心理学の本(仮題)

【職場に】心理学書編集研究会(略称:心編研)による臨床心理学・精神医学関連書籍のブックレヴュー【内緒♪】

【久々開講】専門出版社に持ち込むための企画書の書き方⑩【種切寸前】

2006-01-13 15:43:02 | 企画書を書こうという企画
10:企画をどう押すか

先に,「専門書」には以下のものがあると,言いましたが,

1 書き下ろしの著作。
2 博士論文,もしくは論文集のような,すでに出来ているものを,多少リライトしつつ一書にまとめたもの。
3 海外の文献の翻訳。
4 編集もの(著作でなく,「○○編」とつくもの)。

この本のスタイルによって,押し方も微妙に変わっていきます。もちろん,基本は「売れます」ということですが,トーシロがいくら売れると言っても,よっぽ ど違う分野でなければ,バレてしまうもの。なので,そこらにはあまり触れずに置いておいて,上の1~4について一つ一つ考えてみます。


1の場合:
書き下ろしの著作は,原稿ができていたり,完成間近である場合,企画が通る確率がかなり高いものです。
というのも,編集側からすれば,現物が見られれば,文章のよさ・まずさのチェックはできますし,内容を読めばどれくらい売れるかの最低限の線引きができる からです。(ただし,企画が通ったとしても,大幅なリライトを要求される場合もあるでしょう。条件なしで出してくれるというのならば,リライトをした方が いい本になる可能性は高いはずです。)
つまり,押し方としては「原稿完成(間近)であること」を押すのが一番のように思います。
専門書の場合,文学性など編集者は問うてませんが,最低限の文章レベルであることが求められます。文章の細部を推敲するよりも,何を伝えたいのかという文脈を大事にし,一日でも早く「読むことのできる原稿」を完成させることが早道でしょう。
もちろん,内容ありき,マーケットありき,なのですが。

まだまったく書いていない場合は,編集者に「こういう本は売れないか」と相談を持ちかけるのが吉。とはいえ,編集から「とりあえず,書け」といわれるのがオチかと思いますが。


2の場合:
博論は場合によってはかなり難しいです。二時代ほど前の,博論をぶら下げて学壇へデビュー!なんていう時代ははるか遠くに過ぎ去り,よっぽど「高級な著 者」が「齢50ニシテ心機一転博士号取得スト発起シ」とかいう状態にならない限り,博論を一般の,営利を第一目的とする出版社から発刊することは難しいで しょう。
もちろん有名な博論専門出版社もあります。一部の大学出版会や専門書出版社にとっては,「博論を出すことでいかに儲けるか」ということを日夜考えているものです。
ま,ここはその手の出版社に持って行って,その出版社の言うがままにするしかないのではないでしょうか。
あるいは,自費出版にするというのもいいかもしれません。
ただ,今後の戦略として,博論を大幅にリライトしたものに大きな価値がある可能性があることを著者自身,吟味しておいた方がいいでしょう。実際,そうして出来上がった本が時代をリードする書籍になることもよくあることです。
そうなれば,博士号はとれるわ,印税ももらえるわで,一粒で二度おいしい,という状況になります。その本によって就職が決まる,ということもなくないのです。せっかくの博論,大事に生かしてくだされ。

さて,もう一点の,「論文集」です。
個人的には論文集は好きではありません。
ま,論文集と言ってもいろいろありますが,専門書(カギカッコなし)の多くは「論文集」です。さまざまに章立てがされていて,一見,なるほどという順序で 書かれていたりしますが,論文を集め,まとめているという意味では論文集です。特に,エラ~イと言われている人の本は論文集が多いものです。
『全集』とはまた別ですね。
基本的には書き下ろしこそベストだと思うのですが,なぜ,こういことになるかと言えば,「時間がない」からです。たいてい,この手の本は,著者の企画では なく,出版サイドの企画として始まることが多いものです。編集者としては当然,「書き下ろし」を求めますが,「時間がない」さまざまな理由から「いまある ものを束ねる」という方向へ進んでしまうのです。
出版サイドとしては早く出したいですし,書き下ろし完成までのつなぎとして出すこともあります。無論,それでもいい本はたくさんあるんですけどね。
要するに,出版社にとって大事なのは,その著者の名前です。

ですので,「論文集」の持ち込み,というのは出版サイドにとっては「???」というものであることが多いのです。
もちろん,その相手が業界での有名人である場合,持ち込みであっても,よろこんで引き受けます。
ところが,それほど有名でもない場合は,かなり厳しいことになります。
たぶん,編集者からの希望として,持ち込み者に対して,「論文を元に大幅に書き直してみてください」という注文が出ます。もちろん,「企画」は社内会議で通していない場合が多いでしょう。しっかり手を入れてくれれば本を出してもよいか,というような感じです。
ですので,論文集の押し方としては,「書き下ろし」として錯覚しろ,くらいの「こずるい気分」で行った方がいいでしょう。どうせ,そう指示されるのがオチ ですから,「出来たもの」「すでに印刷されている論文」を元に,「ものすごく大幅に書きなおし,練り直し,作り直したものにします」「書き下ろしの章を大 幅に加える予定」といった「加筆」をあらかじめ約束することです。
もちろん,あなたがそこそこ有名な学者先生でしたら,「オレの本出せるぞ」といった文脈で押す,ということは可能かもしれません。自分の実力を確かめるためにやってみるというのも,いいかもしれませんが……傷ついても保証はしませんぜ。


