
 二人は学校の隅で一台の書見台にそれぞれ本を乗せたまま、勉強よりおしゃべりに時を忘れた。ときどきアヴィグドルがタバコを吸うと、アンシェルはアヴィグドルの唇からタバコを奪い一服ふかした。アヴィグドルはソバ粉のパンケーキが好きだったので、アンシェルは毎朝パン屋に買いに行き、代金は一度も払わせなかった。アンシェルの行動にアヴィグドルが驚かされることもたびたびだった。アヴィグドルのコートのボタンがはずれると、翌日アンシェルは針と糸を持って学院にやって来てボタンをつけなおしてくれた。アンシェルはシルクのハンカチ、靴下、マフラーなど、それこそいろいろなプレゼントを贈ってくれた。アヴィグドルは五歳年下の、いっこうにひげの生える気配のないこの男にますます惹かれていった。
 あるときアヴィグドルがアンシェルに言った。「ハダスと結婚してほしい」
「そんなことして何になるんだ」
「ぜんぜん知らないやつよりはましだ」
「恋敵になるぞ」
「ならないよ」
 アヴィグドルは街を散歩するのが好きで、アンシェルもよくついて行った。一心におしゃべりしながら、水車小屋まで、松林まで、キリスト聖堂のある十字路まで歩いた。ときどき草地で寝ころがった。
「どうして女は男みたいにならないんだろうな」
「どういうことだ」
「どうしてハダスはアンシェルみたいにならないのかな」
「なんで僕だ」
「おまえはいいやつだよ」
 アンシェルはいたずら好きになっていた。花を引っこ抜いて花びらを一枚一枚引きちぎった。クルミを拾ってアヴィグドルに投げつけた。アヴィグドルは手のひらにはうテントウムシを見ていた。
 しばらくして、アヴィグドルが言った。「結婚させられそうなんだ」
 アンシェルは半身を起こした。「誰と」
「フェイトルの娘のペシェ」
「後家の」
「そう」
「なんで後家なんかと」
「ほかにいないからな」
「そんなことないよ。きっといい相手が現れるよ」
「現れないよ」
 アンシェルはそれはだめだろうとアヴィグドルに言った。ペシェは器量も頭も悪い、ただの豚女だ。しかもだんなが一年で死んだ運気の悪い女だ。こんなのと一緒になったら誰でも早死にする。しかしアヴィグドルは黙っていた。タバコに火をつけ、深く吸い込むと、煙で輪を作った。顔色が悪かった。
「女がいないと困る。夜も眠れない」
 アンシェルは驚いた。「なんで理想の女が出てくるまで待てない」
「ハダスが運命の人だった」
 アヴィグドルの目が潤んだ。アヴィグドルは急に立ち上がった。「もう帰るぞ」
 それからは何もかもあっという間だった。アンシェルに悩みを打ち明けた二日後にはもうペシェと婚約し、学院にはちみつケーキとブランデーを持ってきた。式の日取りも近い日に決まった。未亡人が新婦だと嫁入り道具の支度もいらない。すべて準備済みだ。それに新郎に親はなく許しを得る必要もない。学院の生徒たちはブランデーを飲み結婚を祝った。アンシェルも一口飲んだがすぐにせきこんだ。
「うわ、のどが焼ける」
「それでも男かよ」。アヴィグドルは笑った。
 祝杯がすむと、アヴィグドルとアンシェルはゲマーラーを開いて座ったが、勉強ははかどらず、会話もはずまない。アヴィグドルは体を前に後ろに揺らし、ひげを引っ張り、聞き取れない声でぶつぶつ言っている。
「最悪だ」。だしぬけに言った。
「好きでもないのになんで結婚するんだよ」
「あれならヤギのほうがましだった」
 次の日アヴィグドルは学校に来なかった。革商人のフェイトルは敬虔派で、娘の夫にも敬虔派の会堂で勉強を続けることを望んだ。律法学院の生徒はひそかにうわさした。後家は見るからに小太りで樽みたいな女だ。しかも母親は牛乳屋の娘で、父親は無学同然で、家族みんなが金にきたない連中だ。フェイトルはなめし革工場の共同経営者で、ペシェは持参金を使って、ニシンと炭と鍋と釜を売る店を買った。店はいつも小作人でごったがえしている。父と娘はアヴィグドルに礼服を用意してやり、毛皮のコートと布のコートとシルクのフードつきコートとブーツを二足注文した。そのほかにもアヴィグドルはすぐに贈答品を山のように受け取った。タルムードのヴィルナ修訂版、金の時計、宮清めの祭の燭台、香辛料箱。でもどれももとはペシェの最初の夫のものだ。アンシェルは書見台の前で一人ぼっちだった。
 火曜日、アンシェルが晩餐をいただきにアルテル・ヴィシュコヴェルの家に行くと、ハダスが言った。「相棒のことどう思う。ぜいたく三昧よね」
「そっちこそどう思ってたんだ。誰とも結婚しないとでも思ってたのか」
 ハダスは顔を赤くした。「私のせいじゃないわ。父が反対したから」
「どうして」
「むかしあの人のお兄さんが首をつったのよ。それを知って」
 アンシェルはハダスの立ち姿を見つめた。背が高く、金髪色白で、首が長く、ほおがくぼんで、目が青く、綿の服の上に更紗のエプロンをつけている。ふた房にまとめた髪を両肩のうしろに掛けている。自分が男だったら、アンシェルは思った。
「いまも後悔してるの?」
「そりゃあ」
 ハダスはいたたまれなくなって出て行った。食事のつづきの肉団子と紅茶は下女が持ってきた。食事が終わり食後の祈りのために手を洗っているとハダスが戻ってきた。
 食卓まできて押し殺した声で言った。「絶対にあの人には何も言わないでね。私の気持ち、知らないほうがいいから」
 ハダスはすぐにまた部屋を出て行った。出ていくとき、敷居に足をかけてつまづきそうになった。
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