超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

律法学生イェントル 7/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:45:55 | 超芸術と摩損
 べへフの住人には、何もかもがきつねに鼻をつままれたような話だった。使いが来てハダスに離縁状を手渡したこと。休暇が終わってもアヴィグドルがルブリンに滞在を続けたこと、そしてべへフに戻ったときは病人のように肩を落とし、目が死んだようになっていたこと。ハダスは床に伏せ、日に三度医者が往診した。アヴィグドルは斎戒の行に入り、誰かがたまたま見かけて声をかけても、返事もしようとしなかった。一晩中部屋の中でタバコをふかしながら行ったりきたりしている、とペシェが両親に訴えた。ついに疲労困憊して倒れこみ、うわごとでイェントル、イェントルと、聞いたこともない女の名前を口にした。ペシェは離婚話を口にするようになった。アヴィグドルが応じるはずはない、最低でも慰謝料を要求するだろうと誰もが思っていたが、アヴィグドルはだまっていいなりになるばかりだった。
 べへフの住人は謎をいつまでもそのままにしておけるような人たちではない。そもそも住人全員がよその家の晩ごはんまで知っているせまい街に、秘密などあるはずもないのだ。ところが、ふだんから鍵穴をのぞき、よろい戸に耳をあてる者が何人もいるこの街で、この一件は謎のままだった。ハダスはベッドに身をうずめて泣いた。診察した薬草医は、日に日に衰弱してきていると言った。アンシェルは跡形もなく姿を消した。アルテル・ヴィシュコヴェル氏に呼び出されてアヴィグドルが家に来たが、いくら窓の下で背伸びをしてみても、二人のやりとりは一言も聞き取れなかった。常日ごろから他人の事情に首を突っ込みたがる人々がありとあらゆる説を唱えたが、どれひとつとしてすべての謎を解き明かすにはいたらなかった。
 ひとつの説は、アンシェルがカトリックの僧に説き伏せられ、改宗してしまったというものだった。ありそうな話かもしれないが、しかしそれならいつも律法学院で勉強していたアンシェルが、いったいいつどこで僧侶と会っていたのか。それにいったいいつから背教徒が離縁状なんか送るようになったのか。
 アンシェルがほかの女に秋波を送ったとこっそりささやく者もいた。しかしそれなら相手は誰なのか。べへフに駆け落ち事件などなく、ユダヤ教徒にも異教徒にも、最近べへフからいなくなった若い女はいない。
 アンシェルは悪霊に連れ去られたのでは、いやアンシェルこそが悪霊だったのでは、と言う者もいた。その証拠に、アンシェルは公衆浴場にも川にも姿を見せなかったではないか。悪魔の足はガチョウの足だというのは常識だ。しかしそれならハダスはアンシェルの素足を見なかったのか。それに悪魔が離縁状を送るなんて話は聞いたこともない。悪魔が人間の娘と結婚するときは、ふつう未通の妻のままにしておくものだ。
 はたまたアンシェルは何か罪を犯し、その罰として追放されたのだと言う者もいた。しかしその罪とはいったい何なのか。それになぜそれを律法学者の手にゆだねなかったのか。なによりアヴィグドルが幽霊のようにふらふらしているのはなぜなのか。
 楽団員のテヴェルの説が最も真実に近かった。テヴェルが言うには、アヴィグドルはハダスを忘れることができず、アンシェルが離婚して友人にハダスを譲ろうとしたのだという。しかしそもそもそこまでの友情が存在しうるのか。それにそれならどうしてアヴィグドルがペシェと離婚する前にアンシェルがハダスと離婚したのか。もっと言えば、そのもくろみがうまくいくためには事前に妻の側も事情を説明され納得していなければならない。なのにどこをどう見てもハダスがアンシェルを心の底から愛していたことは間違いなく、事実ハダスは悲しみにくれて寝込んでしまっている。
 ひとつだけ誰の目にもはっきりしていることがあった。アヴィグドルは本当のことを知っている、ということだ。しかしアヴィグドルから話を引き出すのは不可能だった。斎戒を続け、かたくなに沈黙を貫くその態度は、街の人々に対する無言の抗議だった。
 ペシェと親しい友人はアヴィグドルと離婚しないように言ったが、二人はあらゆるつながりを絶ち、もはや夫婦として暮らしてはいなかった。アヴィグドルは金曜の夜に妻のために祈りを捧げることすらやめていた。夜は一人で学校へ行くかアンシェルが以前下宿していた老寡婦のところで時を過ごした。ペシェが話しかけても返事もせず、ただ頭を垂れて立ちつくすばかりだ。商売人のペシェはこんな行動に納得する女ではなかった。そばにいてほしいのは店を手伝ってくれる若い男であり、憂鬱に沈んだ律法学生ではない。そんな男なら妻を見捨てることだってしかねない。かくしてペシェは離婚に同意した。
 その間にハダスは体調を取り戻し、アルテル・ヴィシュコヴェル氏は一件の結婚契約を公告した。ハダスがアヴィグドルと結婚するという。街中が騒ぎになった。過去に一度婚約し、それが破談になった男女が結婚するなどという話は聞いたことがない。挙式はユダヤの暦でアブの九日の次の安息日にとりおこなわれた。貧者への饗宴、会堂入り口の結婚天蓋、楽団、道化、貞淑の踊り、すべて生娘の結婚の慣習どおりだった。ただそこには喜びだけがなかった。新郎は結婚天蓋の下に立ったが、その姿は陰鬱そのものだった。新婦は病から癒えていたが、顔色は悪くやつれたままだった。黄金色の鶏のスープに新婦の涙がこぼれた。参列したどの顔にも同じ疑問が浮かんでいた。いったいなぜアンシェルはこんなことをしたのか。
 アヴィグドルがハダスと結婚したあと、ペシェが、アンシェルはアヴィグドルに妻を売り、その代金はアルテル・ヴィシュコヴェルが肩代わりしたと噂を流した。謎解きに懸命になったある若者は、ついにある結論にたどりつき、アンシェルはトランプをしたかルーレットを回して、勝ったアヴィグドルに愛する妻を差し出したのだと言った。人というものは真実のひとかけらも見つからないとき、偉大なる虚偽の助けに飛びつくものだ。見つけようとすればするほど見つからなくなる。そのようにして、ときに真実は埋れてゆく。
 結婚からまもなく、ハダスは妊娠し、男の子が誕生した。割礼に集まった人々は、父親が子を紹介するのを聞いて耳を疑った。子供の名前は、アンシェルだった。(おわり)
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