3 海外の文献の翻訳
これはずばり「価値」です。いかにこの文献に「価値」があるのか,それを売り込みます。
日本人は謙虚ですから,当然,編集者もそこそこ謙虚なわけです。謙虚な人は謙虚じゃない人が嫌いなことが多いわけです,ハイ。
「読者ニーズはかなり見込めると思う」とか「いい本にしたい」と企画に書くくらいは微笑ましいのですが,「日本でこれを書いたのは私が初めて」「記念碑的 な論文だと自賛します」なんて自分のことを褒め称えてしまうのは,それがいくら事実だとしても,失笑ものです。学者間の先陣争いなんて,よくわからんかっ たりするわけですね。
ところが,「翻訳」の場合は,こうした謙虚は脱ぎ捨て,大胆にアピールに徹することが大事になります。原著を褒めているわけですから,Born to be 謙虚な日本人的にもOKなんですね。
とにかくアピール。向こうでの売上げ,類似本との比較,先行研究との比較,得意な点,同じ著者の本の動向,著者の人柄のよさ,専門性(もしくは一般性),マーケットの認識,時代性に次代性など褒められるところは「見出しのフォントスタイル」まで全部褒めておきましょう。
実際,原著の翻訳は,徐々に減る傾向にありますし,売上げベースで行ったら,相当に減少しているのではないかと思います。これは小説なんかを含めた全体的な現象じゃないかと感じています。エビデンスはもち,ナシです。
それでもときにベストセラーとなるのが翻訳のよさ。「書き下ろし」が本命に単勝にぶちこむ感じならば,「翻訳」はもっとギャンブル性が高く,編集者はテンションがあがります。私だけかもしれんですが。
そういう意味でも,「勝てる」ということを好きなだけアピールすることが大事なんでつ。
それから,大事なのは,「どうして私がこの本を訳すのか」「この本を訳すことにどういうメリットがあるか」という文脈をアピールにすることです。
英語力をアピールする方もおられますが,日本語能力をアピールすることも忘れてはなりません。国内で勉強していない帰国子女的専門家の翻訳は,あまり触手 が伸びないものではないでしょうか。なぜなら,専門書の場合ですと,訳語の正しさが吟味されるからです。その点に関しては専門書の編集者は悩まされること が多いですから,「日本語の文献もしっかりと読んでいる」ことをしっかりと書き込んでおきましょう。


4 編集もの(著作でなく,「○○編」とつくもの)
編集ものは,かなり特殊なものです。「アンソロジー」とされることもありますが,それは小説やエッセイなどのいわゆる文学作品をまとめたものであって,専 門書で言う「編集もの」とは大きく異なるものです。たとえば,編集ものには「流れ」がありますが,アンソロジーの多くにはそれがありません。流れがあるの に,別々の人が書く。これが学術書の編集ものの特殊性であり,醍醐味です。
ただ,編集ものを売るのはけっこうこれが難しい。やはり,「編集もの」より,「単著」の方が確実に売れるところがあるんですね。
それはそうでしょう。だれだって,同じラブ♪に思っている先生の本があれば,編集ものより単著の方を選びますもんね。
しかし,編集ものには,編集もののよさがあります。

1)執筆陣の広さ
2)発刊までの迅速さ=同時代性
3)内容の豊かさ
4)目配りのよさ
5)「え,この人が書いているの?」と思わせる執筆者

こういったことが編集ものでも「買おうかな」という気にさせるポイントです。――のような気がします。
つまりは,こういったポイントを押さえた企画であれば,言うことなしです。
グズグズの企画でも,

6)教科書採用の可能性

があれば,出版社的にはOKのところも多いはずです。

とはいえ,編者にもってくるのは,なるべく「ビッグネーム」であることが求められます。
若い人の場合,編集ものを持ち込むと,編集者から説教されることもあります。「まだ若いんだから1冊書き下ろせ,ヴォケ」と。
こういう場合,エラい先生が係累にいるのならば,そのエラ~い先生と「共編」にするという大技もあります。ま,これはその先生との付き合い方がいろいろあるでしょうから,よくわかりませんが。

超ビッグネームが編者をやっている場合などでよくあるのが,丁稚のように使われていた「一番出来る弟子」が,こうした仕事上で編集者と仲良くなる,という パターンです。この弟子が仕事ができると,編者に「共編にしてあげるよう」編集者から頼むこともよくあります。共訳や共監訳なども同様です。実際,ワタシ は何度かエラ~い先生に頼んで,「共」にしてあげたことがあります。ただし,血のにじむような努力をしているなと感じられるような場合です。1日で原稿あ げてきたり,とか。校正刷を2日で読み上げるとか。
仲良くなれば単著で本を出そうという話になることもあります。が,ま,これは別の話でしょう。
編集ものは,何より「企画」,もっと言ってしまえば「政治力」です。


というわけで,こうやって押せ!でありました。



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